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こもれび

悩み多き毎日。ストレス多き人生。でも、前向きに生きていきたい。だから、自然体で・・・

熊野古道 小辺路 踏破

2025年04月07日 | Weblog

高野山から果無峠を越えて熊野本宮大社への道。熊野古道、小辺路。70キロメートルを踏破した。江戸時代には多くの人々が熊野に詣で、蟻の熊野詣と称されたという。熊野古道には、紀伊路、伊勢路、大峯奥駈道、大辺路、中辺路、小辺路と6本の路があるが、大峯奥駈道と小辺路は修験者の歩いた道だそうだ。その小辺路は、高野山から熊野を直線的に結ぶ最短コースであるが、1000メートル級の峠や峯を5つも越えなければならない。その昔は、途中にいくつもの集落や宿場町があったが、今ではほとんどが集落跡として、山中に平坦な土地がわずかに残っているだけである。そのため、現在では一度山中に踏み入ると、宿泊できる村と村の距離が長いため、お手軽な他のコースに比べて、本来の古道がそのまま残っていて、当時の静けさが味わえるという。



初日は、高野山巡りをして、奥の院、金剛峯寺、壇上伽藍を訪れた。奥の院への道の両側には、気の遠くなるほどの数の供養塔や石碑が並び、つい数年前に建てられたものがあるかと思えば、何百年も前からそこに置かれたものやらがひしめき合っていた。苔むした供養塔などは、本当に歴史の流れを感じさせるものだった。浅野内匠頭、赤穂浪士、織田信長、上杉謙信、武田信玄、明智光秀、石田三成、等々、教科書で見るような人々の供養塔も見事な苔に包まれていた。この日は、根本大塔近くのゲストハウスに宿泊。



いよいよ、小辺路70キロ踏破の第1日目。高野山千手院橋バス停から出発。大滝口女人堂跡、薄峠、丁石、大滝集落、水ヶ峯、東屋、平辻を経て野迫川村のかわらび荘に宿泊。途中少し雨に降られたが、さほどの事もなく無事到着。近くのホテルの温泉で汗を流し、夕食はぼたん鍋であった。



2日目。昨日よりも厳しい道中ではあった。民宿を7時に出発し、大股バス停、桧峠、伯母子岳、上西家跡、水ヶ元茶屋跡、待平屋敷跡、伯母子峠登山口、三浦バス停に到着。この辺りは五百瀬と呼ばれ、かつて戦に敗れた落人の格好の隠れ家だったらしい。源平合戦の八島の戦で敗れた平維盛はここ五百瀬で姓を小松と改め生涯を全うしたと言われているそうな。小松家が代々住んでいた家は政所と呼ばれ、現在は民宿として旅人を受け入れている。私たちのパーティの数人が、この政所に宿泊し、私たちは農家山本さん宅にお世話になった。ここの食事は自然食で、とくに手作り柚餅子はとても美味だった。シイタケも蜂蜜も自家製。タラの芽の天ぷらも最高だった。



3日目。思っていたよりは楽なコースではあったが、最後の2時間ほどのアスファルト歩きは疲れた脚に優しくなかった。三浦バス停から出発。吉村家跡、三十丁の水、三浦峠。1000メートルほどの標高があるためか、ここ三浦峠には昨夜降った雪が一面に残っていて、とても寒かった。その後、古矢倉跡、出店跡、矢倉観音堂、西中バス停、川合神社と下る。ここまでは歩きやすい山道だったが、この後、延々と十津川温泉まではコンクリートの上を歩いた。「太陽の湯」の温泉では念入りに脚をマッサージした。



最終日。この日は熊野本宮大社にお参りした後、14:37のバスに乗らなければならない。メンバーの中に足の遅い人が1人いるため、大事をとって朝4時に出立。宿所をでてから山道に入ると、本当に真っ暗。果無集落にある世界遺産の石碑にも気づかず、暗い夜道を進む。観音堂で一休みして、一気に果無峠まで急坂を登る。途中で朝日を拝んだが、果無峠ではガスガス。その上、とても寒い。ここを越えればあとは下り。三十丁石、七色分岐を経て八木尾バス停へ。あとは、国道沿いに歩き、道の駅「奥熊野古道ほんぐう」を通り越し、三軒茶屋跡を過ぎ、見晴らし台へ。



ここからは大斎原の大鳥居が見えた。ここで小休止をしている時、隣に座っていた観光客と思しき女性にどこから来たのかを尋ねたら、オーストラリアからだという。一人旅で、日本は8度目だという大の日本ファン。世界で一番好きな道は京都の鞍馬山から貴船に降りる道だそうだ。季節を変え、もう、6度も訪れたという。私は一度行ったきりだ。楽しい会話を終えて、私たちは熊野本宮大社へと下山。大斎原の満開の桜に迎えられ、最後に食べたお汁粉がとても美味しかった。お腹も心も満たされた感じだった。



本宮大社で引いたおみくじは、なんと「大吉」だった。とても大きなご褒美をもらった気がした。70キロを歩いている途中では、いろいろ大変なこともあったが、こうして写真を見返して思い出すと、楽しい事だけが残っている。これでいいんだと思う。


思い出は 沖の白帆になおも似て 遠くなるほど美しい