相洲遁世隠居老人

近事茫々。

海堂尊 「北里柴三郎」 を 讀む;

2022-08-04 11:47:01 | 日記
海堂尊 「北里柴三郎」 を 讀む;

ちくまプリマア新書 よみがえる天才シリイズの第7彈。
因みに 既述の「森鷗外」は これに續く第8彈である。

我々國民學校世代は 偉人と言へば先ず 野口英世であるが、これは スケエルも業績も桁違いの偉人であり まさしく天才である。
自身 醫師である筆者は その足跡を温(たづ)ね見事にこの天才の生涯を描ききってゐる。



 嘉永五(1852)年 肥後國(ひごノくに)阿蘇郡小國郷北里村に生まれた北里柴三郎は、細川藩藩校・時習館を經て、後に 熊本醫學校と名前を替へる現在の 熊本大學醫學部の前身である 古城(ふるしろ)醫學校に入學したのが 明治四年 19 歳の時である。

在校中に校名が替はり 熊本醫學校を卒業したのが明治七年 22 歳。
翌明治八年十一月 23歳で 東京醫學校豫科に入學。

この時 文久二(1862)年生まれで 10 歳若い森林太郎は 既に 本科一年生。

明治十六年 東京大學醫學部を卒業した時には 既に 31 歳。 席次は8番である。
内務省衛生局に奉職。

明治十九(1886)年、34歳で内務省派遣留學生として 伯林大學衛生學教授であった
ロベルト・コッホが所長を務める衛生研究所にて コッホ(Heinrich Hermann Robert Koch)に師事。
 めきめき頭角を現し たちまちコッホ四天王の一人となる。

明治二十年 獨逸留學4年目で 26歳の森林太郎のコッホ研究所入りの手助けをしたのも北里柴三郎である
3年間の留學豫定の北里に 師コッホが與へた最初の命題は、コレラ菌とペスト菌に係はる膨大な實驗である。  北里は 彼自身が開發した「亀の子シャアレ」(北里式亀の子コルベン)だとか「北里式濾過器」(キタサト・フィルタア)だとか 「北里式ラット固定器」等を驅使して 師の期待に應へる。

留學3年目の明治二十一(1888)年、破傷風菌純粋培養と謂う劃期的業績を擧げるとともに 破傷風菌にたいする「免疫血清療法」を確立する。

細菌には菌體自體が毒素を持つ「菌體毒」と、毒素を産生する「分泌毒」とがあるが、
破傷風や ジフテリアは分泌毒なので 血清療法が有効である。
一方 コレラや腸チフスは菌體毒なので血清療法は無効である。

1890(明治23)年8月 伯林に於ける「第10回萬國醫學會」で コッホが「ツベルクリン」と謂う 結核治療薬を開發したと謂う爆彈發表が世界中を驅け巡る騒動が發生した。

そして、コッホ自身が ツベルクリンの最大許容量を超へる50mgを接種する無謀な人軆實驗を強行して その經過を「獨逸醫學週報」に公表した;
「上腕にツベルクリン0.25ccを皮下注射すると3時間後 關節痛、倦怠感と咳が出、呼吸困難と惡寒、嘔吐し40℃近い高熱が出た」。
これはコッホに結核の既往症があった事を示す。

そこで はたと思ひ當たったのが 現代のコロナ・ワクチンの事である。
私には 二人の姉と一人の弟がゐるが、3回のワクチン接種に全くの無反應。
それに引き換へ 私自身は3回とも 猛烈な倦怠感・不快感を伴う 38℃に近い發熱の副反應に惱まされる。

ファヰザア社が開發した mRNA (傳令RNA、 messenger RNA)と呼ばれる遺傳子組み換型のワクチンは 謂はば未知の産物で、ダイアモンド・プリンセスで罹患した私自身の躰内には抗體が存在してをり、そこに mRNA を注入する事により 強烈な拒絶反應が起こったのではあるまいか。 抗體の無い姉・弟には拒絶反應が起きなかったと謂う事ではないか?

孰れにしても、この猛暑の中 38℃に近い發熱を起こしては 85歳の躰はとても耐へきれないと思い 4回目の接種を躊躇してゐる。
熊本縣に本據を置く KM バイオロジクス社が開發中の在來型の 不活化ワクチンの開發を待つことにするか?

