歴史は NHK が創る。
永井路子『相模のもののふたち』を讀んで惟ふ事;
永井路子 相模のもののふたち ~ 中世史を歩く
有隣堂 昭和五十三年六月
鎌倉殿の十三人,三谷幸喜の脚本には 些か違和感を覺へる。
將に歴史は NHK が創るだ。
先週は遂に 後に鎌倉幕府第三代執權となる北條泰時、即ち 第二代執權北條義時コト 江馬(ゑまノ)小四郎(こしろう)の長男 金剛の誕生をみる。 しかも 何と その生母が頼朝の最初の愛人であり、頼朝の監視役であった伊東祐親の三女・八重姫だと。
本來 八重姫は物語からとっくに消へてゐる筈の存在であるが、いつまでも 小四郎にくっついて出てくるのは NHK大河ドラマに特有の、「プロデューサーが贔屓(ひいき)の女優を玩(もてあそ)ぶ手法」だと思ってゐた。 新垣結衣と謂う女優の名前から 世間では「ガッキヰ愛」と呼ぶそうだ。 (4/26配信 東スポ記事御参照。)
三谷幸喜は ガッキヰにメロメロだそうです。
北條義時には「姫の前」と謂う頼朝の乳母筋にあたる比企朝宗の娘の正妻があり、北條朝時(名越流祖)、北條重時(極樂寺流祖)と謂う二人の男子がゐる。
金剛の生年は 壽永二(1183)年、義時 数え二十歳の頃であり 生母は側室の阿波局と謂う事になってゐる。 この頃 小四郎は未だ部屋住みの身であり、頼朝の寢所を警護する 11名の一人に選ばれた(『吾妻鏡』養和元年四月七日條)頼朝の個人的な側近・親衛隊で「家子」と呼ばれた頃の事である。
Wiki によると; 阿波局の生沒年、出自など詳細は不詳だが、坂井孝一は「推論に推論を重ねることを承知の上で、いささか想像をめぐらしてみたい」「単なる推論、憶測と退けられるかもしれないが」「不明な点、論証できない点は少なくないが」と断った上で、源頼朝の最初の妻であった八重姫と同一人物ではないかとの仮説を提示している。また、この縁組の背景として、義時が江馬次郎(小四郎)に代わって江間を領有したことがあるのではないかとしている、とある。
Who 坂井孝一? 創價大學教授で 何と此の番組の時代考證役だと。
何故 學會が時代考證役を送り込む? 勘ぐれば鎌倉は日蓮宗發祥の地であり大作の指示によるものか? 三年後、五年後 これが史實となる。 歴史はNHKにより創られる、否 池田大作先生の意のままに造られる??
北條氏と謂うのは、抑も その出自がはっきりせず、鎌倉幕府初代執權・北條時政ですら元々 桓武平氏高望流・平直方の子孫を自稱して 平四郎(たいらノしろう)を名乘ってゐたと謂はれる。
鎌倉殿の舅として 一代で勢力を蓄へたと謂う事になるが、正妻は伊豆の豪族 伊東祐親の娘であり 大番役にありついたりと 生來 遣り手ではあったのうであらう。
鎌倉殿の押しかけ女房であり 惡名高い北條政子であるが、 生年は逆算して保元二(1157)年だと謂う事になってゐるが、生母も幼名も不明。 そも 北條政子と謂う 名乘りそのものが文献では確認されてをらず、鎌倉入府の後は 御臺所、 頼朝死後は 尼御臺で 官位を受けるのに父親時政の一字を借りて 平政子(たいらノまさこ) としたとある。
北條政子はあくまで後世の歴史用語だと謂うのが定説である。(因みに 政子の同母妹は 時子)
前出 創價教授によると、眞名本『曽我物語』巻五に 「鎌倉殿の御台盤所」の母が蘇我兄弟の伯母とあり、政子の生母は 宗時、義時と同じ伊東祐親の娘だとの説を採ってゐる。 然らば 義時は叔母を側室として嗣子金剛をもうけたと謂う事になる。
即ち 伊東祐親には正妻との間に三人の娘がをり、長女は 三浦義明の嗣子・三浦義澄へ、 次女が北條時政の正室、三女・八重姫に頼朝が手を付け、江間次郎に嫁がされたと謂う事になる。
この第二代北條執權北條義時は ある時期まで 江馬小四郎(江間四郎)を名乘ってをり、 この「江馬」(江間)姓は伊東祐親が八重姫を流人・頼朝から切り離して嫁がせた相手の 江間次郎の本貫地であり、富士川の戰で江間家が滅亡した後に頼朝から江間領を安堵されたものだと考へられる。 或いは その時に 八重姫共々安渡されたものか?
