相洲遁世隠居老人

近事茫々。

騎馬民族國家

2020-08-27 10:34:16 | 日記

騎馬民族國家
日本古代史へのアプローチ 江上波夫 中公新書 昭和42年11月25日初版

戰後の一時期、一世を風靡した「騎馬民族征服王朝説」は、昭和23(1948)年5月 雑誌社主催の座談會で 江上波夫氏から披露されたもので、翌年「日本民族=文化の源流と日本國家の形成」と謂う題目で 研究誌『民族學研究』に掲載され、たちまち世間の反響を呼び、斯界の長老  折口信夫(釋超空)ならびに 柳田國男をはじめの 各界研究者から痛烈な批判をあびて論争を巻き起こしたものである。

氏は 批判に應えるべく、昭和39(1964)年に 東京大學東洋文化研究所紀要に 論文としての「騎馬民族征服王朝説」を掲載、 さらには一般向けに『「騎馬民族國家」日本古代史へのアプローチ』の書名で  中公新書 として昭和42(1967)年に出版されたものである。
新書 350 頁の大作であり、東京大學名譽教授の勞作は 菲才には 讀むに難讀、咀嚼に難解を極める。

一般人向けの書籍であるから、先ずは 騎馬民族とは何であるか、スキタイ、匈奴(きょうど)、突厥(とっけつ)、鮮卑(せんぴ)・烏桓(うがん)、拓跋魏(たくばつぎ)から説き起こし、核心の騎馬民族國家形成を説く。

淺學が菲才を顧みず 簡略に要點のみを摘記・要約すると;

塞外(さいがい)の騎馬民族 扶余(夫餘)が 高句麗を經由して 百濟・任那に至り、任那で 虎視眈々と倭國への進出を狙い、北九州の筑紫 ないしは 本州南西部に進出。(建國第一段)

暫くそこで地歩を固めてから、東進し 河内・和泉に進出。  農耕民族である土着の豪族(國津神(クニツカミ))を馴化(順化)、支配して 天津神(アメツカミ)(外來豪族=騎馬民族)として肇て大和朝廷に推戴され 倭國を統一したとするもの。(建國第二段) 
古事記にある 所知初國(ハツクニシラス)之御眞木(ミマキの)天皇(スメラミコト) こそは肇國の天皇 即ち 崇神天皇(日本書紀では 御肇國(ハツクニシラス)天皇(スメラミコト))である。
御眞木、美麻貴、御間城は 崇神天皇の呼び名である 御間城入彦(美麻貴入日子)に由來し、ミマ 即ち 辨韓の任那(ミマナ)に居住した天皇を意味する。
古事記にある「天孫降臨」こそは この建國第一段で、天照大御神の御託宣により天宇受賣(アメノウズメの)神を從えて天降った日子番能(ヒコホノ)邇邇藝命(ニニギのミコト)こそが 美麻貴入日子 すなわち 崇神天皇に外ならず、朝鮮半島南部の六伽耶國の傳説とも一致すると。
別途、中根千枝女史の質問に應えて、第一段階での渡來人数は 2,000人から3,000人。 三世代後には 20,000人から 30,000人になったであらうと答えてゐる。

その時期は明確に規定していないが、四世紀前半だと比定してゐる。(P-187)
しかし後に 佐原 真との激論の中で、「邪馬臺國の卑彌呼が大和へ進出した間隙に平和裏に筑紫へ進出」と陳べているので これは三世紀前半、AD230からAD240頃だと比定出來る。
然れば この約100年のギャップと 國紀にある 第十代崇神天皇の在位 BC97 – BC30 との 約300―400年の間隙をどう説明つけるか?

