田中角榮氏の事
ー ロッキード事件の謎と闇 ほか ー
石原愼太郎『天 才』(幻冬舎 2016/01/22初刷)に始まって、
馬弓良彦『戰塲の田中角榮』(毎日ワンズ 2011/01/01初刷)
新川敏光『田中角榮 同心円でいこう』(ミネルヴァ日本評傳選 2018/09/12初刷)
に續き;
木村喜助「田中角榮の眞實」 ー 辯人から見たロッキード事件(弘文堂 平成12年9月)
木村喜助「田中角榮 消された眞實」(弘文堂 平成14年2月)
田中角榮 私の履歴書 日本經濟新聞社 昭和四十一年五月
と 立て續けに 田中角榮本を讀んだ。
今日の 田中角榮ブームの切っ掛けは なんと謂っても 石原愼太郎であらう。
現役衆議院議員時代、青嵐會の闘士として 反田中角榮の急先鋒であった石原愼太郎が
何故 角榮シンパに急變したのであらうか?
政治手法も 思想信條をも異にする敵ながら天晴れと感じつつも、それを吐露する機會に恵まれず、その思いを蓄積しつつ、晩年に至って 人生最後の締めくくりに 胸の内を
一氣に晴らすべく執筆したものであらう。
馬弓本も、今年九月、新書版で同じ毎日ワンズ社から復刻出版されてゐる。
馬弓本に興味を覺へたのは、新聞廣告に「・・・ノモンハン戰のときだ。 トラックに揺られ戰地に向かう・・・」云々とあった爲で、調べてみると田中角榮二等兵の所属原隊は
騎兵第二十四聯隊(盛岡・騎兵第三旅團隷下)で 駐屯地は滿洲東北部・富錦(旅團司令部は寶清)で、ノモンハン戰には參戰はおろか、出動もしてゐない。
この辺りが 新聞記者特有の”キャッチ・アイ”筆法で、記述全體の信憑性、精確性に
疑問を殘す。
さて、二冊の木村本であるが、著者は 所謂 ロッキード事件丸紅ルートの
田中角榮、榎本敏夫両被告の辯護人を勤めた辯護士で、公判廷での審理を時系列的に詳細を記したものである。
中でも、二冊目は 取り調べ調書の原文を引用しながら、公判廷での反證・陳述内容を
素人には非常に判りにくい専門用語の儘 記したものである。
少し ロッキード事件なるものを振り返ってみませうか。
發端は 昭和51(1976)年2月4日 米上院外交委員會多國籍企業小委員會
(所謂 チャーチ委員會)で;
昭和48(1973)年8月9日附け ピーナッツ 100個
昭和48(1973)年10月12日附け ピーシズ 150個
昭和49(1974)年1月21日附け ピーシズ 125個
昭和49(1974)年2月28日附け ピーシズ 125個
Hiroshi Itoh 名儀の受領書の存在が暴露される。
そして、Hiroshi Itohは 丸紅社長室長の 伊藤 宏常務取締役(當時)であり、
ピーナッツ・ピーシズとは 一個100萬圓、即ち 合計 五億圓の受領書であることが
判明する。
さー、日本はテンヤワンヤの大騒ぎ。
三木武夫バルカン首相を始め、稲葉 修スカタン法務大臣、はては 大藏省主計局長在任中に昭和電工から拾萬圓を収賄して逮捕・起訴され、講和條約恩赦で なんとか 政界入りを果たした 福田赳夫までが惡乘りして 巨惡追及を絶叫。
新聞は、眞相究明、金權政治打破、を叫んで 世論を煽り立てる。
沸騰した世論を後押しに、檢察は 先ず この「ピーナッツ、ピーシズ」領収書を手懸かりに コーチャン社長、クラッター東京支社長の『嘱託尋問』から取りかかる。
後に、訴訟の最終段階で 最高裁判所は この問題の「嘱託尋問」を違法として
嘱託尋問調書を證據から除外の判決を下すのだが、この時期は 加熱した世論に煽られて 最高裁判所までが檢察に同調して、「刑事免責」のお墨付きまで與へる騒ぎとなる。
一方、受託収賄事件だとすると、その公訴時効は ピーナッツ 100個受領の