鎌倉時代と呼ばれる150年間、北條氏執權 17 代 130年を宰領するが どうもこの三代目までの出自がはっきりしない。
北條時政以前は伊豆・韮山に土着の小開拓農塲主といったところであったのであらう。
一日天下の 第17代執權 北條貞將が 元弘三(1333)年 新田義貞に滅ぼされて以降 一族は離散消滅する。
我が家が鎌倉へ引っ越して以降 先祖の菩提を弔って貰ってゐる鎌倉市内唯一の浄土眞宗本派本願寺派・亀甲山法得院成福寺(じようふくじ)は 第三代執權北條泰時の子である北條泰次により貞永元(1232)年創建。親鸞聖人が東國常陸稲田草庵での布教から京へ戻る途次、小袋谷を訪ねて歸依することになったと傳へられる由緒ある古刹である。
親鸞聖人傳記によると; 幕府による念佛停止(ちようじ)により京に戻ったとある一方、この時期 「一切經の校合(きようごう)」の爲 北條泰時に召され 暫く 鎌倉に滞在したともある。
孰れにしても 親鸞聖人が直接 開山に深く係はってゐた事は間違いないようだ。
平成二十四(2012)年 親鸞聖人七百五十回大恩忌(だいおんき)に茨城縣笠間市西念寺から京都まで 聖人の足跡を辿る徒歩行脚があったが、その時も 戸塚宿から藤澤宿の間 成福寺を經由してゐる。
ご多分にもれず 北條氏滅亡の後は、一時期 伊豆へ避難。北鎌倉の臨濟宗五山がそうであったように 復歸したのは江戸時代に入ってからであり、その間 北條姓を名乘ることも出來ず 現在の住職は太田姓である。
北條氏三鱗(みつうろこ)紋・成福寺山門 境内の親鸞聖人像
亀甲山法得院成福寺、 鎌倉市小袋谷
親鸞聖人から贈られたと謂う 聖徳太子像が
秘寶として保管されてゐる事は
あまり知られてゐない。
親鸞聖人から贈られたと謂う 聖徳太子像が
秘寶として保管されてゐる事は
あまり知られてゐない。
伊豆の國市韮山にある 晴雲山成福寺
第八代執權北條時宗の三男正宗が 正應二(1289)年 天臺眞言宗から浄土眞宗に改宗して開基した 北條一族の菩提寺。
第八代執權北條時宗の三男正宗が 正應二(1289)年 天臺眞言宗から浄土眞宗に改宗して開基した 北條一族の菩提寺。
こちらは 伊豆・河津にある 佛法山専光寺、鎌倉・成福寺の縁戚。
5/01 放映の 第17回には 秋元才加扮する巴御前(鞆、鞆繪)が木曽義仲の書翰を携え 和田義盛に連れられて鎌倉に現れる。
巴御前の名前が見へるのは『平家物語』と『源平盛衰記』のみであるが、源平盛衰記には慥かに和田義盛の妾となったとの記述があるので、ここは 荒唐無稽とは言い難いのかも知れない。
5/08 放映の 第18回には 小泉孝太郎扮する 平宗盛が 腰越状の代筆をする。
これは 全くの新説であり 創價教授の創作か?
