縄文人の反乱 日本を大事に

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●春日局●江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母

2012年03月19日 23時21分01秒 | 色んな情報
●春日局●江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母
日本には春日局は有名な人で5人いる。
色んな時期に散らばって。
女だからと決してバカに出来ない存在。
どんなに蔑んでも男は女が居ないと子供一人作れない。
動物は自分の後継を作り出すのに骨身を削ってきた。
その為に側室も沢山持って居た。
跡継ぎが居ると仕事していても張があるモノ。
女とは有り難い存在だ。
こういう風に書くと又反発されるかな。
だから観音様などと言うのではないのかな。
蔑視していた人たちも居るけれど この世は女が居ないと人間社会は成り立たない。
だかに女も教養身に付けて色んな分野で活躍しているし してこれたのではないだろうか。
女は弱し されど母は強し
今の自分は女と言う存在が有ったから。
手を合わせて拝みたい心境である。
ありがとう
 
 
★春日局 http://bit.ly/wURDM9
 春日局(かすが の つぼね)/斎藤福(さいとう ふく、天正7年(1579年) - 寛永20年9月14日(1643年10月26日)
安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。
「春日局」とは朝廷から賜った称号である。
父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であり甥(実際には従弟)とも言われる斎藤利三で、母は稲葉一鉄の娘・あん。稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。
江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。
また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。
 
★局(つぼね)
・宮殿における女官・女房などの私室として仕切られた部屋のこと。
・お局様 - 皇室や公卿・将軍家などに仕えた重要な地位にある女性への敬称。長橋局、春日局など。
  ・上記から転じて、企業などで中堅の女性のこと。特に、新人女性社員より上位に位置して発言力を持つ人への揶揄に用いられる。
・大奥などの部屋方女中の職名の一つ。部屋方の中では最高位に位置する。
・大きな建築物の中で臨時に設けられた仕切りのある部屋のこと。
・近世や下級女中などが居る部屋のこと。
 
★春日局 (曖昧さ回避) http://bit.ly/w8XRSj
・平安時代後期の女官。徳大寺実能の娘。鳥羽天皇の第7皇女頌子内親王を産んだ。
・鎌倉時代後期から南北朝時代の女官・歌人については昭訓門院春日局を参照。
・南北朝時代の女性。北畠親房の妻で北畠顕信の母。
・室町時代の将軍足利義満の乳母で、細川頼之の妻について春日局(足利義満の乳母)を参照。
・室町時代の将軍足利義輝の乳母であった日野晴光の妻については陽春院を参照。
・江戸時代の将軍徳川家光の乳母であった齋藤福については春日局を参照。
 
★乳母(うば、めのと)http://bit.ly/xWYty7
母親に代わって子育てをする女性のこと。
かつて、現在のような良質の代用乳が得られない時代には母乳の出の悪さは乳児の成育に直接悪影響を及ぼし、その命にも関わった。
そのため、皇族、王族、貴族、武家、あるいは豊かな家の場合、母親に代わって乳を与える乳母を召し使った。
また、身分の高い人間は子育てのような雑事を自分ですべきではないという考えや、他のしっかりとした女性に任せたほうが教育上も良いとの考えから、乳離れした後、母親に代わって子育てを行う人も乳母という。
また、商家や農家などで、母親が仕事で子育てができない場合に、年若い女性や老女が雇われて子守をすることがあるが、この場合は「ねえや」、「ばあや」などと呼ばれることが多かった。
特に平安時代から鎌倉時代にかけて「めのと」と呼ぶ場合には「うば」よりも範囲は広く、「養育係り」の意味もあり、女性だけではなく夫婦でそれに当たるケースが多い。
例えば『奥州後三年記』の「家衡が乳母千任といふもの」などでは千任は男性である。
また、養育係りの男性を「傅(めのと)」とも呼んだ。
乳母に世話を受ける養い子にとって、乳母の子供は「乳母子(めのとご)」「乳兄弟(ちきょうだい)」と呼ばれ、格別な絆で結ばれる事があった。
軍記物語においても、主人のそばに乳兄弟が親しく仕える情景が少なからず描かれている(例:『平家物語』の木曾義仲と今井兼平)。
 
