相洲遁世隠居老人

近事茫々。

松本清張『両像・森鷗外』

2022-08-20 10:16:54 | 日記
松本清張『両像・森鷗外』を讀む。
私のメモに 「1995・5・24 読了。 難解。」とある。





冒頭の書き出しが 清張自身が 東京から米原停車の新幹線で 鷗外の祖父、石洲津和野醫官・森白仙の墓所跡を、辺鄙な山中にある 滋賀縣甲賀郡土山に訪ねる處から始まる。

何故 白仙の墓所が そんな辺鄙な甲賀の山中にあったのか?
その經緯を清張は 詳細に記してゐる。  それによると、典醫として 白仙は 藩主・亀井隠岐守(おきノかみ)茲監(これみ)に從って參勤交代で下向するべき處、病を得て江戸に殘り 小康を得たところで後を追って石洲津和野に向かう途次 文久元年十一月七日 この地で 脚氣衝心を發し 俄に歿した。  そして、遺骸は この地の臨濟宗常明寺に葬ったもの。
鷗外自身は文久二年の生まれであるから 勿論 祖父の顔を知らない。

鷗外は 明治三十二年六月 近衛師團軍醫部長から 小倉の第十二師團軍醫部長に左遷され 傷心の中 翌明治三十三年二月、陸軍師團軍醫部長會議に上京の途次 ここに展墓してゐる。



その時の展墓の動機について 清張は 清張なりに恠(あや)しみ その時の鴎外の行動を詳細に調べ上げて記してゐる。

明治三十九年に白仙夫人・清(せい)、大正五年に一女峰子、即ち 鴎外の生母も ここに葬られてゐた。   しかし 鷗外は納骨の時孰れも軍務多忙で、自身が船と、汽車と、人力車を乘り継いで ここ土山を訪ねたのは生涯 この明治三十三年の時だけである。  そして、三人の墓所は 戰後 長男於菟の口添へで、津和野の森家菩提寺に移されたと。


偖て、編集者によると、本稿は もともと1985(昭和六十)年 文藝春秋五月號から十二月號に聯載された『二醫官傳』に加筆・訂正・改題されたものであるが、筆者の意向で 加筆の部分が 結局 未完の儘 筆者が逝ってしまった爲、謂はば 絶作とも謂うべき作品である。
昭和六十年と謂へば 我が國語破壊の元兇・金田一京助歿して15年、既に日本語は出版物において完全に斃死した頃であるが、松本清張は 獨特の文字遣い、筆遣いで頑張ってゐる。  一例を擧げよう;

「雨は歇(や)(止)まず」、「高速道路の上を敲(たた)(叩)いている。」、「恠(あや)(怪)しみ」、「陸軍を罷(や)(辭)めようと」、「會議が畢(終)はり」、「舎(と)(泊)まった」、「進歩を礙(さまた)(妨、碍)げる」、「苦境を愬(うつた)(訴)える」、「一條の昏(くら)(暗)い山道」等、「歇」「恠」「礙」「愬」は 孰れも 第二水準漢字であり、それ以外は 第一水準漢字であるが 通常は このような遣ひ方はしない。

また、嫁に充てるに「」を遣ってゐるが、元々 康熙文字には「娵」と謂う字は無く「娶」を基に日本で創られた和字・國字である。
康熙文字としては「媳」(xi)があり日本語で謂う 嫁を意味する。  「娶」(qû)は動詞として遣はれ名詞は無い。 日本では「娶」と「娵」は第二水準漢字、「媳」は第四水準漢字として登録されてゐるから面白い。

「展墓」と謂ふ言葉も現代では「墓參」が普通であらう。

昭和六十年でも 斯かる文字は一般には通常 使はれてをらず どんな意圖あって 世間一般に通用しない「娵」なんて國字を態態遣ったのであらうか? 
松本清張獨特の擬古文趣味の文字遣いであるが、これこそが清張の鷗外への憧憬の原點である。  後述、行人や淳が背伸びしても手の届かない處である。 

鷗外の原文引用部分は 原文に忠實に;

「東京に徃(行)かんとす。」、「倉知藥劑官と偕(共)に」、「滊(汽)車」、「徳山に抵(到)る」、「擅(ほしいまま)」(恣)、「預(豫)測する」、「前後通纂(算)して」とか、抵、預(孰れも第一水準) 纂(第三水準)と偕に 康熙文字がふんだんに遣はれてゐる。

