夢の中で馬券を買っている事が1度だけあって、「8レース 1-2」とあまりにハッキリ憶えていたので起きてから馬券を買ったら、40.5倍だった事がある。
「うわっ、そんな馬券、買ってやがる! 信じられねえ!」と言われたので、ニコニコしながら答えた。
「夢で見たんですよ!」>(・∀・)ノシ
いつも、疑問を抱いて生活しているので、夢の中で答えを得る事は大変ありがたい。
与えられた情報から右脳と左脳が導き出したものなのだと思うが、起きた瞬間忘れてしまう事が多いので、憶えているうちに何かに書くようにしている。
「百力怪力パンダのドドンパ大作戦」
で、今日見た夢に出て来たのがコレ!
何かの4択問題で選択してたものだけど・・・
問題は何だろう?>(;・∀・)ノ
主演デビッド・キャラダインの映画「燃えよ!カンフー」で、テキサスの荒野を旅する主人公「クワイ・チャン・ケイン」が様々な事件に遭遇する。 で、少林寺の回想シーンが登場し、事件解決のヒントとなって行く。
特に禅問答がよく出来ている。
「今日新しく入った弟子だな。側に来なさい。」
「眼が見えないのですね。」
「何も見えないと思うのか。」
「眼が見えないのは暗闇の世界にいるのと同じです。」
「わしの世界は暗闇ではないぞ。その箒でわしを殴ってみろ。いう通りにするんだ。殴れ。」
「はははは。眼が見えないからといって、何も見えないと思うのは大間違いだぞ。眼を瞑ってごらん。何が聞こえる?」
「水の音がします。小鳥の声も!」
「自分の心臓の音は聞こえるか。」
「いいえ。」
「では、お前の足下にいるコオロギの声はきこえるか。」
「ポー先生。先生にはどうしてそれが聞こえるのですか?」
「お前には、どうしてそれが聞こえんのかな?」
で「コオロギ」と呼ばれるようになる。
「ここを去るときがきたな。 かしこい人間は常に慎ましく、頭を下げて歩くものだ。その事を忘れぬがよいそ。」
「お世話になりました。ポー先生。」
「何が聞こえる?」
「コオロギの声です。」
何かを探求するということは、答えを知るためにではなく、疑問自体を理解するためにある。
「歩く時は 軽く確実に 常に薄紙を踏むつもりで足を運ぶ。」
「修行をつみ、少林寺の教えを身に付けた者は、捜しても目には見えない、聞いても耳には聞こえない、さわっても指に感じない、しかしたやすいことではないぞ。」
「薄紙はクモの糸のごとくもろく、真綿のように足にまといつく、なんの跡ものこさず、この上を歩けたら、ここを去るときだ。」
子供の頃に感銘を受けたシーンだったので、何の疑問も持たず心の引出しに閉まっていた「疑問」の1つだったが、気が付いたら出来るようになっていた。 少林寺修行僧によるミュージカル「SHAORIN」を観に行った時も、紙を破らず歩ける者と、そうでない者が判った。
全ての教育というものは、雁字搦(がんじがら)めの枠の中で繰り返す「禅問答」のようなもので、動けない状態で動く事にこそ意味がある。
教育関係者自体が間違った「自由」を叫ぶ今日に明日は来るのだろうか?
『燃えよ!カンフー』
http://www.super-ch.com/program/content.php?date=20040410&time=080000
「うわっ、そんな馬券、買ってやがる! 信じられねえ!」と言われたので、ニコニコしながら答えた。
「夢で見たんですよ!」>(・∀・)ノシ
いつも、疑問を抱いて生活しているので、夢の中で答えを得る事は大変ありがたい。
与えられた情報から右脳と左脳が導き出したものなのだと思うが、起きた瞬間忘れてしまう事が多いので、憶えているうちに何かに書くようにしている。
「百力怪力パンダのドドンパ大作戦」
で、今日見た夢に出て来たのがコレ!
何かの4択問題で選択してたものだけど・・・
問題は何だろう?>(;・∀・)ノ
主演デビッド・キャラダインの映画「燃えよ!カンフー」で、テキサスの荒野を旅する主人公「クワイ・チャン・ケイン」が様々な事件に遭遇する。 で、少林寺の回想シーンが登場し、事件解決のヒントとなって行く。
特に禅問答がよく出来ている。
「今日新しく入った弟子だな。側に来なさい。」
「眼が見えないのですね。」
「何も見えないと思うのか。」
「眼が見えないのは暗闇の世界にいるのと同じです。」
「わしの世界は暗闇ではないぞ。その箒でわしを殴ってみろ。いう通りにするんだ。殴れ。」
「はははは。眼が見えないからといって、何も見えないと思うのは大間違いだぞ。眼を瞑ってごらん。何が聞こえる?」
「水の音がします。小鳥の声も!」
「自分の心臓の音は聞こえるか。」
「いいえ。」
「では、お前の足下にいるコオロギの声はきこえるか。」
「ポー先生。先生にはどうしてそれが聞こえるのですか?」
「お前には、どうしてそれが聞こえんのかな?」
で「コオロギ」と呼ばれるようになる。
「ここを去るときがきたな。 かしこい人間は常に慎ましく、頭を下げて歩くものだ。その事を忘れぬがよいそ。」
「お世話になりました。ポー先生。」
「何が聞こえる?」
「コオロギの声です。」
何かを探求するということは、答えを知るためにではなく、疑問自体を理解するためにある。
「歩く時は 軽く確実に 常に薄紙を踏むつもりで足を運ぶ。」
「修行をつみ、少林寺の教えを身に付けた者は、捜しても目には見えない、聞いても耳には聞こえない、さわっても指に感じない、しかしたやすいことではないぞ。」
「薄紙はクモの糸のごとくもろく、真綿のように足にまといつく、なんの跡ものこさず、この上を歩けたら、ここを去るときだ。」
子供の頃に感銘を受けたシーンだったので、何の疑問も持たず心の引出しに閉まっていた「疑問」の1つだったが、気が付いたら出来るようになっていた。 少林寺修行僧によるミュージカル「SHAORIN」を観に行った時も、紙を破らず歩ける者と、そうでない者が判った。
全ての教育というものは、雁字搦(がんじがら)めの枠の中で繰り返す「禅問答」のようなもので、動けない状態で動く事にこそ意味がある。
教育関係者自体が間違った「自由」を叫ぶ今日に明日は来るのだろうか?
『燃えよ!カンフー』
http://www.super-ch.com/program/content.php?date=20040410&time=080000