相洲遁世隠居老人

近事茫々。

ペドロ岐部カスイ 攷(こう)

2021-10-11 09:12:10 | 日記

ペドロ岐部カスイ 攷(こう)

曩(さき)に 加賀乙彦『殉教者』について、恐らく ペトロ岐部カスイの名前を世間一般に知らしめた 唯一の傳記小説ではないかと書いたが、遠藤周作が 中央公論 昭和五拾参(1978)年一月號から一年間に亘って『銃と十字架 ー 有馬神學校(セミナリオ)』を聯載してゐる。

内容は 日本で最初に西歐の學問を講じた有馬神學校開校の由來から、激動の時代、その變遷を語り、卒業生の一人である ペドロ岐部カスイ(遠藤周作は ペドロ と綴る)の殉教までの生涯を 余すところなく語り盡くしてゐる。

1979年4月 中央公論社から『銃と十字架』として出版された初版本の「あとがき」に;

「十数年前にふと讀んだチースリック教授の論文が私にペドロ岐部という、人々には知られていないが、あまりに劇的な生活を送った十七世紀の一日本人の存在を教えた。・・・」とある。

チースリック教授とは これまた余り聞き慣れない名前であるが、Hubert Cieslik S.J.,
1914年 東獨生まれの獨逸人。 1934(昭和9)年、即ち19歳で來日。

廣島に原爆が投下された時、神父として爆心地に近い幟町(のぼりちよう)教會にいたと謂う。
後に 聖心女子大學教授として 切支丹殉教者に関する 數々の學術論文をのこす。
遠藤周作は この學術論文を讀んだだけでなく、”直接間接に多くの御教示を頂いた” とある。 (1998/09 歿)

「銃と十字架」は 随所にチースリック論文からの引用を交えて 史實の裏付けある部分と 想像の部分をはっきりと使い分けた non-fiction と謂うよりは documentary に近い筆致である。

加賀乙彦は「殉教者」の引用文献として この「銃と十字架」を記載してゐないが、當然一讀したものだと思われる。 だた 両者の記述内容は 微妙な食い違いを見せてゐる;

  先ず 両者の違いであるが、「殉教者」の冒頭部分は 元和元(1615)年五月、28歳のペトロ岐部は 長崎から 西班牙(エスパニア)船で呂宋(ルソン)へ。   大阪夏の陣が終わった翌月である。

此處で 長崎から同行したドン・ガブリエル・ゴンザレス修道士の父親から贈られた乗船切符で 澳門(マカオ)へ。  澳門に着いたのが元和元年の眞夏である、となってゐる。

出奔の理由は、基督殉教の聖地、エルサレムを巡禮し、羅馬(ローマ)で勉學を重ねて司祭の資格を得て日本に戻り布教活動を行うと謂う確固たる信念によるものである。

ところが、遠藤周作「銃と十字架」によると;
ペドロ岐部は 慶長十九(1614)年一月二七日付け金地院宗傳起草になる徳川家康による伴天連追放令により 他の切支丹と共に長崎に集められ、10月6日 宣教師23人、修道士29人、同宿53人合計105人の中の一人として澳門(マカオ)行き5隻のジャンクで國外退去處分を受けたとある。

翌10月7日には 高山右近、内藤壽庵を含む 呂宋(ルソン)への追放組も馬尼刺(マニラ)に向けて發ってゐる。

ペドロ岐部は 大阪冬の陣、夏の陣の歸趨を、若し豊臣方が勝てば切支丹禁教令が緩和されるのではないかとの期待を込めて澳門で見守ってゐた、とある。

一年半遅れて 雑誌「太陽」昭和五十四(1979)年七月號から聯載が始まった『王國への道 ー山田長政ー』にも ペドロ岐部カスイは登塲する。

 國東の岐部は「銃と十字架」同様 慶長19年10月6日夕刻 長崎は福田ノ濱から、この塲合、1隻の葡萄牙(ポルトガル)船と 5隻のジャンクに分乘した 外國人宣教師(パードレ)、日本人修道士(イルマン) や 同宿(傳道師)総員150人の中の一人として 澳門に追放された事になってゐる。