これからも どんな珍説・奇説が飛び出すか、目が離せない。
そこに行くと、永井路子は史實、定説に忠實である。
三浦一族;
歴史を表から觀ると、治承四(1180)年八月十七日の 流人・源頼朝の旗揚げは舅・北條時政・宗時父子による目代・山木兼隆襲撃に始まるが、永井路子説によると、この火付け役は 三浦義澄ではないかとの説を開陳してをられる。
この時期 三浦一族の総帥は 齡八十九歳の三浦義明。 その嫡流 三浦義澄は 旗揚げの二ヶ月前、六月二十七日に京都での「大番(おおばん)」の歸路、下総の豪族・千葉常胤の六男胤頼とともに流人・頼朝を訪ね「御歡談、刻ヲ移ス。 他人コレヲ聞カス」との『吾妻鏡』の記述を引用しながら、この時 旗揚げを教唆したのではないかと記述する。
事實、旗揚げ時 頼朝の軍勢は 100 に満たず、土肥實平等の加勢を入れても 石橋山での兵力は 300 弱。 對する大庭景親・伊東祐親勢は 3,000余騎と謂はれ勝負にならない。
加勢の 三浦義澄・和田義盛勢 500 騎は酒匂川の氾濫で川を渡れず、引き返すが 由比ヶ濱で畠山重忠の軍勢と遭遇、一戰を交へ、結局 小競り合いの後 三浦勢は本貫の衣笠城に引き揚げて籠城。
老將三浦義明の見事な采配で畠山軍勢 3,000 騎を翻弄するが 所詮は多勢に無勢。
何度かの攻防を經て 愈々 落城と謂う前夜、三浦義明は 皆を集めて「落ち延びよ!」と嚴命、自らは 腹を切って果てる。 この采配は 鎌倉武士からぬ仕儀ながら永井路子は高く評價してゐる。
海の強者(つわもの) 三浦一族は 海路 安房に渡り、同じく眞鶴から土肥實平(とひさねひら)と海路落ち延びてきた頼朝一行と合流する。
ここで 安房(安西景益)・上総(上総廣常)・下総(千葉常胤)の軍勢の應援を得て 大庭景親・畠山重忠の平氏軍勢を蹴散らし 鎌倉に攻め入る經緯は定説の通り。
富士川の戰で、大庭・伊東・畠山が没落。 頼朝の上意を忖度して梶原景時が上総廣常を料理してしまうと、三浦一族が北條氏と拮抗する最大ライバルとなる。
度々 足の引っ張り合ひはやるが、全面的 武力衝突はお互いに忍耐強く避け、決着が付いたのが 三浦義明 → 義澄 → 義村 → 泰村(兄)・光村(弟)の時代、
北條氏では 北條時政 → 義時 → 泰時→ 經時 → 徳宗家第五代執權・時頼の時代。
寳治元年(1247)の寳治の亂で決着が付く。 北條執權獨裁が確立して専横、安定勢力となるには平家滅亡の文治元年から 實に 62 年、頼朝が征夷大將軍に任命された
建久三年(1192)からでも半世紀以上の歳月を費やしてゐる。
和田義盛;
和田義盛は三浦一族であり その本貫地は現在の三浦市初音町和田。相模灣に面した三浦市の北西部・横須賀市長井と接する辺りにある。
父は三浦大介義明の長男であるが 杉本義宗を名乘ってをり、杉本觀音の北側に 杉本寺、「杉本城跡」があるので現在の二階堂一圓を領してゐたものと思はれる。
ここは大庭景親とその領袖たる梶原景時と境を接してをり 謂はば源平拮抗の最前線。三浦一族の惣領としてここを任されてゐたわけである。
しかし 杉本義宗が早世したため三浦一族の後嗣は次男の三浦義澄が引き嗣ぎ、義宗の 長男義盛は和田姓を名乘る。
衣笠城から海路安房へ逃れたところで、同じく眞鶴から落ち延びた頼朝一行と遭遇するや「佐(すけ)殿、 大願成就の曉には 是非 侍所の別當に ・・・」と 唐突に懇願したという。
