相洲遁世隠居老人

近事茫々。

「米」について惟(おも)ふ事;

2020-11-12 15:38:54 | 日記
日本の文化・文明の祖である「米」について惟(おも)ふ事;

昭和も三十年代まで 農林省は 人口一億五千萬人時代を見越して 水田耕作面積を
1,500萬噸相當に擴大すべく せっせと干拓事業に精出してゐた。
日本の米生産は 昭和42(1967)年の 1,445萬噸をピークに減少が始まる。
水田耕作面積は 1,200萬噸を維持した儘、實生産量700萬噸との差500萬噸は補償付の休耕田。 農林省の何たる無作爲。

江戸時代の一石(150Kgs)は 昭和の時代までの 日本人一人當りの年間必要量の目安だった。
現在の年間消費量700萬噸を赤ん坊を除外した一億一千五百萬人で除すと
一人平均年間消費量 60 Kgs と謂う数字が出て來る。 江戸時代の半分以下である。

戰時中、米不足から 配給量を150Kgs(一石)から二割減の120Kgsに減らして 腹が減った 腹が減ったと大騒ぎになった事がある。

因みに 老人二人の我が家は 2Kgs袋詰を買って來ると、二ヶ月もつ。 即ち年間消費12Kgs.
一人年間消費量 6Kgsだと謂うことになる。 日本人平均の十分の一だ。

農林省も 休耕田補償をしなくても農家の高齢化で自然淘汰する事にやっと氣付いたようだ。
消費量も益々減少するであらう。 買い取り價格も60Kgs(一俵)¥13,000.-と 一時の高値¥25,000から大幅下落。 嘗ての國際標準の10倍から 5倍に差を縮めた。

ウルグアイラウンド初年度平成十二(2000)年、スーパーで アーカンソー米が 5Kgs詰め¥1,800.-で賣り出された時の驚きは忘れられない。 暫くは 亞洲米、加洲米、濠洲米のみで過ごしたものだ。 當時、國産米は一番安いもので¥2,800.-していた。 「米は日本の文化であり、一粒たりとも輸入させない!」と絶叫してゐた 農林族議員の鼻をあかすように、 國内販賣小賣價格を下げるのに果たした 輸入米の役割は大きい。
亞洲米、加洲米、濠洲米は 孰れも日本人入植者が明治・大正時代苦勞して開發した「Japonica種」であり 泰(タイ)米や緬甸(ビルマ)米(Indica種)の様な外米のイメージはない。

慌てた農林省は5年度目から 関税化に踏み切る。 現在の輸入関税880%、驚くべき禁止関税。 國際標準價格も上がって 現在 $450.- ~ $500.- これなら880%は禁止関税だ。

一方 ウルグアイラウンドでの國際的約束事でminimum access と謂うお荷物を背負い込んだ。 初年度7萬噸で始まったminimum accessは21年目の今年は 77萬噸。 しかも これは 年々増量となる。  備蓄も150萬噸を超える。
生産量は減る、消費も減る、minimum accessは 年々増える。

今は 自衛隊、刑務所等々 政府管掌の處に強制的に割り當て、家畜飼料用にも奨励して誤魔化しているらしいが、こんな約束事 長續きする筈がない。
 WTO脱退か 朝鮮を見倣って約束反故(ほご)か?
農林省、いや 政府の農政 無爲無策の結末。

WTOも朝鮮人が事務局長になりそうだから、脱退の良い機會かもしれない。

2020/11/12 初稿

日本人は どこから來たのか?

2020-11-04 11:28:15 | 日記

日本人は どこから來たのか?
Where did we come from? New revelation of the great human journey to Japanese Islands.

國立科學博物館人類史研究グループ長
海部陽介 著 2016年2月10日 文藝春秋社 刊

を讀む。

學者の學術論文を素人向けに書き直したものであり、阿弗利加(アフリカ)を起源とする人類が いつどこから日本列島に到達したのか と謂う命題は、余りにも浮世離れしてゐて、
それは恰(あたか)も メイフラワー號を起點とするアメリカ合衆國の歴史を語るに 氷河期ベーリング海を渡ったホモ・サピエンスから説き起こすに似て 人類學者でも考古學者でもない私の興味は薄い。
只、参考になる點は 二、三ある。
その一つが 25,000 年前 西比利亞(シベリア)から渡來したとされる大移動の南限が大隅諸島まで で 沖縄への民族の移動は臺灣からの北上だったと謂う點である。(P-166)

先ずは結論だけを要約すると;
約100,000年前に阿弗利加を出發したホモサピエンスは
1. 38,000年前  對馬ルート
2. 35,000年前 沖縄ルート
3. 25,000年前 北海道ルート
三つのルートを經由して日本列島に到達したと謂うもの。

