風の回廊

風を感じたら気ままに書こうと思う。

「検察審査会」を考える

2010年10月23日 | 日記
 敗戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部:事実上米軍単独占領)による占領時代、総司令長官のD・マッカーサーは、武装解除と軍部の解体の後、直ちに本格的に戦後の日本の体制と方向性を示しました。アメリカ型の民主化です。
 天皇制絶対主義の解体、財閥解体、農地解放、女性参政権、公職追放、労働改革(労組)、財政制度改革、教育制度改革、警察制度改革、公衆衛生改革、地方自治改革、国家神道の廃止・・・・・・平和憲法の制定。

 こうした民主化政策を推し進めたのは、GHQの中のGS(民政局)で、F・D・ルーズベルト大統領のニューディール政策を担ったニューディーラーたちが参画していました。
 民主化の中には、検察の改革も含まれ、その頃の検察は、占領政策の中で検察にも厳重な監視体制の中にあり、相当弱体化していました。
このような状況下でGSが求めた司法制度改革、検察改革の柱は、「大陪審制度の導入」と「検察官の公選制」でしたが、当時の政府と検察官僚はこれを呑むことができず、代替案として市民参加による「検察審査会」創設でどうか。と提案し、GHQはこの案を受け入れたのです。

 GHQにもさまざまな部署があり、中でも民主化を推進するGSに反発するG2(参謀第2部)の対立は顕著でした。G2は、急速な民主化は、始まりつつあった冷戦構造の中で、日本に共産主義が浸透する要素を与えてしまうという危惧を持ち、GSが推し進める民主化に対しさまざまな工作活動を繰り広げました。
「検察審査会」の創設もそうしたGSとG2の妥協の産物として生まれたもので、検察のG2への接近と働きかけも容易に推察できます。
 「検察官の公選制」が導入されれば、検察の権力が削ぎ落されるのは間違いなかったし、検察とすれば、強大な権力の源泉である、世界でも稀有な「公訴権」と「捜査権」を同時に有する公権力を揺るぎなく保持しなければならなったからです。

 こうした検察に対し、G2は日本の軍部や軍部への物資調達機関、政治家、財閥が貯蔵していた隠匿物資調査摘発しGHQの管理下に置くための組織として1947年「隠匿退蔵物資事件捜査部」作ったのです。これが現在の「東京地検特別捜査部」です。
その後、大阪地検特捜部(1957年)、名古屋地検特捜部(1996年)も生まれました。

 このように、現在問題となっている「地検特捜部」と「検察審査会」は、冷戦の始まりという状況の中で、対日占領政策をめぐるGSとG2の隠れた抗争を検察官僚が巧みに利用し、共通の利益として生まれたのでした。もちろん検察は、「公訴権」と「捜査権」を保持することに成功しました。

 「検察審査会」と「検察」の問題を同時に述べるのは、あまりにも長くなってしまうので(ただでさえ長すぎる文章なのに……)今回は、検察の問題は後にすることにして、「検察審査会」について、あっさり述べようと思います。

 検察審査会(以下、検審)は、公訴権を持つ検察の不起訴処分について恣意的なものがないか、不当なものがないか、市民の代表が審議する各地方裁判所に置かれた機関です。
 審議する検察審査員は、有権者名簿から無作為抽出で選ばれた数十人の中から、さらにくじで選ばれた11人からなり、選ばれなかった人は補充員として、11人のうち病気などの理由で欠落が出た時に審査員として補充されます。
 法律的知識、かかる事件の認識度の有無にかかわらず、有権者から選ばれるので、審査補助員として選ばれた弁護士から、さまざまな助言を受けることができ審議されます。
審議は、当該事件の被害にあった人や、事件を告訴、告発した人の申し立てによって始まります。
 このように強大な権力を持つ検察の独占公訴権に市民が関わることから、民主的な機関と言えるのかもしれませんが、審議された内容についての議事録の公開の規定はなく、もちろん審査員は公表されずブラックボックス的な機関とも言えます。