その甲斐あってか、長老支配の御家人連を差し置いて 若くして鎌倉幕府・侍所初代別當に抜擢される。 武者所別當と謂えば 総務長官 兼 陸軍大臣 兼 參謀総長に匹敵する地位で 絶大な權力を有する。 因みに この時 副長官に相當する 侍所所司には 格上の梶原景時が就いてゐる。
この 和田義盛の抜擢を永井路子は頼朝の「名人事」であると高く評價してゐる。
ドラマで觀る通りの勇猛果敢、直情徑行を繪に描いた様な性格で、頼朝存命中は 先達御家人を采配して軍功を擧げ 辣腕を振るうが、二代目執權北條義時の狡智な挑發に引っかかって擧兵。 善戰するも敗死。
敗北の原因は 戰のさなか 三浦義村が義時に内通して裏切った爲である。
北條義時の よほど巧妙な調略だったのであらうが、「三浦の犬は友を喰う」と謂う世間一般の 三浦義村に對する惡評が殘されてゐる。
TVドラマの中では、山本耕史演ずる三浦義村と 小栗旬演ずる北條義時が 「家子」の時代から昵懇であったように描かれてゐるが、眞相は不明。
五月二日から始まった和田合戰では 巴御前との間の一子であると謂はれる 朝比奈義秀(源平盛衰記)が大活躍、北條氏に反感を抱く御家人の加勢を得て善戰するが、最後の 決戰塲となった由比ヶ濱には「和田一族戰歿地」の碑がある和田塚がある。 ここは元々 石器時代から塚のあった塲所で 由比ヶ濱海岸から戰歿遺骸が集められ葬られた塲所である。
ここで歴史の「If」。
この時 三浦一族が合力してゐれば 北條氏は二代目執權で消滅、三浦執權の時代が到來してゐたであらう。
三浦一族には 杉本義宗・和田義盛に代表される武勇の血と 三浦義澄・義村の斯き 權謀の頭腦が混在してゐたようで、義村には 別の計算があったようである。
『吾妻鏡』によると 承久(じようきゆう)元年正月二十七日の鶴岡八幡宮拝賀の際、北條義時が將軍・實朝の脇で太刀持ちをする豫定であったが、當日 急に軆調不良を訴え 源仲章と交代、結果 仲章は實朝と共に暗殺され、義時は生き延びたとある。
一方、『愚管抄』には、「義時は 實朝の命により、太刀を捧げて中門に留まってをり、本宮には同行してをらず、 ・・・」として 自邸には戻ってをらず 殺害現場の石段の下にゐたような記述になってゐる。
この事實から 吾妻鏡の記述は 北條氏に忖度した曲筆だとの説もあり、一般には 實朝暗殺・義時黒幕説が信じられてゐる。
一方 永井路子の方は、三浦義村の妻は 頼家の息子・公曉の乳母であり、實朝暗殺の黒幕は義村だとみてゐる。
何れにしても状況證據からは 義時・義村の孰れにも動機はあり、孰れかが黒幕であることは間違いなかろうが、義時が下手人の公曉を誅殺してしまい 眞相は永久に闇の中である。
ドラマの中で 北條義時を演ずるのは小栗旬。 明るいキャラが幸いして 頼朝の忠實な腰元、ガッキイ演ずる八重姫の良き夫、長男金剛の良きパパを好演してゐるが、實際の 義時は 父・時政以上の權謀術數の輩で、これまた NHK 創作による 新たに善良な 北條義時の誕生である。
長男金剛、即ち 後の北條本宗家第三代執權泰時は 第二代執權義時の長子ながら庶生。
御成敗式目の制定者として知られ、祖父・時政、父・義時とは異なり 人格的にも優れ、武家や公家の双方からの人望が厚かったと肯定的評價をされてゐる。