孰れも 後期舊石器時代の事であり、小規模での渡來であったと考えられ、狩猟・採集民族であってみれば、食糧調達の限界から増殖の勢いは弱く、悠久の時空の中で 絶滅したか ないしは その後の渡來人の中に吸収されたかして 現代の日本民族に繋がった可能性は低いとみる。

私の大膽な假説を下記しよう;
10,000年以上前の 新石器時代、ジャワ原人の末裔が 丸木舟で臺灣から琉球列島を經由して 東流の黒潮に乘って九洲をはじめ渥美半島以南の日本列島東岸に上陸。
  これが所謂 奈良朝時代「土蜘蛛(つちぐも)」と呼ばれる存在である。  後に平安朝時代 蝦夷(えみし)と呼ばれる種族と 熊襲も この一族であらう。  その數は限られたものであり、同じ經路で渡來する後續のホモ・サピエンス、壓倒的な數の 馬來オーストロネシア語族と縄文時代を共生する。

BC400 年頃、彌生式水田農法を携えて 支那・江南地方から移住して來た同じ馬來オーストロネシア語族は九洲西岸、筑紫、山陽、山陰から北陸道にまで及ぶ。
同じく 黒潮に乘っての渡來であるが、琉球列島東側の潮流とは異なり 西側の潮流である。 この頃になると 船も一段と大きくなり、東側ルートの丸木舟と異なり 大量輸送を可能にしている。
 彼等が日本の農耕民族の主體となり、食糧の潤澤さのもたらす結果として 爆發的人口増殖がおこる。

もう、20年以上も前の事であるが、釧路で初めて「アイヌ」の人に遇った時、直感で
「これは 沖縄の人だ!」と謂うものであった。

近年、DNA鑑定の普及により、愛知縣田原市伊川津貝塚から發掘された 2,500年前の縄文人のDNAが アイヌに近い事が判った。 しかも この遺傳子は ラオスで發見された8,000年前の遺傳子に近似し、一方、25,000年前のバイカル湖周辺で發掘されたものとは関連性が薄い事も判ってゐる。

沖縄本島で發掘され港川人と名付けられた20,000年前のDNAは、 骨相がニューギニア、ニュージーランドのマオリ、濠洲原生のアボリジニに似て、 ジャワ島ワジャク人のそれと一致する。(P-159)

既述 25,000年前 北海道ルート西比利亞渡來人の南下南限が大隅諸島だとする説 等を総合的に俯瞰して アイヌ人はワジャク人一派の集團が 琉球列島を經由して日本列島を北上し 北海道で明治時代を迎えたと謂う推論は無理なく肯定出來るのではあるまいか。
即ち、縄文時代中期 中部地方にまで擴がってゐた現代日本人の創始集團が、後に 日本武尊(やまとたけるのみこと)により 白河の關の北に追いやられ、更には 桓武天皇により征夷大將軍に任命された 坂上田村麻呂により 北辺陸奥に追いやられ、蝦夷(えぞ)地で明治時代を迎える。
この推論には妥當性を感じる。

それ以前、BC400年頃から 支那・江南地方(現在の 浙江省近辺)より 彌生式水田
農法を携えて農耕民族が大擧して渡來し 瞬く間に 西九洲、山陽山陰道、北陸道に定住し、先住の縄文人にまで水田農法を普及させる。
そして AD240 – AD260卑彌呼の農耕民族國家・邪馬臺國による倭國統一へと發展していく。

以上、現代の日本民族の構成を 俯瞰的に総括するなれば、渡來順に;

1. ワジャク人の遺傳子を受け継ぐ 臺灣、琉球列島を經由して渡來した人々。
(アイヌならびに一部の沖縄人、特徴は南方系骨相)

2. 臺灣、琉球列島を經由して渡來した 馬來オーストロネシア母音語族。
(主に 九洲東岸、瀬戸内海沿岸、四國・土佐、紀伊半島・渥美半島沿岸部の
     夜這い習慣のある地域の人々)

3. 黒潮西岸流に乘って九洲西岸、筑紫、山陽、山陰から北陸道に渡來した
馬來オーストロネシア母音語族。(2.と共に 現代の日本民族の大半を占める)

4. 朝鮮半島經由渡來した 塞外のツングース系騎馬民族の末裔、始皇帝の末裔を
自稱する漢民族、朝鮮族。 孰れも アルタイ語子音語族。(三母音語族)
(出雲地方、関西地域、北関東一圓に散在。 顎の骨格的に言語の發音を異にする)



以上、すっかり本論から外れたが、私の上述假説を裏付ける有力な後援者である。

令和貮年菊薫ル明治節ノ佳日ニ

(2020/11/03 初稿)

日本人は どこから來たのか?  海部陽介 文藝春秋社 2016年2月10日