相洲遁世隠居老人

近事茫々。

田中角榮氏の事

2018-11-22 10:37:58 | 日記
田中角榮氏の事
ー ロッキード事件の謎と闇 ほか ー

石原愼太郎『天 才』(幻冬舎 2016/01/22初刷)に始まって、
馬弓良彦『戰塲の田中角榮』(毎日ワンズ 2011/01/01初刷)
新川敏光『田中角榮 同心円でいこう』(ミネルヴァ日本評傳選 2018/09/12初刷)

に續き;
木村喜助「田中角榮の眞實」 ー 辯人から見たロッキード事件(弘文堂 平成12年9月)
木村喜助「田中角榮 消された眞實」(弘文堂 平成14年2月)
田中角榮 私の履歴書  日本經濟新聞社 昭和四十一年五月
と 立て續けに 田中角榮本を讀んだ。

今日の 田中角榮ブームの切っ掛けは なんと謂っても 石原愼太郎であらう。

現役衆議院議員時代、青嵐會の闘士として 反田中角榮の急先鋒であった石原愼太郎が
何故 角榮シンパに急變したのであらうか?
政治手法も 思想信條をも異にする敵ながら天晴れと感じつつも、それを吐露する機會に恵まれず、その思いを蓄積しつつ、晩年に至って 人生最後の締めくくりに 胸の内を
一氣に晴らすべく執筆したものであらう。

馬弓本も、今年九月、新書版で同じ毎日ワンズ社から復刻出版されてゐる。

馬弓本に興味を覺へたのは、新聞廣告に「・・・ノモンハン戰のときだ。 トラックに揺られ戰地に向かう・・・」云々とあった爲で、調べてみると田中角榮二等兵の所属原隊は
騎兵第二十四聯隊(盛岡・騎兵第三旅團隷下)で 駐屯地は滿洲東北部・富錦(旅團司令部は寶清)で、ノモンハン戰には參戰はおろか、出動もしてゐない。

この辺りが 新聞記者特有の”キャッチ・アイ”筆法で、記述全體の信憑性、精確性に
疑問を殘す。


さて、二冊の木村本であるが、著者は 所謂 ロッキード事件丸紅ルートの
田中角榮、榎本敏夫両被告の辯護人を勤めた辯護士で、公判廷での審理を時系列的に詳細を記したものである。


中でも、二冊目は 取り調べ調書の原文を引用しながら、公判廷での反證・陳述内容を
素人には非常に判りにくい専門用語の儘 記したものである。
少し ロッキード事件なるものを振り返ってみませうか。

發端は 昭和51(1976)年2月4日 米上院外交委員會多國籍企業小委員會
(所謂 チャーチ委員會)で;

昭和48(1973)年8月9日附け ピーナッツ 100個
昭和48(1973)年10月12日附け ピーシズ 150個
昭和49(1974)年1月21日附け ピーシズ 125個
昭和49(1974)年2月28日附け ピーシズ 125個
Hiroshi Itoh 名儀の受領書の存在が暴露される。

そして、Hiroshi Itohは 丸紅社長室長の 伊藤 宏常務取締役(當時)であり、
ピーナッツ・ピーシズとは 一個100萬圓、即ち 合計 五億圓の受領書であることが
判明する。

さー、日本はテンヤワンヤの大騒ぎ。
三木武夫バルカン首相を始め、稲葉 修スカタン法務大臣、はては 大藏省主計局長在任中に昭和電工から拾萬圓を収賄して逮捕・起訴され、講和條約恩赦で なんとか 政界入りを果たした 福田赳夫までが惡乘りして 巨惡追及を絶叫。

新聞は、眞相究明、金權政治打破、を叫んで 世論を煽り立てる。


沸騰した世論を後押しに、檢察は 先ず この「ピーナッツ、ピーシズ」領収書を手懸かりに コーチャン社長、クラッター東京支社長の『嘱託尋問』から取りかかる。

後に、訴訟の最終段階で 最高裁判所は この問題の「嘱託尋問」を違法として
嘱託尋問調書を證據から除外の判決を下すのだが、この時期は 加熱した世論に煽られて 最高裁判所までが檢察に同調して、「刑事免責」のお墨付きまで與へる騒ぎとなる。