「來る」「來客」等は 鷗外原文引用部分では 第二水準漢字が遣はれてゐるが、自身の文章には 律儀にも第一水準漢字の「来」を遣ひ分けされてゐる。
しかし、流石に「鷗外」の「鷗」(第三水準・環境依存文字)は 鷗外に敬意を拂って 自身の文章にも「鴎外」とせず『鷗外』が遣はれてゐる。
このへんは 岩波・廣辭苑『自序』(第一版)に於ける新村 出同様、松本清張の強烈な金田一京助への當て付けであらうか? 美事なものである。

それより以前、鷗外と清張の結び付き、接點がよく判らない。
敢へて詮索するなら「小倉」であるが、これだけでは少し無理がありそうだ。
まあ、文豪・鷗外に對する文士・清張の憬れ、憧憬だとしてをこう。

そして、第2章では 小倉への左遷の理由詮索が始まる。
 男爵・海軍中將赤松則良の娘 登志子との離婚が影響したのではないかと詮索するが、離婚除籍は長男於菟出産直後の明治二十三年の事であり、その後も 森林太郎は 陸軍一等軍醫正、陸軍軍醫學校長、陸軍軍醫監、近衛師團軍醫部長と順調に出世コウスを辿ってをり 離婚が左遷の原因だとは考へられない。
慥かに舅・赤松則良を憤激させ 伯父にあたる媒酌の元老院審議官西周には勘當・絶縁されるが 十年も前の出來事が左遷の原因だとは考へにくい。

結局 離婚の原因は 播磨守護の名族、赤松則村入道圓心を家祖とする男爵・赤松家との家風の違いであり、小倉左遷の原因は 醫學部の同級生であり 上司に當たる陸軍省醫務局長小池正直との不仲と 石黒忠悳軍醫総監だと結論付けてゐる。

偖て、ここまでで 7章を費やし、第8章、第9章で澀江抽齋と その師・伊澤蘭軒の取材ノオトになる。
『福山には○時○○分に着いた。』、『○○時○分、列車は小郡驛に着いた。』 これは 清張得意の章の書き出しである。 そして、岩波・鷗外全集の関係部分を持って回る。

この旅、最後は山口からタクシヰで石洲津和野へ向かい 冒頭に記した甲賀・土山から移された白仙・静・峰子の墓と共に 鷗外の墓に詣でたところで終はる。

清張は 第10章に至って 鷗外・漱石論を開陳してゐる。
 俗物評論家の「想像力の欠如」なぞという評價は 難解な漢籍を解さぬ薄學の愚論で 鷗外の文章には 漢字そのものに思想と想像力が宿ってゐる。 それこそが象形文字の眞髄であり、 Hieroglyph の眞價である。

東京大學經濟學部出身の柄谷善男に至っては 筆名を「行人」(こうじんkojin)とするくらいの漱石への入れ込み様だから論外として、
吉本隆明コト逸見明、江藤 淳(本名 江頭(えがしら)淳夫)、磯田光一は孰れも東京工業大學絡みの仲間。

    澀江抽齋や伊澤蘭軒、はては北條霞亭の様な難解・難讀な作品を讀みこなす漢籍の素養絶無の 學殖淺き世俗の評論家には、朝日新聞専属の「小説家・夏目漱石」は書けても 「文豪・森鷗外」は書く能力がないのである。

 鷗外の「青年」と 漱石の「三四郎」を比較するに於ひて 全體を論ずるが斯きは、「枝葉」を以て「末節」を論ずるに 似たり。

 流石 松本清張は 鷗外と漱石の素地全貌と背景の違ひを 熟知してゐるので、敢へて對比せず、「鷗外論」を永井荷風 に語らせてゐる。 寔に賢明である。

明治四十三年七月 鷗外自身の筆で『夏目漱石論』が物されてゐる。
  僅か原稿用紙二枚に滿たぬ小論であるが、其の第十章に「その長所と短所」があり、ここに漱石に對する鷗外の好意的な所見が盡くされてゐる。




第11章で、若し鷗外が 小倉への左遷を機に 官を辭して文筆に専念したらどうなってゐたであらうかとの 清張なりの「 if 」論を展開してゐる。

しかし、私人であり 朝日新聞専属の新聞小説家・夏目漱石と違い、鷗外の本職は帝國陸軍軍醫・森林太郎であり、本人には 官を極めるまで 私人になる意志はなかった。
そして、やがて 第一師團軍醫部長、陸軍軍醫総監と「官」を極める。
其の裏に 鷗外の山縣有朋への接近があったのではないかとの 清張は意地惡な見方を開陳してゐる。

