憔悴報告

All about 映画関係、妄想関係、日々の出来事。

ザッツ・エンタテイメントPART2

2006年10月09日 | 世の中
PART1

ある人があるブログのコメント欄で、『LOFT』についてこんなことを言っていた。
「黒沢清はどうやら完全に芸術の方に行ってしまった。残念だ。」と。
彼曰く、映画は「理解できること」こそがすべてであり、「一部の人しか理解できない映画」は芸術家の自慰作品でしかなく、「より多くの人に理解される映画こそ娯楽である」というのだ。
はっきり言って、こういう人がいるから世の中がおかしくなるのである。

彼が言っていることがどんなに危険なことか、これを読んでいるあなたは分かるだろうか?
彼が言っているのは、単なる結果論でしかない。
「結果的に多くの人に支持されたもの=優れたもの」という論理。
あまりにひどい。
そこには、倫理も道徳も何もない
そして彼の最大の欠点は、「理解できるものにしか興味がない」ということだ。
本来、彼のような人間は、映画を語ってはいけないのだ。
映画の「理解不能なおもしろさ」を、彼は最初っから自覚していない
そればかりか、自覚しようともせず、「今まで自分はこうだったから変わる気もない」という。

もしかして、「今の世の中おかしい。でも、何がおかしいかさっぱり分からない。自分たちはこんなにがんばってるのに、全然よくならない。」とか思っている人がたくさんいるのだろうか?
だから駄目なのだ、ということが、なぜ分からないのだろうか?
「がんばればそれでいい」というガキの思考で出来上がっている社会が、よくなるわけないじゃないか。
しかし、本当にがんばらなければいけないヤツらは、ちっともがんばらない。
ちっともがんばらず、ちっとも変わろうとしない
彼らはもう、自分が死ぬまでの残された時間を、お気楽に楽しめればそれでいいのだろう。
だったら引退しろ
もう社会の輪に加わるな、と、おれは非難されるのを覚悟で言わねばならない。
彼らは害悪でしかない。
彼らは、彼らの意思、または周囲の説得によって、今すぐに一線を退くべきである。
が、しかし・・・残念ながらそうはならない。
だって、彼らはまだまだ「がんばりたい」のだろうからね。
ああ、本当にコドモの国だ、ここは。

ところで、映画というのは「理解できないこと」を「なんとか理解したい」という強い好奇心によって支えられている、ということにみなさんはお気づきだろうか?
この好奇心なき者は、映画に向いていない。
彼らが語っているのは、せいぜいが映画の文学性意味論である。
彼らは、「理解できるものにしか興味がない」し、「理解できるものにしか興味がないのは当然」だと思っているのだから。
ほらね?
どうして世界中で他者への思いやりや、理解してあげようという努力が欠けているか、もうあっさりと分かるでしょ?
しかし、本当にそう努めなければいけない人に限って、「自分はがんばっている」気になっている・・・そう考えるとかなり絶望的なんだが、急いても仕方がない。

さて最後に、というかこれが本題なんだけれど、「多くの人に支持された映画=優れた娯楽映画」という公式は成り立たない、それだけは断言しておく。
だってそれは、政治の論理だ。
みんなが政治家の気分なのだ、今の時代は。
では娯楽とは何なのか?という、壮大にして答えのあるはずもないものに無謀にも切り込んでいこう、というのが、おれの所信でもあるし、映画を語る人間として本来あって当たり前の心構えであろう。
それを、例えば最初に言及したその人は、「分からない=芸術=理解する必要も支持する必要もない」という思考で、頭の外に押し出してしまう。
ひょっとしたら、あなたもそういう人間のひとりか?
まあ、それでも仕方がない。
ただ、これからは変わっていこうぜ、ってなもんである。

