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創作について、最近考える事。

2013-04-05 01:20:26 | SS・小説
いやあ、今日は構成とか特にしっかり考えていないのですが。(^-^;)


 って書きますと、なんだかいかにも私が普段、しっかり構成を練って記事を書いているかのごとく響きますが、まー大体
「これと、あれと、それは言いたい。それぞれ発展させて、順番はこうして、あの画像貼りたいからあんな感じにして、オチ(締め)はこれで」
ぐらいは、多少考えるぐらいですんでね、そんなにガッチガチのことは今までもしていないです。

 気楽~に読んで頂こうと思えば、こちらも気楽~に書くべきかなって。ま、言い訳なんですけどね!(;^-^)


 で、今日は特に、今の時点でオチ(締め)とか考えていないのですが、普段いろいろ、最近もやもやと考えていることを、適当に呟いていこうと思います。

 創作する人って、結構みんないろんなことに悩んだりしますからね。私は今、こんな感じですよって、本当にただの呟きでございます。






 まず、よく言いますのが
「書きたいものを書くのか、読者が読みたいものを書くのか」
って問題ですね。これはこのブログでも何度か触れた葛藤です。

 プロですとね、売れなければならない、本を手に取ってもらわなければならないって前提になりますよね。
 自分が食っていけるかどうかというより、出版社に収入を発生させられるか、って思考になると思います。

 私はあまり、そちら関係に詳しくないんですけれども、確か、北村薫の小説で
「出版社は、時に赤字覚悟で本を出すことがある。だから、その分を他の本で賄えなければならないのだ」
というお話が出てきたことがあります。覆面作家シリーズだったかなー、円紫さんと私シリーズだったかなー、それとも、ただの対談でしたか、とにかく出てきたんですよね。赤字覚悟というのは、専門的な書物だったり、なにか社是を示すような企画だったりしたと思います。そのあたり、お詳しい方には「ああ、あーゆうのね」とすぐピンと来られるかもしれません。『出せば赤字確定』、それでも出さないという選択肢は無い、というスタンスなのだそうで。

 昨今ね、業界も大変なようでして、出版社も書店も苦しいのだそうです。そうなると、プロの作家さんは必ず利益を業界にもたらさなくてはならない。売れなければならない、と。


 こんな事情ですとね、『書きたいものを書きたい』なんて、言ってられないんだろうなぁって。『売れる・買ってもらえるものを書かなければならない』ってことでね。

 じゃ、これを『創作』という視点でなく、『商業』という視点で考えるとどうなるか。
 読者が『何を読みたいのか』を考えますよね。

 日本国内で売るわけですから、現代日本人が何を欲しているか。何に憧れるのか。何に悩んでいて、解決させたいのか。


 ま、不況なわけですから、そこで「ハッピーエンドを読みたいんだろうな」「ほっこりしたいんだろうな」「敵を倒してスカッとする主人公に自己投影したいんだろうな」といったあたりが出てきますかね。実際、テレビのドラマなんか、こんな感じだったりしませんか? あの業界も視聴率の動向にピリピリしますんでね、放送作家さんは常に国民が求めているものを追ってみえるのではないでしょうか。

 ただ『ハッピーエンド』というだけなら、昔からあることですよね。音楽の世界でもあります。
 ヨーロッパやロシアで書かれたオペラなど、アメリカで上演する時には『ハッピーエンド』にシナリオを書き換えるのが常識だった時代があります。国民性の問題で、アメリカンドリームと申しますか、とにかく成功に向かって邁進し、勝利を勝ち取るのを是とするお国柄ですから、そうしないとお客さんが来てくれないのでしょう。


 そんな感じでですね、商業として創作をするとなりますと、求められる物しか書けないのかもしれないなって。それが、作者自身の価値観と違っても、それを曲げざるをえないのかもしれないなぁ、と。