昭和48年8月9日から三年、即ち 昭和51(1976)年8月8日までに 起訴しなかればならない。
公訴時効の壁に追い詰められて せっぱ詰まった檢察は 別件逮捕と謂う傳家の寶刀を振りかざし;
6月22日 大久保利春
7月2日 伊藤 宏
7月13日 檜山 廣
と 立て續けに 孰れも 議員證言法違反容疑で 別件逮捕に踏み切る。
それに引き續き、丸紅飯田の総務課長、伊藤専務専属の運轉手、秘書課長を
證據隠滅容疑で逮捕投獄する。
捜査を指揮したのは、手荒い強引捜査手法で名を馳せた、岡山大學法文學部出身で、後に
檢事総長の椅子にまで登り詰める 吉永祐介東京地方檢察廳特別捜査部副部長である。
そして、公訴時効を二週間後に控えた 七月二十七日 本命の 田中、榎本両容疑者を
外國爲替及び外國貿易管理法違反容疑で逮捕に踏み切る。
そして;
8月2日 檜山 廣被告を 外爲法違反で起訴
8月9日 榎本敏夫被告を 外爲法違反で起訴
8月16日 田中角榮被告を 外爲法違反ならびに受託収賄罪で起訴
公判は 以下 三つのルートに分けられて 翌昭和52(1977)年1月27日に 丸紅ルートの審理が開始される。
丸紅ルート 田中角榮元内閣総理大臣 受託収賄罪ならびに外爲法違反
榎本敏夫元内閣総理大臣秘書官 外爲法違反
檜山 廣丸紅飯田取締役社長 請託ならびに外爲法違反
大久保利春丸紅飯田専務取締役
伊藤 宏丸紅飯田専務取締役
全日空ルート 若狭得治全日本空輸社長
橋本登美三郎元運輸大臣
佐藤孝行元運輸政務次官
兒玉ルート 兒玉譽士夫 脱税ならびに所得税法違反 小佐野賢治 議員證言法違反
丸紅ルートの公判は 延々と續き、東京地方裁判所の第一審判決が下されたのは、
實に 六年十ヶ月後の 昭和58(1983)年10月12日第191回法廷での事である。
田中角榮被告 受託収賄罪ならびに外爲法違反; 有罪 懲役四年 追徴金五億圓
榎本敏夫被告 外爲法違反; 有罪 懲役一年 執行猶豫三年
當然 上訴。 上告審である東京高等裁判所の第二審判決は;
昭和62(1987)年7月29日; 控訴棄却。
平成五(1993)年12月16日 被告人 田中角榮 死去。
最高裁判所は 直ちに被告人死亡として 公訴棄却。
即ち 同人への起訴そのものがなかった事になる。
平成七(1995)年2月22日
最高裁判所は 上告棄却、即ち 檜山 廣被告への實刑判決、ならびに
榎本敏夫被告への 懲役一年 執行猶豫三年の 第一審判決が確定した。
(但し 檜山懲役囚に對しては 高齢を理由に 収監されることはなかった。)
この 最高裁判所の控訴棄却の判決で注目すべきは、「嘱託尋問調書」の違法性を認めて
證據から除外した事である。 この點は 辯護側の主張が 一部認められた事になる。
しかし、通常 原判決に採用した證據に瑕疵があった塲合は、原判決を破棄して、下級審への差し戻しであるが、最高裁は「嘱託尋問調書」を證據から除外しても 他の證據で有罪が立証出來るとして控訴棄却とする 異例とも謂へる判決に至ったもの。
逮捕・起訴から 實に十九年と謂う異例の長期審理での結審。
しかも 主犯とされた田中被告は 公訴棄却、すなわち 起訴そのものが 形式的には取り消されたものの、一審で有罪とされた判決を根據に 相續税課税に 収賄されたとする五億圓を含めて課税されてゐる。
また 被告人死亡で 同様に 公訴棄却となった兒玉譽士夫被告についても 受領したとされる 二十五億圓を相續税に加算されてゐる。
三權分立の國家に於いて、本來 中立公正であるべき司法(最高裁判所)が、行政(檢察)の顔を立て、世論に後押しされた立法府(國會)を宥めるべく、やってはいけない、
『三方一両得』の政治判断をした結果ではないのか?
これを 名大岡裁きとみるか、司法の堕落とみるか?