この 1890(明治二十三)年の世界中を席巻したツベルクリン・フィイバアは凄まじく 明治大帝は「古弗(コツホ)氏肺癆ノ發明ニ付特旨御下賜金」として金壹千圓を下賜するとともに北里の留學延長が認められる。
結局、ツベルクリンは結核治療には何の効力も無く、根本療法は 昭和十九(1944)年 ウクライナ出身のユダヤ人で米國籍のワックスマン博士(Selman Abraham Waksman)によるストレプトマイシン開發を俟つ事になる。

しかし、我々 國民學校世代には戰前戰後を通じて「ツベルクリン反應」として記憶されてゐる。
即ち、小學校に入學すると、上腕皮下にツベルクリンを接種して その反應が一定量以下なら BCG を接種すると謂う結核豫防法が戰後も長らく施行されてゐた。
現在ではツベルクリン反應は全廢され、乳幼児にBCG接種が義務化されてゐると謂う。

明治二十五(1892)年三月、6年4ヶ月の留學を終へ歸國の途につくまで、破傷風、コレラ、ジフテリアの細菌學的研究と 佛蘭西のルイ・パスツール(Louis Pasteur)が開發した 疫學的研究手法で 華々しい研究成果を擧げる。

歸途 巴里に立ち寄り パスツウル研究所で『北里博士へ 素晴らしい研究に敬意と祝福を込めて ルイ・パスツウル』と自署された肖像寫眞を贈られた。
パスツウルの薫陶に直接浴した日本人の醫學者は北里柴三郎だけだと筆者は書く。

しかし、この世界的に高名な細菌學研究者を明治政府は 必ずしも厚遇しなかった。

留學中に内務省の休職期限切れで失職。
これを救ったのが 盟友である 内務省衛生局長・後藤新平である。
世界的細菌學者に活躍の舞台を與へるべく 傳染病研究所創設の議が起こったが、文部省・帝國大學醫科大學 對 内務省衛生局の縄張り爭ひのゴタゴタで進展せず。
大御所・長與専齋が 北里と後藤を 緒方洪庵適塾の盟友・福澤諭吉に引き合はせる。

「官」を全く信ぜず 徹底的に役人を嫌う福澤諭吉は慶應義塾社中の森村市左衛門と共に私財を投じてその年の内に「大日本私立衛生會附属傳染病研究所」を立ち上げる。
御役人には眞似の出來ない早業(はやわざ)である。

この傳染病研究所は 明治32年には 内務省管轄の「國立傳染病研究所」となり 更に大正3年に 文部省に移管される。
この時、62歳の北里柴三郎は勅任官を辭し「北里研究所」を設立。

そして 大正6年、福澤諭吉の恩義に報ひるべく 慶應義塾大學醫學部の前身である慶應義塾醫學科を創設、昭和3年 76歳になるまで自ら科長に任じて後進の指導・育成に任(あた)る。

 數々の素晴らしい世界的偉業を成し遂げた北里柴三郎であるが、唯一 悔ひの残るのは恩師古弗(コツホ)が晩年まで拘り その名聲を失墜させる原因となった結核に對する
「ツベルクリン療法」であらう。
明治26年9月 東京・廣尾に福澤諭吉と 慶應義塾社中の森村市左衛門が巨額の私財を投じて 結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」開園。   キタサトの名聲を慕って海外からも入所希望者が門前市をなし 病床は180床まで増築されたと謂う。

 この失策は、森鷗外に於ける脚氣の原因「白米兵食」への拘りとも比され 北里柴三郎にとっては悔いの殘る唯一の失策であった。

未知の mRNA が現代の「ツベルクリン」でない事を願うや切。

世界中の第一線の研究者が mRNA ワクチン接種に疑問を呈してゐる。
誰の言う事を信じ、どうすれば良いのか 無知の民は迷える仔羊だ!




   海堂尊 「北里柴三郎」  ちくまプリマア新書  2022/03/10 初版

   2022/08/04 猛暑の中 4回目の mRNA 接種を躊躇する 迷へる仔羊!