★麟祥院(りんしょういん)http://bit.ly/FPFkOV
東京都文京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。
山号は天沢山。
徳川家光の乳母として知られる春日局の菩提寺である。
周囲にカラタチの生垣をめぐらせていたので「からたち寺」とも呼ばれる。
寛永元年(1624年)、春日局の隠棲所として創建。はじめ、報恩山天沢寺と称したが、春日局の法号をもって「天沢山麟祥院」と号するようになる。
1887年には井上円了が、この寺の境内の一棟を借りて東洋大学の前身である「哲学館」を創立した。
そのため「東洋大学発祥之地」でもあり、碑も建てられている。
 
★おまさの方(おまさのかた、生没不詳)http://bit.ly/wgZ2Uo
江戸時代の女性で、3代将軍・徳川家光の側室。院号は不明。
尾張藩家老・成瀬氏の娘として生まれたとされる。
3代将軍・徳川家光の世継ぎを生ませるために、家光の乳母・春日局の計らいによって大奥へ入る。
はじめは、春日局の部屋子であったが、寛永20年(1643年)、家光との間に次男・亀松を出産する。
ただし、『以貴小伝』では母はまさとあるが、『幕府祚胤伝』では玉が母であると記載されている。
亀松は正保4年(1647年)に夭逝した。
 
★斎藤利宗 http://bit.ly/xu5mHy
 斎藤 利宗(さいとう としむね、永禄10年(1567年) - 正保4年5月4日(1647年6月6日))
安土桃山時代から江戸時代の武将。
江戸幕府旗本。斎藤利三の3男。母は稲葉一鉄の姪。春日局は妹。
子に町野幸宣。諱は利光とも。
官位は従五位下伊豆守、佐渡守。
 
★民部卿局 (みんぶきょうのつぼね、生没年不詳)
戦国時代から江戸時代初頭にかけての女性。崇源院(江)の乳母[要出典]。
民部卿局は大奥での局名で本名はわかっていない。
民部卿、民部の局など呼び名は多数ある。
はじめ浅井家の侍女として仕えていた。浅井長政と正室・市との間に江が生まれた際に乳母となる。江の佐治一成、豊臣秀勝との婚礼にも付き従う。
徳川秀忠に江が嫁いだ際、彼女も従い、大奥入りする。大奥入りした後は崇源院の筆頭女中として千姫の乳母・刑部卿局もともに仕えた。
・春日局を徳川家光の乳母に推薦したとも言われている。
・江が雁金屋に打掛の発注をする際は、彼女の注文を民部卿局が取次ぎをしていた。
・徳川和子が幼い頃は母・崇源院が雁金屋に発注をしており、それもまとめて取り次いでいたため、後に和子は雁金屋を重用する。和子の新感覚の着物のデザインに周囲の女官たちも影響されたため、寛永文化が栄えたという。
 
★徳川 和子 http://bit.ly/xWuKKy
徳川 和子(とくがわ まさこ・かずこ、慶長12年10月4日(1607年11月23日)-延宝6年6月15日(1678年8月2日))
江戸時代前期の女性。
徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。
後水尾天皇の中宮。
明正天皇の生母。
また女院として東福門院(とうふくもんいん)。
 
★女院(にょいん/にょういん)http://bit.ly/zr6QQn
三后(太皇太后・皇太后・皇后)や、それに準ずる身位(准后、内親王など)の女性に宣下された称号を指し、平安時代中期から明治維新まで続いた制度である。
「院」はすなわち太上天皇、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことである。
上皇に倣って院庁を置き、別当・判官代・主典代その他諸司を任じ、殿上を定め、蔵人を補した。
 
★別当(べっとう)http://bit.ly/FQ3iPA
本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。
後に官司の長官一般を指すようになり、このことから転じて、以下のような複数の意味を持つ。
 
★官司(かんし)http://bit.ly/wqoDVv
古代日本における官庁及び官人組織のこと。
 
★蔵人(くろうど、藏人)http://bit.ly/w3cIzk
日本の律令制下の令外官の一つ。
天皇の秘書的役割を果たした。
唐名は侍中(じちゅう)、夕郎(せきろう)、夕拝郎(せきはいろう)。
蔵人所は事務を行う場所のことで、内裏校書殿の北部に置かれた。
また、蔵人は百官名或いは人名の一つで、この場合は「くらんど」と読む。
 
★曽根城(そねじょう)http://bit.ly/whUgQ0
現在の岐阜県大垣市にあった戦国時代の城である。
春日局ゆかりの地である。
 
★稲葉 正利(いなば まさとし、慶長8年(1603年)-延宝4年(1676年)http://bit.ly/y6iKk0
江戸時代初期の武士。
駿府城主徳川忠長の家臣。
稲葉正成の五男で、母は春日局。
異母兄に稲葉正次、同母兄に稲葉正勝、稲葉正定、異母弟に稲葉正吉がいる。
 