業務報告
●どんなに多くの人が「今秋最高の映画は『フラガール』!」と言おうとも、それが絶対の真実になることはないのだ。
おれの中では『レディ・イン・ザ・ウォーター』>『スケバン刑事』>『フラガール』だし、それなりの根拠もある(DVDで言えば『忘れえぬ想い』と『おいしい殺し方』がイチオシ)。
しかし、どうしてかなあ、大衆は再び頭を持たない怪物になってしまったのかなあ、とチャップリンあたりは天国で嘆いているに違いない。
●中原昌也が「『レディ・イン・ザ・ウォーター』の良さが分からないような奴らはみんな死ねばいい」とか言ってたが、それは言っちゃいけない(ただ、それが彼の芸風)。
言っちゃいけないけど、気持ちは分かる
●山根貞夫氏が「キネ旬」で『LOFT』と『ゆれる』の違いについて述べていた。
そうなのだ、問題は「対象の曖昧さ」なのだ、と膝を打った。
『ゆれる』は、大事な部分を曖昧にしているだけであって、それはただのもったいぶりっこでしかない。
しかし、『LOFT』には曖昧なことなど何もない
ただ不可解なだけなのだ。
不可解なことだけが、一切の曖昧さもなく、絶対の真理として提出されている。
よって、圧倒的に『LOFT』の方が優れている、とおれも山根氏に賛同する。
●「理解できるかできないか」と「娯楽性」は、まったく関係ないことである。
重要なのは、理解ではなくて普遍であることだとおれは思う。
そして、普遍性というものは、するすると両手の間を抜けていくような生き物なのだ。
だから、常に変化が求められるし、新たな感性が待たれるのではないだろうか。


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23 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
PART1を必死に検索してしまったのです(笑) (taka)
2006-10-09 16:44:45
「ゆれる」を未だに今年のベストとして

記憶しております者です、こんにちは(笑)。



最近、映像の美しさとか

美しくなくてもザラついた感じ、とか

映像の肌触りみたいなもので

この映画が気に入ったとか

気に入らないなどの判断を下す傾向にあります。



なので今年「ゆれる」の次点として

推したいのは「水の花」という映画でした。

ストーリーは都合よく作られていたような気がしましたが

映像の切り取り方がもう1カット1カット

写真にして飾りたいような美しさだったので。



それはともかく

「娯楽として映画を撮る」ことは

ひとつの方法ではないかという気がします。



もちろん製作会社が

街角アンケートで

見たい映画の傾向をリサーチし

何度も試写を重ねてそのお客の評価で

内容を変えていくような

今のテレビ局主導の

「完全マーケティング映画」はイヤですが

監督とかが

「お客さんにわかってもらえるように」と

表現をわかりやすくすることは

映画の内容にもよりますが

むしろ良いことなのではないかと思います。



と、書いてみたら

>「理解できること」と「娯楽性」はまったく違う

というのに気付いて続きが思いつかない事態に

陥ってしまいましたが(笑)。



でもまあ、いいです。



それと最近、

「映画って芸術なのかな?」という疑問も浮かびまして、

実は単なる「暇つぶし」に過ぎないんじゃないかという

思いも少しあります。



だから「黒沢清が芸術の方に行ってしまった」というのは

ニュアンスとしてはわかるんですが

「芸術」のとらえ方がよくわからなくなっているので

完全にはわかりません。



だけれど言葉なんて

人それぞれ違った意味をつけて使っているのだから

ryoddaさんがここで書かれていることも

どれだけ書いた本人の思う意味と異なって

自分に伝わっているのかもわからないわけで…。



そうなると、結局は

読んだ側の汲み取ることのできた部分から

言及するしかないわけなので

こういうコメントになっちまいました。

すいません。



で、やっぱり思うことは

「映画について語ること」は誰にでも自由だし

それを「語っちゃいけない」というのも自由なのかなと。



そこを禁止するのが一番危ない世界なんじゃないかと言ったら

また違った方向を見ていますか?



とりあえず、

それを書いた人がどのくらいの影響力のある人なのか

知りたいので元ネタのアドレスを教えてください。

見に行ってきます。



読み返してみて、本当にわかりづらい文ですね…。
返信する
いつもどうもです。 (ryu3)
2006-10-09 17:00:16
いつもありがとうございます。





理解できないものを理解しようという好奇心…。



まさにボクが初めて見たエヴァンゲリオンその物ですね。笑



「碇ゲンドウ」っていう強敵がいましたから!笑





しょうもないコメントしか書けませんがまたお邪魔します。
返信する
とりあえず、 (ryodda)
2006-10-09 17:07:14
その人をこの場でさらすのは(面倒が起こるとイヤなので)しません。