更には 建國第二段として 第十五代應神天皇による河内・和泉への進出を四世紀末から五世紀初めだとしてゐる。
ここで暫く、天津神(アマツカミ)(天孫族)たる大伴、中臣、久米 等の力を借りながら 土着の豪族(國津神)を馴致し やがて支配しながら 大和朝廷に推戴(の王權を簒奪した)されたのが第二十一代雄略天皇の御代だというのが本推論の骨子である。
そして、浩瀚な學識を縦横に展開して持論の正當性を裏付けしてゐる。

昭和23年の初出から 批評・批判に對する修正、missing ring(著者の表現)に對する補完はその都度なされ、この昭和42年 中公新書版が 一應 その集大成であると考えられる。


そして、15年を經過した昭和57年に 森 浩一教授との間で「對論 騎馬民族説」を展開してゐる。
この塲は、江上氏が15年間のmissing ringの補完を中心に 森教授が一方的 聞き役に回ってゐるが、壓巻は 宋書・倭國傳と 梁書・倭傳にある、「倭ノ五王」即ち、
讃・珍・濟・興・武の解釋である。

江上氏は、これは 倭國の朝鮮半島に於ける「潜在宗主權」の主張であると解する。
即ち、百濟、新羅、任那(加羅=韓)、秦韓(辰韓)、馬韓は 扶餘族の統治下にあり、その扶餘の宗家たる倭國の聯合王國(United Kingdom)としての宗主權を主張するものであると。
然らば 神功皇后の 三韓征伐による 新羅、百濟、高麗の服属、中大兄皇子による 百濟救濟のため宗主國としての白村江への出兵 等も容易に肯ける。

今までの國史の解釋は、倭國が任那(伽耶國)に日本府を置いたとするものであったが、
倭國こそが 朝鮮半島南部の宗主國だと謂うのだから 逆轉の發想、廣大・遠大なスケエルの話である。

『古事記』の天皇の没年干支
西暦    干支 代   名前
394年 甲午   15代   應神
427年 丁卯   16代   仁徳
432年 壬申   17代   履中
437年 丁丑   18代   反正
454年 甲午   19代   允恭
489年 己巳   21代   雄略
527年 丁未   26代   継體
『古事記』には年代の記載はないが、歿年干支から比定して 讃=仁徳・珍=反正・濟=允恭・興=安康・武=雄略となる(数年程度の誤差は存在する)。しかし1箇所、『宋書』の記述と明らかに矛盾する箇所がある。すなわち珍を讃の弟とする記述である。

『日本書紀』の天皇の歿年干支
西暦    干支 代   名前 説明
405年  乙巳 17代 履中 仁徳天皇の第一皇子
410年  庚戌 18代 反正 仁徳天皇の第三皇子
453年  癸巳 19代 允恭 仁徳天皇の第四皇子
456年  丙申 20代 安康 允恭天皇の第二皇子
479年  己未 21代 雄略 允恭天皇の第五皇子




26歳若い 佐原 真との二日間に亘る激論は 昭和64(平成元)年2月18/19日の両日、
江上波夫氏 74 歳の時の事である。
江上學説批判の急先鋒、新進氣鋭の 佐原 真の追及に大きな期待が寄せられたが、相手は 何しろ 昭和5年、東京帝國大學文學部東洋史學科を卒業するや、滿洲事變前夜で 無主の地と謂われた 土匪、馬賊が跋扈する蒙古の遊牧地帯を 旅券も持たずに 丸腰で踏破したと謂う筋金入りの古強者(つわもの)。
一旦 歸國して 昭和10年から東方文化學院研究員として 内蒙古を隈無く調査し、中でも オロンスム遺跡調査で、ネストリウス派とカトリック教會等の跡を確認、また佛教などに関する文書を發見し、大戰中も多大な學術成果を上げながら戰後の昭和21年まで 現地に留まったと謂う 經驗豊富で 且つヘロドトスから司馬遷まで 學識豐富な世界的視野を持った學者である。
(大東亞戰争の最中、帝國臣民としての兵役義務をどう遁れたのであらうか?)

果敢に挑戰する佐原に對し、時にはpedanticに 時にはscholasticに, 將に暖簾に腕押し(佐原の表現)で激論にならず。

激論の中で、 馴化(順化)、推戴なら 「征服王朝」と謂う言い方はおかしいとの指摘に對し あれはウィットフォウゲル(Karl August Wittfogel; Conquest Dynasty by Equestrian People/Des Eroberung Gebiet von das Equestrik Volk)が言い出したもので と すらりと鉾先を躱してゐる。