★永光院(えいこういん、寛永元年(1624年)-正徳元年10月11日(1711年11月20日))http://bit.ly/FRyp9F
江戸時代の女性、江戸幕府3代征夷大将軍・徳川家光の側室である。
参議・六条有純の娘。弟は高家となり幕府に仕えた戸田右衛門氏豊。名は万。
本姓は源、諱は満子とされる。母は旗本戸田為春の娘で大垣藩主戸田氏鉄の養女。

●お彼岸   ●春分・秋分の日の中日(なかび、ちゅうにち)

2012年03月19日 17時18分03秒 | 色んな情報
●お彼岸   ●春分・秋分の日の中日(なかび、ちゅうにち)
明日はお彼岸のお中日さん。
若い人にはこの言葉の意味は判るかな。
何年になるか サンパチの春のお彼岸のお中日さんに私の祖母は無くなった。
凄く楽な死に方で有った。
久しぶりにそのことを思い出した。
凄く厳格な人で有った。
晩年は余り幸せでは無かった。
若い頃は沢山の教え子が居て戦前になるけれども結構幸せで楽しい日々を送っていたのでは無かろうか。
その頃は 機織は死しようについて機織の折り方を習ったモノ。
祖母は聞いたところでは 当時 百円以上のお金を取っていた。
今ならばチョットした重役と変わらない地位である。
色んな事を教えられた様に思える。
人としての生き方や行いを身で示していた様に思える。
父とは又違った生き方の様で有った。
二人とも厳格な人では変わりない。
 
彼岸を始め色んな行事や事柄はシナから習った事は多い。
デモ今のシナ人では無いように思える。
なぜなら 元は漢人に成るけれども 漢人は人も大事にしたし人の命も大事にした。
其れが大国としてのプライドで有る。
チベットやウイグルでは今この瞬間にも虐殺は行われていると聞く。
その国から韓国も含めてイチャモン付けられる。
アメリカ始め白人からは恐れられている日本人。
大事な大切なこんなに沢山の日本文化 守っていかないと行けない。
この先を歩く子孫の為に。
 
 
★彼岸(ひがん)http://bit.ly/xS2nUG
煩悩を脱した悟りの境地のことで、煩悩や迷いに満ちたこの世をこちら側の岸「此岸」(しがん)と言うのに対して、向う側の岸「彼岸」という。
「彼岸会(ひがんえ)」は、雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のこと。
また、この期間に行われる仏事のこと。
暦の上では最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」なお、地方によっては最後の日を「はしりくち」という地方もある。
俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目、六波羅蜜を1日に1つずつ修めるためとされている。
 
★此岸(しがん)http://bit.ly/xcvSeN
仏教において、彼岸に対比される世界をいい、私たちが住んでいる現世のこと。
仏教の民間信仰の教えの一部では、仏の世界は大きな川を隔てた向こう側にあるとされ、彼岸と呼ばれる。それに対し、人間の住む世界を此岸と呼び区別している。
死後には彼岸へいけると考えられ、彼岸では、煩悩に煩わされることなく永遠に平穏無事に暮らせると考えられている。
それに対し現世である此岸は生きた人間であるゆえの煩悩に苦しめられ、あくせく暮らすとされる。彼岸と此岸の距離は、暦により変化すると考えられ毎年、3月20日の「お彼岸」は彼岸と此岸がもっとその距離が縮まると考えられる。
 
★煩悩(ぼんのう、kleza、क्लेश (sanskrit))http://bit.ly/yOQx6e
仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働きを言う。
 
★般若=智慧 http://bit.ly/FQLONT
般若(はんにゃ、サンスクリット語: प्रज्ञा; prajñā プラジュニャー、パーリ語:पञ्ञा; paJJaa パンニャー、音写:斑若、鉢若、般羅若、鉢羅枳嬢など)
一般には智慧といい、仏教におけるいろいろの修行の結果として得られた「さとり」の智慧をいう。
ことに、大乗仏教が起こってからは、般若は大乗仏教の特質を示す意味で用いられ、諸法の実相である空と相応する智慧として強調されてきた。
 
★実相 http://bit.ly/FQXJQr
 実相(じっそう、tattrasya lakSaNam、तत्त्रस्य लक्षणम् (sanskrit))の「実」とは虚妄に対していわれる。すなわち真実の意味である。相は無相の義であるといわれる。「実相」とは真実が無相であるということをあらわす。諸法実相という複合語として使われることが多い。
 