 帝國陸軍の大御所 公爵・陸軍元帥・山縣有朋への接近が事實とすれば それは親友・賀古鶴所の推挽によるものであらう。
事實、清張は 鷗外が 椿山荘や 古稀庵への出入りを避けなかったばかりか、積極的に山縣の爲の歌會・常磐會を興してゐると。
更には 津和野藩主・伯爵亀井茲常の式部官就任を山縣に懇願したりしてゐる。

明治四十三(1910)年に 幸徳秋水による大逆事件が起こるや、西歐の過激思想に疎い 山縣有朋に對し 獨逸仕込みの左翼思想について進講。
 唐木順三による武力クウデタア紛いの陰謀説が披露されてゐる。  しかし これは 二・二六事件に洗腦された清張の妄想でらう。 歌會・常磐會が共同謀議の塲で、この塲合、差し詰め 山縣有朋が眞崎甚三郎、森林太郎が北一輝と謂う構成であらうが、これは現實あり得まい。

森潤三郎説を引用して 鷗外の文藝著作活動期を;

(1) 文壇活躍時代(明治22年 ~ 明治29年)
(2) 沈黙時代(明治32年 小倉轉任時代)
(3) 文壇再活動時代(明治35年 東京へ歸任、日露戰爭出征を經て)
(4) 歴史小説の制作(明治45年 ~ 大正3年)
(5) 考證學者傳記の研究(大正4年 ~)
としてゐる。

明治四十五(大正元)年七月、明治天皇崩御。
大喪の禮の翌日 乃木希典陸軍大將夫妻の殉死を知るや、『興津彌五右衛門ノ遺書』を 一晩で書き上げる。

乃木希典との仲は明治十七年、陸軍少將と陸軍一等軍醫として伯林に始まる 古く永いものである。
これを切っ掛けに「阿部一族」、「佐橋甚五郎」、「大塩平八郎」、等々 14編の歴史小説を書いてゐる。  夫々 評價は區區(まちまち)であるが。

その間、明治四十(1907)年 陸軍軍醫の最高位である 陸軍軍醫総監に昇進して
陸軍省醫務局長に補せらる。  官位を極めたわけである。

大正四(1915)年十一月 醫務局長の任にあること8年半、大島健一陸軍次官に辭意を表明。
大正五年一月 東京日日ならびに大阪毎日に「澀江抽齋」の連載が始まる。
大正五年四月 豫備役編入。

大正五年六月 長編「伊澤蘭軒」の連載が始まる。
大正六年十月 「北條霞亭」の連載が始まる。

しかし、この 史傳三部作は 剰りにも難解で 新聞の一般大衆讀者には受け入れがたく 不評の爲、東京日日新聞社は 第三作「北條霞亭」の連載を 獨断で中止してしまう。

これこそが 文豪・森鷗外の眞骨頂であり、讀者に絶賛を博する朝日新聞専属作家 夏目漱石との違いである。

陸軍軍醫総監に昇進して三年目の明治四十三年三月から始めて翌年八月まで 延々一年半 雑誌「昴(すばる)」に連載した長編小説「青年」なぞは 後世 評論家から漱石の「三四郎」と對比されて 散々な評價であるが、文豪鷗外の眞髄は 自ら開拓した「史傳」にあり。
是ばかりは 後世 誰にも超される事はなかった。


この後も 松本清張の筆は 澀江抽齋、伊澤蘭軒、北條霞亭論が延々と續く。
尚、鎌倉時代にまで遡る 澀江家は 本筋は「澁江」で「澀江」家は その分かれだとある。

『両像・森鷗外』  松本清張  文藝春秋社 一九九四年十一月二十日 初版第一刷

2022/08/19 初稿
追  記;



一時期 江藤淳に凝ったものである。 斷捨離の殘滓が 書棚に今でも眠ってゐる。
今回改めて江藤淳の經歴を調べてみて、夫婦の近隣での評判を含めて 矢張り一般人ではない人柄が浮かび上がる。  英文科出身では 漢籍の素養は押して知るべし。
漱石を書くに最適任であらう。 2022/08/20

あれから 37 年、1985 年も暑い夏だった

2022-08-12 18:57:13 | 日記
『日航123便 墜落の新事實』 目撃證言から眞相に迫る
  元日本航空客室乘務員 青山透子 河出書房新社 
  2017年7月30日 初版發行 10月13日 12刷 定價1,600圓 税別




著者は 1982(昭57)年入社の 『向こう横丁の四〇〇期』(465 期セミ同期生)。

初乘務が 同年 12月23日、同じ 羽田發大坂行き123便であり、しかも 機材が事故機と 1 番違いの JA8118號機B747-SRで、犠牲となった12人の客室乘務員のうち 6 人までが 手取り足取り 直接 教へを受けた先輩スチュアーデスであり、事件を書くには 最も相應しい立塲の人である。

