●十三湖(じゅうさんこ)●地元津軽地区では「十三潟(じゅうさんがた)」●交易港「十三湊」
色んな呼び名が有り聞いた事はある。
記憶には中央政権の事も余り教えられずまして投句のことはほとんど習っていない。
『成吉思汗(ジンギスカン)の秘密』高木彬光 を始めて手に取り少し東北に興味を持ったことがある。
日本の教育は偏りが多くておぼろに思い出すけれどもと言うくらいしか全般に歴史を習っていない様に思える。
中央政権に重点を置かれていたようだけど今考えて見ると痒いところには手が届かない。
何かもう少しが足りなくて学校の勉強がつまらなかったように覚えている。
今改めて色々と調べて見ると初めて来久陽な事が多くて この頭ではとうてい理解出来ていない。
凄く面白いのに子供の頃のトラウマと言うモノに邪魔されている感じ。
基本は大事だと改めて思った。
小学生から平易に書かれた歴史書は何冊も読ませるべきではないかな。
ゲームにバカリ気が行き過ぎているように思える。
大人が知らない事がこれだけあるのでは子供に勧める事は出来ないのではと感じた。
だから可笑しくなる人が多いのかな。
★十三湖(じゅうさんこ)http://bit.ly/x2crT9
青森県津軽半島北西部の日本海岸にある汽水湖である。
地元津軽地区では「十三潟(じゅうさんがた)」とも呼ばれる。
津軽国定公園内に位置する。周辺自治体は五所川原市(旧市浦村)、北津軽郡中泊町(旧中里町)、つがる市(旧車力村)である。周囲30キロメートル、水深は最大3.0メートルに過ぎない。南方より岩木川が流入する。
独特の荒涼とした風景に囲まれている。
特産物はシジミである。宍道湖、小川原湖と並ぶ日本有数のシジミ産地である。シジミ漁については十三漁業協同組合、車力漁業協同組合がある。
資源保護のために1日の漁獲制限や禁漁区禁漁期間を決めるなどしてヤマトシジミの資源維持につとめている。
中世には日本海沿岸の交易港「十三湊」の在った場所であり、津軽地方の有力豪族であった安倍氏・安藤氏(安東氏)の拠点として栄えたが、近世以前に衰退した。資料は少ないが、1991年から発掘調査が行われ、研究が進められ、実態が明らかになってきている。
オオハクチョウ、コハクチョウの渡来地として知られ「十三湖のハクチョウ」として県の天然記念物に指定されている。
★十三湊(とさみなと)http://bit.ly/zjxls5
日本の中世から近世にかけて、青森県五所川原市(旧市浦村)の十三湖の辺りにあった湊である。
近世以降「じゅうさんみなと」と呼ばれるようになる。
鎌倉時代後期には豪族安東氏の本拠地で、北海道のアイヌと和人との間の重要交易拠点でもあった。
天然の良港で、『廻船式目』では三津七湊の1つに数えられる、当時の博多湊に並び称される港湾都市だった。
その後、朝鮮半島、中国などと貿易が行われていたことは、国立歴史民俗博物館、富山大学、青森県教育委員会、市浦村教育委員会、中央大学などによる十三湊遺跡の発掘調査によって明らかになりつつある。
遺跡は東西に延びる土塁を境に、北側には安東氏や家臣たちの館、南側には町屋が整然と配置されていた。
奥州藤原氏の藤原秀栄建立の檀林寺があることから、平泉との交流もうかがえる。
★安東氏(あんどうし)
日本の中世に本州日本海側最北端の陸奥国津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した武家。
津軽安藤氏とも。
なお、アンドウの表記について諸史料では主として鎌倉時代から南北朝時代にかけての津軽時代には「安藤氏」、室町時代中期以降の秋田時代には「安東氏」とされている例が多いことから、個人名表記は概ね15世紀半ばまでを「安藤」、以降を「安東」とするが、本稿では便宜上、氏族名は「安東」で統一する。
安倍貞任の子孫を称し、本姓を安倍とした。
鎌倉時代には津軽地方を本拠地に御内人として蝦夷沙汰代官職となり、のち二家に分裂し檜山郡と秋田郡に割拠したが、室町時代には京都御扶持衆に組み入れられたと推定され、後に統合し戦国大名となった。
近世以降は秋田氏を名乗り近世大名として存続し、明治維新後は子爵となった。
★安倍 貞任 (あべ の さだとう)http://bit.ly/ys8DQq
平安時代中期の武将。安倍氏の棟梁・奥六郡の俘囚の豪族安倍頼時の第2子。
安倍厨川次郎貞任とも。
妹聟に藤原経清がいる。
★本姓(ほんせい)http://bit.ly/zZWvsn
明治以前の日本において、「氏(うじ)」のこと。
名字(苗字)とは異なる「本来の姓」という意味であり、単純に姓とも言うが、「姓(かばね)」のことではない。
★姓(カバネ)http://bit.ly/wJVDV5
古代日本のヤマト王権において、大王(おおきみ)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。
以下、特別の補足がない限り「氏」は「うじ」、「姓」は「かばね」と読む。
★大王(おおきみ)http://bit.ly/x9wmGF
