風の回廊

風を感じたら気ままに書こうと思う。

「国民生活第一」への改革は何処へ向かうのか(2)官僚体制の成り立ち

2010年09月06日 | 日記
ピアノ300年記念 根津理恵子:ショパン / 「革命」




 代表選の焦点になっている「政治主導」ですが、小沢も菅も(以下敬称略)官僚主導から政治主導への改革を訴えていますね。政治主導への具体性は、小沢の地方分権主義の中に明確に提示され、菅は掛け声だけは大きいのだが具体的政策では今ひとつ説得力に欠けている。こうした中で政治主導とはどんなものなのか?官僚主導のどこがいけないのか?ということに漠然とした思いを持っているのは、私たちではないでしょうか。
 今回は、政治主導の対極にあるのが官僚主導、官僚政治について少し紐解いていきたいと思います。
 民主主義の原則である三権分立―立法(国会)、行政(内閣)、司法(裁判所)の分立―すべてに深く関わり、すべてに権力を持っているのが官僚です。もちろん、官僚が配されていなければ、実務不可能となり、機能を失ってしまう。
官僚は国家運営にはなくてはならない存在で、国民は実務を制度の中で官僚に委ねています。しかし私たちは官僚に「権力」を委ねたわけではありませんね。官僚は国家試験に合格した人たちで、私たちが選挙で選んだわけではありません。選挙で選んだ人たちは政治家です。民主主義の中で私たちの意志は、政治家に委ねられているのです
 
 しかし実態は、官僚制度が創出されて以来、権力を握り続けているのは、政治家よりもむしろ官僚であることは明白な事実です。
 そもそも日本で官僚制度が作れた目的が、政治家の力を削ぎ落すためなのです。明治政府が作りだした天皇を神格化した絶対君主制を政治家によって造り替えられるようなことがあってはならない。国民にも政治家にも国家の根幹たる天皇制が脅かされてはならない。
 このような意志が、明治政府の一部。元老と呼ばれた山形有朋から生まれ、強固な官僚体制がこの国に生まれたのが実体です。

 その経緯をマイミクのタケセンさんのブログ『思索の日記』(mixi日記欄にも掲載)から部分的に引用させていただきたいと思います。
(*タケセンさんは、とても寛容な方で、「どんどん使ってください」と言ってくださいます)

◇ルサンチマンの政治家―山県有朋の呪縛力!!(全文を読むことをお薦めします)
http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/e9c49d42f1d89006b292e3a815fd16ba
(このレポートを書いたのは、タケセンさんが主宰されている『白樺教育館』http://www.shirakaba.gr.jp/index.htm
の教え子で当時高校3年生の古林到さんです。僕などとうてい知りえなかった事実と見事な考察、論証が展開された秀逸なレポートです)

【部分引用開始】
有朋は、江戸時代の後半に長州の萩で生まれた。父は藩の中間(最下層卒族)である。
卒族の中でも「中間」は、戦時における武具や旗の持役など、人夫のようなものであったので、もっとも軽んじられる存在だった。町中で士分の者に会うと、土下座してあいさつせねばならないほどであったという。

恐らく、彼の家庭の貧しさは想像を絶するものだっただろう。そして更に、母親は有朋が五歳のときに早世してしまっている。後妻は幼い有朋をうるさがるばかりで、まるで面倒は見なかった。代わりに有朋の面倒を見たのは祖母だったが、有朋に出世の望みをかけ、人に負けるな、強くなれと口うるさく言っていた。

彼が幼い頃のエピソードに次のようなものがある。
彼が友達と、川に向かって誰が一番遠くまで投げられるか、石投げをして遊んでいた。その時、川に投げるフリをして、有朋より一つ上の士分の家の子が、有朋の後頭部に石を投げつけた。あまりの痛さに有朋は激怒し、謝れと叫んでしまった。その士分の子は、まさか中間の子が自分に逆らってくるとは思わなかったらしく、逆上して怒鳴り返した。それで頭に血が上った有朋は、その士分の子を川に落としてしまった。士分の子の訴えを聞いたその父親は、有朋の家に押しかけ、有朋を事件現場まで拉致し、文字通り半殺しにした後、川に投げ捨ててしまった。その後祖母に助けられた有朋は、武士になりたい、武士にさえなれば、とむせび泣いたという。

このような悲惨な環境で育ち、蔑まれてきた生い立ちが、彼を地位と権力への欲望が人一倍強い人間に育ててしまったのだろう。本来ならば、彼の「武士になる」という夢は叶うことなく、彼の生涯もひっそりと終わるはずだったのだろうが、この後、藩内の改革として「家柄や資格を無視して、有能な人材抜擢をする」という方針が出され、彼にも出世のチャンスが訪れた。そして、幕末の動乱を通して明治となり、トントン拍子に出世していった有朋は、明治政府、特に軍部で重要な役割を果たす地位についていったのだ。

