かくかくしかじかで冨田さんを凹ませてしまったようです。
さて、いろいろ言いたいことがあるので、ひとつひとつ言及してきましょうか。
○まず冨田さん、自分はあなたの人格を否定したいわけではない。
そうではなくて、あなたのブログ(に書かれている内容)を批判しているのです。
この違いをよく考えてみてください。
そして、あなたはあなた自身を大切にしつつ、願わくばあなたのブログに対しては厳しく、より良いものにしようと努めて欲しいのです。
○これは存在論的な考え方です。
私は、冨田さんという存在を批判しない。
私は、冨田さんのブログという存在を批判する。
そういうことです。
この考え方は、たとえば映画に対しても応用できます。
私は、映画Aを批判する。
私は、映画Aの脚本を批判する。
私は、映画Aのストーリーを批判する。
私は、映画Aの監督を批判する。
これらは、似ているようですべて異なる意味を持っています。
冨田さんの映画観に欠けているのは、このような考え方なのではないでしょうか?
○自分は冨田さんに「コミュニケーションがとりたい」と言いました。
なのに冨田さんは、自己完結してショックを受けているようです。
自分の言葉が冨田さんを傷つけたのでしょうから、そのこと自体は謝罪します。
もう少し言い方を考えるべきだったと反省もしています。
○しかし、一方でこうも思うのです。
冨田さん、あなたは逃げている。
私はこういう人間なんだという結論に持ち込むことで、まったく別の自分になれる可能性を放棄している。
それはやはり、考え直して欲しい姿勢です。
○冨田さんは、きっとナイーブな方なのでしょう。
それは、決して悪いことだとは思いません。
ただ、冨田さんは他人ともっと根本的なコミュニケーションを図るべきだと、そう思います。
これは自分の推測に過ぎませんが、冨田さんだけでなく、ある世代の人たちがとても恐れているものがあると思うのです。
それは「孤独」です。
しかし、彼らの大きな誤解は、「孤独」と「個別」の区別がついていないことなのではないかと。
彼らは、ひどく孤独を恐れ、馴れ合いを好みます。
が、人間は生まれてから死ぬまでずっと「個別な存在」なのです。
黒沢清の言葉を借りるなら、「人間は分かり合おうとしてはいけない」。
これは、「孤独を受け入れよ」という諦念ではなく、「個別の存在であることを自覚せよ」という戒めなのだと自分は解釈しました。
冨田さん、あなたは孤独ではない。
しかし、あなたは個別な存在だ。
まずはそれを分かって欲しいと思います。
もし気が向いたなら、なんらかのコメントを残して欲しいと思っています。
そしてALICEさん、あなたは恐らく感情的な事情から件の記事内容を批判されましたが、
>ブログは本来自分の思ったことを素直に書いていい場ではないでしょうか?
その通りです。
だから、自分は自分の思ったことを書きました。
それが冨田さんを傷つけたことは謝罪します。
しかし、記事内容自体が間違いだったとも思いませんし、今も、冨田さんのブログには批判的なまなざしを向けています。
>その評を読んで自分の意見と違うからってこのように自分のブログで人を中傷していいのでしょうか?
自分と意見が違うから書いたのではありませんよ。
それに、「自分と意見が違うものは排除したい」と考えているのは冨田さんの文章の方ではないですか?
自分は、そういったものを冨田さんの文章から感じ、その部分をこそ批判したいのです。
>私はあなたの人間性に問題があると思いました。
そうかもしれません。
しかし、そうであるならもっと具体的に言っていただかないと。
>冨田さんのような人がいるから世の中がおかしくなるだと!?
>まさしくあなたのように他人の気持ちを無視して人を批判する人間がいるから世の中がおかしくなるんですよ。
>ここであまり文句を書いてしまうよあなたと同じ土俵に立ってるみたいでこの辺にします。
つまり、ALICEさんはどうあっても冨田さんの味方であり、こちらとコミュニケートする気はない、ということですか?
