今月から月刊『秘伝』誌にて、安藤毎夫師範の隔月連載、“植芝盛平翁秘伝『武道練習』を訓む”が始まったようです。植芝開祖の初期の合気道の技法をまとめた『武道練習』という手書きの書物を解説するというものです。
植芝盛平翁の書かれた本は、日本神道をもとにした説明が多く、我々現代人にとっては読み解くのが難しいです。しかしそれは、植芝翁が言いたかったことが高度に抽象的で難解であるということでは、必ずしもありません。例えば、入身転換術反射道の元龍貴先生は、「植芝翁が生きていた時代は、物理的な作用を表す用語があまり普及していなかったので、合気道における物理法則を言葉でなんとか伝えようとして、神道用語を用いてそれを表したのではないか」と言っています。その考え方は私としても納得のいくものです。さらに補足すれば、現在は心理学や脳医学で説明のつく心や精神の作用といったものも、神道の喩えを使って説明しようとしたのかもしれません。
いずれにしても、植芝翁はオカルト的なことを伝えることが主眼ではなく、まずは心と体の作用というのを説明し、またそれを戦略的戦術的に用いるにはどうすべきか、ということを伝えようとしたのではないかと思います。
それで、この連載のなかにあります「正面打ち一ヵ条抑え(一)」について養神館合気道の初心者向けに補足説明しておきます。ここで示されている型は通常養神館で行っている一ヵ条(一)とは若干違います。おおまかな手順は同じで、
(1)仕手が正面打ちから前足を斜め前に出して切り降ろす。
(2)後ろ足を斜め前に出してさらに受けの体勢を崩す。
(3)さらに外側の後ろ足を前に進めて両膝をついて受けの腕を床に抑えつける。
というものです。しかし、養神館では(1)の動作のとき、受けの膝が片膝がつくまで完全に切り降ろして、そこでひと呼吸おき、(2)(3)の動作を比較的連続で行うようにしていると思います。連載で示されている植芝翁の技法は、(1)で完全に切り降ろさず、むしろ(1)と(2)の動作を連続させるようにします。合気会での一ヵ条(一教)は、この形でやるところが多いようです。
この武道練習の一ヵ条は、安藤師範が書かれているように「出す力」「吸い込む力」を連携させる呼吸力ができないとただ形だけの技となってしまいます。「吸い込む力」と言っても綱引きのように単純に引っ張るわけではありません。むしろ、「出した力を腹に収める」と言ったほうがイメージとして近いでしょう。
そして、「呼吸力」という言葉ですが、これは肺から空気を吐いたり吸ったりすることとは一致しません。関連はありますが・・・。『秘伝』の他のページを読んでいたら黒田鉄山氏がうまく説明していました。以下、引用します。
胸を開くということと、吸気運動とは異なります。同様に胸を閉じるということと、呼気運動とは異なります。太刀を抜きつけるとき、基本的には胸が開きます。従って、結果的に空気が胸にはいる場合があり、吸気したのと同じことが起こります。このとき、気合を発しますと呼気運動となります。が、胸そのものは開いております。また、無声のときは、呼吸運動は一時停止する場合もありますし、入ってくる場合も吐出される場合もあります。ことのき、力むような形になると怒責作用といって、たしかに健康には悪いようです。。吐いて使えるならば、吸っても使えなければなりません。(『月刊秘伝』p.76~p.77より)
つまり、肺による空気の呼吸は自然にまかせるのがいいということのようです。塩田剛三先生も『合気道修行』のなかで、「呼吸には、吸う息、吐く息、止める息というのがあり、これらを組み合わせることで技の威力が増す」というようなことをおっしゃっていますが、具体的にどこでどうしろとまでは言っていません。これはその部分を秘密にしているというよりは、あまり「この場合はこう」というふうにしてしまって、それに囚われてしまわないようにということなのだと思います。
そういえば、私が合気道を習った始めのころ、「臂力の養成というのは振りかぶったときに息を吐くべきなのか吸うべきなのか」ということを、少し考えたことがありました。安藤先生や他の先輩からも、それに関する指示や説明というのはなく、私もあえて師範などに質問しようと思うほどではありませんでした。たぶん、「呼吸に関しては自然にまかせよ」ということなのだと思います。