そして、151人目の 籠乘(かごの)り(無賃乘船者、密航者)として 後に 山田長政と名を變える 駿河ノ國出身の無頼の駕籠かき浪人「藤藏」が登塲する。 藤藏は澳門で 阮子龍と謂う老人に目をかけられて 阮家の持ち船でアユタヤへ。

これは 明らかに 「小説」fiction であらう。

三つの作品に共通している點は、孰れも 日本人追放者は葡萄牙(ポルトガル)領澳門(マカオ)では 招かれざる客だったと謂う事である。

そして、ペドロ岐部は 同宿仲間で 美濃出身のミゲル・ミノエスと 小西行長の娘マリアの子だと推測される小西マンショ等と共に 印度の臥亞(ゴア)へ。


「銃と十字架」では この時期を 1617年か その翌年の1618年のことだらう としている。 一方 「殉教者」では 1617年5月 ゴア着だとし、1619年初頭にゴアを發ち、 1620年初夏 羅馬に着いたとしている。

羅馬に着いて以降、歸路 再び ゴアに戻る迄は 記録がはっきりしているので、日時も明確に記載されてゐる。

加賀ペトロ と 遠藤ペドロ の決定的違いは 加賀ペトロが 自らの確固とした意志で日本を出奔し、聖地エルサレムを巡禮して 羅馬で司祭の資格を得てから 日本に戻り、幕府の彈壓に苦しむ切支丹を励まし扶けようとの信念に基づくとある。

一方 遠藤ペドロでは、幕府の禁教令により 有馬神學校が閉鎖されて司祭になる道が閉ざされたので、追放令に從って澳門へ行き そこで司祭となる道を求めたが、ここでは 日本人は招かれざる客で それが不可能だと判ると、當時 葡萄牙の印度での一大據點であった臥亞(ゴア)へ。   

しかし 此處も澳門と同じ事情だと判ると、ミゲル・ミノエスや 小西マンショ等とも別れて 下級船員として波斯(ペルシヤ)灣口のホルムズへ。

そして、そこから波斯灣岸沿いを陸路、當時 波斯(ペルシヤ)領であった漠脱土(バグダツド)を經由して聖地エルサレムに至る。  以降 海路希臘(ギリシヤ)の島々を經て聖都羅馬に至った。

まるで行き當たりばったり、行き掛けの駄賃で基督殉教の地エルサレムを訪れたような筆致である。

ペドロ岐部カスイがどの様な經路で羅馬に至ったか、「チースリック教授は彼がその時、この日本人としては最初の中近東の冒險旅行の記録を何ひとつ残さなかったことを残念がってをられるが、・・・」として、上述の經路が最も考えられるルートだと記す。

そして、それから300年後、1924年に日本人として第二番目にこの中近東を踏破した志賀重昴の例を擧げてゐる。

また、聖地エルサレムの状況については 1553年に ここを訪れた西班牙(スペイン)の修道士の手記を紹介してゐる。

1620年 念願の永遠の都・羅馬着。 それ以降の足取りは 記録が残されてをり 歸路 再び 臥亞までの經路・日時は明確である。

十一月十五日(日)ラテラノ大聖堂で念願の 神父(パードレ)に叙位され 十一月二十一日 イエスズ會にも入會を許される。  ペドロ岐部カスイ 33歳。

その間 イエスズ會の聖アンドレア修練院で勉學を續け、1622年6月、日本への歸國を申し入れて認められる。

1623年3月25日 葡萄牙(ポルトガル)の印度洋艦隊でリスボニア發。

當時は なにしろ 季節風まかせの帆船による航海であるから、阿弗利加・喜望峰を回って臥亞に着いたのが 翌1624年の5月末。 南蛮(葡萄牙・西班牙(エスパニヤ))と北蛮(大英帝國・和蘭陀(オランダ))の對立の最中、そこから先は 澳門か呂宋(ルソン)しかない。
船便で 10年ぶりの澳門へ。

 ところが、日本を近くに見ながら此處で二年余を過ごした上で 反對側のアユタヤへ向かってしまう。

棄教・轉宗した 天正遣歐少年使節の一人千々石(ちじわ)ミゲルや、10年前 この澳門で逢った 荒木トマスから直接間接に聞いた南蛮の亞細亞侵略の實態を ペドロ岐部自身がその目で見て確認することによって決心がぐらついたか、更に 羅馬からリスボニアへ行く途中立ち寄ったマドリッドで讀んだ日本からの報告書で最新の幕府の切支丹彈壓の實態を知って 歸國を躊躇・逡巡するようになったか?