 検審の審議により「起訴相当」「不起訴不当」が議決された事件について検察は、再捜査を行う規定があるのですが、改正検察審査会法が施行されるまでは、再捜査後の検察の再度の不起訴に対し何ら拘束力を持っていませんでした。
これでは、市民の声があまりに活かされていないということで、04年の通常国会で検審の議決に拘束力が与えられる改正法案が、自公民の賛成多数で可決され、昨年5月に施行されました。

 強制起訴は、「起訴相当」「不起訴不当」が議決され、検察の再捜査が行われ、再度不起訴となると、2度目の検審の審議が行われるのですが、ここでも「起訴相当」「不起訴不当」=起訴議決されると強制的に起訴されるというものです。強制起訴による公判は、検察が被告人側と争うのではなく、推薦された弁護士3名に検察から全捜査資料を委譲され、公判で臨み争います。

 ここで問題になるのは、
◇強制起訴という強い拘束力が規定されたにも関わらず、ブラックボックス的な体質はそのまま残され、審議の経過や議事録が公開されないということ。

◇2度目の審議に、かかる事件の検察官の説明を受けるにもかかわらず、被疑者の弁明は行われないということ。

 こうした法的不整備に加え、今回、小沢一郎前幹事長に対する、起訴議決で検審が内包していた非民主的な行為が露呈しました。

 起訴決議書の“別紙”に付け加えるかたちとして「秘書宿舎建設場所の土地購入代金の4億円を被疑者・小沢一郎から陸山会は借入れをしたのに、平成16年分の政治資金収支報告書に記載していない」旨が“虚偽記載”として、起訴議決の理由になっているのです。

 この4億円に関する政治資金収支報告書の不記載について、検察は起訴事由にしておらず、つまり「問題のない行為」としており、検審で審議すべきものではありません。
 検審は、検察が起訴しようとした事由についてのみ審議すべきもので、新たに起訴すべき事由を付け加えることは、明らかに違法行為です。
ごく一般の市民が、検察審査員に無作為抽出で選ばれただけで、新たな起訴事由を作り、強制起訴するなど言語道断の不正行為と言えます。これはとても恐ろしい行為です。
一般市民が検察を超える権限を有したことになるのです。
A事件の不起訴について妥当かどうか審議するのに、B事件を勝手に作り、A事件に付加し強制起訴させてしまうことが許されますか?

 こんなことが平然と行われ、起訴議決事由になってしまうのは、マスメディアの小沢ネガティブ報道によって刷り込まれてしまった「小沢はきっと悪いことをしているんだと」という審査員の先入観が感情的に作用し審議の過程に流れていたことと、補助弁護士による恣意的操作があったことが十分推測できます。


 このことは、力を持った政治家・小沢一郎に限った問題だけではなく、私たちの身に降りかかる問題です。いずれ開かれる小沢一郎を被告人とした公判を静かに見守るなどと、悠長なことは言っていられません。
いつも、政治記事を書くたびに言っている“知らないでは済まされない事実”です。
 私たちが、私たちの家族や友人、知人が、いつこのような不当な審議によって、被告席に立たねばならなくなるかもしれません。
検察審査会創設以来、全国で約50万人の人が審査員を経験しています。それだけ多くの告発される事件があり、中には検審の議決によって冤罪が生まれたケースもあり、拘束力を与えられた検察審査会の議決は、さらなる冤罪を生み出すことにもなりかねません。拘束力を与えられただけで、拘束力を与えれるにふさわしい内容から遠い検審の在り方です。

 小沢さんの審議では、議事録作成を検審法で定められていながら、議事録を検審事務局は作っていません。
 また当初発表した2回目の審査員11人の平均年齢=30,9歳は、無作為抽出では確率的にあり得ないような稀なケース(0,005%)で、それを指摘されると、「37歳の審査員」を計算に入れ忘れたとして33,91歳に訂正。翌日には「議決時点では、34,55歳」だと発表。小学生でもできる平均年齢を、二転三転させています。
 さらにおかしいのは、1回目の審査員の議決時の平均年齢が34,27歳だったのですが、任期の関係で1回目の審査員11人全員が入れ替わっているにもかかわらず、2回目審査員の平均年齢あ34,55歳という近似値です。