一番時間を費やした 宦官を含む 去勢の問題も 結局 水掛け論に終わってゐるが、蒙古遊牧民の中での10年以上の生活經驗豊富な江上先生が 騎乘方についての發言のなかった事は意外である。
歴史的騎馬民族文明と謂われるものには、アラブ系、ゲルマン系、蒙古系 等々あって、それぞれに それぞれの由來・由縁がある。 就中 騎乘方には 部族によっても 左右の區別があり、一つの目安にはなる。

因みに、平治物語(金刀比羅宮藏本) 「待賢門の軍の事 付けたり 信頼落つる事」 に;
『侍(さふらひ)、「とくめし候へ。」 とてをしあげたり。 こつなくやをしたりけむ、弓手(ゆんで)のかたへのり越(こし)て、庭(には)にうつぶさまにどうど落(おち)給(たまふ)。』とあって すなわち平安朝の我が國 古式は 世界では少数派に属する右側からの騎乘を示す。


作家・司馬遼太郎は、江上を“最も敬愛する人”と言い、「獨自の假説なくして學問なし」という信念の司馬は、“日本の考古學者で、40年の時に耐えうる假説を提示し得た學者”として、江上に對し最高の評價をし、敬意を拂っている。

昭和58(1983)年に 文化功勞者に選ばれ、通常 これは終わりポストなのだが、平成3(1991)年には 文化勲章を受章しているので、その筋に對しても ヤリ手であったと謂う事になる。

從來、我が皇室は 桓武天皇の御生母が百濟王室出身だと謂う事で、朝鮮族の血脈が
流入したと謂われて來たが、百濟王家も 中臣・藤原氏の祖である天兒屋(アメノコヤネの)命(ミコト)も天孫族であり 皇室と同じ ツングウス系扶餘族の血脈だとすれば、崇神天皇以降 萬世一系だと謂う事になる。
大英帝國王室のようにDNA鑑定すれば直ぐにでも判る事ながら、古墳すら發掘を許さぬ宮内廳では叶わぬ話。

疑問も盡きないが、興味も盡きない。

令和貮年盛夏葉月十六日  猛暑ノ日 初稿擱筆


「騎馬民族國家」日本古代史へのアプローチ 江上波夫
   中公新書 昭和42(1967)年 初版


「對論 騎馬民族説」 江上波夫/森 浩一 
徳間書店 昭和57(1982)年 初刷


「騎馬民族は來た!?來ない?!」 激論 江上波夫 vs 佐原 真
小學館ライブラリイ 平成8(1996)年初版(平成2(1990)年 初出)

(2020/08/16)

追 伸; 江上波夫氏の主張するところで、一つ 絶對に同意出來ない點は;
日本語が最も影響を受けた言語は何かとの 森 浩一教授の質問に應えて それは「朝鮮語」だと謂う事です。
日本語は 南方系 マラヤ・オオストロネシア語族系母音言語であり、北方系アルタイ語族子音言語の朝鮮語とは異なり、單語、熟語面での影響も 皆無とは云わぬまでも 主に製鐵關係で山陰地方に渡來してきた人達が遺したと思われる 鑄物關聯の熟語を中心に 僅少です。
追 了


ヒミコから崇峻天皇へ

2020-08-26 20:10:17 | 日記

由 学之進 「ヒミコから崇神(すじん)天皇へ」を讀む。
鎌倉圖書館に藏書(ぞうしょ)なく、神奈川縣立圖書館地下書庫からややこしい手續を踏んで借り出したもの。
通常、卑彌呼と綴るところ、「ヒミコ」としてあるところに 意味あり。

魏志倭人傳(「傳」)に據れば、抑(そもそ)も景初二年 (AD238) に『倭女王 大夫難升米ヲ遣ハス。
魏王 卑彌呼ニ刺ヲ下シ 「親魏倭王」ト認メ 金印紫綬ヲ授ケル。』とある。

一方 第十代崇神天皇の在位は 皇紀に據れば BC97 ~ BC30(*) であり、300年も遡る存在である。
AD238年と謂えば 神功皇后の御代(在位 AD201 ~ AD269)であり、邪馬臺國の女王
 卑彌呼が 神功皇后だと謂う事になってしまう。
(邪馬臺國を 「邪馬壹國」だとする異説もある。 後述 壹與 も 臺與(台与)だとする異説もある。)

記録を遡れば、後漢書 光武帝の建武・中元二年(AD57)(第十一代垂仁天皇86年);
『倭ノ奴國 朝貢、「漢委奴國王」ノ 金印ヲ授ク』とあり 江戸時代中期 福岡縣志賀島で發見された金印が これの事實を裏付ける。

これが 倭人が 漢都・洛陽で 皇帝に拝謁した肇であり、倭人が 漢字を目にした最初であらう。 金印が何を意味し、どう遣うものか分かっていたかどうか?