★悟り(さとり)http://bit.ly/y7f0EK
知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくことを言い覚りとも書く。
宗教上の悟りは迷妄を去った真理やその取得を言う。
サンスクリットでは「 बोधि bodhi ボーディ 」。
日本語では「菩提」「開眼」「開悟」「成道」(じょうどう:成仏得道の略)ともいう。
悟りを開いた者を「buddha ブッダ」といい、漢字で音写し「仏陀」「仏」としたり、「覚者」と意訳したりする。
 
★雑節(ざっせつ)http://bit.ly/ADRuvi
二十四節気・五節句などの暦日のほかに、季節の移り変りをより適確に掴むために設けられた、特別な暦日のことである。
一般に雑節と呼ばれるのは、次の9つである。
・節分     立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い。http://bit.ly/yanmDY
・彼岸     春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のこと。
・社日     社日(しゃにち)http://bit.ly/ytQgQz 産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日。
・八十八夜   八十八夜(はちじゅうはちや)は、立春を起算日(第1日目)として88日目、つまり、立春の87日後の日である。http://bit.ly/xtJdSv
・入梅     入梅(にゅうばい、ついり、つゆいり)は雑節の一つで、太陽が黄経80度の点を通過する日。毎年6月11日頃。http://bit.ly/xfDwX8
・半夏生    半夏生(はんげしょう)は雑節の一つで、半夏(烏柄杓)という薬草が生えるころ(ハンゲショウ(カタシログサ)という草の葉が名前の通り半分白くなって化粧しているようになるころとも)。
毎年7月2日頃にあたる。鯖を食べる日。http://bit.ly/wWWbaG
上方ではこの日に蛸を、讃岐では饂飩を、福井県では大野市などで焼き鯖を食べる習慣がある。

・土用     四立(立夏・立秋・立冬・立春)の直前約18日間ずつである。http://bit.ly/zFoFB9
・二百十日   二百十日(にひゃくとおか)は、雑節のひとつで、立春を起算日(第1日目)として210日目、つまり、立春の209日後の日である。http://bit.ly/wQKcmP

・二百二十日  二百二十日(にひゃくはつか)は、雑節のひとつで、立春を起算日(第1日目)として220日目、つまり、立春の219日後の日である。http://bit.ly/x7qF81

これに、初午・三元(上元・中元・下元)、盂蘭盆、大祓を加える場合もある。
 
★初午(はつうま)http://bit.ly/FQHLPT
2月の最初の午の日。稲荷社の縁日で、雑節の一つとすることがある。

★三元(さんげん)http://bit.ly/x4h9OI
1年の中で上元(じょうげん)・中元(ちゅうげん)・下元(かげん)の3つの日の総称である。雑節とすることがある。
元々は中国の道教の行事である。

★盂蘭盆会(うらぼんえ、ullambana、उल्लम्बन)http://bit.ly/FPrIqe
安居(あんご)の最後の日、7月15日 (旧暦)を盂蘭盆(ullambana)とよんで、父母や祖霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦を救うという行事である。
これは『盂蘭盆経 』(西晋、竺法護訳)『報恩奉盆経 』(東晋、失訳)などに説かれる目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の伝説による。

★大祓(おおはらえ)http://bit.ly/yp8SSK
6月と12月の晦日(新暦では6月30日と12月31日)に行われる除災行事である。
犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事で、6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓を年越の祓(としこしのはらえ)という。
6月の大祓は夏越神事、六月祓とも呼んでいる。
なお、「夏越」は「名越」とも標記する。輪くぐり祭とも呼ばれる。

★暑さ寒さも彼岸まで http://bit.ly/FQH8Li
「冬の寒さ(余寒)は春分頃まで、夏の暑さ(残暑)は秋分頃までには和らぎ、凌ぎやすくなる」という意味の、日本の慣用句である。

★お彼岸・彼岸供養・彼岸会 http://bit.ly/FQY7MD
★お彼岸の常識・大野屋   http://bit.ly/FPtMMI
★お彼岸について http://bit.ly/wh1faz

★彼岸|日本文化いろは事典 http://bit.ly/zMwFo4
★春のお彼岸 お墓参りは家族そろって MSN産経ニュース
http://bit.ly/yRNd3f http://bit.ly/zjWX0J http://bit.ly/yRNd3f