こんなことが起こり得るのでしょうか?
こんなことから、検審に対し今、さまざま疑惑が有識者を含めて語られています。

 「検察審査会」「地検特捜部」について、その成り立ちと検審にについて問題点を述べたのは、二つの機関は必ずしも民主主義の原理に基づいて国民の利益に沿った純粋な型で生まれたものではなく、戦後生まれた冷戦という国際政治状況の中で、QHQ内で対立する部署が求めるアメリカの利益と検察官僚の利益の最小公約数の中で生まれた、極めて限定的な措置として「検察審査会」と「地検特捜部」があることを示し、時代に見合った国民の利益を求める時期はとうに過ぎているのだから、いったん廃止し、民主主義への純粋な方向性に沿った機関や制度を創出すべき時ではないか。
という提起をしたかったからです。

 検察審査会の問題も、地検特捜部の問題も推移をただ見守るのではなく、多くを知り、自分で考え、家族でも友人でもいい、少しでも広くの多くの人に伝え、問題を共有し、より良い方向へ導いてほしい。このように願います。


                                   武井繁明


*写真左:GHQに接収され本部が置かれた「第一生命館」。現在の「DNタワー」。当時は、前部の建物だけ。



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8 コメント

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対症療法ではなく (あくあ)
2010-10-30 10:28:35
構造的な病を治癒させるには、対症療法でなく、基から正さないといけません。
国は一人で治めるのでなく、政治家だけが治めるのでなく、必要な問題については国民全体で改善しないといけないですね。

誰が悪いだとか、どのグループがどうだとかの責任追及はある意味責任転嫁であり、自分自身の問題としてしっかり洞察できる眼力が必要のはずと思います。
コンプライアンスなどと言うカタカナをよく耳にするようになりました。官の世界にも、内部告発制度をもっと積極的にとりいれるなどして、全体を活性化させないと、必要な新陳代謝が機能しないと思います。

この日記を息子に読ませます。ありがとうございます。
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国民主権こそ自然治癒力の源泉 (C-moon)
2010-10-30 10:29:59
あくあさん♪>

>構造的な病を治癒させるには、対症療法でなく、基から正さないといけません。
国は一人で治めるのでなく、政治家だけが治めるのでなく、必要な問題については国民全体で改善しないといけないですね。

仰るとおりです。たとえば、僕が言う”廃止”しただけでは、病巣は切り取ったとはいえ、再発の危険性があります。”廃止=外科的処置”には、自浄力、自然治癒力が前提となります。
自然治癒力のないところに、改革も廃止もありませんね。

私たちは”国民主権”と簡単に言いますが、国民主権の中にこそ自然治癒力が必要ですね。ここに自然治癒力がなければ、どんなに素晴らしい法案を通し、どんなに素晴らしい機関が設立されてもやがて病巣化してしまうでしょう。

検察審査会について詳しく調べたわけではないので、(調べようと思っても、審議内容が公開されていないので調べようもないのですが……)設立以来、求められる役割を果たしてきたのか判りませんが、これまで十分役割を果たしてきたとしても、今回の議決は、極めて重篤な病に冒されている、と診断せざるをえません。
対症療法ではもちろん済むはずもなく、このまま放っておけば、さまざまな悪影響を社会に生みだすことになると思います。

少なくともブラックボックスにしたままでは、治療の方法も見つかりませんね。

今日、東京(有楽町から出発)で検察問題、検察審議会問題を社会に広め是正、改革のための市民の発案によるデモが行われます。
このところ署名運動も盛んに行われています。このうちの中心メンバーの何人かは、mixiでも意見を盛んに述べ、特にツイッターでの活動は、注目されるべきものがあります。
こうした市民によるささやかな活動が、新陳代謝の源泉となり、本来人が有する自然治癒力を高めていくと思います。