就中、343期、神戸出身でL-5擔當の對馬祐三子ASとは 事故機であるJA8119號機にも 一緒に乘務した事もあり、想い出は盡きないようで、その惟が 愛惜を込めて綴られてゐる。

520人の 亡くなられた方々へ捧げる鎭魂の書であると同時に、運輸省事故調査報告書に 納得せず 多大な疑問を呈する「告發ノ書」でもある。

筆者が教唆する陰謀説のkey words は;


1. 海上自衛隊・護衛艦まつゆき搭載 艦對空missile Sea Spallow

2. 二機の航空自衛隊・Phantom 戰闘機搭載missile

3. 證據隠滅手段としてのM-2 改良型火炎放射器

で あらう。


昭和六十(1985)年八月、忘れもしない、Chicago駐在五年目の夏期休暇、

米國生まれで一歳半の長男を背中に背負って、小學生の娘二人攣れの一家五人で Boston から NewYork 洲 West Point 陸軍士官學校、Maryland 洲 Annapolis 海軍兵學校、世界最大の軍港 Virginia 洲 Norfolk を廻る一週間の旅 第三日目、潜水艦基地のある Connecticut 洲NewLondon から高速95號線で Yale大學のある街、NewHaven のホテルの部屋に着いたのが、;

東部標準夏時間8月12日(月)5:00pm頃、即ち 日本時間13日(火)6:00am。

事故發生から 12 時間を経過した時刻で、TVは 「日航ジャンボ機墜落」 の映像を 放映してゐた。


その後の情報は 三日遅れの新聞と週刊誌のみだが、(そう謂へば 當時 新聞・雜誌は OCS, overseas courier services で 航空便で送られてきてゐた。)

川上慶子ちゃんがヘリコプターで救出されるあの衝撃的映像と共に、記憶の中に遺ってゐるkey words は;


  ・・・ decompression ・・・

・・・ uncontrolable ・・・

そして Dutch roll の三つである。


「尻餅事故による 壓力隔壁損傷の修理ミス・・」と謂う 事故調の結論を 三十三年來すっかり信じ込んでゐた僕にとって、陰謀説、事件説は 俄には信じ難い事である。


著者には 前著のある事を知り 早速 圖書館で借りて一讀。

「天空の星たちへー日航123便 あの日の記憶」

マガジンランド2010年5月10日

河出本で 實名で記されてゐる客室乘務員の名前が 前著では なぜだか 全部 假名になってゐる。

天空本       河出本 (本 名)


村木 千代30  木原幸代198期 UpperDeck

冨士野美香28  藤田 香316期  R-1

波川  淳39  波多野純 21期   L-1

大泉 征子24  大野聖子505期  R-2

吉山 正子27  吉田雅代344期  L-2

白鳥ゆかり25  白拍子由美子451期  R-3

黒岩利代子31  赤田眞理子243期  L-3

二之宮良子30  宮道 令子320期  R-4

旗本 恭子24  波多野京子515期 R-4

江川 三枝28  海老名光代388期  L-4

大林 幹子26  大野美紀子465期  R-5

前山由梨子29  對馬祐三子343期  L-5

同書も 陰謀説に直接 結びつく確證 ないしは 説得力ある決め手はみあたらないが、事故直後からの 膨大な新聞・雜誌記事を 克明にに精査して、中曽根官邸の對應に疑問を呈し、所謂、状況證據を積み上げて陰謀説に導いてゐる。

中でも 私が注目したのは、第二次中間報告が出されて三週間後に 事故調委員長が辭任してゐる事である。


1985/08/27  事故調査委員会 第一次中間報告書

1985/09/14  第二次中間報告書

1985/10/09  八田桂三東大名譽教授 委員長辭任

理由は縁者に日航關係者がいた。  後任 武田峻 航空宇宙技術研究所長

八田桂三氏は 熱力學・蒸氣機關の専門家で その適否はさておき、辭任理由の「日航關係者」云々は 最初から判ってゐた事であり、すんなりとは納得し難い。


そこで 直ぐにも想い出されるのは、1966年2月に起きた全日本空輸60便ボーイング727-100型機(JA8302、1965年製造)の全日空羽田沖墜落事故の事である。

この時、事故技術調査團長は、ボーイング727型機の國内線への導入にあたり、積極的な推薦役を果たしてきた、稀代の俗物 木村秀政日本大學教授である。

以下は WIKIPEDIAからの 引用である;