 例えば、就職難ですとか、リストラ問題を考えれば、『自分を否定されることに悩んでいるのかもしれない』わけで、主人公が他から認められる物語にするとか。

 また、アニメなどでは昔のように『男の子が女の子を守ってハッピー』が王道ではなくなってきて、下手をしますと『女の子が戦って、男の子(主人公)は守ってもらえる』なんてのが売れたりしますので、そういうシナリオにするとか。
 
 『ゆとり教育』を考えるならば、昔のように競争社会で勝ち抜くという価値観は『良くない』と叩き込まれた世代も今では購買層で大きなシェアを占めるようになり、作品でそういった競争を排除して、あくまでも個人の成長というシナリオにするとか。


 こんな感じでですね、プロは違うものが書きたくても、売るためには『書きたくないもの』を書かされるのかなぁと、たまに思うわけです。
 それに比べれば、我々素人の創作者は『書きたいものを書くことが許される』わけです。実際、『ハッピーエンド』『ほっこり(癒し系)』は閲覧数やブックマーク数が伸びやすい傾向はありますが、それでも『書きたいものを書くことが許される』。しかし、すんごいシナリオ、すんごい文章力、すんごい発想の作品でも、悲劇はどうしても伸びにくかったりしますし、もう一度読むかと言えば、やはり『ハッピーエンド』『ほっこり』が再度クリックされるのでしょう。現実でうまくいかないから創作物でぐらい良い思いをしたい、というのも当然の流れなのでしょうねぇ。



 で、まぁ、私の先日のシリーズ(ドロッドロの悲劇がハッピーエンドに向かったと思わせて最後に結局バッドエンド)もですね、アンケート機能で感想を募ってみますと、やはり
「ハッピーエンドにして欲しかった」
という意見を少なからず頂きました。やっぱ、そうだよなぁ……という気も致しますが、アレは思いのほか伸びまして、いろいろと欠点や、私の力量不足はバレているでしょうけど、それでもよくお読み頂けまして恐縮しきりです。やっと前半終了(この時点でバッドエンド)というところで止まっています。半ば意識的に止めているのもありますが、この後、また展開が変わっていくのを早く書きたくもありますが………………そういったドロドロが良い、という層もまた、一定シェア存在するようです。

 私のようにバッドエンドの多い作者は、そういった層が少ないのを承知しつつも書きたいものを書く。それはそれで、素人だからこその楽しみなのだろうなぁ、と思いますね。中には
「読者からの支持が大きいほど偉いのだ」
といった価値観を主張される方も多くいらっしゃいます。支持を広げるために需要を意識して書く、また、それに足る実力をお持ちなのは評価に値しますが、しかし、需要からちょいと外れていて支持が狭かったとしても、やはり好きな人は好きなわけで、私はそういった方に「そのまま好きに書いて欲しいなぁ」と思いますし、自分も好きに書いてやるんだーってスタンスですね。件のシリーズは、最終的にそんな悪い方向へ行かない予定ですが^^;



 うん。終着点を定めてないのもありますが、今日は特に文章に纏まりが無い。

 さっきからずっと横から話しかけられていると集中力が切れがち。きぃーーーーっ!!


 ま、置いときまして(・・)



 素人の創作って、本当に一人称小説が多いんですよね。主人公視点、つまり
『私がそのドアを開けると、思いもかけない人物が立っていた。ここに来るのは秘密だったので、顔を見るのが怖くなり、つい、目を逸らしてしまう』
みたいな、主人公が決まっていて、主人公から見える事柄しか書かれていなくて、主人公の感想や感情が明示される小説ですね。これが多いということは、書く人も主人公に自分を重ねる傾向が強いのかもしれません。また、それがウケるということは、読者も自己投影したいのだろうなぁと思います。