報道されないと思いますが(中国の反日デモの取り上げ方はすごいですけど……)「こんなこともしているんだ」と心の内に留めていただければ幸いです。

コメントありがとうございました♪



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恣意的 (mukumuku)
2010-10-30 10:30:59
GSとかG2とか読んでる先からすぐわからなくなっちゃいそうですが
恣意的・・この言葉が私の天然頭にも最近こびりついてはなれません

>恣意的なものがないか、不当なものがないか、市民の代表が審議する
各地方裁判所に置かれた機関

であるべきものが

>審査員の先入観が感情的に作用し審議の過程に流れていたことと、
補助弁護士による恣意的操作があったことが十分推測できる

ということですね

政治力のある小沢さんが力を持つと自分の身が危ういと思う人が多いから、
小沢さんのイメージを悪くさせるのに躍起になった結果ということでしょう

政治家や官僚など一部(かなり?)の上級?国家公務員は、自分の身の安泰を
はかるため、情報操作をせっせとするのではなく、これからの世界で日本が
どのように見られていくべきなのか、そのために今どうすべきなのかを
真剣に考えていってほしいです

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主権は国民に (C-moon)
2010-10-30 10:32:00
mukumukuさん♪>

いつものように長い文章で辟易したと思います(苦笑)
何とか短くもっとシンプルにまとめたいのですが、長く書かないと頭の中でうまく整理できないんですよね。困ったことに……
ほんと、自分自身にいつも、やれやれ状態です♪

単刀直入に言えば、mukumukuさんに引用していただいた部分が、今回のテーマの本質なわけで”恣意的”ということが、ポイントになっていますね。

と、mukumukuさんに取り上げていただきやっと気付いたわけです(苦笑)


これを書くにあたり、占領時代に起こった疑獄事件をざっと調べたのですが、政治家が絡んだ疑獄事件は、ほとんどすべて国策捜査です。
検察特捜の意思次第で政治の重心がさっと動いてしまうんですね。潰された内閣も一つや二つじゃありません。戦後政治を背負ってきた、そうそうたるメンバーも逮捕されています。
そして逮捕起訴されても政治活動を続け、再起している人も多いです。
再起した人は、いずれも最高裁で無罪になっています。
これだけで、いかに恣意的な捜査だったか判ります。

検察特捜の体質は、昨日今日始まったのではなく、占領時代、いえ戦前から少しも変わっていないんですね。
そういう検察の恣意的捜査、恣意的起訴を市民の視線で判断するために生まれた検審が、恣意的に操作されていたのでは話になりませんね。
審議の際、補助弁護士に操作されているだけではなく、その前にメディアに操作されているから深刻ですね。

やはり、国民がもっともっと賢くならないと、仰るように世界の中での日本ポジションはますます危うくなりますね。
官僚にも素晴らしい人はたくさんいると思います。官僚個々の資質も問われますが、それ以前の問題としてシステムの問題もあります。
公務員試験の内容の問題もある。教育の問題もあります。教育の問題は非常に大きく影響を与えていると思います。
日本のエリートって、馬鹿のひとつ覚えみたいに客観的事実だけを積み上げた人、そうした能力に長けた人なんですね。
だから硬直し、創造性に欠けるんです。創造性のないところに進歩はありませんから、いつまで経ってもシステムも変わらないし、やっていることも変わらない。
だから世界に置いていかれる。これじゃあ、かつての社会主義国と同じですよね♪

いずれにせよ、浄化し進歩を図る源泉となるのは、私たち国民だと思います。主権は国民にあるのですから。

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娘も (ねぎ)
2010-10-30 10:33:09
なかなかインターネットでの情報を収集出来ないので、大事に読ませて頂きました。