時代下って AD107 年(第十二代景行天皇37年);
帥升なる人物が 160 人の奴隷(生口)を献上したとの記録もある。

ここで、後漢書の「倭ノ奴國」とあるは、當時の倭國は 統一以前、約100ヶ國に分立状態で、九州北部に 末盧(まつら)國、伊都(いと)國、不彌(ふみ)國、奴國(なこく) 等ある中で、 志賀島を含む 奴國から朝貢があった事を示す。

後漢書や傳の紀年は正確だと考えられ、邪馬臺國=大和國(倭國)、卑彌呼=神功皇后だとする説も 慥かに存在する。

この説の難點の一つは、魏書東夷傳にある;
その南に狗奴國あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。その八年(正始8年)、太守王頎官に到る。倭の女王卑彌呼、狗奴國の男王卑彌弓呼ともとより和せず、倭の載斯・烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。
「其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不属女王 (中略)其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼興狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状」 -- 『魏書』東夷傳
にある。
この 男王・卑彌弓呼が治める 狗奴國については諸説、俗論ある中で、内藤湖南博士は;

肥後國球磨郡は 熊國つまり 記紀の 熊 縣(くま ノ あがた) の遺穪地であってこれを狗奴國だとし、同國菊池郡を狗古智卑狗と關係付け、狗奴國を肥後國とし その中心地を菊池郡城野郷に比定した。

卑彌呼や 邪馬臺國については 異論・異説、萬説あるが、ここは 「傳」と古事記・日本書紀(「記紀」)の記述から導き出したとする著者の説を 簡潔に纏めると以下の斯し;

傳 記 紀
邪馬臺國 高天原(たかまがはら) = 倭國(やまとのくに)(大和國)
狗奴國 紀之國
邪馬臺國の大夫 難升米 思金
狗奴國の王 卑彌弓呼 スサノヲ(須佐之男命(記) 素戔嗚尊(紀))
卑彌呼の弟 月讀
卑彌呼宗女 壹與 天ノ岩戸以後の 天照大御神(アマテラスオオミカミ)
卑彌呼 天の岩戸以前の 天照大御神

(註) 難升米、「ナシメ」。 紀の 傳引用文の中に 難斗米(なとめ)とあり、「ナトメ」が正しい可能性を残す。
思金、「オモイカネ」。 記では 思金、紀では 思兼 であるが、訓は孰れも
「おもいかね」。

傳では 卑彌呼の死を AD 248 だと讀みとれ、著者はアマテラスの岩屋戸こもりを その死を意味すると解す。 そして、箸墓に葬られたと。 傳の「大作冢 徑百餘歩」の記述と合致すると。 そして 記にある 天石屋戸(アメノイワヤト)開きを 壹與 の即位式だとみる。
(傳では 壹與(壱与)となってをり、訓は「ヰヨ」であらうが、後代の 梁書、北史では 臺與(台与)(訓は「トヨ」か?)となってをり、本書の筆者は 一貫して「台与」を採ってゐる。)

問題は、記紀の中に ヒミコ(卑彌呼) なり 壹與(ヰヨ) に比定する人物が存在しない事である。
此處は 著者の筆を その儘 鵜呑みにすると;
ヒミコは 第八代孝元天皇(月 讀)の御代(皇紀BC214 - 158)の「モモソ姫」
ヰ ヨは 第九代開化天皇の御代(皇紀BC157 – 98)の「トト姫」
だと 比定している。

そして、第十代崇神天皇こそが 記に謂う「爾ニ日子番能(ヒコホノ)邇邇藝命(ににぎノみこと)、天降リマサムトスル時ニ ・・・」とある アマテラスの孫、天孫降臨のニニギその人であると斷定する。
(註; 記では 邇邇藝命、 紀では 瓊瓊杵尊)