高杉晋作の下で奇兵隊の幹部となっていた有朋は、維新後すぐに海外視察へと赴いた。馬関戦争で欧米列強の近代軍備にコテンパンにされたことが身に沁みていたので、かれは「国家建設のためには強大な軍事力を持たねばならない」と考えていた。そのための勉強・研究として、ヨーロッパ諸国の軍備を見に行ったのだ。しかし有朋はヨーロッパで信じられないものを目にする。

丁度この頃のフランスは、民衆の蜂起による世界初の労働者自治政府ができる直前であったし、欧州全体で社会主義が発展、人々が自由と自治を求めて騒然としていたのだ。青年期の、松下村塾の経験からガチガチの尊皇思想に凝り固まっていた有朋にとって、これらはとても理解できるような状況ではなかった。そしてそれは「天皇を頂点とする素晴らしい国家のためには、やはり町人や百姓は甘やかしてはならない、愚民どもは黙らせておかねば」という彼の考えをより強固なものにした。そして有朋は生涯、民主主義や民権思想といったものを目の敵にし、弾圧し続けることになる。天皇中心の国家が真に良い事だと彼は信じ切っていたし、何より、彼の心の奥底にある、地位と権力への欲求がそれを(意識的にしろ無意識にしろ)許さなかったのだろう。真の民主主義がなってしまえば、彼の望むような、地位もくそも無くなってしまうからだ。

海外視察から戻った有朋は、兵部省(後の陸海軍省)の高官となった。(高官とはいえ、様々な事情から実質は兵部省のトップである。)そして有朋は、まず軍事面から彼の理想像に近づけることになる。廃藩置県により、各藩の私兵となっていたものを天皇の新兵とし、更に徴兵制を導入。これにより、天皇を頂点とした中央集権国家に相応しい、統一された軍隊をつくろうとした。

そして更に、これは明治中盤の話だが、彼は陸軍の軍制をフランス式からプロシャ式に変えている。実はこれは重要な変化で、フランス式は、軍隊は政府の指揮下にある、という国民的軍隊であり、プロシャ式は政府の指揮下にあるのではなく、独自に行動できる絶対主義的なものである。(己の権力欲のため)軍隊を政府の管轄ではなく、全く独立した天皇直属のものにしたかった有朋にとって、これはとても重要なことだったのだ。(いうまでもなく、これが第二次世界大戦における日本の軍部の暴走の原因の一つとなった)

そしてその後、日本にも自由民権の思想が広がり始めてきた頃、前述したように、民主主義や民権思想といったものを己の理想の敵とみなし、恐れていた有朋は、民権党の暴動を皮切りに、いよいよ民権思想の弾圧と抑止、撲滅に取りかかる。彼はまず(民権党の暴動に軍隊の一部が加担していたこともあって)軍部内の統制に取り組んだ。「軍人訓戒(後の軍人勅諭)」をつくり、忠実・勇敢・服従の軍人の精神として掲げた。上官への絶対服従(上官の命令は天皇の命令と思え!というもの)、階級の秩序を乱さぬこと、民権思想の禁止など、軍人の言論、思想の自由を徹底的に抑圧した。天皇のためだけに動く、忠実な軍隊をつくるための完全なる戦闘ロボット育成スローガンである。

有朋は、政・官界でも本格的に活動することになる。有朋はまず、「集会条例」「新聞条例」「出版条例」を改正(改悪)し、集会の自由、言論の自由を拘束、各地で起こる民権運動を、警察を総動員して鎮圧、民権急進派をことごとく根絶やしにした。更に、「各府県会議員の連合集会、および往復通信を禁止」し、全国的に横のつながりのある政治結社を瓦解させた。また、板垣退助の存在で辛うじて統一されていた自由党には、三井財閥から引き出した金で(策略によって)板垣を豪遊させ、癒着を偽装して内部分裂をさせた。大隈重信の改進党に対しては、三菱財閥との献金関係を言いふらし、自由党に攻撃させた。

更に、相次ぐ弾圧への反感から、自由党員の多数当選が予想される衆議院とは別に、政府に都合のいいほうへ誘導するための「貴族院」という議会を設けた。貴族院の議員になる資格は「華族」であること。彼らは「皇室の守護」として様々な特権を与えられている。この「華族」というのも、有朋が貴族院をつくるために事前に設けた「華族令」によるものであり、当然、有朋自身も華族に列せられている。用意周到とは正にこのことだろう。