一方、受託収賄事件だとすると、その公訴時効は ピーナッツ 100個受領の
昭和48年8月9日から三年、即ち 昭和51(1976)年8月8日までに 起訴しなかればならない。

公訴時効の壁に追い詰められて せっぱ詰まった檢察は 別件逮捕と謂う傳家の寶刀を振りかざし;
6月22日 大久保利春
7月2日 伊藤 宏
7月13日 檜山 廣
と 立て續けに 孰れも 議員證言法違反容疑で 別件逮捕に踏み切る。
それに引き續き、丸紅飯田の総務課長、伊藤専務専属の運轉手、秘書課長を
證據隠滅容疑で逮捕投獄する。

捜査を指揮したのは、手荒い強引捜査手法で名を馳せた、岡山大學法文學部出身で、後に
檢事総長の椅子にまで登り詰める 吉永祐介東京地方檢察廳特別捜査部副部長である。

そして、公訴時効を二週間後に控えた 七月二十七日 本命の 田中、榎本両容疑者を
外國爲替及び外國貿易管理法違反容疑で逮捕に踏み切る。

そして;
8月2日 檜山 廣被告を 外爲法違反で起訴
8月9日 榎本敏夫被告を 外爲法違反で起訴
8月16日 田中角榮被告を 外爲法違反ならびに受託収賄罪で起訴

公判は 以下 三つのルートに分けられて 翌昭和52(1977)年1月27日に 丸紅ルートの審理が開始される。

丸紅ルート 田中角榮元内閣総理大臣 受託収賄罪ならびに外爲法違反
榎本敏夫元内閣総理大臣秘書官 外爲法違反

檜山 廣丸紅飯田取締役社長 請託ならびに外爲法違反
大久保利春丸紅飯田専務取締役
伊藤 宏丸紅飯田専務取締役

全日空ルート 若狭得治全日本空輸社長

橋本登美三郎元運輸大臣
佐藤孝行元運輸政務次官

兒玉ルート 兒玉譽士夫 脱税ならびに所得税法違反 小佐野賢治 議員證言法違反

丸紅ルートの公判は 延々と續き、東京地方裁判所の第一審判決が下されたのは、
實に 六年十ヶ月後の 昭和58(1983)年10月12日第191回法廷での事である。

田中角榮被告 受託収賄罪ならびに外爲法違反; 有罪 懲役四年 追徴金五億圓
榎本敏夫被告 外爲法違反; 有罪 懲役一年 執行猶豫三年

當然 上訴。 上告審である東京高等裁判所の第二審判決は;
昭和62(1987)年7月29日; 控訴棄却。
平成五(1993)年12月16日 被告人 田中角榮 死去。
最高裁判所は 直ちに被告人死亡として 公訴棄却。
即ち 同人への起訴そのものがなかった事になる。

平成七(1995)年2月22日
最高裁判所は 上告棄却、即ち 檜山 廣被告への實刑判決、ならびに
榎本敏夫被告への 懲役一年 執行猶豫三年の 第一審判決が確定した。
(但し 檜山懲役囚に對しては 高齢を理由に 収監されることはなかった。)

この 最高裁判所の控訴棄却の判決で注目すべきは、「嘱託尋問調書」の違法性を認めて
證據から除外した事である。 この點は 辯護側の主張が 一部認められた事になる。
しかし、通常 原判決に採用した證據に瑕疵があった塲合は、原判決を破棄して、下級審への差し戻しであるが、最高裁は「嘱託尋問調書」を證據から除外しても 他の證據で有罪が立証出來るとして控訴棄却とする 異例とも謂へる判決に至ったもの。

逮捕・起訴から 實に十九年と謂う異例の長期審理での結審。
しかも 主犯とされた田中被告は 公訴棄却、すなわち 起訴そのものが 形式的には取り消されたものの、一審で有罪とされた判決を根據に 相續税課税に 収賄されたとする五億圓を含めて課税されてゐる。

また 被告人死亡で 同様に 公訴棄却となった兒玉譽士夫被告についても 受領したとされる 二十五億圓を相續税に加算されてゐる。

三權分立の國家に於いて、本來 中立公正であるべき司法(最高裁判所)が、行政(檢察)の顔を立て、世論に後押しされた立法府(國會)を宥めるべく、やってはいけない、
『三方一両得』の政治判断をした結果ではないのか?
これを 名大岡裁きとみるか、司法の堕落とみるか?


