相洲遁世隠居老人

近事茫々。

辻 政信 著「ノモンハン秘史」

2020-12-13 11:34:27 | 日記


辻 政信 著「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ社から 新書版(2016年)と 完全版 (2020年)とが出版されてゐる。

「ノモンハン秘史」と謂うのは 元々 1967(昭42)年に原書房から出版されたもので、新書版には<参考引用文献>として 「ノモンハン」(東亞書房)と共に引用されているが その由緒・來歴が判らない。

新書版は 例によって(國際政治學者)なる肩書きの 福井雄三が 「本書に寄せて」なる一文を巻頭に、そして巻末に 緊急寄稿として 「辻政信参謀の遺書」なる一文が掲載されてゐる。

原著で「前がき」とあるのを新書版では「まえがき」と改められ、原著で(以下十五行省略)とある部分が復刻されてゐるが、原著にある、「・・・この稿を終つたとき、偶然か奇蹟か、滿人の同志、關長風君が・・・」以下が削除され、原著にある 第十一章 「國境外交會議の内幕」が割除されてゐる。




この部分は 原著の 四分の一を占める 非常に重要な部分である。
にも拘らず 現在 手に入る文献の殆どが 九月初旬の軍事停戰で記述を終わってをり、昭和十四年十二月の チタに於ける、そして 翌年一月の 哈爾浜(ハルピン)に於ける「國境外交會議」の事に言及した記述を知らない。

結局 日満側は 哈爾哈(ハルハ)河國境線を主張して譲らず、交渉決裂の儘。
現在の國境線は 所謂 當時の軍事停戰ラインであって 正式の國境線として確定したものではないと謂う事になる。

時遷り、滿洲帝國は 中華民國から 中華人民共和國となり、蘇維埃(ソヴィエット)聯邦の衛星國であった モンゴル人民共和國は モンゴル國として獨立。
 當事者が問題としないのだから、今や第三者である我々がとやかく云う筋でもあるまいが。



他人事ながら その内 中華人民共和國が 滿洲帝國の正統の後継者として哈爾哈河國境線を主張するであらう事を預言する。



参考引用文献
辻政信著 ノモンハン 昭和二十五年八月二十日初版 東亞書房
辻政信著 ノモンハン秘史 新書版 2016年 毎日ワンズ社
(2020/12/08 初稿)





上記 脱稿の後 念のため 資料として 最も優れた;
アルヴィン・D.クックス著 ノモンハン 草原の日ソ戰―1939(1989朝日新聞社刊)
を調べてみた。

昭和十五年一月 哈爾浜での 國境線確定交渉が決裂した經緯が書いてある。
(下巻 P-315)
辻政信著「ノモンハン」にある 關長風氏の記述では、昭和十五年一月二十五日付け 帝國政府ならびに滿洲國政府から届いた「訓令ノ國境線ヲ哈爾哈河ノ線ニ訂正ス」に基づき 二十七日開かれた會議をもって交渉が決裂したとなってゐる。
ところが、當時の滿洲國側首席代表亀山一二外交部政務處長が1978(昭53)年になって明らかにしたところによると、蘇聯側首席代表ボグダノフ陸軍少將(極東軍参謀長)が 辻政信に使嗾された白系露西亞人による暗殺を恐れて蘇蒙代表團の引揚げを通告して來たと謂う。
辻政信は この頃 支那戰線に轉属になっていたが、ブリヤート(Buryat)のセミヨノフ (Grigory Mikhaylovich Semyonov)  (Gregori Michaeilovic Semenov とも綴る) が暗躍した可能性を排除しない。
昭和二十年 日蘇開戰時、蘇聯は空挺部隊を出動させて大聯で捕縛・身柄拘束してゐる。 事前の周到な計畫によるものとおもわれる。
蘇維埃聯邦最高軍事法廷(the Military Board of the Supreme Court of the USSR)で 國家反逆罪により 「絞首刑」(death by hanging) を宣告され、翌 昭和二十一(1946)年八月二十九日 死刑執行。
  一説によると (allegedly) 通常の絞首刑ではなくて 長時間、最も苦痛を與へる方法であったとも謂はれる。  スターリン時代の蘇聯ならあり得る話であろう。



結局 哈爾浜での交渉は 物別れになったが、その後も チタで 斷續的に交渉を継續して 最終的に國境線が確定したのが 太平洋戰爭が勃發して半年後の 昭和十七(1942)年五月十五日の事だと謂う。(下巻 P-317)



(2020/12/15 追記)