続いて対民権思想として政党員の行政機関(官僚組織)への進入を拒否するため、「文官任用令」を制定、天皇が任命した親任官以外は、高等文官試験を通った者しか任用できないようにした。これが、現在の日本の問題点の一つとなっている「官僚主導政治」の始まりとなる。

また、ブルジョア階級の増大により近代的労働者階級が形成され、社会主義思想と組織運動が広がり始めているのを見た有朋は、それらを民権思想と同様、己の理想の「天皇制国家」の敵と見なし、それらの弾圧と根絶に取り組む。「治安警察法(後の治安維持法)」を制定し、労働運動を若芽のうちに根こそぎ摘み取った。そして、先に書いた文官任用令をはじめとした、官僚(行政)に権力を集中させ議会(立法)を下に置くための制度づくりに尽力した。
また、年々増していくブルジョア階級の政界進出意欲に対し「あんた方は黙って金儲けをしていればいい、後のことは一切わしらに任せてくれ」と抑え、代わりにブルジョアジーの意向をより多く議会に反映させ、政治資金の供給源の確保を図った。これが、現在にも続く政・官界と金持ち(昔で言えばブルジョア階級、現在で言えば特定の大企業など)の癒着の原形といえるだろう。
【部分引用終わり】

 いかがでしたか。私たちは明治維新によって生まれた明治政府が求めた当時の欧米並みの近代国家建設の中で、欧米に倣いながらその必要性から、官僚制度が生まれたものだと、好意的に捉えていたのではないでしょうか?しかし、事実はかなり異なるようです。
このようなかたちで官僚制度が生まれ、天皇絶対君主化の中で、軍隊と同様に“天皇の下僕”として強化され続けるわけですが、先の大戦後、「象徴天皇」「軍事力の永久放棄」「民主主義」を掲げた新憲法下の戦後の政治体制の中でも、官僚制度は、新たな生命力を得ながら、政治の影となり、持続されながら自民党一党支配という構図の中でいっそう強化されました。
このことは戦後の歴代首相の顔ぶれを見れば明らかです。

◇吉田茂―東大~外務官僚
戦時中外務官僚として和平工作に携わり、数々の受難を受けたが、そのことが逆にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部:進駐軍)から信頼を得て総理の座に付き、政争を繰り返しながら「日本の防衛はアメリカに任せ、日本は経済の発展を最優先する」という戦後の日本の路線を構築した。

◇岸信介―東大~旧農務省官僚から、旧商工省次官へ。政界進出。A級戦犯として巣鴨プリズンに拘留、不起訴後公職追放をされながらも総理の地位に就き、日米新安保条約を締結し、日本の戦後の対米外交と防衛体制を決定的にする。
岸の後継は、佐藤栄作、福田赳夫、森義郎、小泉純一郎、安倍晋三(孫)、福田康夫と継承されている。今の自民党最大派閥、清和会である。

◇池田勇人―京大~大蔵省次官
経済重視の内政主義を打ち出し、「所得倍増」をスローガンに、日本の高度経済成長を実現した。
後継は、大平正芳、宮沢喜一。自民党派閥の宏池会。

◇佐藤栄作―岸信介の実弟。東大―運輸省次官
高度成長時代というは背景の中で、安定した長期政権を運営。安定への布石として、次期総理、将来の総理候補と言われた、田中角栄、福田赳夫、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘、宮沢喜一という人材を派閥を超えて、重要なポストに就かせることで育成し達成した。「人事の佐藤」と言われる所以である。

◇福田赳夫―東大~大蔵省主計局長。
主計局長時代、昭和電工事件に関わり収賄罪容疑で逮捕。裁判では無罪。政界に入ってからは岸信介の側近として力をつけ、佐藤時代に重要なポストに就き、次の総理候補と呼ばれたが、田中角栄に敗れる(角福戦争)。ロッキード事件後、総理となった三木武夫を力ずくで降ろし(三木降ろし)総理となる。政策はタカ派外交、緊縮財政による財政の再建。大平が総理就任後、衆院選で負けた大平と党を二分しての争いとなり、翌年再選を狙った総裁選で大平正芳と争うが敗れる(40日抗争)。このように福田が歩む中では、権力闘争が露骨に行われた。