 天主教徒である遠藤の筆は公平に イエスズ會やフランシスコ會の植民地開拓の先兵としての侵略性を認めて 秀吉や家康の禁教令の正當性にも觸れてゐる。

 當時の イエスズ會やフランシスコ會の布教の遣り方は まるで 往時の創價學會や 文鮮明の統一教會の折伏を彷彿とさせるものがある。

遠藤周作は此處でもチースリック教授の論文を引用して、家康の切支丹大追放令まで27年間 主に京都を中心に布教活動をしていた ペドロ・モレホン神父の奨めによるものであらうとの説を紹介してゐる。

兎も角、澳門滞在が二年を過ぎた 1627年2月 アユタヤに向かうべく 馬六甲(マラツカ)行きの葡萄牙船に乘船する。 この辺り、往路と違い司祭でイエスズ會士であるから葡萄牙船への乗船は自在であったのであらう。

   マラッカは馬來半島の西側であり、アユタヤへ行くのに 何故 マラッカだと思うのだが、マラッカは 1511年以降 葡萄牙領馬六甲として、1641年に和蘭陀領となるまで 葡萄牙の東亞細亞侵略の據點であったので、臥亞(ゴア)ー馬六甲(マラツカ)ー澳門(マカオ) 間で航路が出來てゐたからであろう。(その後 1824年に 英蘭協定で 大英帝國植民地であったスマトラ島のアチェ王國と交換で大英帝國植民地となり、昭和16年12月の帝國陸軍占領に至る。)

この頃 既に この付近は葡萄牙(ポルトガル)船にとって安全な航路ではなくて 新嘉坡(シンガポール)水道を越えたところで4隻の和蘭陀(オランダ)艦隊に捕まり、着の身着のままで海岸に上陸。
  2週間 食うや食わず。 海岸を徒歩で馬六甲にたどり着く。

結局 そこから船で アユタヤ王國にたどり着いたのが 1627年7月、日本では寛永四年、二代將軍徳川秀忠の時代である。

山田長政の最晩年のこの時期(1630年、戰傷に毒薬を塗られて毒殺さる)、有馬神學校で8年先輩のロマノ西修道士(イルマン)と布教活動に從事してゐる。 ロマノ西は 慶長19年 澳門に追放された日本人修道士29人の中の一人であったが、その儘 澳門に居残ってゐたものをモレホン神父の指示でカルディム神父と共に アユタヤに先行してゐたものである。

ペドロ岐部自身の1630年5月 羅馬宛書翰で「・・しかし 此處では自分が神父であることを隠していた。 ロマノ西修道士やカルディム神父の住居はヨーロッパ人の町にあり 私は日本人町の立派な信者の家にいた。 ・・・」と 此處でもチースリック教授の論文を引用している。 日本人町に住んでいれば 當然 山田長政とも面識はあったであらう。

  この間の 消息は 遠藤周作の別稿「王國への道」に詳しいが、これは飽くまでも 山田長政を主人公にした小説(fiction)であって、史實に忠實だとは考えられない。

結局 逡巡の後 日本に歸る事を決意して 呂宋(ルソン)へ向かう。
1630(寛永七)年7月、ルバング島からボロ舟で薩摩・坊津にたどり着く。 慶長十九(1614)年十月六日、長崎を追放されてから 16年ぶりに日本の土を踏む。