庶民の目線でみると、民間の航空機選定に 兒玉譽士夫なる 得體の知れぬ裏社會の人間に 工作資金として二十五億もの大金が流れるなぞ およそ 理解しがたい、想像を
絶する事案である。

また、
昭和47年 8月23日 檜山社長が目白の自邸で 田中総理に請託。
昭和47年10月30日 全日空 トライスター機種選定を公表。
昭和48年 8月10日 五億圓の成功報酬の内 最初の一億圓授受。
と謂う 檢察の描いた事案の流れも すんなりとは頓悟しにくい。
機種選定といっても、候補は ロッキード・トライスターと ダグラスDC10の二機種だけであり、八月中旬の時點で、選定作業は ほぼ完了してゐた筈。
平成二十八(2016)年、NHKのTV番組『未解決事件』のインタビューで
 米國での嘱託尋問に立ち會った堀田 力檢事は「核心はP3Cではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。 (児玉誉士夫がロッキード社から)金を上手に取る巧妙な手口は証言で取れている。(そこから先の)金の使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察もっともっと彼らがどういう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。

また、ネット情報によると、捜査段階の早い時期に、吉永祐介主任檢事が記者會見の席で、「P3C に係はる一切の質問を禁じる。 P3C の P の字でも紙面に載せた社は 出入りを禁じる。」と宣言したとも謂はれる。

若し 受託収賄の對象が P3C であるとするなら、これは將に
別件逮捕ならぬ 別件起訴であり、訴因そのものが架空のものであった事になる。

榎本敏夫元総理秘書官、吉永祐介元檢事総長も含めて 關係者の殆どが 既に鬼籍に入ったいま、眞相は永久に闇の中。

さて、木村本 前著では、草鹿龍之介海軍中將の末弟である 草鹿淺之介辯護團長を
筆頭に 第一審辯護團の氏名が 敬稱略で掲載されてゐる。
ところが、後著では 筆者を除いて 全員に「先 生」の敬稱を奉ってゐる。
今や 自民黨の長老格である保岡興治先生も 弱冠38歳で 辯護團の末席に名を列ねてゐる。

また、「・・・すでに衆議院議員となっていた眞紀子先生 ・・・」の記述もみえる。
嘗て 大宅壮一が、「美空ひばりも 床屋のおやじも 皆 先生と呼ばれる・・」と揶揄してゐたが、筆者のセンスもそんなレベルのものか?

田中角榮氏については、「私の履歴書」も含めて 全書 「田中角栄」ですませてゐる。
弱冠四十八歳で 私の履歴書が書かれた昭和四十一年頃は、人名漢字登用以前、出版物に對して最も漢字制限が嚴しかった時期で、やむなく 「角栄」で妥協したものか?
幼少の頃から 毎日 日記をつけてゐたという几帳面な性格からして 自ら「角栄」を名乘ったとは考へ難い。