ー  事故調査をめぐり事故技術調査團が紛糾した。 事故技術調査團の 山名正夫明治大學教授が、事故後の 早い段階から、操縦ミス説を主張するN大學K教授らと對立し、辭任した。 これらの事故調査團内の對立と、 内幕・事故調査の進展は、當時NHK社會部記者で 事故についての取材を行った柳田邦男の 『マッハの恐怖』に詳細に記されている。


しかし、航空局航務課は、K.團長の指示に反し、パイロットミスの可能性を否定し、残骸にさまざまな不審な點があり機體に原因があるという方向で 『第一次草案』 をまとめ、1968年(昭和43年)4月26日の會議に提出した。

航務課調査官・楢林一夫が第3エンジンの機体側取り付け部に切れたボルトによる打痕が残っていたこと、第3エンジンが機體から離脱していたことから、取りつけボルトの疲勞破壊説を報告していた。 楢林一夫は 調査團、航空局上層部と對立したため 2年後に退官する。

『第一次草案』で指摘された、第3エンジンの計器だけが他のエンジンと違う値を示していること、第3エンジンの消火レバーを引いた痕跡があること、操縦室のスライド窓操作レバーが開になっており窓が離脱していること、後部のドアの1つのレバーが開になっていること、着陸前であるにもかかわらずシートベルトを外している乘客が多數おり、 乘客によって姿勢が異なることや、後續の日航機と丸善石油從業員が 一瞬の火炎を確認しており、遺体の一部に輕度のやけどの跡があること等の 不審な點については、「原因は不明であり、はっきりしていない。揚収時に操作された可能性もある」などと修正された。

そうした中、1968年7月21日に日本航空の727-100型機 (JA8318) で、本來は 接地後にしか作動しないグランド・スポイラーが飛行中に作動するトラブルが發生し、その原因が機體の缺陥にあることが判明した。

これを受け、事故機でもグランド・スポイラーが作動した可能性の調査が行われ、山名教授は模型による接水實驗と残骸の分布状況から接水時の姿勢を推測し、迎え角が大きくなると主翼翼根部で失速が起き、エンジンへの空気の流れが乱れ異常燃焼を起こすことを風洞實驗によって確かめ、「機體の不具合、もしくは設計ミスのためにグランド・スポイラーが立ったため、機首を引き起こし、主翼から剥離した亂流でエンジンの異常燃焼が起き高度を失い墜落したのではないか」 というレポートを 様々な實驗データと共に調査團に報告した。

しかし、最終報告書案ではそれらを取り上げずに終わった。最終報告書がまとめられるまでの間に提出された5件の草案の提出日は、次の通りである。

第1次案 1968年4月26日

第2次案 1968年6月6日

第3次案 1968年7月18日

山名リポート 1969年10月9日

第4次案 1970年1月

第5次案 1970年8月19日

最終報告書 1970年9月29日

  こうした對立や 決定的な原因を見つけられずに事故調査報告書の決定までは 約4年を要し、その間ずっと、事故機の残骸は羽田空港の格納庫の一角に並べられたままになっていた。 ー


山名正夫

明治38(1905)年12月25日兵庫縣神戸市生まれ。昭和51(1976)年1月27日歿。
東京帝國大學工學部航空學科〔昭和4年〕卒,東京帝大大學院修了、工學博士〔昭和7年〕

昭和6 - 20年 海軍航空技術廠で飛行機の研究と設計に從事、名機と謂はれた 艦上爆撃機 「彗 星」、 雷撃も 60°の 緩降下爆撃も可能な世界に比類なき傑作機・双發陸上爆撃機 「銀 河」 の設計主任を務める。

昭和10年東京帝國大學助教授、18年教授を兼任。 昭和19年 海軍技術中佐。

戰後28年自家用飛行機操縦士の資格を取り、29 - 31年防衞廳技術研究所第6部長を務める。 昭和31 - 41年東京大學工學部教授に復歸。 退官後、明治大學工學部教授。

昭和41年2月4日に起きた全日空ボーイング727型機の羽田沖墜落事故で全日空機事故技術調査團に参加、機材の欠陥で失速したと主張したが、受け入れられず、學者の良心が許さないとして45年團員を辭任。

調査團は原因不明との報告書を同年9月提出した。

この事故は「最後の30秒」という著書にまとめられた。


乘客、乘員 133人全員死亡と謂う 1966年當時としては未曾有の航空機事故は 結局 「原因不明」 として片付けられ、今や『全日空機羽田沖墜落事故』を記憶する人も少ないし、世間の話題に上る事もない。