庶民の目線でみると、民間の航空機選定に 兒玉譽士夫なる 得體の知れぬ裏社會の人間に 工作資金として二十五億もの大金が流れるなぞ およそ 理解しがたい、想像を
絶する事案である。
また、
昭和47年 8月23日 檜山社長が目白の自邸で 田中総理に請託。
昭和47年10月30日 全日空 トライスター機種選定を公表。
昭和48年 8月10日 五億圓の成功報酬の内 最初の一億圓授受。
と謂う 檢察の描いた事案の流れも すんなりとは頓悟しにくい。
機種選定といっても、候補は ロッキード・トライスターと ダグラスDC10の二機種だけであり、八月中旬の時點で、選定作業は ほぼ完了してゐた筈。
平成二十八(2016)年、NHKのTV番組『未解決事件』のインタビューで
米國での嘱託尋問に立ち會った堀田 力檢事は「核心はP3Cではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。 (児玉誉士夫がロッキード社から)金を上手に取る巧妙な手口は証言で取れている。(そこから先の)金の使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察もっともっと彼らがどういう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。
また、ネット情報によると、捜査段階の早い時期に、吉永祐介主任檢事が記者會見の席で、「P3C に係はる一切の質問を禁じる。 P3C の P の字でも紙面に載せた社は 出入りを禁じる。」と宣言したとも謂はれる。
若し 受託収賄の對象が P3C であるとするなら、これは將に
別件逮捕ならぬ 別件起訴であり、訴因そのものが架空のものであった事になる。
榎本敏夫元総理秘書官、吉永祐介元檢事総長も含めて 關係者の殆どが 既に鬼籍に入ったいま、眞相は永久に闇の中。
さて、木村本 前著では、草鹿龍之介海軍中將の末弟である 草鹿淺之介辯護團長を
筆頭に 第一審辯護團の氏名が 敬稱略で掲載されてゐる。
ところが、後著では 筆者を除いて 全員に「先 生」の敬稱を奉ってゐる。
今や 自民黨の長老格である保岡興治先生も 弱冠38歳で 辯護團の末席に名を列ねてゐる。
また、「・・・すでに衆議院議員となっていた眞紀子先生 ・・・」の記述もみえる。
嘗て 大宅壮一が、「美空ひばりも 床屋のおやじも 皆 先生と呼ばれる・・」と揶揄してゐたが、筆者のセンスもそんなレベルのものか?
田中角榮氏については、「私の履歴書」も含めて 全書 「田中角栄」ですませてゐる。
弱冠四十八歳で 私の履歴書が書かれた昭和四十一年頃は、人名漢字登用以前、出版物に對して最も漢字制限が嚴しかった時期で、やむなく 「角栄」で妥協したものか?
幼少の頃から 毎日 日記をつけてゐたという几帳面な性格からして 自ら「角栄」を名乘ったとは考へ難い。
因みに 私の履歴書の中の「著者略歴」欄に「長女真紀子」とある。
「眞紀子」に強い拘りのある真紀子先生、さぞやご不満の事であらう。
2018/11/21 初稿
ー ロッキード事件の謎と闇 ほか ー
石原愼太郎『天 才』(幻冬舎 2016/01/22初刷)に始まって、
馬弓良彦『戰塲の田中角榮』(毎日ワンズ 2011/01/01初刷)
新川敏光『田中角榮 同心円でいこう』(ミネルヴァ日本評傳選 2018/09/12初刷)
に續き;
木村喜助「田中角榮の眞實」 ー 辯人から見たロッキード事件(弘文堂 平成12年9月)
木村喜助「田中角榮 消された眞實」(弘文堂 平成14年2月)
田中角榮 私の履歴書 日本經濟新聞社 昭和四十一年五月
と 立て續けに 田中角榮本を讀んだ。
今日の 田中角榮ブームの切っ掛けは なんと謂っても 石原愼太郎であらう。
現役衆議院議員時代、青嵐會の闘士として 反田中角榮の急先鋒であった石原愼太郎が
何故 角榮シンパに急變したのであらうか?
