日本橋図書館でリビングバイブルの「マタイの福音書」を読んだのですが、ここでは「マルコの福音書」を読み、ベルゼブル論争について考えてみました。
ベルゼブル論争はマタイとルカ、マルコで取り上げられています。
ベルゼブル論争はマタイとルカ、マルコで取り上げられています。
今日は、川西町立図書館(遅筆堂)を訪問し、ちょこっと読書してきました。数年前までは一日中、机に向かって本を読んでいても首など疲れることはありませんでしたが、先週、日本橋図書館でリビングバイブルを読んでいたとき、とても首が疲れることに気づきました。今日もそうなのです。机やイスの高さが合わないのかなー?
数年前というのは、防災士の勉強をしていたときですが、図書館で10:00から17:00まで1ヶ月テキストを読んでいましたが、それほど集中を妨げられるような痛みは感じなかったのです・・・。
ベルゼブル論争
山形県南陽市にある日本キリスト教団宮内教会の日曜礼拝で、10年も経っていないときですが、当時の牧師だった近藤国親先生の説教で「ベルゼブル論争」が取り上げられました。
論争というので、どちらが、どんな理屈で勝つか、そんな好奇心で聞いていたら、藪の中に入っていった感じになりました。
今日は図書館でリビングバイブルでマルコの福音書を開いていたら、そのベルゼブル論争のくだりが出てきて、10年近く前のことが思い出され、改めて思索してみました。
イエスはユダヤ教の新しいムーブメントとして形ばかりになっていたユダヤ教の改革をやり、人々の心を動かし、人々の悩みの解決をはかっていた。自分だけでは間に合わず、12人の使徒を任命し、彼らにも人々の悩み解決の権限を与えたばかりでした。
悩み解決とは、悩める人から悪霊を追い出すことです。
悪霊を追い出すとは、人々の抱えている悩みを解決することだと思います。病気やいざこざの解決ではないでしょうか。
イエスが人々の悩みを次々と解決するのを見て、パリサイ人(ユダヤ教の律法にがんじがらめになっている人たち)は嫉妬して悪口をいいます。仲間内でつぶやくだけなら、それでとどまったでしょうが、多分、人々にイエスに注意するように、敬遠するように指導したのではないでしょうか。
「イエスなど正規の神官ではない者など信用するな」といい、さらにあろうことか「イエスは悪霊の王ベルゼブルの力を借りているか、ベルゼブルに取り憑かれた人物である」などと言い広めたのです。イエスは黙ってはおれなくなりました。
ここに「ベルゼブル論争」が始まりました。
ユダヤ教の神官たちからすれば、どこぞの馬の骨のような男が悪霊を追い出し悩みを解決するのは信じがたいことだったので、魔法使いだとか幻術使いだとか思えたのでしょう。
江戸初期の島原の乱の指導者である天草四郎も幻術使いと揶揄されました。圧制者から見れば反体制の指導者はみな、困った存在ですから揶揄されてしまうようです。
パリサイ人たちは、イエスの力を、悪霊の王の力を借りたものだと世間に警告した。このことへのイエスの反論は、それほど驚くものではありません。
「一つの国の中で内紛があったとしよう。内紛のあるような国はすぐに滅びるものだ。
それと同じだ。悪霊の王(ベルゼブル)の力で悪霊を追い出していれば、すぐに悪霊の王の力は滅びてしまう。悪霊たちもそれくらいは分かっているから、そんなことはしない。」
この論でユダヤ神官たちを黙らせました。さらにパリサイ人たちを震え上がらせました。
「さらにいおう。悪霊を退治するには真っ先に悪霊のリーダーを縛り上げねばならない。」
イエスの聖なる働きを阻害する者こそ「悪霊のリーダー」に取り憑かれたものなのだと反転攻勢します。さらに宣言します。
「私の力は聖霊の力である。わたしが聖霊の力で人々の悩みを解決しているというのはどういうことか分かるか。神の国が身近にあるということだ。
神の国が来たときは、罪ある者は滅び、悔い改めるものは永遠の命を得られるのだ。」
イエスの完全勝利です。聖書のイエスの反論を私はこのように読めました。
民衆が悩みを解決して欲しいと願っているのに、水を差すような誹謗中傷するパリサイ人たちは、いつでもどこにでもいますが、イエスのような人はたしているものでしょうか。
悩みを抱えている人はワラをもすがりたくて、新しいムーブメントに近づこうとする、けれどもそれを警告し止める人がいる。詐欺に遭わないように気をつかってくれるのならうれしい。けれども、なにもしないどころか、押さえ込もうとする。自分のうちに閉じ込めておけとばかりに。実際、そういうことをしている人も多いかもしれません。恥をさらさないようにと。それも生き方の美学としてあるかもしれません。
悩みが公害によるものだったらどうでしょうか。政府に問題の解決を訴えようとすると、それはやめろ、という人がいる。地域のイメージが悪くなるというのです。
聖書でのベルゼブル論争は、簡単にイエスが勝利しましたが、実際の生活ではどうなるのでしょう。イエスもこの場では勝利しましたが、パリサイ人たちの嫉妬の念はますます燃え上がったのです。
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