 機體の構造缺陥であるground spoiler誤作動の可能性が絶大であるにも不拘らず、強引に 「原因不明」 と結論つけた、學者の風上にもおけぬ政治人間K..H.、辭任すべきは 利害關係者であり、賣名屋で 稀代の俗物・K.H.自身であり、 山名正夫博士ではなかった筈。

一方、日航ジャンボ墜落事故に関しては、U-tube だけでも 十指に余るdocumentaryが net上に掲載されてゐる。

その内の一本に注目した。 内容は、voice recorder の解析であるが、從來 事故調が;

・・・ all engines ・・・

だとして來た音聲は、noise を取り除いた専門家の解析で、全く異なる 『body gear』 である可能性が絶大である事が判明。 然からば、垂直尾翼の脱落原因が 壓力隔壁損傷に起因すると謂う事故調の結論とは異なった方向性が推測される。


孰れにしても、確たる證據、説得力ある裏付けが出てこない限り、陰謀説への告發は成立しない。

それよりも、僕にとっては 29期 の お姐さん方が懐かしく想い出される。

博多っ子で、青學出身のN.佳子さん。 弟の晃君は内定してゐた東芝を振り切ってJALへ。慶大同窓會名簿では「モーゼスレイク乘員訓練所」のままになってゐるが、コーパイ時代 一度 乘り合はせた事がある。 彼も 70 歳を越へた筈。


芦屋生まれ 關西學院大學出身、ナイーヴで多才なM.穆子さん。
乘務中に盲腸炎を發病、モスクワの病院に緊急入院したのは1969年の事だっけ。   當時 ご両親は鎌倉・若宮ハイツにお住まいだった。


姐御・ヤマカズことY.順子さんと I.富貴子さんに最後にお目に掛かったのは1973年秋 新婚旅行で立ち寄った布哇・檀香山で 四人で食事をした時の事。

携帯もメールもない時代、どうやって聯絡とったのか、さっぱり記憶にないが、 お元氣にしておいでかなー?  お二人 聖心女學院の同窓だった。


I.淑恵さん。 何期だったか? ご両親 弟さんと藤澤本町にお住まいだった。


今でも名前を憶へてゐるのは この五人だけだが、機内でお世話になったスチュワーデス、パーサーは 數限りない。

初めて飛行機に乘ったのが 國内線の DC6B。

初めての國際線は、1964(昭和39)年3月17日(火)羽田から 泰・盤谷。 慥か 給油の爲 香港に寄港した筈だ。

 暫く DC8 の時代が續く。 その間、一時期 CV440 CV880 なんてのもあったっけ。 慥か 南回り 中近東を飛んでゐた記憶がある。

 DC8 で 初めて 太平洋を渡ったのが 1969(昭和44)年4月5日 羽田發 帆埜瑠瑠經由 合衆國東部を 七週間の長旅だった。

當時は 東回りでも 西回りでも 太平洋を渡る毎に 日付變更線通過證明書(Certificate of Crossing IDL)を呉れてゐた。 松尾静磨社長名儀で 日付はないが、旅券と照合すると 羽田發 日本時間4月5日 と 5月23日 羽田着の事だ。

初めて B747 に乘ったのは、1970年7月29日。 羽田發 布哇・火奴魯魯行きだった。

記録によると、7月1日 就航とあるから、就役して直ぐのころだ。

初めて First Class に乘ったのが 1972年9月30日 香港發 羽田着。 

當時C-class(Executive class と呼ばれてゐて、後の Business class) は無くて Y と Fだけだったが、差額を自前で拂って upgrade 四時間半の 空の旅を満喫した。

或る時、B747 C 席に着いたら、離陸前の忙しい時に 僕の席にスットンデ來て、 『原辰徳のジャイアンツ入團が決まりましたよ!』と 嬉しくって感に堪へぬと謂う表情で跳び去って行ったスチュワーデスがゐた。 1980年秋、成田での事だ。

1999年12月、Millennium前夜、「大路羅を見ると人生觀が變はる」との言い傳へを信じて 阿拉斯加に大路羅見物に出かけた。

12年ぶりの安克拉治空港。 嘗て、歐洲便も北米東岸便も給油寄港で 榮耀榮華を誇った空港賣店は 機材の航續距離伸延で すっかり様變はり姿を消してゐた。  榮枯盛衰。

オーロラ見物一行の中に、休暇のJALスチュワーデスが居り、何期ですかと尋ねるに、 今は 二年間契約社員で「期」はないんですと。
JALも變はったことを實感。
山崎豊子「沈まぬ太陽」を熱心に讀んでゐたのを想い出す。