第十代崇神天皇は 皇紀にしたがえば BC97 年即位、退位BC30 年で 在位68年。
薨去は 記では 168 歳、紀では 120 歳となってゐる。
崩御年代は 晋書に據ると、「戊寅」(つちのえとら)とあるから AD318 であらう。
これを逆算すると、即位は AD250 年で 傳にある ヒミコの死から 2 年後と謂う事になり、10年程度の誤差を考慮に入れると 大體 辻褄は合う。

この 崇神天皇を初代だとするのは 司馬遼太郎史觀にも繋がるものであり、
ニニギ = 崇神天皇だと證明されれば その通りだと謂う事になる。

問題は 皇紀にあるBC97年との差、347年をどう埋め合わせ、初代神武天皇から第九代開化天皇の御代までの563年間をどう説明するかである。
司馬遼太郎は 何の説明もすることなく、この9 代は 神話の世界だとして切り捨ててゐる。

筆者は 神話(fantasy)とも謂える記紀をnon-fictionに組み換え 400 枚を費やして懇切に説明を加えてゐる。 が、淺學菲才には 丸呑み鵜呑みにするしか 咀嚼の方を知らず。

概括すると、神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)とは 應神、天武から一字を頂いた應神天皇の化身で、記紀の發起者である天武天皇の意を帯して 稗田阿禮、太安麻呂が創作したもので、發起から完成まで年月を要したのは そのせいであると。

そこまでは丸呑みにするとして、第十一代垂仁天皇の即位がAD318年、皇紀では
第十六代仁徳天皇の御代であり、この複層をどう埋め合わせるのであらうか?

興味は盡きないが、頭の中は 益々 混亂輻輳する。
最後に 筆者の記紀の神名/王名の解釋を下記する;

神 名 王 名
イザナキ    孝 霊
月 讀 孝 元
オシホミミ 開 化
ニニギ 崇 神
天照大御神(卑彌呼) モモソ姫
天照大御神(台 与) トト姫



(2020/08/08 初稿)


(*)皇紀神武天皇元年を 西暦BC660年、皇紀崇神天皇元年を 西暦BC97年
として夫々の西暦年代に換算したもの。



ヒミコから崇峻天皇へ   由(ゆう) 学之進
〒228 座間市相模が丘 由学習塾 平成1年7月7日 定価1200 円


和漢朗詠集

2020-08-26 19:51:46 | 日記

つけたり;

大納言 藤原公任卿(九六六 ~ 一○四一)の撰と謂われる「和漢朗詠集」は
原文は「漢文」であり、當初 漢音直讀であったと考えられるが、平安中期に至り 天臺系讃唄(さんばい)、淨土眞宗聲明(しょうみょう)として 順次 讀み下しに推移、平安末期には 今様(いまよう)として
頼朝をして「天下一の大天狗」と言わしめた 後白河法皇にも訓讀されたものと考えられる。

このアンソロジイは 戰國末期の慶長五年 (1600) 耶蘇會により「朗詠 雑筆(ざふいひつ)」
吉利支丹版として 長崎學林から 羅甸語(ラテンご)で出版されてゐる。
天正遣歐使節團から寄贈された一冊の原本が マドリッド北西の San Lorenzo de
El Escorial の大修道院に保管されてゐると謂うが、詳細は承知しない。


訓讀の中から 現代日本語の讀みとは異なる熟語を 以下 列記する。

今様詠み     現代讀み

三月三日   さんぐゑつさんじつ さんがつみっか
梅   むめ     うめ
納涼   だふりょう   のうりょう
蓮   はちす   はす
扇   あふぎ   おおぎ
七夕   しつせき     しちゆう
十五夜 しふごや     じゅうごや
九月盡 くぐゑつじん   くがつじん
紅葉・落葉 こうえふ・らくえふ こうよう・らくよう
初冬   そとう   しょとう
管弦   くわんぐゑん   かんげん
眺望   てうばう     ちょうぼう
親王   しんわう     しんのう
妓女・遊女 ぎぢょ・いうぢょ   ぎじょ・ゆうじょ
老人   らうじん     ろうじん
懐舊・述懐 くわいきう・じゅつくわい かいきゅう・じゅっかい

(2020/07/31 記)