娘には小さい頃から、テレビで放送しているからといって、紙に印刷されているからといって全部正しいと思ってはいけません、と教えて来ましたので、村木さんの件はとても判り易い事例でした。

ニュースを観ながら、何故このタイミングで発表されたのか?
もう少し前に発表されていたら管さんは果たして代表選に勝てたかな?などと茶の間での話は膨らみます。

彼女なりに内閣の支持率の移り変わりの激しさやバッシングをするマスコミの口調に感じるものがあり、テレビの前で時々怒っています。

昨日、日本国憲法を習い始めた彼女に、何故日本は戦車を持っているの?と平和憲法と自衛隊について質問され、満足な回答が出来ず宿題にしてもらいました。

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主観を育む (C-moon)
2010-10-30 10:34:26
ねぎさん♪>

ご無沙汰しています♪

客観的事実の積み重ねはとても大切で、そういう意味では新聞もニュースもそれなりの有効性はあるのですが、受け取る側がそこで終わってしまうと、権力側に「しめたものだ!」と思わせてしまうんですよね。
それを測っているのが世論調査で、自社の論調が行き渡っているかどうか判断の基になります。

『小沢強制起訴!』が決まった時、5大新聞も2大通信社もすべて同じ論調で、見出しは「離党せよ。辞任せよ」です。
社説まで同じ内容です。こうした状況は、戦前の報道体制「大本営発表」と同じ様相でとても恐ろしいことです。

ですから、お嬢さんに言われているように、疑問を持ちながら、情報にふれる姿勢はとても大切なことだと思います。
その中から、自分のオリジナルである、主観が芽生え、揺るぎない自己を確立させていきます。
日本人って「主観的」という言葉にあまり良いイメージを持っていないようですが、主観こそ自己表現の源泉ですし、主観こそ、みんな違ってみんないいところだと思います。
主観が交わるところから、進展があり、文化や社会、政治の深化が生まれるのだと思います。

これからも、お嬢さんの主観を育むフォローをしてあげてください♪


平和憲法と自衛隊の存在の矛盾……
難しい質問ですね。ひとことで答えられるものではなく、お母さんは困ってしまいますよね♪
お嬢さんが純粋で柔らかい頭脳を持っている時期ですから、よけいに難しいですね。

僕は、逆に質問しながら導くようにしています♪
返信する
徹底抗戦を支持 (this boy)
2010-10-30 10:35:44
私はハムラビ法典支持ではないですが、殺人に関しては死刑
を求刑することが相応しいと思ってます。
特に無抵抗で力の無いものを強者が有無を言わさず殺すという
行為に弁解する余地があるのかという気がします。

最近の幼児虐待死事件でも懲役10年前後という刑罰には疑問
を感ずることがしばしばです。

でも昨今の検事による証拠捏造という組織ぐるみの犯罪を見る
とここはちょっと慎重にならざる得ません。
明らかに物的科学的証拠がないと自白だけでは死刑は絶対求刑
出来ないですね。

システムが人間をダメにするのでしょうか。
人間がダメはシステムを構築すのでしょうか。

そして究極な組織が検察審査会ですね。
検察の恣意性を排除するという理念は誠に美しいのですが
複雑な事案、権力絡みといった内容を一般市民が本当に
冷静客観的に判断出来るのか考えると、これは「ノー」
というしかないです。

言い方が悪いですが、そんじょそこらの対して知識も
見識もない人達(私もそうですが)が、感情的にこいつは
悪そうな奴だから起訴すべきという結論を1ヶ月程度
(何回審議するか判りませんが)
で下すというシステムは本当に恐ろしいシステムです。

特にこの日本社会では推定有罪になってますから、起訴されたら
人生が滅茶苦茶になってしまいます。
そんなことが無責任な(責任が取れない)11人によって許される
のでしょうか。
もし裁判で無罪となってもその人の狂った人生は戻って来ません。

今までに明石陸橋事件、JR西日本列車事故事件で検査審査会
が起訴すべきという判断を出してますが、これは魔女狩りになる
危険が大です。
市民のストレスの発散場所になる危惧すらあります。

