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rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

椅子の話

2010-11-17 22:38:33 | 趣味たち
―椅子
木でできた椅子、鉄でできた椅子、石でできた椅子、陶器でできた椅子、籐でできた椅子。
木と布でできた椅子、鉄と布でできた椅子、籐と布でできた椅子。
ビニールやプラスティックでできた椅子。
さまざまな素材で、椅子は作られる。

一人掛け、二人掛け、数名座れる長椅子。
形状もいろいろある。

座り心地の良い椅子、悪い椅子。

公園の椅子、雨ざらしになり、枯葉が窪みにたまっている。
教会の椅子、木の表面が祈る人の手で磨かれ、人生の重さで磨り減っている。
学校の椅子、子供たちの成長を辛抱強く見守っている。
家庭の椅子、どんなときも家族に寄り添い、さりげなく居場所を提供している。
王の椅子、世界の矛盾を内包している。

椅子には、美と機能と物語がある。

椅子は、自分を魅了して止むことがない。

人は本当に悔い改めることができるのか?

2010-11-17 16:04:17 | 随想たち
裁判員制度が施行されて、そろそろ1年半になる。
ニュースでは、連日のようにその制度の下で開かれる裁判のことを伝えている。

法律のアマチュアが、法律・判例・さまざまな資料を基に、被告人の量刑を吟味していくわけだが、その心労は並々ならぬ負担があるだろう。
凶悪な犯罪を審判するにあたっては、凄惨な犯行の状況を知らなくてはならないし、極刑の可能性を含む審議もある。
いままでは、職業として覚悟を持った人たちが、その重荷を負担していた。

人を裁くのは、とても難しい。
物が良品か不良かの見分けとは違って、グレーゾーンがあまりにもあり過ぎるからだ。
時々ある捜査段階での不備の可能性や、客観的証拠がありのまま揃えられることも難しい。
しかも、人には感情がある。
被害者と被告人の中立的立場をとらなければ、裁きの天秤となれない。

乱暴に裁きを下すなら、確実に加害者と被害者が明白ならば、「目には目を、歯には歯を」ハンムラビ法典の同害賠償の法制度が、シンプルで分かりやすい。
それでも、はじめに被害を受けた側は、心情的に納得できないだろう。

そして、何より難しいのは、人は本当に悔い改めることができるのか?という問題がある。
『ない』ともいえるし、『ある』ともいえる。
どこまでも不確定な、人の心の行く末だ。
これがあるから、人を裁き罰する難しさがある。

被害者は、さらに複雑な心境だろう。
加害者に何かしら同情の余地を見出しても、被害を受けた恐怖の記憶を払拭できるものではないし、罪を許しきれることもないだろう。
ましてや、生命を奪われた場合、命は蘇らなく、遺族の苦悶も計り知れない。

全てを受け入れ、未来を見つめ、命あるものに可能性を見出し託す宗教的命題は、あまりにも厳しすぎる。

どうも自分は悲観的なのか、性善説を信奉できない。
どこに立脚点を置くかと問われるなら、性悪説に寄ってしまいそうだ。
世界は、性善説の基づいて動いているというのに…

スープ…寒いときは体を温め、弱った心を癒してくれる

2010-11-16 23:56:18 | 食べ物たち
自分と食べること関係では人格が変わってしまう家人は、大のスープ好き。
スープとは、液体を主体とした食べ物、味噌汁・ポタージュ・シチューなどを我が家でそういっている。
一日一回はスープを取らないと、その日の食事が完結しないくらい、とにかく好きだ。

家人は、中華スープが好物。
家人にとって特別なのは、“麗都”―リドという中華レストランの「海老団子スープ」。
白湯スープに海老のすり身団子と春雨、レタスなどが入っていて、滋味あふれる物だ。
確かにこれは、うまい。

自分は、トマトスープが好物。
トマトを毎日食べても飽きないくらい、トマト好き。
具材は、そのときにあるもので作るもいいが、できれば、セロリがあると最高だ。
玉ねぎ、にんにく、ニンジン、セロリ、トマト、あとは、キャベツ、ジャガイモ、大豆、気が向けば、パスタ系を投入。
コンソメと、スパイス・岩塩・オリーブオイルがあれば、特に面倒なことはない。
ミネストローネといってもいいな。

スープは、液体と一緒に口に入るから、食欲のないときも病気のときも食べやすい。
メインディッシュみたく重くないし、控えめなところがいい。
でも、滋養に富んでいるから、スープを主役に据えても何の遜色もない。
そんなスープ、体を温め、心が弱っているときは癒してくれる、とてもやさしい食べ物だと思う。

小さい人、まねをする

2010-11-16 16:48:17 | 随想たち
昨夜から、小さい人が向かいのパソコンでなにやら励んでいる。
お絵かきソフトのテキストツールを使って、何かを書き付けている。

>なにしているの?
≫コーヒーゼリーのこと書いてるの。
>もしかして、まねしてるのかな?
≫そうだよぉ

最近、せっせとパソコンでブログに勤しんでいる姿を見てか。
小さい人は、ローマ字を習ったばかりで、自分にもローマ字入力ができるからやってみようと思ったみたい。
なんともかわいらしい。

小さい人がこうしていることで、ただ一緒にいるだけで、助けられている部分は、意外に多いのかもしれない。
これが“つながり”ならば、大切にしていこう。
ささいなことが、人生を形作るセルなんだろうな。

料理する

2010-11-15 23:36:32 | 本たち
先日、「きのう何食べた?」-よしながふみ著の紹介を、“王様のブランチ”でちらりと見た。

スーパーで食材を買い求めるシーンで、あるものを前にして主人公がつぶやく。
>俺は、底値を知っている、だから、これでは買わない!(こんな意味だった)

また、自宅の冷蔵庫を前にして、愕然としている情景。
>しまった、セロリを無駄にしてしまった!

おっと、自分と同じようなリアクションだ、デジャヴみたいだ。
同じく隣で見ていた家人と顔を見合わせ、思わずニヤリとした。
禁煙解除した家人も同類だ。

以前、若き日に二人とも極貧にあえぎ、そんな習慣が身に染み付いてしまったからだ。
…極貧は、極貧からは、いまだ抜け出せず、そのまま第三の伴侶に納まりそうな気配。

料理する、毎日手をかけて料理をするのは、意外と大変だ。
しかも、コストを抑えて、舌と心を満足させ、健康に気を使うの四拍子を揃えるとなるとなおさら難易度が高い。

でも、料理をするって、とても大切なことだ。
大袈裟かもしれないが、よりよく生きるには、よりよく食べる必要があると思う。
飽食ではない。
他の生命を取り込んで己が命を繫ぐことだし、携わった人すべてに感謝するには、自ら料理をして頂くのが基本だろう。

さあ、食べ物と食べることを愛しもう。
そして料理を作ろう。