一般に3世紀から7世紀までの時期に成立した大和王権(倭国)の首長を指す歴史用語。
5世紀後半までに大王、治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)の称号が成立し、この称号が飛鳥浄御原令の編纂が始まった680年代まで日本国内で用いられた。
なお、初期においては統一王権の王とするかどうかで学説が分かれる。
★ヤマト王権(ヤマトおうけん)http://bit.ly/ypkebB
3世紀から始まる古墳時代に「王」「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国の王を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織である。
大和朝廷(やまとちょうてい)とも呼ばれ、この呼称が広く認知されているが、近年は「ヤマト王権」「大和王権」「倭王権」「ヤマト政権」「大和政権」などへの語の転換が進んでいる(詳細は「名称について」の節を参照)。
★倭国(わこく)http://bit.ly/zrh7ui
古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して、なよなかな女性や人に委ねる(ゆだねる)という語義の漢字「倭」を用いた呼称。
漢字の朝鮮半島における百済や新羅に対応する語である。
2世紀から7世紀まで、倭国と対外的に称している史料が散見されるが、倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。
7世紀後半に、対外的な国号を日本に改めている。
なお、倭人については紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。
★倭 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD
倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音))は、
紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。
紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこく)と自称した。
倭の住人を倭人(わじん)という。和、俀とも記す。
※倭の政治組織・国家については「倭国」、倭の住人・種族については「倭人」をそれぞれ参照のこと。
奈良盆地(のちの大和国)の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」とも記す。
★倭人(わじん)http://bit.ly/wYkN9y
中国の人々の名付けた日本人(現在日本列島と呼ばれている土地に住んでいた人)の古い呼称。韓(三韓)、濊などに対応する語。
★倭人【わじん】百科事典マイペディアの解説.
中国で用いわれた日本人の古称。ひろく東方の異民族をさすともいう。
《魏志(ぎし)倭人伝》によれば,身体には朱丹を塗り,男子は布を体に巻き,入墨(いれずみ)で尊卑を区別,女子は貫頭衣(かんとうい)を着る。
★『尊卑分脈』http://bit.ly/y55EYB
『尊卑分脈』(正しくは『尊卑分脉』、そんぴぶんみゃく)は、日本の初期の系図集。正式名称は新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集である。
通常は「尊卑分脈」と略されて呼ばれる。別名に諸家大系図がある。
姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。
編者は洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて編纂された。
ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われた。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。
成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘のうち藤原・源の両氏(いずれも長く宮廷社会の中枢にいた)に詳しい。
直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略される(紫式部など有名な女性も例外ではない)。
系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、最も貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級の史料として採用される。公定死後の部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要とされる。
また、加筆されている部分も同様である。
★倭【わ】世界大百科事典 第2版の解説.
