中年男のエレジー 郷愁

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源義朝が湯殿で暗殺された場所に立って

2022年01月26日 23時32分51秒 | 日記

野間大坊大御堂寺の源義朝公御廟に眠る人々のお墓
 
大御堂寺から300メートル歩くと密蔵院へ

知多四国第52番 鶴林山密蔵院

大師堂

大師堂内

新発見

蜜蔵院の沿革

境内奥の山

100メートル

200メートル

300メートル

目的の松

はりつけ松の説明

のどかな風景ですが…

先週土曜日の写真です。
 
 今から900年前の話となりますが、平治2年(1160年)に源義朝(源頼朝の父)は入浴中に随行していた鎌田政家の舅、長田忠致・景致父子に平家からの恩賞目当てで暗殺され、随行していた義朝の乳兄弟と呼ばれた鎌田政家も暗殺前日に影致によって殺害されています。
 
 鎌田政家の妻は長田忠致の娘と言いますから、忠致は娘の夫を殺害し、政家が仕えていた主君義朝を暗殺し、その首を大御堂寺の横にある池で洗い、平家の恩賞をもらうために首を持って上京したと伝わっています。知多半島から京都まで移動した時間を考えると、持参した首の状態や検分した平家の武士の当時の顔がよみがえってきます。
 
 下克上と言われる戦国の時代にあって、親子や兄弟が殺しあうのは当り前の世情かもしれませんが、平家のために娘婿を殺した長田親子は暗殺した義朝の息子である源頼朝の下で働き、頼朝のために恩賞もあげますが、この野間の地で頼朝によって磔にされ、その松が枯れてはいるものの蜜蔵院の裏山に残されていることはリアルですね。
 
 さて、今から400年前には本能寺の変で織田信長が暗殺された後に、後継を争う柴田勝家と豊臣秀吉の間で争いが起こり、柴田勝家側についた信長の三男信孝も、秀吉と次男信雄によって本日添付した蜜蔵院で自刃しています。
 
 知多半島は知多八十八ヶ所の巡礼の地になっていますが、かつてはそのお寺で暗殺が行われ、その後当事者が裏山で磔の刑に処され、織田信長の三男はその家来だった秀吉と自分の兄弟によって蜜蔵院で自害していた歴史が目を閉じると浮かび上がってきそうです。
 

2018年 2月19日 私の記した一言です。

 お寺で人が殺されたり、人々が普通に生活する場所で切腹する残酷な歴史が数百年前は普通に行われており、私の住む津島市に近い七宝町にある「桂の六地蔵」についても、天正12年(1584年)6月に起こった蟹江城合戦で敗走し,秋竹で切腹した武士の遺骨を引き取った僧が,その冥福を祈って刀剣とともに葬って建立されたと言われています。

 この蟹江合戦についても、織田信長が本能寺で倒れた後に豊臣秀吉と徳川家康との間で小牧・長久手の戦い以降に起こっており、蟹江城合戦では秀吉軍と家康・織田信雄(信長の次男)連合軍の闘いですから、信長や秀吉の出身地である愛知県の尾張地方でも残酷な殺し合いが行われていたことが判り、三男の信孝を秀吉と一緒になって切腹させた次男信雄も、徳川と連合を組んで戦っていることを考えると、小汚い秀吉や家康に対して兄弟が多い織田信長の子供たちが団結して信長の意思を継承して欲しかったと思うのは私だけとは思えません。

 我家の住む土地から4キロしか離れていない場所で生まれた信長や、歩いて2時間の距離に生まれた秀吉の声が聞こえそうな年齢まで歳を重ねたことも実感するようになりました。今から1200年前の空海の声が聞きたいと四国の僻地を訪れているだけに、400年前の信長や秀吉の声が聞こえそうに思えても不思議ではありませんね。

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