特に今回の小沢さん問題でこの制度の不透明さ、胡散臭さは
頂点に達した感があります。
事務局というところのいい加減さは驚きを通り越して悪意を
感じます。

取調べの可視化とともに、裁判員のように覆面でいいから
自分の判断基準を公に公表して欲しいです。

ジャーナリストもなぜこの存在しているか判らないような
審査員を突き止めようとしないのか。
週刊朝日には是非この検察審査会の実態を暴露した記事を
期待してます。

小沢さんには徹底抗戦を望みます。
死ぬ気でこの官僚主導政治体制を変革すると言ったのだから、
このわけ判らない組織に潰されるわけには行かないでしょう。

その抵抗を通してこの組織の不自然さと裏権力のワナを打ち
破り、新たな政治体制を構築して行って欲しいと思います。

武井さんのおっしゃるとおり、国民の「私は知らない関係ない」
では済まされない非常に恐ろしい方向に行きかねない事案だと
私も思います。

話は変りますが、
とにかく今の日本の政治家にはリーダーが不在です。
この現在の日本の政治は衆愚政治そのものと言えます。
マスコミの劣化、政治家の劣化は国民の劣化そのものでしょう。

政治家は自分の信念を国民に訴えて強いリーダーシップを
発揮して欲しいし、世界と伍していける腕力のあるリーダー
が日本には必要です。

菅さんには金正日と胡錦濤の爪の垢でも舐めてもらいたい!

それにしても民主主義という理想を実現するには一人一人の
自覚と見識、真実を見る目が必要ですね。
現在の日本は「民主主義遠くにありて思うもの」かなあ

返信する
表現することの大切さ (C-moon)
2010-10-30 10:37:38
this boyさん♪>

僕は死刑制度を、これまで心情的にやむを得ない制度として存続を否定しませんでしたが、ここ数年、死刑制度は否定しないが、死刑の執行はすべきでないという立場でした。すごく微妙でした。
現在は制度そのものを見直すべきだと思っています。理由はいくつかありますが、最大の理由は冤罪です。冤罪の可能性が否定できない限り、国家が殺人を犯してはならない(国家以外ならいいという意味ではありません)と思います。
実際、近代刑法を用いてから、科学的捜査が未熟だった戦前はもちろん、戦後少しづつ発達し冤罪の可能性が低くなった時代でも――特に自白が有力な証拠とされていた時代、それほど前でもありませんね――死刑判決を受けた冤罪だった可能性が残っている死刑囚が刑の執行を受けています。あるいは、執行されることなく生かされ獄中死するケースがありました。死刑制度が存続する限り、無実の罪、あるいは死刑判決に至らないような罪の人が、死刑になるケースは否定できません。だから生命と人権を最大の宝とする民主主義に死刑制度はそぐわないと思っています。冤罪の立証も、死刑が執行されてからでは不可能です。