7世紀以前の日本の呼び名。
中国人が付けた名であるが,対外関係では7世紀後半まで自称として使われていた。
日本語の一人称代名詞〈わ〉(吾)によるとする説が古くから唱えられている。
最近は身長,体型など人種的特徴によるとする説もある。
後漢に成立した《説文解字》に〈倭は順(しなやか)なる貌(すがた)なり。
人に従い委の声〉とある。転じて背が丸く曲がって低い人を指すといわれる。
なお倭はもと委と書いたと説くのは《経典釈文》の誤解。
色んな呼び名が有り聞いた事はある。
記憶には中央政権の事も余り教えられずまして投句のことはほとんど習っていない。
『成吉思汗(ジンギスカン)の秘密』高木彬光 を始めて手に取り少し東北に興味を持ったことがある。
日本の教育は偏りが多くておぼろに思い出すけれどもと言うくらいしか全般に歴史を習っていない様に思える。
中央政権に重点を置かれていたようだけど今考えて見ると痒いところには手が届かない。
何かもう少しが足りなくて学校の勉強がつまらなかったように覚えている。
今改めて色々と調べて見ると初めて来久陽な事が多くて この頭ではとうてい理解出来ていない。
凄く面白いのに子供の頃のトラウマと言うモノに邪魔されている感じ。
基本は大事だと改めて思った。
小学生から平易に書かれた歴史書は何冊も読ませるべきではないかな。
ゲームにバカリ気が行き過ぎているように思える。
大人が知らない事がこれだけあるのでは子供に勧める事は出来ないのではと感じた。
だから可笑しくなる人が多いのかな。
★十三湖(じゅうさんこ)http://bit.ly/x2crT9
青森県津軽半島北西部の日本海岸にある汽水湖である。
地元津軽地区では「十三潟(じゅうさんがた)」とも呼ばれる。
津軽国定公園内に位置する。周辺自治体は五所川原市(旧市浦村)、北津軽郡中泊町(旧中里町)、つがる市(旧車力村)である。周囲30キロメートル、水深は最大3.0メートルに過ぎない。南方より岩木川が流入する。
独特の荒涼とした風景に囲まれている。
特産物はシジミである。宍道湖、小川原湖と並ぶ日本有数のシジミ産地である。シジミ漁については十三漁業協同組合、車力漁業協同組合がある。
資源保護のために1日の漁獲制限や禁漁区禁漁期間を決めるなどしてヤマトシジミの資源維持につとめている。
中世には日本海沿岸の交易港「十三湊」の在った場所であり、津軽地方の有力豪族であった安倍氏・安藤氏(安東氏)の拠点として栄えたが、近世以前に衰退した。資料は少ないが、1991年から発掘調査が行われ、研究が進められ、実態が明らかになってきている。
オオハクチョウ、コハクチョウの渡来地として知られ「十三湖のハクチョウ」として県の天然記念物に指定されている。
★十三湊(とさみなと)http://bit.ly/zjxls5
日本の中世から近世にかけて、青森県五所川原市(旧市浦村)の十三湖の辺りにあった湊である。
近世以降「じゅうさんみなと」と呼ばれるようになる。
鎌倉時代後期には豪族安東氏の本拠地で、北海道のアイヌと和人との間の重要交易拠点でもあった。
天然の良港で、『廻船式目』では三津七湊の1つに数えられる、当時の博多湊に並び称される港湾都市だった。
その後、朝鮮半島、中国などと貿易が行われていたことは、国立歴史民俗博物館、富山大学、青森県教育委員会、市浦村教育委員会、中央大学などによる十三湊遺跡の発掘調査によって明らかになりつつある。
遺跡は東西に延びる土塁を境に、北側には安東氏や家臣たちの館、南側には町屋が整然と配置されていた。
奥州藤原氏の藤原秀栄建立の檀林寺があることから、平泉との交流もうかがえる。
★安東氏(あんどうし)
日本の中世に本州日本海側最北端の陸奥国津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した武家。
津軽安藤氏とも。
なお、アンドウの表記について諸史料では主として鎌倉時代から南北朝時代にかけての津軽時代には「安藤氏」、室町時代中期以降の秋田時代には「安東氏」とされている例が多いことから、個人名表記は概ね15世紀半ばまでを「安藤」、以降を「安東」とするが、本稿では便宜上、氏族名は「安東」で統一する。
安倍貞任の子孫を称し、本姓を安倍とした。
鎌倉時代には津軽地方を本拠地に御内人として蝦夷沙汰代官職となり、のち二家に分裂し檜山郡と秋田郡に割拠したが、室町時代には京都御扶持衆に組み入れられたと推定され、後に統合し戦国大名となった。
近世以降は秋田氏を名乗り近世大名として存続し、明治維新後は子爵となった。
★安倍 貞任 (あべ の さだとう)http://bit.ly/ys8DQq
平安時代中期の武将。安倍氏の棟梁・奥六郡の俘囚の豪族安倍頼時の第2子。
安倍厨川次郎貞任とも。
妹聟に藤原経清がいる。
★本姓(ほんせい)http://bit.ly/zZWvsn
明治以前の日本において、「氏(うじ)」のこと。
名字(苗字)とは異なる「本来の姓」という意味であり、単純に姓とも言うが、「姓(かばね)」のことではない。
★姓(カバネ)http://bit.ly/wJVDV5
古代日本のヤマト王権において、大王(おおきみ)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。
以下、特別の補足がない限り「氏」は「うじ」、「姓」は「かばね」と読む。
★大王(おおきみ)http://bit.ly/x9wmGF
一般に3世紀から7世紀までの時期に成立した大和王権(倭国)の首長を指す歴史用語。