時政・義時の時代は 北條家創始のための權謀・騒亂の時代で、御成敗式目の制定により第三代目から安定的かつ堅實な北條本宗家が確立されたと謂へようか。
北條時政には、TV ドラマで宮澤りゑ演ずる後妻以前に 宗時、政子、時子、義時、阿波局 等々の子供がゐる。長子・宗時が 正室である伊東祐親の娘が生んだ正嫡であることがはっきりしてゐるが、宗時が 石橋山の戰いで戰死したため、急遽 江馬小四郎を呼び戻して後嗣にしたが、生母が誰であるかははっきりした記録がない。
政子、時子は同腹であると謂はれるが、義時 阿波局同様、生母に関する詳細は不明。
TVドラマの中では、宮澤りゑ役には「りく」、宮澤喜一総理の孫で 混血の宮澤エマには「実衣」と謂う役名が與へられてゐる。
角川web theTV では はっきりと宮澤りゑは「牧の方」、宮澤エマは「阿波局」となってをり、宮澤りゑ役は 誰が見ても「牧の方」以外にありえない。
宮澤エマ役は 政子と同腹の妹 時子 と 阿波局を兼ね備へた人物設定だと思う。
孰れ、ドラマの展開で、宮澤エマ役が 阿野全成と結ばれれば「阿波局」だと謂う事になる。 この阿波局は 金剛即ち 第三代執権北條泰時の生母とは 全くの別人である。
ことほど左様に、北條家三代目までは 出生・出自がはっきりせず、シナリオの三谷幸喜の思いのまま 自由自在に創る事が出來るわけである。
それが 三年經つと 史實になるから恐ろしい。 將に歴史はNHK が創るである。
土肥實平; 石橋山の戰いで 流人・頼朝を絶體絶命の窮地から救い出した、源頼朝にとっては 文字通り 命の恩人である。
にも拘はらず 鎌倉幕府成立後は 余り重用されることもなく、源平攻防戰では梶原景時が義經の 土肥實平が範賴の軍監をつとめた事が記録されてゐるが、その後 吾妻鏡からも消息が消へてしまう。
そもそも、兄を慕って奥洲平泉からやって來た義經を頼朝に引き合はせたのも、富士川の戰で投降した梶原景時を 鎌倉どのに取りなしたのも この土肥實平だと謂はれる。
桓武平氏良文流中村宗平の次男で、一族で相模國の有力武士團・中村黨を形成。
現在の湯河原町から眞鶴町を本貫とする。 戰塲となった石橋山は 眞鶴半島の北方 丁度 小田原との中間に位置し、石橋山の戰いで敗れた後 我が家の庭のような地元の 山中に流人・頼朝を匿ひ 熱(ほとぼ)りが冷めた頃合いを見計らって眞鶴から安房へ落ち延びる。
現在、この近辺には中村・土肥の地名は殘されてをらず、伊豆半島駿河灣側に漁港として有名な土肥町があるが 土肥實平との關係は不明。
そも町名の方は「とい」であり 永井路子も「とい」と假名を振るが、Wiki では 「どい/どひ」とあり どちらが正しいのかも判らない。
別説では、安藝國沼田莊の地頭職に任じられ、毛利三兄弟として有名な小早川隆景の養家が土肥實平を祖とするとの説もあるが詳細は不明。
孰れにしても、本貫地に戻ることはなく「土肥」の名跡は歴史の中に埋没して忘れ去られた存在である。
曽我兄弟;
言はずと知れた 父の仇を討った「曽我物語」の主人公であり、戰前の公民教育では 親孝行の鑑とされてゐたが、戰後 マ元帥から「忠臣藏」とともに「仇討ちまかりならぬ」と 御法度となり 今ではすっかり忘れ去られた存在である。