★生駒聖天お彼岸万灯会
http://www.youtube.com/watch?v=l0UPDtHb5I0&feature=fvst
★会津彼岸獅子
http://www.youtube.com/watch?v=oRiWJAqt7eU
http://www.youtube.com/watch?v=SPms9zDWkrk&feature=related
★お彼岸にちなんで
http://www.youtube.com/watch?v=7TX1sy-rv3s
http://www.youtube.com/watch?v=Nt42Rg2a2PU&feature=related
★お彼岸和尚法話
http://www.youtube.com/watch?v=QFoo4A4ZMQo&feature=related



★千日回峰行 丹野覚道・京都大廻り
http://www.youtube.com/watch?v=NC7kCBsTaYE&feature=related
★酒井雄哉二千日回峰(道遙かなり)
http://www.youtube.com/watch?v=SKcie3yOZ0I&feature=related

●江島・生島事件●花魁

2012年03月19日 15時21分52秒 | 色んな情報
●江島・生島事件●花魁
江戸時代は門限が厳しくて違反すれば島流し。
門限の起源ていつ頃かなどと思い調べても判らなかった。
キット人が集まれば規律みたいなモノは自然に出来る。
決めておかないと示しも付かないし 自宅とかではないから。
其れを破ればそれなりの罰を課すのも当たり前。
人は自分の本能丸出しの時は人の中で生きていることを忘れてしまう。
調子が良いときには 頭に乗る。
其れを幕府が利用した部分も有るようだ。
どんなに素晴らしい人でも悪意に掛かれば悪人になってしまう。
人は目に見えて感じるモノだけが総てと思い込んでしまう。
これは人間の良いところであり多分に悪い面も含んで居る。
目に見えないモノを言ったりすると彼奴はトンでもない奴だ。
に成ってしまう。
こういう事も歴史の一部として発展してきているのも自分に含んで物事を考えないと行けない。
洗脳されて刷り込まれて 良いモノを悪く見たり 反対もある。
人として生きるのは大変な事。
何があるか判らない。
だから楽しい事も有る。
吉岡秀人先生からのメッセージ http://bit.ly/wFEgvU
若者へのメッセージだけど それ以上のモノでも聞いて何かを感じるのでは無かろうか。
門限一つでも自分の中でどう捕らえるたら良いのか考えていく材料には成っていく。
其れが楽しい人生では無かろうか。
 
 
★門限(もんげん)http://bit.ly/yWCHi4
外出する際に夜間において外出先から帰らなければならない時刻のことである。


★江島生島事件 http://bit.ly/y5OOiV
江戸時代中期に江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者多数が処罰された綱紀粛正事件。
絵島生島事件、絵島事件ともいう。
正徳4年1月12日(1714年2月26日)、七代将軍徳川家継生母月光院は、自分に仕える御年寄・江島は将軍生母月光院の名代として前将軍徳川家宣の墓参りのため、宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣。その帰途に懇意にしていた呉服商後藤縫殿助の誘いで木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈。
歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座にて生島の芝居を見た。
芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いたが、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまった。
大奥七ツ口の前で通せ通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れ渡り、評定所が審理することになった。
当時の大奥には、7代将軍家継の生母月光院を中心とする勢力と前将軍家宣の正室天英院を中心とする勢力とがあった。
月光院が家継の学問の師である新井白石や側用人の間部詮房らと親しい事から、大奥では月光院側が優勢であった。この事件は天英院側にとって、勢力を挽回するための絶好の機会であった。
天英院は家宣・家継の元で正徳の治を断行、幕政を牛耳っていた白石・詮房を追い落とすため、譜代大名(関ヶ原の戦い以前からの徳川氏の家臣)や5代将軍綱吉時代からの老中達とこの事件を画策したという説がある。
 
★役者買い(やくしゃがい)http://bit.ly/w521AF
役者を独占的に個人契約すること。
江戸時代、人気の歌舞伎役者を贔屓筋の客が、座を設けて呼び寄せる習慣があった。
両者の関係については客と役者の側との非対称的な権力関係の上に成り立つ雇用であり、人権上の問題が指摘される。
明治5年、歌舞伎役者の役者買いを重ね、主人を毒殺した「毒婦夜嵐おきぬ」事件が起きている。
 
★粛清(しゅくせい)http://bit.ly/zgW1eq
原義は厳しく取り締まって、不純・不正なものを除き、整え清めること。
また不正や反対者を厳しく取り締まること。
政治的には、組織の一体性・純粋性を保つため、組織内から異分子人物・勢力を排除すること。
英語ではパージ(英: purge)とよばれる。同音異義語の「粛正」と混同されるが、こちらは「綱紀粛正」などに見られるように厳重に取り締まり、不正を無くすこと。
 