またしても率直に言ってしまいますが、そのような頑なな「コミュニケーション拒絶」こそがいけない、と言っているのですよ。
しかしあなたは今、感情的になっているので自分が言っていることが理解できないかもしれませんし、また理解したくないかもしれない。
しかし、「理解したくないものは理解しない。それでよいのだ。」という態度を批判することこそがそもそもの命題です。
よって、この批判はALICEさんにも向けられることになってしまいます。
どうか気を落ち着けて、もう一度よく考えてみてください。
さて、いろいろ言いたいことがあるので、ひとつひとつ言及してきましょうか。
○まず冨田さん、自分はあなたの人格を否定したいわけではない。
そうではなくて、あなたのブログ(に書かれている内容)を批判しているのです。
この違いをよく考えてみてください。
そして、あなたはあなた自身を大切にしつつ、願わくばあなたのブログに対しては厳しく、より良いものにしようと努めて欲しいのです。
○これは存在論的な考え方です。
私は、冨田さんという存在を批判しない。
私は、冨田さんのブログという存在を批判する。
そういうことです。
この考え方は、たとえば映画に対しても応用できます。
私は、映画Aを批判する。
私は、映画Aの脚本を批判する。
私は、映画Aのストーリーを批判する。
私は、映画Aの監督を批判する。
これらは、似ているようですべて異なる意味を持っています。
冨田さんの映画観に欠けているのは、このような考え方なのではないでしょうか?
○自分は冨田さんに「コミュニケーションがとりたい」と言いました。
なのに冨田さんは、自己完結してショックを受けているようです。
自分の言葉が冨田さんを傷つけたのでしょうから、そのこと自体は謝罪します。
もう少し言い方を考えるべきだったと反省もしています。
○しかし、一方でこうも思うのです。
冨田さん、あなたは逃げている。
私はこういう人間なんだという結論に持ち込むことで、まったく別の自分になれる可能性を放棄している。
それはやはり、考え直して欲しい姿勢です。
○冨田さんは、きっとナイーブな方なのでしょう。
それは、決して悪いことだとは思いません。
ただ、冨田さんは他人ともっと根本的なコミュニケーションを図るべきだと、そう思います。
これは自分の推測に過ぎませんが、冨田さんだけでなく、ある世代の人たちがとても恐れているものがあると思うのです。
それは「孤独」です。
しかし、彼らの大きな誤解は、「孤独」と「個別」の区別がついていないことなのではないかと。
彼らは、ひどく孤独を恐れ、馴れ合いを好みます。
が、人間は生まれてから死ぬまでずっと「個別な存在」なのです。
黒沢清の言葉を借りるなら、「人間は分かり合おうとしてはいけない」。
これは、「孤独を受け入れよ」という諦念ではなく、「個別の存在であることを自覚せよ」という戒めなのだと自分は解釈しました。
冨田さん、あなたは孤独ではない。
しかし、あなたは個別な存在だ。
まずはそれを分かって欲しいと思います。
もし気が向いたなら、なんらかのコメントを残して欲しいと思っています。
そしてALICEさん、あなたは恐らく感情的な事情から件の記事内容を批判されましたが、
>ブログは本来自分の思ったことを素直に書いていい場ではないでしょうか?
その通りです。
だから、自分は自分の思ったことを書きました。
それが冨田さんを傷つけたことは謝罪します。
しかし、記事内容自体が間違いだったとも思いませんし、今も、冨田さんのブログには批判的なまなざしを向けています。
>その評を読んで自分の意見と違うからってこのように自分のブログで人を中傷していいのでしょうか?
自分と意見が違うから書いたのではありませんよ。
それに、「自分と意見が違うものは排除したい」と考えているのは冨田さんの文章の方ではないですか?
自分は、そういったものを冨田さんの文章から感じ、その部分をこそ批判したいのです。
>私はあなたの人間性に問題があると思いました。
そうかもしれません。
しかし、そうであるならもっと具体的に言っていただかないと。
>冨田さんのような人がいるから世の中がおかしくなるだと!?
>まさしくあなたのように他人の気持ちを無視して人を批判する人間がいるから世の中がおかしくなるんですよ。
>ここであまり文句を書いてしまうよあなたと同じ土俵に立ってるみたいでこの辺にします。
つまり、ALICEさんはどうあっても冨田さんの味方であり、こちらとコミュニケートする気はない、ということですか?