坊津の役人を巧く誤魔化して入國には成功したものの、その後の足取りは杳として知れない。

恐らく 最初は 土地勘のある長崎や 本貫の豐後・浦辺に潜伏してゐたのではないかと考えられる。

肥前各藩は、文禄・慶長の役では 肥後宇土25萬石・アゴスティーニュ小西行長配下 第一軍團の切支丹大名として朝鮮征伐に出征するが、関ヶ原では東軍に味方して本領安堵を受ける。

有馬神學校の有力な後援者であった肥前日野江藩 ドン・プロタジオ有馬晴信は加藤清正と共に東軍として小西行長の宇土城攻撃に参加して旗幟を鮮明にしたものの、 慶長17年 本多正純の重臣・パウロ岡本大八に欺されて失脚すると、後を継いだミゲル有馬直純は棄教し 長崎奉行と結託して強烈な彈壓に轉ずる。

肥前大村藩では藩主・ドン・サンチョ大村喜前がいち早く棄教し、加藤清正の影響で 日蓮宗に轉宗。

一方、豐後・浦辺は 関ヶ原の後 一時 豊前中津ドン・シメオン黒田如水預かりとなり、後を継いだ嫡男黒田長政が筑前福岡53萬石に轉封となり、丹後宮津から細川忠興が引き継ぐ。 家督を継いだ細川忠利が豊前小倉40萬石から 加藤清正の後 肥後熊本54萬石に移封されたのが寛永9(1632)年。
    孰れも東軍参加の外様大名であり、なかでも三齋細川忠興の妻 ガラシャ細川珠は明智光秀の三女で 大阪・玉造の細川屋敷で西軍に攻め殺されたとはいえ、忠興は家康に忖度して 殊の外 切支丹彈壓を嚴しくしたものと思われる。
北九州一圓は まさしく四面楚歌 嚴重な監視下にある。

寛永10(1633)年10月 日本在住23年、54歳のイエスズ會管區長フェレイラ神父が 新任の長崎奉行 竹中重義により捕えられ、烈しい拷問の結果 棄教。 死刑囚澤野某の妻子を押し付けられ 澤野中庵と名乘り 奉行所の手下となると謂う衝撃的事件が起こる。

これにより 長崎の地下組織は壊滅し、この時點で活動據點を長崎から仙臺へ移したものと思われる。

仙臺藩は 家康の承認の許、慶長18(1613)年 支倉常長以下180名からなる慶長遣歐使節をローマに派遣してをり 多少なりとも 切支丹に同情的かともおもわれたが、伊達政宗がなを健在で(寛永13(1636)年死没)、 幕府に忖度して 天領や親藩より以上に彈壓が嚴しく、高額の報償金を餌に密告を奨励してゐた。


ペドロ岐部カスイが密告により仙臺で捕えられたのが寛永十六(1639)年の春。

同じ時期に捕えられた式見神父、自首したポルロ神父も拷問を受けて棄教。その自白調書なるものの一部が『「宮城縣史」による』として引用されてゐる。

ペドロ岐部カスイ 殉教、享年五十二歳。


千々石ミゲル; 大村純忠の名代として天正遣歐少年使節正使の一人であった ドン・ミゲル千々石(ちぢわ)紀員(のりかず)。  大村喜前および有馬晴信の從兄弟。
関ヶ原の翌年1601年、キリスト教の棄教を宣言し、イエズス會から除名處分を受ける。棄教と同時に洗礼名を捨てて千々石清左衛門と名を改め、從兄の大村喜前が大村藩を立藩すると藩士として召し抱えられる。