なので、知りたいのであれば

ryodda@mail.goo.co.jp

まで直接メールください。

レスしますので。



takaさんのとりとめのない、しかし実直なコメントはしかと受けとめました。

思うに、「理解できるか」と「娯楽性」はやはり無関係でしょう。

一例として、『アカルイミライ』なんかは、理解されないまま支持された典型ではないかと。

ていうか、ちょっと前まではみんなもっとお気楽に映画と接してたと思うんですよね。

それがいろいろあって、「もっと考えなければいけない」というムードができあがり、短絡的な人は「理解できるもの」にしか興味を示さなくなっちゃったわけです。

その兆候が、各映画ブログで、映画のストーリー性、あるいは演技のよしあしとか、容易に消化可能\なことしか語られない、という形で象徴されていると思います。

この記事は、そういう点ではかなり政治的効果を狙ってはいますが、まあこんな僻地でこのくらい言ってもよかんべ、というノリで書きました。笑
返信する
メルアド間違いました (ryodda)
2006-10-09 17:11:06
ryodda@mail.goo.ne.jp

でした。苦笑
返信する
エヴァ(笑) (ryodda)
2006-10-09 17:16:32
確かにそうでした。笑

自分も同じくそんな感じで観てた記憶があります。

で、最後に何らかの「結論」が用意されてると思い込んでたファンはがっかり、と。

あれもまさに、「不可解さ」こそを娯楽性に転化させた作品でしたねえ、そう言えば。
返信する
ノリノリ (taka)
2006-10-13 02:20:00
思ったのですが

まだ大部分の人たちは

映画を「暇つぶし」としか見てないと思いますし

やっぱりそれでいいのだろうと思います。

だからryoddaさんが書かれているとおりの

ムードがネットのブログなんかによって

広まっているのであれば

確かにイヤな流れですね。

ネットの影響は映画に関係したそんなところにも

及んでいるのですね。

だから「感想程度のことをブログに書くな」という

ネット上でのとある指摘は

この点において間違っているような気が今しました。

「アカルイミライ」は今のところ見た

黒沢清作品の中では一番気に入ってます。

でも「わけわからないけど好き」とは思わなくて、

はっきり自分の中では「わかるから好き」な映画だと

思うんですけれどね。

しろと言われても説明はできないんですが。(笑)
返信する
シビアかもしれませんが、 (ryodda)
2006-10-13 14:49:31
>だから「感想程度のことをブログに書くな」という

>ネット上でのとある指摘は

>この点において間違っているような気が今しました。



このような指摘は、ものすごーく誤解を生みやすいとは思いますが、一理あるとも思います。

ネット上に自分の言葉をさらす、という自覚は、ブロガーであれ掲示板への書き込みであれ、ある程度は不可欠なのではないでしょうか?

今まではプロの、訓練や教養を備えた(本当にそうだったかは不明ですけど)人だけがマスメディアとして情報を発信できたわけですよね。

でも、アマチュアの、不特定多数がインターネットによって発信する側になってしまった。

そのことに無自覚でいるのならば、必ずツケは回ってくると思います。

情報をこれだけ広範囲に発信するということは、ただそれだけで社会に(ときとして多大な)影響を与えてしまうわけですから。



>「アカルイミライ」は今のところ見た

>黒沢清作品の中では一番気に入ってます。

>でも「わけわからないけど好き」とは思わなくて、

>はっきり自分の中では「わかるから好き」な映画だと

>思うんですけれどね。



おお、トビー・フーパーと好みが一緒ですね。笑

でも、ホントに「分かって」ますか?takaさんは。

ここで言っているのは、物語のことではなく、「なぜおもしろいか」が分かっているかどうかということです。

『アカルイミライ』という映画は、ものすごく分かりやすい物語を土台にして、かなり分かりづらい表現を実現した映画だと思うので。

ちょっと失礼かもしれませんが、なかなかあの映画を理解するのって難しいと思いますよ。



>まだ大部分の人たちは

>映画を「暇つぶし」としか見てないと思いますし

>やっぱりそれでいいのだろうと思います。



それでいいかはともかく、その流れは変わらないとは思います。

で、これに関してはまた別の記事で(関連したことを)言及する予定なので、ここでは割愛します。
返信する
わかってません (taka)
2006-10-14 02:47:02
ご指摘どおり(笑)

たぶんryoddaさんと同じ意味では「わかってない」です。

だって言葉にできないですから。

だけど、僕の中では見たときに確かに「わかった」んです。

100%、頭の奥の奥のほうにある感覚で、だと思います。

ほんとは「わかった」以外の言葉が当てはまるんでしょう。

でも言葉を知らなすぎるので「わかるので好き」という

表現になってしまいました。



考えてみたのですけど、

やっぱり「わからないけど、いいよなコレ」っていうのは

まだ実際に感じたことがない人間のようです、僕は。



僕もちょっと失礼しますけれど

>ホントに「分かって」ますか?