因みに 私の履歴書の中の「著者略歴」欄に「長女真紀子」とある。
「眞紀子」に強い拘りのある真紀子先生、さぞやご不満の事であらう。

2018/11/21 初稿


『カルメン お美』 我が友 佐藤亞土チャンの事など。

2018-11-06 17:05:36 | 日記
『カルメン お美』

矢野晶子  昭和六十三(1988)年  有隣堂  定價 1,200圓
(鎌倉市中央圖書館地下書庫藏)
我が友 佐藤亞土チャンの事など。

これは、幼友達であった 佐藤亞土チャンの生母であり 聲樂家であった 佐藤美子の
壮烈かつ奔放な生涯を描いたノンフィクッションである。

縁深い横濱・有隣堂出版の帯に『10歳にしてオペラ歌手を志し、生涯をその道一筋に貫いた佐藤美子の、壮絶、華麗な生きざまを描き切る』とある。

著者は 美子の継母の姪であるが、多分 戸籍上は妹であらう、經緯は序章に詳しい。

美子は、税関吏であった父 佐藤友太郎と 生母 ルヰズの三男二女の末っ子として、 
明治三十六(1903)年 神戸市山手通りの税関官舎で出生。

佐藤家の本貫は長崎であったが、友太郎の父、麟太郎は幕吏の英語通詞であった爲、
本籍は 京都市下京區麩屋町である。

戊申戰爭の後も 太政官 外國館判事に登庸される等、維新政府に仕え、明治九年、
内務省より 費府萬國博覧會審査官長を命ぜられ渡航の途次、桑港入港前夜、
反幕方に毒を盛られて船中にて死去。  西南戰爭前夜の 物情騒然たる頃である。

文久二(1862)年生まれの友太郎は 父を喪った翌年の明治十年、十六歳にして京都府の
官費留學生に撰ばれて渡佛。
留學先は 陶器で有名な 中佛リモージュ(Limoges)である。ここで七年間 陶藝を學ぶ。

一旦歸國した友太郎が 再度の渡佛の機會に連れ歸ったのが、ブルボン王家の血筋を引く、
慶應二(1866)年生まれのルヰズ(類子)・ラトーである。

明治三十年、語學力を生かして 神戸税関に職を得た 父・友太郎は 明治四十二年、 横濱税関に轉勤となり、ものごころついて後の 
美子は 横濱ッ子として育つ。

紅蘭女學校在學中の大正五年、父・友太郎は 日本の植民地になったばかりの青島に轉勤となる。  病弱な生母ルヰズは 大正七年 この地で歿する。

大正九年、長女綾子の薦めで再婚。 本著者は 再婚相手の伊東夕子の姪にあたる。
翌年一月、一家は再び横濱に戻る。

美子は大正十一年の春、東京音樂學校聲樂科に入學。
大正十二年九月一日の關東大震災は 前年 退職した友太郎が新築した鶴見の丘の上の
新居でのこと。  大正十五年三月卒業まで この鶴見の家から上野に通學する。

曲折あって、昭和三(1928)年の暮れ 神戸解纜の日本郵船香取丸で渡歐。
その間の事情は 第三章 「留學までの逡巡」 に譲る。

昭和四(1929)年一月二十九日 マルセーユ着。
生母ルヰズの實姉マチルドに迎へられて 暫く リモージュで過ごす。

四月、憧れの巴黎へ。  セーヌ川を見下ろすアパルトマンは 香取丸で
一緒だった 高木東六が 先行して見つけてくれたものである。

巴黎での出來事は、第四章「巴里セレナード」、第五章「もう一つの『巴里セレナード』」に詳しい。
この中で 藤田嗣治の名前は出て來るが、後に 夫となる 佐藤 敬と面識があったのかどうか、つまびらかではない。

佐藤 敬は 東京美術學校西洋畫科本科學生のまま 昭和五(1930)年暮れから
昭和九(1934)年まで 藤田嗣治を筆頭とする エコール・ド・パリの仲間、猪熊弦一郎、中村研一、荻須高徳 らと共に、巴黎にゐたのだが。

昭和七(1932)年 滿洲事變の熱氣さめやらぬ中、西泊利亞鐵道を經由しての歸國である。

なぜ 危險をおかして滿洲經由歸國したのか? その理由は 第六章にある。
冒險心は 幕末戊申戰爭をくぐり抜けて來た、祖父麟太郎の血筋なのか?

昭和九(1934)年春、伴奏の高木東六を伴っての 青島への演奏旅行の途次、大分に立ち寄る。
  西比利亞鐵道の因となった問題が解消濟であることを確認した高木は歸國早々、別府で個展を開催中の 巴黎時代から舊知の佐藤 敬を紹介する。