棄教の理由は 歐洲で奴隷制度の實體を見、ゴアやマカオで植民地支配の先兵になってゐイエスズ會の實?をみて 基督教に對する疑問を感じるようになったためだと謂われる。

切支丹大名であったドン・サンチョ大村喜前にも當然棄教を奨めたであらうが、藩内に切支丹派と反切支丹派の熾烈な争いがあって、その晩年は詳らかでない。


荒木トマス ; 有馬神學校の卒業生でもない、イエスズ會にも所属しない、前歴もハッキリしない男だと 遠藤周作は言う。  「おそらく日本人としては二番目の歐洲留學生であるこの男の名は荒木トマスという。 前歴を知る資料もなく、有馬神學校の卒業生でもないこの男がどのような方法でヨーロッパに行けたのかも全く不明だが、ローマの神學校で優秀な成績をあげた彼は、偶然このマカオで日本追放の同胞神學生や同宿にであったのだった。 ヨーロッパに留學し、しかも彼の地で神父に叙品されたこの荒木トマスの存在は岐部たちにとってまぶしく、羨望にたえぬものだったろう。 ・・・」
「彼は自分の目で直接見た基督教國の東洋侵略の模様を語り、それを烈しく非難したのである。  ・・」

元和元年歸國。 元和5年 長崎で捕えられて棄教。 荒木了伯と名をかえて 長崎奉行所の目明かしとして活躍。  晩年、再度 信仰心を取り戻し 殉教したと傳えられる。


小西マンショ; 「恐らく小西行長の娘マリアの子であらう、と謂うのがチースリック教授の説である。」と遠藤周作は書くが 今やこれが定説である。

マリアは對馬藩主・宗義智に嫁ぐが 関ヶ原の合戰の後、家康への手前を憚って離縁。
有馬八良尾セミナリオに入學するまでは 母マリア・妙と共に長崎の岬の修道院で育ったものと思われる。
慶長5年(1600)の生まれだと謂うから、慶長19年(1614)の切支丹追放令で澳門に追放された時、算えの14歳だったと謂う事になる。

「彼は ペドロ岐部がエルサレムに單獨で出發してから、一、二年後、ヨーロッパに向かっている。 1623年にローマのイエスズ會に入り ・・・」と遠藤周作。

コレジオ・ロマノで學んだ後、寛永四(1627)年 司祭に叙階。
ゴアからアフリカ喜望峰回りの船賃や ローマでの生活も 可成り豐であったと傳えられてゐる。 或いは 幕府の目を?んで父・宗義智の秘かな經濟援助があったものか?

寛永九(1632)年 マカオから支那人のジャンクで5ヶ月かかって歸國。畿内で布教活動を。

正保元(1644)年 捕縛、處刑。  江戸時代 最後の司祭であったと。


ミゲル・ミノエス;   慶長19年 マカオに追放された「同宿」仲間 53人の内 名前が判っているのは、ペドロ岐部、小西マンショ と この ミゲル・ミノエスの3人のみである。  日本名は不明。 ミノエスと謂う名前から 美濃の出身であらうと謂われてゐる。  小西マンショ同様 ゴアから船便でヨーロッパに渡っているので、手許潤澤であったと思われる。

「ポルトガルのエヴォラ大學で學び、日本人として最初の學位をとった。 その後、ローマに赴き、イエスズ會に入會したが、1628年、歸國を決意しながらポルトガルで客死してゐる。」



追記;  Wikipedia に;

2006年5月7日、ローマ教皇庁列聖省神学審査部会は、ペトロ岐部およびその他の日本における殉教者187名の列福について適当であるという答申を決定した。その後、2007年2月には枢機卿会議でこの答申が了承され、同年6月1日に教皇ベネディクト16世は列福を承認された。2008年11月24日に列福式が長崎市にて行われ、「ペトロ岐部と187殉教者」として福者に列せられた。  とある。


大分縣立先哲資料館編 『大分縣先哲叢書 ペトロ岐部カスイ 資料集』
が 平成七(1995)年三月三十一日 附けで發行されてゐる。
更に翌年には H.チースリック監修 五野井隆史著
評傳『ペトロ岐部カスイ』が大分縣先哲叢書として出版されてゐる。

大分縣が「ペトロ岐部カスイ」の存在を認識したのは 平成に入ってからだと謂う事であらうか?



「銃と十字架」  中央公論社 1979年4月初版刊
初出; 「銃と十字架 ー 有馬神學校(セミナリオ)」中央公論 1978年1月號


「王國への道」山田長政 (株)平凡社 1981年4月初版初刷發行
初出; 平凡社雑誌「太陽」 1979年7月號


令和(りようわ)三年十月十日 初稿