またしても率直に言ってしまいますが、そのような頑なな「コミュニケーション拒絶」こそがいけない、と言っているのですよ。
しかしあなたは今、感情的になっているので自分が言っていることが理解できないかもしれませんし、また理解したくないかもしれない。
しかし、「理解したくないものは理解しない。それでよいのだ。」という態度を批判することこそがそもそもの命題です。
よって、この批判はALICEさんにも向けられることになってしまいます。
どうか気を落ち着けて、もう一度よく考えてみてください。
長くなりましたが最後に冨田さんに
>私はこういう人間なんだという結論に持ち込むことで、まったく別の自分になれる可能性を放棄している。
という言葉がありましたが、誰もが変わりたいと思ってるわけでもないし私は変わる必要も必ずあるとは思いません。何十年も生きてきたポリシーがあるわけですから。あなたが冨田さんに変わらないとって言っていることが初めに人格は否定していないと言っていましたが否定していることになると思いますよ。言葉というのは直接話していない限りどう解釈されるのかは相手次第になってきます。言葉のすり替えも起こりえると思います。だから反応すないから逃げているのもコミュニケーションを避けているというのも考え違いなところもあると思いますよ。あなたも私にコメントを残してくれるならブログ上じゃなくて私のブログに訪問してコメントを残すなどの配慮は必要ではないでしょうか?あなたは大変強い人なんでしょうね。言葉は人を傷つけるということを頭の片隅に残しながらこれからも自由な評を書いてくださいね。決して私もあなたに否定的なわけではないです。とても素晴らしい文章を書く人だと思います。ただこの件でのあなたのしたことは私にとって許しがたいことです。長々と文章力のないまとまりのない文章すみませんでした。
そのときはどうかお手柔らかに。
冨田さんを傷つけたことは、記事中にもあるように謝罪しましたし、今も反省しています。
ただ一点分かって欲しいのは、あの批判記事は最初、冨田さんへ向けたものだというのを匿名で書いたものであることと、それを明かしたのは冨田さん自身だということです。
それでも結果的に傷つけてしまったのならやはりこちらが悪いということでしょうし、ご指摘いただいた通り、こういうことにはこれからはもっと気を遣っていかねばな、と思っています。
また、冨田さんには直接コンタクトとれるよう働きかけていくつもりです。
自分は、誰かを傷つけてそのまま放置しておけるような鈍感な人間ではないですから。
「だったら引退しろ。もう社会の輪に加わるな、と、おれは非難されるのを覚悟で言わねばならない。彼らは害悪でしかない。」の部分は、
「こういった映画の見方は、映画にとって害でしかない。」とすればよかったのでしょうか?
評論という舞台の上では、どちらも変わらないような気がします。
ryoddaさんの文章をちゃんと読み取ろうとすれば、これらが同義であることはわかるはずです。
しかし冨田さんが傷ついてしまったことも、とてもよくわかります。
これはすごく難しい問題だと思います。
ただこれだけは。
映画は世に出たら、作り手のものではなくなるように、評論もまた同じだと思います。
あと、ALICEさん。富田さんのところで書かれた「彼は、そのうち、一人で憔悴されるでしょう、きっと。」というコメントは、こちらで書かれたコメントの意見に反しないですか?
文脈から読み取ろうとしても、だだの悪口であるとしか読み取れません。
私そんなこと書いてないですよ。
それは誰か他の人のコメントだと思います。
私は冨田さんのブログでryoddaさんのことを悪く言ったりしてないしどこでもする気はないですよ。言うならこのブログ内でこんなところはどうかな?って言うだけです。
ryoddaさん
コメントありがとうございました。
こんな争いは嫌ですね。でもお互いに絶対に悪気はなくただ映画が好きだという感情からヒートアップしただけだったんだなって思い出になる日が来ると思いますよ。冨田さんもすぐには無理かもしれないですが直接コンタクトできる日が来ると思います。
また訪問させていただきます。私の言葉によって嫌な思いしたところがあればこの場を借りてすみませんでした。
僕の見間違いです。
いろいろと大変な中にコメントいただけて、ありがとうございます。
ALICEさんはいい方だと思います。
ちゃんと冷静なコメントまでしてもらって、非常に敬意を抱いています。
これからALICEさんのブログへお邪魔して、何かコメントしてこようと思います。
なんだか変な出会いになってしまいましたが、よろしくお願いしますね。
感情的な人間です。だから今回の件は
自分にも言い聞かせています。『言葉は人を深く傷つける可能性がある。』ということです。ブログ上で顔も何も知らない相手なのだからなお更だと思いました。
上のryoddaさんは強い人なんですねってのはちょっと嫌味っぽかったですね。強い人間なんて居ないような気がします。誰だって傷つくし悩むし後悔もしますよね。
こちらこそ有難うございました。
語り合えば分かり合えるものなんですね。
“「オトシモノ」にコメントしてきた”と
いうのに対応して書いた返信がこれです。
>さっそく責任をとらなきゃならない場面が
>やってきてしまったようです!