5世紀後半までに大王、治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)の称号が成立し、この称号が飛鳥浄御原令の編纂が始まった680年代まで日本国内で用いられた。
なお、初期においては統一王権の王とするかどうかで学説が分かれる。
★ヤマト王権(ヤマトおうけん)http://bit.ly/ypkebB
3世紀から始まる古墳時代に「王」「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国の王を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織である。
大和朝廷(やまとちょうてい)とも呼ばれ、この呼称が広く認知されているが、近年は「ヤマト王権」「大和王権」「倭王権」「ヤマト政権」「大和政権」などへの語の転換が進んでいる(詳細は「名称について」の節を参照)。
★倭国(わこく)http://bit.ly/zrh7ui
古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して、なよなかな女性や人に委ねる(ゆだねる)という語義の漢字「倭」を用いた呼称。
漢字の朝鮮半島における百済や新羅に対応する語である。
2世紀から7世紀まで、倭国と対外的に称している史料が散見されるが、倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。
7世紀後半に、対外的な国号を日本に改めている。
なお、倭人については紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。
★倭 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD
倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音))は、
紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。
紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこく)と自称した。
倭の住人を倭人(わじん)という。和、俀とも記す。
※倭の政治組織・国家については「倭国」、倭の住人・種族については「倭人」をそれぞれ参照のこと。
奈良盆地(のちの大和国)の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」とも記す。
★倭人(わじん)http://bit.ly/wYkN9y
中国の人々の名付けた日本人(現在日本列島と呼ばれている土地に住んでいた人)の古い呼称。韓(三韓)、濊などに対応する語。
★倭人【わじん】百科事典マイペディアの解説.
中国で用いわれた日本人の古称。ひろく東方の異民族をさすともいう。
《魏志(ぎし)倭人伝》によれば,身体には朱丹を塗り,男子は布を体に巻き,入墨(いれずみ)で尊卑を区別,女子は貫頭衣(かんとうい)を着る。
★『尊卑分脈』http://bit.ly/y55EYB
『尊卑分脈』(正しくは『尊卑分脉』、そんぴぶんみゃく)は、日本の初期の系図集。正式名称は新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集である。
通常は「尊卑分脈」と略されて呼ばれる。別名に諸家大系図がある。
姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。
編者は洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて編纂された。
ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われた。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。
成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘のうち藤原・源の両氏(いずれも長く宮廷社会の中枢にいた)に詳しい。
直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略される(紫式部など有名な女性も例外ではない)。
系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、最も貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級の史料として採用される。公定死後の部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要とされる。
また、加筆されている部分も同様である。
★倭【わ】世界大百科事典 第2版の解説.
7世紀以前の日本の呼び名。
中国人が付けた名であるが,対外関係では7世紀後半まで自称として使われていた。
日本語の一人称代名詞〈わ〉(吾)によるとする説が古くから唱えられている。
最近は身長,体型など人種的特徴によるとする説もある。
後漢に成立した《説文解字》に〈倭は順(しなやか)なる貌(すがた)なり。
人に従い委の声〉とある。転じて背が丸く曲がって低い人を指すといわれる。
なお倭はもと委と書いたと説くのは《経典釈文》の誤解。