◇大平正芳― 一橋大学~大蔵官僚
大蔵官僚時代、池田勇人の大蔵大臣時代秘書官を務め、政界入りした後、池田の側近となり頭角を現す。大平総理の時代は、ソ連のアフガニスタン侵攻、イラン革命など新冷戦時代とも言われ、そうした状況の中、モスクワオリンピックボイコットなど、対米協調をより明確化し、初めて日米関係の間で「同盟」という言葉が用いられた。79年増税発言で衆院選で敗北し、やがて福田との40日抗争が生じ、自民党に内部分裂が起こり、衆参ダブル選挙で乗り越えようとしたが選挙中死亡。

◇中曽根康弘―東大~内務官僚。
官僚出身と言っても中曽根の官僚生活は長くなく、27歳で衆院議員となり、鳩山一郎の側近の政治家、河野一郎(河野太郎の祖父、河野洋平の父)に見いだされ側近となり、河野派を継承し中曽根派となる。そういう意味では。官僚政治家ではなく、党人政治家と言える。派閥の地盤が弱小だったため、常に風向きを留意し政界を渡るその姿は風見鶏と言われた。
田中角栄の協力を得て総理になってからは、土光敏夫、瀬島隆三など民間人ブレーンを登用し、行政改革を実行。その手腕は大統領的とも言われた。外交は日米協調路線をさらに強化させ対米追従を深化させた。

◇宮沢喜一 ―東大~大蔵官僚
官僚時代、池田勇人蔵相の秘書官となり、政界に入った後、池田のブレーンとなり、「所得倍増計画」の策定に関わり、若くして頭角を現す。それまでの派閥の長がすべて総理になった中曽根政権時から、安倍晋太郎、竹下登と共にニューリーダーと呼ばれ、次期総裁候補となり、竹下失脚の後、保守本流のリーダー、国際派総理と期待を集めたが、竹下登勢力が牛耳る状況の中で力を発揮できず、得意の経済政策で自滅し、自民党が野党となる原因のひとつを作ってしまった。


 官僚出身ですが、党人派である中曽根を除き、福田赳夫までの顔触れを見ても分かるように戦後日本の方向性を決定的にしてきたのは官僚出身の総理であることに気付きます。官僚派の総理の下に官僚出身の政治家が集まり、政治家と官僚の距離はいっそう近づき、権力は癒着しながら強大化し、官僚政治が強化される。
 官僚が作った政策は、そのまま自民党の政策となり、自民党時代の閣議は、各省庁次官に持ち込まれた閣議決定書にサインするだけの、わずか30分足らずの形骸化した政策決定会議となり、国会での答弁は大臣秘書官が作り上げた答弁をそのまま読むという、官僚の代読的答弁でした。
官僚主導の政治、官僚政治は、明治以来120年に渡り持続し強化され続けてきたのです。

 ここで僕が体験した官僚主導の一例を紹介します。
 ダム問題で僕たちの市民グループは、国交省と環境庁(当時)に質問書を出しました。しかし直接省庁に提出できません。「紹介議員」を介さなければ、官僚に届かないのです。
その時、紹介議員になっていただいたのは、党派を超えて作られた「公共事業チェック議員の会」会長の中村敦夫とメンバーの民主党の岡崎とみ子、佐藤謙一郎議員でした。
両省庁からの返答は、長い時間を要しようやく返ってきて、両方の意見交換が紹介議員の尽力により、霞が関の省庁内でそれぞれ行われることとなり、出かけたのですが、議員か秘書が同行しなければ、一歩も中に入ることはできません。
 国民の声が、国民の手によって直接担当省庁担当官に届かないシステムになっていたのです。
 中村敦夫や岡崎、佐藤は、族議員ではありませんでしたが、このような官僚主導のシステムが、族議員を生み、政官癒着構造を強化し、官僚の権力を増大させたのです。

 このシステムを一気に切り崩したのが、政権交代を果たした幹事長、小沢でした。
 民主党政策調査会(政調)は、自民党の政務調査会と同じように、国民や団体から陳情された政策も含め党で練られた政策を議員が調査論議し、各省庁に伝え実現化させる機能ですが、これでは、どちらが政治の主導者なのか。という問題があり、自民党時代のような族議員が生まれかねない。
これを危惧していた小沢は、政調を廃止し陳情を各地の民主党連に集約させ、幹事長室に一本化し、党と政府が一体となることで幹事長室に届けられた陳情は、各大臣に直接届けられ、官僚主導の一部を崩壊させました。政策は党議員と閣僚が論議しながら決定していく機能を新設した「政策会議」に委ねました。
 一方菅は、政権を掌握すると、政調を復活させ、政調会長を内閣の一員としました。

                                続く



わたしたちがもうたっぷり知っていると思っている物事の裏には
わたしたちが知らないことが同じくらいたくさん潜んでいるのだ。
理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない。

                   村上春樹「スプートニクの恋人」より



最新の画像もっと見る