二人とも お互い 興味があるのかどうか、傍目にははっきりしなかったという。
この辺の仕草は 二人の血を受け継いだ長男の亞土を彷彿させる。

既に出來上がってゐた證據に、敬は すぐに後を追いかけて、本牧に古びた小さな洋館を借りて住みはじめる。

華燭の典は昭和十年六月十六日、明治神宮記念館。   媒酌は「大分縣知事 木下郁夫・夫妻」だったとある。

戰後 革新系知事として大分縣知事を四期勤めた 木下 郁(かおる)であろう。
當時 まだ弱冠、別府で辯護士を開業してゐた。

この縁組み 双方の實家に異論ありて、結局、敬の實父 佐藤 通も 美子の實父佐藤友太郎も缺席してゐる。

木下 郁を引っ張り出したのは、最後に折れた敬の實母 佐藤祥子であろう。
敬 二十九歳、美子 三十二歳。

「また 敬の母の祥子も、別府では女傑といわれ、・・・」とある。
女傑・祥子。 別府の有閑マダム連を順へて よく茶會なぞ催してゐたようである。

有閑マダムは、藤本眼科、伊東内科、鶴田ホテル、それに 明治三十九年、丙午生まれの猛女 我がゴッド・マザーも末席を汚してゐたようで、よく噂話を聞かされたものである。

マダム鶴田とは 後に、我々が海外勤務で日本を留守にしてゐた頃、向こう三軒両隣に住む 
孫の鶴田真由さんの生家にちょくちょく遊びに來られ、舊交を暖めてゐたようだ。

 真由さんの父親は 藝大油繪科の出身で、私の高校の一年先輩であり、同じ英語塾で熟知の間柄である。


昭和十一(1936)年十二月二十三日 長男 亞土誕生。  僕より 三日後の生まれである。
敬は「子供は自分の家で育てたい。」と 後々 有名になる、鶴見の美子の實家の近くの「亀の甲山」に一軒家を買う。

つかの間の平和な時代であったが、半年後の 昭和十二年七月七日廬溝橋の一發に端を發っした 泥沼の八年戰爭の勃發である。

昭和十五年一月には十年來の宿痾の末 父友太郎が逝く。 美子自身も 妊娠腎の爲
死線を彷徨った末、未熟の長女を出産。  繪子と名付けるも八日目に死亡。

後に、亞土が 妻ジャックリーヌとの間になした次女を「絵子」と名付けたのは、
顔を見る事のなかった亡き妹を追慕しての事であらう。


世は揚げて戰時色一色で、敬も 徴兵を遁る爲、いや 生き殘る爲 昭和十六年五月報道班員として支那戰線に從軍する。

續いて、海軍報道班員として比島戰線へ。

戰後、これが 藤田嗣治らとともに戰爭協力者として非難、糾彈されるもととなる。

昭和十八年十月二十二日 次女眞弓を授かる。

昭和十九年に入ると、藤田嗣治の呼びかけで、藤野に疎開。
疎開先で藤田が描いた、『サイパン島同胞臣節を全うす』の母子モデルは 眞弓を抱いた美子だと謂う。

この辺り、本文の記述と 僕の記憶に 多少の齟齬を生じる。

亞土チャンが別府市立野口國民學校二年生の阿部静子先生のクラスに編入して來たのは昭和十九年春の事だったと記憶する。

乳幼児の眞弓チャンは両親と藤野に疎開し、亞土チャン一人 親元を離れて 別府の祥子おばあちゃまに預けられる。

食糧難の時代、多くの方が 東京・大阪から疎開して來られてゐた。

その中の一人が ブエノスアイレス生まれの 宮岡千里君で 亞土チャンと二人だけハイカラ頭に紺の半ズボン、長靴下に黒の革靴。 

僕らは 丸刈頭に長ズボン、下駄履き。

國民學校では敵性容姿だと 長髪は絶對に許されなかったが、この二人だけは例外で なんとなくそれが當たり前のように黙認されてゐた。

戰後、高學年になると、さすがに 紺の半ズボンも 黒の革靴も手に入らなくなり、我々と同じ服装になったけど。

家が近かったので、内藤喜之を加へた四人で よくつるんだものだ。

亞土の家は、實業家のおじいちゃまの佐藤 通が素封家であり、油屋熊八が亀の井ホテルを建てる際 祥子おばあちゃまが一生 無償で別館に住める事を條件に、土地を提供したとある。