というのが

「頭のいい人以外は文章を書くな」という指摘に

つながっていくような気もするんですよね。



文章の発信に関して

>そのことに無自覚でいるのならば、必ずツケは回ってくると思います。

ということですが

具体的にツケってどんなものですか?

今までに例があればすいませんが教えてください。



あとは「アカルイミライ」に関しての

理解するのが難しい点についての

ryoddaさんのわかりやすい記事を読んでみたいのと、

今書く予定であるというその別記事も

楽しみにしたいと思います。
返信する
いやいや、 (ryodda)
2006-10-14 15:15:33
>やっぱり「わからないけど、いいよなコレ」っていうのは

>まだ実際に感じたことがない人間のようです、僕は。



っておっしゃいますが、



>だけど、僕の中では見たときに確かに「わかった」んです。

>100%、頭の奥の奥のほうにある感覚で、だと思います。

>ほんとは「わかった」以外の言葉が当てはまるんでしょう。



これこそが、「わからないけど、いいよな、コレ」という体験じゃないですか。

そうでないと勘違いされてるのは、2種類の「わかる」という言葉を混同されてるからですよ。

「わからないけどいい」というときの「わからない」は、「なにがいいのかわからない」という意味です。

で、これとは別に「物語がわかる」という意味でのわかるがあるわけです。

だからtakaさんが『アカルイミライ』を観たときの体験というのは、人生の中で非常に重要なものではないかと思いますよ。

ちょっと大袈裟かもしれませんが。笑



>具体的にツケってどんなものですか?

>今までに例があればすいませんが教えてください。



ツケというほどのものかは分かりませんが、自分の場合、まあ探せば見つかると思いますけど、このブログのある記事で「お前の文章はヘタクソだ」と言われたのがけっこうショックで。苦笑

いや、マジで凹んだんですよ、自分でもびっくりしたんですけど。

でもこれは一例です。

本当に、「不特定多数」を相手にするというのは、やっぱりそれなりの覚悟が要るのだと思います。

だって、「世界中の、少なくとも日本中の誰からもバッシングされない文章」なんて、書けるわけないじゃないですか。

それなのに、お気楽気分でカキコしたりすると、思わぬ反応が返ってくる可能性がありますよ、ってことです。

最悪な可能性を想定するなら、それこそテレビで取り上げられるほどの事件につながったりとか、ありえないとは言えないでしょう?

まあ、そんなヤバイこと書けた時点でその人は天才か、よほどの偶然だったかのどちらかだと思いますけど。



>あとは「アカルイミライ」に関しての

>理解するのが難しい点についての

>ryoddaさんのわかりやすい記事を読んでみたいのと、



これは・・・うーん。苦笑

まあ、考えてみます。

ていうか本当に書けるかどうかあまり自信がなかったり(おいおい)。



>今書く予定であるというその別記事も

>楽しみにしたいと思います。



PART3を準備中です。

そこで、いったんこの話の流れを終わりにして、新作のレビューとかを書きたいので。汗
返信する
過去記事を見つけるのはむずかしい…(笑) (taka)
2006-10-14 18:59:40
今回も検索断念です(笑)。



そうですか、

こんだけわかりやすく面白い文章を書く

ryoddaさんでもそういう批判を受けたことが

あるのですか…。

落ち込みますね。

でも例え批判であっても

コメントをつけられるというのは

それだけここの文章に

「何かを言いたい」という衝動を

かき立てられるからだと思いますよ。





>勘違いされてるのは、2種類の「わかる」という言葉を混同されてるからですよ。



そうか、「物語がわかる」のとは別物でしたか。

どうやら僕の中での「わからないけどいい」というのは

「わかるけど説明できない」のと同義語のような気がしました。

この辺になってくるともう、

言葉遊びみたいで申し訳ないんですが。



「アカルイミライ」を見たあの時間は

人生の中でも重要な瞬間!

そのうちそう思う日が来るやもしれません。

記事はまあ、気が向いたらでいいです。



PART3があるなんて嬉しいです。

「映画ヲシンジマスカ」も

またかなり物議をかもし出しそうな内容ですが

それを傍から見ていたいというのが

正直なところだったりするので(笑)

コメントはまた追々…。
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