曽我の地名は有名な梅林とともに小田原市にその名を留めてゐるが、曽我の姓は 兄弟の母親が父親・河津祐通の死後再婚した相手・曽我祐信の姓で 兄弟の元々の名は河津祐成(一萬・十郎)、河津時致(筥王・五郎)であるが、伊東・河津・曽我は 元々工藤一家の同族である。
ー 永井路子は 面白いことを言ってゐる ・・・ 伊東祐親の家祖が
伊豆の東に進出した時に、「伊東氏」を名乘るようになった と。
ー 明治維新まで續いた 日向飫肥藩の伊東氏は 家祖が日向地頭職に任じられ 土着したもので 薩摩島津と並んで古い家柄である。
河津祐通と工藤祐經の 同族同士の所領爭であるが、古く、永い、複雑な經過があって 工藤祐經が河津祐通を討ったのは事實であるが、永井路子の分析では この争い 工藤祐經の方に「理」があると謂う。 その意味では 曽我兄弟の行爲は まさしく逆恨みであるが、それを言ってしっまっては美談が成り立たない。
しかし、路子女史は 工藤祐經が 一方的に惡者に仕立てられたことがご不満のご様子。
旗揚げ時から頼朝側について 御家人として重用された工藤祐經の仇の子として、兄弟は辛酸を嘗めながら育つ。
復讐の機會が訪れたのは、建久四(1193)年五月二十八日、頼朝主催の富士の裾野での 巻き狩。 雷鳴轟く豪雨のさなか仇討ちを果たす。
吾妻鏡によれば、暗夜、現塲では大混亂が起き、同士討ちで有力御家人に多くの死傷者がでた。 この騒動のトバッチリで 頼朝の弟、蒲冠者範賴が失脚する。
大庭景親;
大庭一族は 現在の藤澤・寒川・辻堂・茅ヶ崎を本貫とする 相模の一等地の大豪族であり 元々 桓武平氏良文流である。
源平盛衰記によると; 流人・頼朝から 旗揚げの誘いがかかった時、一族の総帥であった大庭景親は 實兄である懐島景義に相談、合意の上で 兄弟 源平に分かれて相まみえる。 大庭景親は平家側につき 伊東祐親、腰元である梶原景時等と 3,000騎で石橋山で勝利。 しかし富士川の戰に敗れ 降伏。
鎌倉殿は 伊東祐親と梶原景時は赦したものの、大庭景親は斬首。
伊東祐親は 北條時政の舅であり、何よりも 頼朝にとって最初の愛人の父親であるとことから助命は當然だといへようが、吾妻鏡によれば 祐親自身はこのことを恥じて自決したとある。
ところが、TV ドラマでは この自決の塲面に 憎タレ顔した中村獅童演ずる梶原景時がウロチョロしてをり、永井路子も 名指しこそしてないが「暗殺」説を示唆してゐる。
藤澤近辺を領土とする弟・大庭景親と 寒川・茅ヶ崎近辺を領地とする實兄・懐島景義が合意の上で敵味方に分かれたのは、一族の一擧全滅を避け 家名を守る爲の 智惠であり、後に 戰國の御代 眞田一族等が採った生き殘り策の嚆矢である。
波多野氏;
永井路子は、「山の武士團の興亡」として 波多野氏 河村氏に 一項を設けてゐる。
小田急線に秦野(はだの)と謂う驛があるが、昭和62年(1987)に改稱される以前は 大秦野(おおはたの)と呼ばれてゐた。 ここが 波多野氏の本貫である。
驛近辺の地名は大秦町(たいしんちよう)、まさに 太秦(うずまさ) だ。
西に行くと 松田氏、山北に河村氏、更には 小田原・曽我の近くに大友氏の本據があり 孰れも 波多野一族だと。
曽我の近くに東大友・西大友の地名があり ここが大友氏の本貫であらう。
波多野氏は 桓武平安朝遷都に功績あった秦氏、即ち 秦の始皇帝末裔を自稱する渡來人の技術者集團であり、猶太人(ユダヤじん)の末裔である。 なんで猶太人の集團が相模國へ?