宮岡の父親は 船旅全盛時代のOSK大阪商船BuenosAires支店長 等を歴任して、
別府では 亀の井ホテルの支配人。 母親は 聲樂家と謂うハイカラ一家。

小學校時代の僕は 何とも華麗なる一族に囲まれてゐたものだ。

亞土チャンは 戰後、朝鮮からの引き揚げ者だった 藤永先生のご指導で 人形劇に嵌り込んでゐた。

その頃、妹の眞弓チャンも おばあちゃまのところに來て、國鐵日豊線流川踏切の踏切番(昔は 大きな踏切には 必ず踏み切り番がゐた。)の娘 糸永のサッチャンと遊んでゐる姿を よく見かけたものである。

亞土チャンは 昭和二十四(1949)年春、中學進學を機に 鶴見・亀の甲山のご両親のもとへ。

湘南高校から 昭和三十一 (1956) 年春、 三田山上での入學式に偶然 邂逅、久闊を叙す。 六年間の時間の空白も、クオーターの彼(母親がフレンチ・ハーフ)を見間違える事はない。

  この年、衆樹、中田を擁した慶應は 秋の慶早戰に勝ち 九シーズンぶりに優勝。 神宮から三田まで 提燈行列。
銀座に塲所をかえて、亞土チャンと二人、その夜 飲み明かす。

日吉での一年間を共に過ごした後、文學部美學美術史科の彼は三田へ、僕は小金井キャンパスへと 別れ別れになった。

  在學中から東宝映画に出たり、卒業後は 麻生れいこ と 五木寛之原作の映畫
『變奏曲』に主演したりと活躍してゐたが、昭和三十七年に渡佛。 

版畫家として 數多くの作品を遺すも 平成七年一月一日 五十八歳で早世。
昭和十一年十二月二十三日生まれの彼とは、生まれたのも 僅かに三日ちがいである。


さて、話を 美子の事に戻そう。

戰後の美子は、古典歌劇への拘りを捨て、創作オペラから民謡まで幅廣く こなしたようである。

昭和二十七(1952)年 敬が 巴黎へ去って後、かなり 自由奔放に生きたらしいことが 義妹の筆で 遠慮勝ちに書いてある。

美子が敬の訃を電話で知らされたのは昭和五十三(1978)年五月のことで、二十六年間の 永い別居生活の後の事である。  享年七十一歳。

敬は 老齢の老母の たっての願いで 見舞いのため一時歸國中であったが、急性心不全で先立つことになる。

亞土も 巴黎から驅けつけるが、葬儀の手配一切は 老衰の床から立ち上がった 氣丈な 猛女・祥子が采配を振るったと謂う。

祥子は執念のように昭和五十七(1982)年の暮れまで生き延びて、結局 嫁の美子より半年も長生きをする事になる。

葬儀一切は 孫の 亞土 と 眞弓が執り行った。



晩年の美子は、引退は 滿八十歳を迎へる 昭和五十八(1983)年五月の誕生日、
唱ひ納めは創作オペラ『安達ヶ原の鬼女』だと決めて突っ走りはじめる。

昭和五十六(1981)年秋、亞土を訪ねる名目で巴黎に渡り、ピエール・カルダン小劇塲と
翌年九月の 創作オペラ『虎月傳』公演を取り決めて歸る。


美子が倒れたのは 昭和五十七(1982)年六月三日のことで、横濱青少年センター・ホールで上演する『虎月傳』のリハーサルが終はろうとする時である。
救急車で 昭和大學藤が丘病院へ運び込まれる。

息を引き取ったのは 七月四日。  享年七十九歳。

密葬は七月六日 通い慣れた 鶴見のカトリック教會で。

フローレンス・佐藤美子の音樂葬は 七月十六日 東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行はれた。



佐藤 亞土の 訃を知ったのは 平成七(1995)年正月。 享年五十八歳。 若死にである。

僕は 北米に出張中の事で、葬儀には參列出來なかった。
フロリダの宿舎で 阪神淡路大震災のニュースを知ったので、その前後の事はよく憶へてゐる。



後に トリニトロンの發明者として ソニーの社業發展に おおいに貢献した
宮岡千里も、

東京工業大學の學長を勤めた 内藤喜之も いまは亡い。


2018/11/06 初稿