 でも私は、どちらかと言えば三人称小説を書く方が、性に合っているように思います。つまり
『プロデューサーが待つこと二時間。ドアを開けて入ってきたのは、自宅でおとなしくしているはずの春香だった。「あっ」と口を押さえて目を背ける彼女に、彼はしばらく言葉が出てこないようである』
のように、どちらかと言えば読者は傍観する立場になる書き方ですね。感情は想像に委ねられますし、書く側はなるべく読者に悟ってもらえるよう頭を捻る。

 書こうとする作品が、どちらに向いているのか、どちらが不便(不足)なのかをよく考えてから決めているつもりです。先日のシリーズでは珍しく一人称を採りましたが、それは必要性を考慮してそうしたわけです。


 ところが、まぁ、おそらく読者と同じ感覚・感性を持っていれば、最初から迷うことなく一人称で書き始めていただろうなぁ、と思うわけなんですよね。その時点で、私が作品を出している界隈から、私の価値観・考え方が『外れている』んだろうなぁ、と。一般的・常識的じゃない、と申しますかね。

 で、それじゃどうするのって話になりますと、やっぱりさっきの「書きたいように書く!」って話に戻りますんでね、素人なんですから、好きなように試行錯誤を重ねればいいのかなと。なにせ、許されているわけですから。またね、そこで読者からイイと思って頂ける作品が書けるようになれば、もしかしたら他の方も三人称で書き始めるのかもしれない。

 ま、現時点で滅多に他の方で三人称って見ないわけなんですけれどもね!(;^-^)なんでかなー





 そして、ここで話がガラッと変わりますけれども。(・・)


 文章による創作、ちょっと分解して考えてみたんですよね。

 このブログでチラッと触れた気もしますけれどもね、ただ「良い話だった」「文章が良かった」ってだけじゃなくて、いろんな方が作品を書き上げるまでの過程と申しますか。


 最初に湧き上がる『発想力』があって、それを一貫性のあるものにする『テーマ(主題)』があって、それを纏める基礎的な『文章力』があって、読者に様々なことを感じ取らせる『表現力(技術)』があって、それをより効果的に演出する『構成力(プロット)』があって、最終的に不自然さを排除して説得力・納得力を削がせない『推敲力』がなければ、良い作品は出来ないんだろうなと。


 どれも私はまだまだなんですが、試行錯誤を重ねながらも、鍛えるのが最も困難なのが最初の『発想力』なのかな、と最近思うんですよ。
 どれだけ技術が向上しても、卒の無い文章が書けるようになっても、発想自体が読者にインパクトを与えるものでなければ、『ただ纏まっているだけの文章』になってしまうのかなと。自分は、このまま行けばそっちに向かってしまいそうな怖さがあるんですよね。まだ全然纏まっていませんけれど(;^-^)


 その点、先日のシリーズはカリスマとも言える動画作者の作品を着想元としたため、最初の『発想力』の時点で凄いわけですよ。私はただ、そのインパクトに引っ張られるまま筆を運べば良かったわけで、あのシリーズは本当に『私の作品』という感じがほとんどしません。一番の元である原作作者の虚淵玄さん、そして二次創作として動画を投稿なさったカリスマ動画師TeShさん、御両名のとんでもない発想力が私の筆を動かされたんだと。私はただの語り部(うーん、違うか?^^;)だったのだと。それならば、より良い語り部でありたい。そんな気持ちで書いていたシリーズでした。なので、一旦の区切りである【最終話】(実は通過点でしかないが)のラストに、どうしても御両名のお名前を入れたかったのです。


 いや、TeShさんに叱られなかったのが奇跡と申しますか、寛容な方で良かったです(^-^;)

 虚淵さんを唸らせてやるぅと言いながら、実際に虚淵さんに読まれたら死ねる気がしますね(;^-^)



 そんなわけでですね、やはり、最初の『発想力』というものが如何に大事であるか、痛いほど思い知らされたシリーズとなりました。

 これ、なんとか鍛えられないものでしょうかねぇ?




 『才能』の一言では片付けたくないのですが。









 やっぱ、片付いちゃったりするもんなんですかね?(;・・)





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