政治手法も 思想信條をも異にする敵ながら天晴れと感じつつも、それを吐露する機會に恵まれず、その思いを蓄積しつつ、晩年に至って 人生最後の締めくくりに 胸の内を
一氣に晴らすべく執筆したものであらう。
馬弓本も、今年九月、新書版で同じ毎日ワンズ社から復刻出版されてゐる。
馬弓本に興味を覺へたのは、新聞廣告に「・・・ノモンハン戰のときだ。 トラックに揺られ戰地に向かう・・・」云々とあった爲で、調べてみると田中角榮二等兵の所属原隊は
騎兵第二十四聯隊(盛岡・騎兵第三旅團隷下)で 駐屯地は滿洲東北部・富錦(旅團司令部は寶清)で、ノモンハン戰には參戰はおろか、出動もしてゐない。
この辺りが 新聞記者特有の”キャッチ・アイ”筆法で、記述全體の信憑性、精確性に
疑問を殘す。
さて、二冊の木村本であるが、著者は 所謂 ロッキード事件丸紅ルートの
田中角榮、榎本敏夫両被告の辯護人を勤めた辯護士で、公判廷での審理を時系列的に詳細を記したものである。
中でも、二冊目は 取り調べ調書の原文を引用しながら、公判廷での反證・陳述内容を
素人には非常に判りにくい専門用語の儘 記したものである。
少し ロッキード事件なるものを振り返ってみませうか。
發端は 昭和51(1976)年2月4日 米上院外交委員會多國籍企業小委員會
(所謂 チャーチ委員會)で;
昭和48(1973)年8月9日附け ピーナッツ 100個
昭和48(1973)年10月12日附け ピーシズ 150個
昭和49(1974)年1月21日附け ピーシズ 125個
昭和49(1974)年2月28日附け ピーシズ 125個
Hiroshi Itoh 名儀の受領書の存在が暴露される。
そして、Hiroshi Itohは 丸紅社長室長の 伊藤 宏常務取締役(當時)であり、
ピーナッツ・ピーシズとは 一個100萬圓、即ち 合計 五億圓の受領書であることが
判明する。
さー、日本はテンヤワンヤの大騒ぎ。
三木武夫バルカン首相を始め、稲葉 修スカタン法務大臣、はては 大藏省主計局長在任中に昭和電工から拾萬圓を収賄して逮捕・起訴され、講和條約恩赦で なんとか 政界入りを果たした 福田赳夫までが惡乘りして 巨惡追及を絶叫。
新聞は、眞相究明、金權政治打破、を叫んで 世論を煽り立てる。
沸騰した世論を後押しに、檢察は 先ず この「ピーナッツ、ピーシズ」領収書を手懸かりに コーチャン社長、クラッター東京支社長の『嘱託尋問』から取りかかる。
後に、訴訟の最終段階で 最高裁判所は この問題の「嘱託尋問」を違法として
嘱託尋問調書を證據から除外の判決を下すのだが、この時期は 加熱した世論に煽られて 最高裁判所までが檢察に同調して、「刑事免責」のお墨付きまで與へる騒ぎとなる。
一方、受託収賄事件だとすると、その公訴時効は ピーナッツ 100個受領の
昭和48年8月9日から三年、即ち 昭和51(1976)年8月8日までに 起訴しなかればならない。
公訴時効の壁に追い詰められて せっぱ詰まった檢察は 別件逮捕と謂う傳家の寶刀を振りかざし;
6月22日 大久保利春
7月2日 伊藤 宏
7月13日 檜山 廣
と 立て續けに 孰れも 議員證言法違反容疑で 別件逮捕に踏み切る。
それに引き續き、丸紅飯田の総務課長、伊藤専務専属の運轉手、秘書課長を
證據隠滅容疑で逮捕投獄する。
捜査を指揮したのは、手荒い強引捜査手法で名を馳せた、岡山大學法文學部出身で、後に
檢事総長の椅子にまで登り詰める 吉永祐介東京地方檢察廳特別捜査部副部長である。
そして、公訴時効を二週間後に控えた 七月二十七日 本命の 田中、榎本両容疑者を
外國爲替及び外國貿易管理法違反容疑で逮捕に踏み切る。
そして;
8月2日 檜山 廣被告を 外爲法違反で起訴
8月9日 榎本敏夫被告を 外爲法違反で起訴
8月16日 田中角榮被告を 外爲法違反ならびに受託収賄罪で起訴
公判は 以下 三つのルートに分けられて 翌昭和52(1977)年1月27日に 丸紅ルートの審理が開始される。
丸紅ルート 田中角榮元内閣総理大臣 受託収賄罪ならびに外爲法違反
榎本敏夫元内閣総理大臣秘書官 外爲法違反
檜山 廣丸紅飯田取締役社長 請託ならびに外爲法違反
大久保利春丸紅飯田専務取締役
伊藤 宏丸紅飯田専務取締役
全日空ルート 若狭得治全日本空輸社長
橋本登美三郎元運輸大臣
佐藤孝行元運輸政務次官
兒玉ルート 兒玉譽士夫 脱税ならびに所得税法違反 小佐野賢治 議員證言法違反
丸紅ルートの公判は 延々と續き、東京地方裁判所の第一審判決が下されたのは、
實に 六年十ヶ月後の 昭和58(1983)年10月12日第191回法廷での事である。
田中角榮被告 受託収賄罪ならびに外爲法違反; 有罪 懲役四年 追徴金五億圓
榎本敏夫被告 外爲法違反; 有罪 懲役一年 執行猶豫三年
當然 上訴。 上告審である東京高等裁判所の第二審判決は;