猶太人と謂うのは 元々 Diaspora 即ち「流浪の民」であり、Loudaia の祖 Abrahamの十二人の息子(十二支族)がカルディアのウルを流浪の旅(diaspora)に出たのがBC3,000。
その中に 日出ズル國(le soleil levant)を目指した一團がゐたと謂う事である。
そして 上代、一派が 長宗我部氏に伴われて四國に渡った様に、波多野氏が相模國を目指したとしてもおかしくはない。
驚いたのは、この波多野氏系圖の中に「大友能直(よししげ)」の名前を見つけた事である。 鎌倉幕府御家人であり 初代豐後守護職。
建久七年(1196) 鶴岡八幡宮の神輿を先頭に 豐後國・速見郡濱脇の濱に一族を引き連れて海路上陸。 大分縣人で その 第21代 大友宗麟の名前を知らぬ者はない。
南方系母音語族である豐後國(ぶんごノくに)にも 鎌倉時代、猶太人の血が入ってゐるとは!!
朝見八幡 神(こう)宮司を始め 大分縣には 一万田、戸次(へつぎ)、大神(おおが)、木付(きつき)、蒲池、野津、臼杵等々 特有な姓があり、孰れも 大友氏支流 ないしは 相模國から 大友能直に從って豐後へ赴任した家臣團の末裔だと考へられる。
梶原景時;
天下にその惡名を轟かせた 根っからの「惡(わる)」であるが、北條時政・義時や 三浦義村のような權謀術數の陰謀家ではなく、單なる頼朝の虎の威を借りる小賢(こざか)しい狐であり、 「讒言」(他人の惡口を惡意をもって告げ口する)の輩である。
人徳は勿論 人望もなく 頼朝が逝くと、一應 13 人のなかの一人に選ばれたものの、御家人66人の連判状を突きつけられて失脚。 京へ逃げる途中 駿河で捕まって誅殺される。
生まれついての惡相である中村獅童演ずる梶原景時は 將にピッタリのはまり役である。
永井路子初期の作品(昭和三十九1964年初版)であり 直木賞受賞作に『炎環』という小説がある。
惡禪師・阿野全成(頼朝の異母弟であり 義經の同母兄)、黒雪賦・梶原景時、いもうと・北條保子(阿波局、北條政子・時子の異母妹)、覇樹・北條義時の、鎌倉幕府 四惡役を描いた作品である。
この中で永井路子は 梶原景時失脚の仕掛け人は この阿波局だとして描き、それが今や定説になってゐる。
その後、梶原景時をみなをし、「侍所の性惡所司」から「きまじめすぎた鬼檢事」に評價を變へてゐる。
そして、大庭景親の配下にありながら、石橋山で惨敗を喫し 土肥の椙山に逃げ込んだ 頼朝を、景親を欺ひて見逃した有名な一件も 後世の創作ではないかとしてゐる。
また、TVドラマの中で、有名な屋島の合戰前夜の「逆櫓」の一件にしても、景時は義經に同意したように描かれ、先週第20回の放映では、義經が鎌倉攻めの方策を景時に書き送り 景時が絶賛する様が描かれてゐるが、これも 三谷幸喜の創作である。
平家物語に描かれた 義經と景時の仲は まさに犬猿の仲であり、あることないこと頼朝に讒訴して 兄弟の仲を引き裂いた張本人こそ この巨悪・梶原景時である。
中村獅童の惡相と共に、梶原景時はどうしても好きになれない。
澁谷氏、海老名氏、愛甲氏
小田急線に 高座澁谷、えびな、あいこういしだ なる驛名がある。 孰れも 横山黨なる武士集團の本據である。