★絵島 Wikipedia http://bit.ly/FU0oCc
絵島(えじま、天和元年(1681年)-寛保元年4月10日(1741年5月24日))は、旗本・白井平右衛門の娘で、江戸時代中期の江戸城大奥御年寄である。
名前は「江島」が正しいとされている。
歌舞伎役者・生島新五郎とともに大奥につとめる多数が処罰された。
 
★絵島生島事件(1714) http://bit.ly/zEDykx
門限に遅れると死刑になるかも。
これはそういう怖~いお話しです。
 
★蓮華寺|絵島の生涯 http://bit.ly/AfFNQs
この大奥大改革の矢面に立たされ、その犠牲となったのが絵島であった。
これが世にいう、「絵島生島事件」である。
 
★月岡芳年の浮世絵から読みとく絵島生島事件の裏側 #男色系男子 http://bit.ly/A4xfjc
★=7:『若手俳優が溺れた禁断の世界。しくまれた情事と、公安のワナ』の巻= http://bit.ly/FU1myq

★絵島生島 大奥 日本の歴史 雑学の世界 http://bit.ly/zMMvdQ

★大奥秘話「絵島」と「生島」の悲恋物語 http://bit.ly/xPcvem 男花魁で絵師のを生島としての創作映画

★花魁(おいらん)http://bit.ly/FPh3Oj
吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。
18世紀中頃、吉原の禿(かむろ)や新造などの妹分が姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を指す言葉となった。
「おいらん」の語源については、妹分たちが「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説がある。
江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことは「太夫」と呼んだ。
また、吉原にも当初は太夫がいたが、「おいらん」という呼称の登場と前後していなくなった。
今日では、広く遊女一般を指して花魁と呼ぶこともある。
 
★廓詞(くるわことば)
江戸時代の遊郭で遊女が使った言葉・言葉遣い。
里詞(さとことば)、花魁詞(おいらんことば)、ありんす詞(ありんすことば)などともいった。
江戸吉原の廓詞の起源については、「北女閭起原」では、「ここなる里言葉は、如何なる遠国より来れる女にても、この詞を使ふ時は鄙の訛抜けて、古くより居慣れたる遊女と同じ様に聞ゆるなり。さればこの意味を考へていひ習はせしことなりとぞ」といい、「江戸花街沿革誌」によれば、「元吉原遊女の言葉を見るに、その頃侠客社会に行はれたる六方詞とやや相似たるが如し」、「その後侠名廃るると共にかくの如き野朴の言葉は地を払つて後世の里言葉と称するものを生じたり」という。
 
★ぽっくり下駄(ぽっくりげた)は下駄の一種である。http://bit.ly/zAldPK
ぽっくり、木履(ぼっくり)、こっぽり下駄、おこぼ等々、呼称は地方によって異なる。
もともとは日本の町方の子女の履き物。舞妓や半玉、花魁や太夫につく「かむろ」の履き物でもあり七五三のお祝い履きにも使われる。
最近では、結婚式や成人式にも用いられる。
正式には、表と呼ばれる(竹の皮を編んだもの)ものが上面についているものだが、現在は高価になるため、上面を漆塗りで仕上げたものもある。
吉原などの花魁下駄と混同しがちだが、似て非なるものである。
 
★花魁下駄 http://bit.ly/z0wHNa http://bit.ly/Awl6tw
江戸万治年間、角町菱屋の芙蓉が三つ歯下駄を用いたのが始まりでその百年後の宝暦九年黒塗りの三枚歯が世に出る。
浮世絵に出てくる花魁はほとんどこの高さの下駄を履いています。
 
★花魁高下駄 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=JZwVXc1lr7w
★おいらん道中(花魁道中)
http://www.youtube.com/watch?v=sbtnNOe7Ock&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=QtaDz-VwHhA&feature=related
★花魁の設え(しつらえ)
http://www.youtube.com/watch?v=G4-Fvn5mMCs&feature=related
★島原太夫道中
http://www.youtube.com/watch?v=xXbQAgpz2VA&feature=related
★島原太夫
http://www.youtube.com/watch?v=2E_OoLngpJQ&feature=related
★一番花魁
http://www.youtube.com/watch?v=444ES8q1J7Y&feature=related
★吉野太夫・花供養
http://www.youtube.com/watch?v=MwmXIxc9G5w&feature=related