昭和62(1987)年7月29日; 控訴棄却。
平成五(1993)年12月16日 被告人 田中角榮 死去。
最高裁判所は 直ちに被告人死亡として 公訴棄却。
即ち 同人への起訴そのものがなかった事になる。
平成七(1995)年2月22日
最高裁判所は 上告棄却、即ち 檜山 廣被告への實刑判決、ならびに
榎本敏夫被告への 懲役一年 執行猶豫三年の 第一審判決が確定した。
(但し 檜山懲役囚に對しては 高齢を理由に 収監されることはなかった。)
この 最高裁判所の控訴棄却の判決で注目すべきは、「嘱託尋問調書」の違法性を認めて
證據から除外した事である。 この點は 辯護側の主張が 一部認められた事になる。
しかし、通常 原判決に採用した證據に瑕疵があった塲合は、原判決を破棄して、下級審への差し戻しであるが、最高裁は「嘱託尋問調書」を證據から除外しても 他の證據で有罪が立証出來るとして控訴棄却とする 異例とも謂へる判決に至ったもの。
逮捕・起訴から 實に十九年と謂う異例の長期審理での結審。
しかも 主犯とされた田中被告は 公訴棄却、すなわち 起訴そのものが 形式的には取り消されたものの、一審で有罪とされた判決を根據に 相續税課税に 収賄されたとする五億圓を含めて課税されてゐる。
また 被告人死亡で 同様に 公訴棄却となった兒玉譽士夫被告についても 受領したとされる 二十五億圓を相續税に加算されてゐる。
三權分立の國家に於いて、本來 中立公正であるべき司法(最高裁判所)が、行政(檢察)の顔を立て、世論に後押しされた立法府(國會)を宥めるべく、やってはいけない、
『三方一両得』の政治判断をした結果ではないのか?
これを 名大岡裁きとみるか、司法の堕落とみるか?
庶民の目線でみると、民間の航空機選定に 兒玉譽士夫なる 得體の知れぬ裏社會の人間に 工作資金として二十五億もの大金が流れるなぞ およそ 理解しがたい、想像を
絶する事案である。
また、
昭和47年 8月23日 檜山社長が目白の自邸で 田中総理に請託。
昭和47年10月30日 全日空 トライスター機種選定を公表。
昭和48年 8月10日 五億圓の成功報酬の内 最初の一億圓授受。
と謂う 檢察の描いた事案の流れも すんなりとは頓悟しにくい。
機種選定といっても、候補は ロッキード・トライスターと ダグラスDC10の二機種だけであり、八月中旬の時點で、選定作業は ほぼ完了してゐた筈。
平成二十八(2016)年、NHKのTV番組『未解決事件』のインタビューで
米國での嘱託尋問に立ち會った堀田 力檢事は「核心はP3Cではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。 (児玉誉士夫がロッキード社から)金を上手に取る巧妙な手口は証言で取れている。(そこから先の)金の使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察もっともっと彼らがどういう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。
また、ネット情報によると、捜査段階の早い時期に、吉永祐介主任檢事が記者會見の席で、「P3C に係はる一切の質問を禁じる。 P3C の P の字でも紙面に載せた社は 出入りを禁じる。」と宣言したとも謂はれる。
若し 受託収賄の對象が P3C であるとするなら、これは將に
別件逮捕ならぬ 別件起訴であり、訴因そのものが架空のものであった事になる。
榎本敏夫元総理秘書官、吉永祐介元檢事総長も含めて 關係者の殆どが 既に鬼籍に入ったいま、眞相は永久に闇の中。
さて、木村本 前著では、草鹿龍之介海軍中將の末弟である 草鹿淺之介辯護團長を
筆頭に 第一審辯護團の氏名が 敬稱略で掲載されてゐる。
ところが、後著では 筆者を除いて 全員に「先 生」の敬稱を奉ってゐる。
今や 自民黨の長老格である保岡興治先生も 弱冠38歳で 辯護團の末席に名を列ねてゐる。
また、「・・・すでに衆議院議員となっていた眞紀子先生 ・・・」の記述もみえる。
嘗て 大宅壮一が、「美空ひばりも 床屋のおやじも 皆 先生と呼ばれる・・」と揶揄してゐたが、筆者のセンスもそんなレベルのものか?
田中角榮氏については、「私の履歴書」も含めて 全書 「田中角栄」ですませてゐる。
弱冠四十八歳で 私の履歴書が書かれた昭和四十一年頃は、人名漢字登用以前、出版物に對して最も漢字制限が嚴しかった時期で、やむなく 「角栄」で妥協したものか?
幼少の頃から 毎日 日記をつけてゐたという几帳面な性格からして 自ら「角栄」を名乘ったとは考へ難い。
因みに 私の履歴書の中の「著者略歴」欄に「長女真紀子」とある。
「眞紀子」に強い拘りのある真紀子先生、さぞやご不満の事であらう。
2018/11/21 初稿