横山氏は 小野妹子の末裔が東國の地方官に任ぜられ 現在の八王子近辺に土着したものだと謂はれる。 その一團が南下して 相模國へ勢力を擴張したものである。
小野妹子、小野篁は 孰れも 天皇家に繋がる血筋と謂はれ、血統的には ツングウス系扶余族の血筋だと謂う事になる。
鎌倉幕府成立から滅亡までの推移;
1180(治承四年)08/17 流人・源頼朝擧兵、伊豆の目代・山木兼隆を襲撃
08/23 石橋山の戰いに破れ、安房に逃れる。
10/06 安房・上総・下総の軍勢を得て劣勢を巻き返し 鎌倉入府
10/20 富士川の戰に勝利
10/26 大庭景親を斬首
11/ 侍所を設置し 和田義盛を初代別當に任命
1181(養和元) 02/04 平清盛歿
1183(壽永二) 12/20 梶原景時 頼朝に忖度して 上総廣常を誅殺
1184(壽永三) 01/20 木曽義仲を追討、敗死させる
10/ 公文所(くもんじよ)(別當 大江廣元)問注所(執事 三善康信)を設置 (公文所は後に 政所(まんどころ) と改稱)
1185(文治元) 03/24 平家滅亡
1192(建久三) 任 征夷大將軍(初代・坂上田村麻呂以來二代目)
1199(建久十/正治元) 01/13 源頼朝歿、享年五十一歳、頼家が家督相続
04/ 頼家親政を廢し、13人の合議制とする(鎌倉殿ノ13人)
1200(正治二) 01/20 梶原景時、御家人66名の連判状で幕府から追放され、
逃亡の途次 駿河で敗死
1203(建仁三) 05/ 頼家 地頭職を 子・一幡 と 弟・千幡(實朝)に譲る
09/02 比企の亂(北條時政 比企能員を刺殺)
實朝 幕府將軍職に就任
時政 頼家を修善寺に幽閉し 自ら初代北條氏執權となる
1204(元久元) 07/18 頼家 殺害さる(黒幕は 北條時政であらう)
1205(元久二) 06/22 時政 畠山重忠を討つ (畠山の亂)
07/ 義時 第二代北條氏執權となる(政所別當)
1213(建歴三) 05/03 和田義盛 北條義時を攻めて敗死(和田の亂)
義時 侍所別當を兼任
1219(承久元) 01/27 實朝 頼家の次男 公曉に殺さる
義時 公曉を誅殺
以上により 源氏の嫡流が斷絶、名實ともに 北條氏による執權政治が確立する。
時政・義時親子は 實朝の扱を巡って 親子斷絶するも 共に 源氏正嫡の剔出剪除と謂う一點では志が一致してゐたと考へられる。
1221(承久三) 05/ 承久(じようきゆう)の變
1224(元仁元) 06/ 泰時 第三代執權
1232(貞永元) 08/ 貞永式目(御成敗式目)制定
1274(文永十一)10/ 元寇・文永の役(執権・第八代北條時宗)
1281(弘安四) 07/ 弘安の役
1333(元弘三) 05/ 第十四代北條高時切腹、鎌倉幕府滅亡。
2022/05/30 初稿
追 記;
1.我が家の家系圖は江戸初期までしか遡れないが、過去帳に『田原宗圓』の名を見る。
若しかして 大友家家臣の田原氏の可能性を排除しない。
南方系オウストロネシア語族だとばかり思い込んでゐた自分のルウツに 俄然 興味が湧いてきた。 機會あれば 是非 DNA 鑑定をしてみたい。
2. 5/29 放映 御佛のまなざし とうとう 八重姫を死なせてしまった。
こんな形で 三谷幸喜のガッキヰ愛にけじめををつけるとは、なんともしっくりしない。