法律は等しく分配されます。明らかに残虐的に人を殺し、何度死刑にしても飽き足らない殺人者もいて悔しい限りで、殺された人、遺族の方の心情を思うとやり切れなくとても複雑な思いですが、ひじょうに数少ないと考えられる冤罪者を究極のところで救うということも法に求められています。
死刑制度が存続する限り、死刑が執行され続ける限り、冤罪は救えない。だから、現在は死刑制度に否定的です。
また裁判員制度では、裁判員に量刑の議決まで与え、判決を大きく左右しています。果たして、法律の素人に量刑の判断を委ねていのか。与えられるのは、有罪か無罪かの判定だけでいいのではないか。冤罪ぎりぎりの可能性がある事件での心理的苦痛に一般の人が耐えられるのか。感情的な部分が大きく作用して冤罪を生む可能性が高まるのではないかと危惧しています。これも死刑制度に疑問をもたらしている要因です。
現実的に、裁判員制度施行以降、求刑に近い判決が多くなっていますね。
こうしたことからも、取り調べの可視化、弁護士の同席は、早急に整備されなければいけないし、検察の在り方に目を向けなければいけないですね。
そしてテーマの検察審議会ですが、今回小沢さんの強制起訴で、『第二の検察』になってしまったことが、明らかになりました。もはや理念は喪失し、魔女狩り機関と化しましたね。検察が小沢さんを起訴しようとした事由は、“登記の期ずれ”の共謀という、普通なら修正で済む話で、検察が起訴しようとすること自体おかしな話だし、そんな微罪とも言えないものを、10億円以上の税金と東京地検特捜部の全精力を上げて1年以上かけて捜査した結果、嫌疑不十分で不起訴にした案件に強制起訴をかけるなど、もはや、『第二の検察』です。「検察で起訴できなかった案件は、検審で強制起訴すればいい」という風潮が罷り通る可能性があります。検察の起訴事由が、刑事事件的にあまりにも微小でそれを強制起訴するなどまともな神経とは思えません。これが大きな疑獄事件なら別ですが、検察の起訴事由に見当たりません。

原因は、私たちが“マスメディアに衆愚化された市民”に堕ちてしまっていることに求められると思います。
タケセンさんが指摘しているように、客観の積み重ねを最良とする教育の中で、私たちは主観を育むことを怠り、事実を見つめる視線、事実を追究する術を失くしてきました。客観の上に成り立ったものだけに価値を置いてきました。主観性の欠落は、事実の追究を失くすだけではなく、自己表現することも抑制します。
人類は哺乳類の中でも、過酷な弱肉強食の世界では弱い存在でした。そこで生き残るには、知恵を必要とし、進化の中で知恵が育まれ、生物の中でもっとも恵まれたステージで生活することができるようになりました。そうした知恵の中で大きな役割を果たしたのが、進化の過程の中で形成された言語であり、言語は伝達手段として知恵の集合を形成し、文化を生み育み、さらに進化の過程で言語を記号化し文字を作り、表現力をさらに豊かにし、文明を築き上げる大きなエネルギーとなりました。
しかし人類が手にした“表現力”を私たちは、発揮していませんね。客観性を重視した姿勢の中で、主観を表現することを忘れてしまっているのです。
主観を表現しなくなった社会では、メディアが大きな力を持ち、浸食します。これが、社会に様々な問題を生み出し、解決不可能な状況に追い込んでいます。

こんなことを書くとマイミクさんが減るか、コメントが減るかもしれませんが(苦笑)主観を表現するツールとしてこれほど環境が整っているのに、自己表現できない人が多いですね。しない人が多いのかな。特に政治的なことを表現できない人、しない人が多い。実生活の上で、中身の濃いコミットメントをしているから、あえて他のツールを利用して表現する必要がないと思っているのかもしれません。
しかし、問題だと思ったら手を上げるのが民主主義です。主権は我々にあるのですから。
手を上げ表現することが何よりも大切ですね。ひとりひとりが表現しなければ社会は停滞します。
僕が言いたいのは、自分で話すこと、自分で書くこと、自分で拡げるというささやかな自己表現を便利なツールを利用してもっと活発化しませんか……ということです。
趣味を書くことも愉しく、大切なことですが、社会を主観的に見つめ停滞させないことも大切で、政治や社会が停滞したら、趣味どころではなくなってしまいます。

小沢さんの問題は、主観を表現しなくなった我々が温床になっています。
検察審査会を化け物化させています。そして小沢さんを本気にさせ、徹底的に抗戦させることも私たちにかかっているようです。巨大な権力をもった検察と真っ向勝負するのは、小沢さんと周辺議員だけでは無理だと思います。そんなふうに思う今日この頃です。

いつも真摯なコメントありがとうございます。

よく思うのですが、this boyさんからいただくコメントも、僕の返事も内容といい、長さといい、そのまま日記本文になりますね♪

今度少し加筆してそうしようかな(微笑)
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