>まだコメントのほう見ておりません!
>今から見てきます!
>うおー楽しみー(笑)
…何なんでしょう、この人。(笑)
結果的に互いのブログの作者同士を
激しく心の奥まで傷つけてしまったことを
まったく気付いてない。
今ようやく気付きましたが…。
“申し訳ありません”とあと何回書き込もうか、とか
ネットの一部をちょっと賑しちゃってスゴイ、とか
フィクサーとしてもやっていけるな、とか
そういうことを少し思えてしまう心が異常です。
異常なんです。
だけど、
これはネットのツケっていうやつを
今ここに明確に表しているドキュメントとして
実はすごく貴重なものなのではないかと
考えているのは本当です。
人の不幸を笑うとか、
そういう人間にはなりたくないと思っていたのだけど
この件でいろいろブログを回ったりして、
そこに書かれている強い言葉の数々を
目で追って、自分の声で頭に響かせて
ぐるぐる駆け巡らせていると
どうしても笑ってしまうのは
思考能力の限界がくると人間そうなってしまうものかと
なんか新たな発見もしました。
正直、僕は冨田さんのコメントを読んで落ち込みました。
ですが、冨田さんももちろんのことながら、
ryoddaさんがもっともっと落ち込んでしまったというのも
おそらく予想がつきます。
それでも叱責罵倒のコメントに
ひとつひとつ公開で対応し(しかも冷静に)
そこに新たな交流まで生み出してしまう
ryoddaさんは(こんな言葉ですいませんが)すごいと思います。
まさに上のコメントでALICEさんが書かれているとおり
「語り合えば分かり合えるものなんですね」ということです。
これこそが映画の素晴らしさとして
新たに発見されるべきものなのだな、と
わけのわからないことをホザいて
コメントを終わらせてみます。
このとんちんかんな軽いコメントで
ryoddaさんがまた傷ついたり
ほかの誰かひとりでも
傷つけてしまったら本当に申し訳ありません。
ですが、まだまとめるのに時間が必要な
謝罪文の代わりに書けるものとしては
今はこれが精一杯です。
さて、それでは
「レディ・イン・ザ・ウォーター」を
見に行ってきます。
では皆さん、ジアマッティ!!
で、正直なところ、あまり落ち込まれるのも困るし、逆にまったく自分のやったことに自覚がないのも困るしなあ、と思ってたのですが、takaさんはちゃんと反省もしてらっしゃるようだし、ていうか、こんなこと自分が言うのも筋違いかもしれませんけど、takaさんにはまったく責任ないですよ、基本的には。
記事書いたのも自分で、それを知らせたのも自分です。
責任逃れするような人間にはなりたくないと、常々思ってましたが、実際背負ってみるとなかなか重いものです。
>そういうことを少し思えてしまう心が異常です。
>異常なんです。
いや、異常ではなく、(こう言うと傷つかれるかもしれませんが)幼稚だったのだと思います。
しかし、今のtakaさんは違うでしょう。
しっかりと反省し、目の前の状況を受け止めようと努力されたのでしょう。
ならば、それはやはり敬意に値します。
そして、今回takaさんが経験されたことは、ネットのツケだのなんだのというよりも、「社会に加わるということ」なんだと思っています。
社会人、ってよく言いますよね?
でも、その定義ってけっこう曖昧だったりしません?
自分は、「社会に参加しているという自覚を積極的に持てている人=社会人」だと思います。
自分で生計立ててるとか、家庭を持ってるとか、そういうこと以前に、その自覚と覚悟があるかどうかだと思います。
ああ、なんか当事者のクセにまた偉そうに語ってすいません。
誰に謝ってるのかもよく分からなくなってきましたが、takaさんからは、またtakaさんらしいコメントをいただきたいと思ってます。
では。
幼稚というよりも、もっと強い言葉が
この場合あてはまるんじゃないかと
考えていますが
文字だけで簡単に人を傷つけてしまうことが
できるのだということを
身をもって体験できたことは
ありがとうございます。
僕らしいコメントが何なのか
わかっていないのですが
これからも
なんだかんだ付けていきたいと思います。
でも
そう簡単に人間変われるものではないと
僕は思っているので
これからもまた何かやってしまうかもしれません。
でも、なんとか自重したり
考えたり、考えなかったりして
成長のあとを見せていきますよ!
よろしくです。
あと、メールくださったことに
今ようやく気がついたのでこれから返信します。
重ねてありがとうございます。