123便墜落を知ったのは、夏季休暇で旅行中、 Connecticut洲NewHavenのホテルに着いて部屋のTVをつけた;

東部標準夏時間8月12日(月)6:00pm、即ち 日本時間13日(火)7:00am。

事故發生から 13 時間を經過した時刻で、「日航ジャンボ機墜落」の映像を 放映してゐた。

長男と 小學生の娘二人の家族五人旅。  その時 一歳半だった長男も 今や 三人の子供の父親になった。


僕の青春は、羽田空港、赤丸印の鶴のマークと JALスチュワーデスのお姐さん方sと共にあり。  想い出は盡きない。 古き佳き時代、暴走老人の 懐かしい想い出です。

昔を想い出させてくれて 有り難う。 多謝、多謝。

2018/05/10 初稿       2022/08/12  改訂復刻掲載

海堂尊 「北里柴三郎」 を 讀む;

2022-08-04 11:47:01 | 日記
海堂尊 「北里柴三郎」 を 讀む;

ちくまプリマア新書 よみがえる天才シリイズの第7彈。
因みに 既述の「森鷗外」は これに續く第8彈である。

我々國民學校世代は 偉人と言へば先ず 野口英世であるが、これは スケエルも業績も桁違いの偉人であり まさしく天才である。
自身 醫師である筆者は その足跡を温(たづ)ね見事にこの天才の生涯を描ききってゐる。



 嘉永五(1852)年 肥後國(ひごノくに)阿蘇郡小國郷北里村に生まれた北里柴三郎は、細川藩藩校・時習館を經て、後に 熊本醫學校と名前を替へる現在の 熊本大學醫學部の前身である 古城(ふるしろ)醫學校に入學したのが 明治四年 19 歳の時である。

在校中に校名が替はり 熊本醫學校を卒業したのが明治七年 22 歳。
翌明治八年十一月 23歳で 東京醫學校豫科に入學。

この時 文久二(1862)年生まれで 10 歳若い森林太郎は 既に 本科一年生。

明治十六年 東京大學醫學部を卒業した時には 既に 31 歳。 席次は8番である。
内務省衛生局に奉職。

明治十九(1886)年、34歳で内務省派遣留學生として 伯林大學衛生學教授であった
ロベルト・コッホが所長を務める衛生研究所にて コッホ(Heinrich Hermann Robert Koch)に師事。
 めきめき頭角を現し たちまちコッホ四天王の一人となる。

明治二十年 獨逸留學4年目で 26歳の森林太郎のコッホ研究所入りの手助けをしたのも北里柴三郎である
3年間の留學豫定の北里に 師コッホが與へた最初の命題は、コレラ菌とペスト菌に係はる膨大な實驗である。  北里は 彼自身が開發した「亀の子シャアレ」(北里式亀の子コルベン)だとか「北里式濾過器」(キタサト・フィルタア)だとか 「北里式ラット固定器」等を驅使して 師の期待に應へる。

留學3年目の明治二十一(1888)年、破傷風菌純粋培養と謂う劃期的業績を擧げるとともに 破傷風菌にたいする「免疫血清療法」を確立する。

細菌には菌體自體が毒素を持つ「菌體毒」と、毒素を産生する「分泌毒」とがあるが、
破傷風や ジフテリアは分泌毒なので 血清療法が有効である。
一方 コレラや腸チフスは菌體毒なので血清療法は無効である。

1890(明治23)年8月 伯林に於ける「第10回萬國醫學會」で コッホが「ツベルクリン」と謂う 結核治療薬を開發したと謂う爆彈發表が世界中を驅け巡る騒動が發生した。

そして、コッホ自身が ツベルクリンの最大許容量を超へる50mgを接種する無謀な人軆實驗を強行して その經過を「獨逸醫學週報」に公表した;
「上腕にツベルクリン0.25ccを皮下注射すると3時間後 關節痛、倦怠感と咳が出、呼吸困難と惡寒、嘔吐し40℃近い高熱が出た」。
これはコッホに結核の既往症があった事を示す。

そこで はたと思ひ當たったのが 現代のコロナ・ワクチンの事である。
私には 二人の姉と一人の弟がゐるが、3回のワクチン接種に全くの無反應。
それに引き換へ 私自身は3回とも 猛烈な倦怠感・不快感を伴う 38℃に近い發熱の副反應に惱まされる。

ファヰザア社が開發した mRNA (傳令RNA、 messenger RNA)と呼ばれる遺傳子組み換型のワクチンは 謂はば未知の産物で、ダイアモンド・プリンセスで罹患した私自身の躰内には抗體が存在してをり、そこに mRNA を注入する事により 強烈な拒絶反應が起こったのではあるまいか。 抗體の無い姉・弟には拒絶反應が起きなかったと謂う事ではないか?

孰れにしても、この猛暑の中 38℃に近い發熱を起こしては 85歳の躰はとても耐へきれないと思い 4回目の接種を躊躇してゐる。
熊本縣に本據を置く KM バイオロジクス社が開發中の在來型の 不活化ワクチンの開發を待つことにするか?

この 1890(明治二十三)年の世界中を席巻したツベルクリン・フィイバアは凄まじく 明治大帝は「古弗(コツホ)氏肺癆ノ發明ニ付特旨御下賜金」として金壹千圓を下賜するとともに北里の留學延長が認められる。
結局、ツベルクリンは結核治療には何の効力も無く、根本療法は 昭和十九(1944)年 ウクライナ出身のユダヤ人で米國籍のワックスマン博士(Selman Abraham Waksman)によるストレプトマイシン開發を俟つ事になる。

しかし、我々 國民學校世代には戰前戰後を通じて「ツベルクリン反應」として記憶されてゐる。
即ち、小學校に入學すると、上腕皮下にツベルクリンを接種して その反應が一定量以下なら BCG を接種すると謂う結核豫防法が戰後も長らく施行されてゐた。
現在ではツベルクリン反應は全廢され、乳幼児にBCG接種が義務化されてゐると謂う。

明治二十五(1892)年三月、6年4ヶ月の留學を終へ歸國の途につくまで、破傷風、コレラ、ジフテリアの細菌學的研究と 佛蘭西のルイ・パスツール(Louis Pasteur)が開發した 疫學的研究手法で 華々しい研究成果を擧げる。

歸途 巴里に立ち寄り パスツウル研究所で『北里博士へ 素晴らしい研究に敬意と祝福を込めて ルイ・パスツウル』と自署された肖像寫眞を贈られた。
パスツウルの薫陶に直接浴した日本人の醫學者は北里柴三郎だけだと筆者は書く。

しかし、この世界的に高名な細菌學研究者を明治政府は 必ずしも厚遇しなかった。

留學中に内務省の休職期限切れで失職。
これを救ったのが 盟友である 内務省衛生局長・後藤新平である。
世界的細菌學者に活躍の舞台を與へるべく 傳染病研究所創設の議が起こったが、文部省・帝國大學醫科大學 對 内務省衛生局の縄張り爭ひのゴタゴタで進展せず。
大御所・長與専齋が 北里と後藤を 緒方洪庵適塾の盟友・福澤諭吉に引き合はせる。

「官」を全く信ぜず 徹底的に役人を嫌う福澤諭吉は慶應義塾社中の森村市左衛門と共に私財を投じてその年の内に「大日本私立衛生會附属傳染病研究所」を立ち上げる。
御役人には眞似の出來ない早業(はやわざ)である。

この傳染病研究所は 明治32年には 内務省管轄の「國立傳染病研究所」となり 更に大正3年に 文部省に移管される。
この時、62歳の北里柴三郎は勅任官を辭し「北里研究所」を設立。

そして 大正6年、福澤諭吉の恩義に報ひるべく 慶應義塾大學醫學部の前身である慶應義塾醫學科を創設、昭和3年 76歳になるまで自ら科長に任じて後進の指導・育成に任(あた)る。

 數々の素晴らしい世界的偉業を成し遂げた北里柴三郎であるが、唯一 悔ひの残るのは恩師古弗(コツホ)が晩年まで拘り その名聲を失墜させる原因となった結核に對する
「ツベルクリン療法」であらう。
明治26年9月 東京・廣尾に福澤諭吉と 慶應義塾社中の森村市左衛門が巨額の私財を投じて 結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」開園。   キタサトの名聲を慕って海外からも入所希望者が門前市をなし 病床は180床まで増築されたと謂う。

 この失策は、森鷗外に於ける脚氣の原因「白米兵食」への拘りとも比され 北里柴三郎にとっては悔いの殘る唯一の失策であった。

未知の mRNA が現代の「ツベルクリン」でない事を願うや切。

世界中の第一線の研究者が mRNA ワクチン接種に疑問を呈してゐる。
誰の言う事を信じ、どうすれば良いのか 無知の民は迷える仔羊だ!




   海堂尊 「北里柴三郎」  ちくまプリマア新書  2022/03/10 初版

   2022/08/04 猛暑の中 4回目の mRNA 接種を躊躇する 迷へる仔羊!