相洲遁世隠居老人

近事茫々。

松本清張『両像・森鷗外』

2022-08-20 10:16:54 | 日記
松本清張『両像・森鷗外』を讀む。
私のメモに 「1995・5・24 読了。 難解。」とある。





冒頭の書き出しが 清張自身が 東京から米原停車の新幹線で 鷗外の祖父、石洲津和野醫官・森白仙の墓所跡を、辺鄙な山中にある 滋賀縣甲賀郡土山に訪ねる處から始まる。

何故 白仙の墓所が そんな辺鄙な甲賀の山中にあったのか?
その經緯を清張は 詳細に記してゐる。  それによると、典醫として 白仙は 藩主・亀井隠岐守(おきノかみ)茲監(これみ)に從って參勤交代で下向するべき處、病を得て江戸に殘り 小康を得たところで後を追って石洲津和野に向かう途次 文久元年十一月七日 この地で 脚氣衝心を發し 俄に歿した。  そして、遺骸は この地の臨濟宗常明寺に葬ったもの。
鷗外自身は文久二年の生まれであるから 勿論 祖父の顔を知らない。

鷗外は 明治三十二年六月 近衛師團軍醫部長から 小倉の第十二師團軍醫部長に左遷され 傷心の中 翌明治三十三年二月、陸軍師團軍醫部長會議に上京の途次 ここに展墓してゐる。



その時の展墓の動機について 清張は 清張なりに恠(あや)しみ その時の鴎外の行動を詳細に調べ上げて記してゐる。

明治三十九年に白仙夫人・清(せい)、大正五年に一女峰子、即ち 鴎外の生母も ここに葬られてゐた。   しかし 鷗外は納骨の時孰れも軍務多忙で、自身が船と、汽車と、人力車を乘り継いで ここ土山を訪ねたのは生涯 この明治三十三年の時だけである。  そして、三人の墓所は 戰後 長男於菟の口添へで、津和野の森家菩提寺に移されたと。


偖て、編集者によると、本稿は もともと1985(昭和六十)年 文藝春秋五月號から十二月號に聯載された『二醫官傳』に加筆・訂正・改題されたものであるが、筆者の意向で 加筆の部分が 結局 未完の儘 筆者が逝ってしまった爲、謂はば 絶作とも謂うべき作品である。
昭和六十年と謂へば 我が國語破壊の元兇・金田一京助歿して15年、既に日本語は出版物において完全に斃死した頃であるが、松本清張は 獨特の文字遣い、筆遣いで頑張ってゐる。  一例を擧げよう;

「雨は歇(や)(止)まず」、「高速道路の上を敲(たた)(叩)いている。」、「恠(あや)(怪)しみ」、「陸軍を罷(や)(辭)めようと」、「會議が畢(終)はり」、「舎(と)(泊)まった」、「進歩を礙(さまた)(妨、碍)げる」、「苦境を愬(うつた)(訴)える」、「一條の昏(くら)(暗)い山道」等、「歇」「恠」「礙」「愬」は 孰れも 第二水準漢字であり、それ以外は 第一水準漢字であるが 通常は このような遣ひ方はしない。

また、嫁に充てるに「」を遣ってゐるが、元々 康熙文字には「娵」と謂う字は無く「娶」を基に日本で創られた和字・國字である。
康熙文字としては「媳」(xi)があり日本語で謂う 嫁を意味する。  「娶」(qû)は動詞として遣はれ名詞は無い。 日本では「娶」と「娵」は第二水準漢字、「媳」は第四水準漢字として登録されてゐるから面白い。

「展墓」と謂ふ言葉も現代では「墓參」が普通であらう。

昭和六十年でも 斯かる文字は一般には通常 使はれてをらず どんな意圖あって 世間一般に通用しない「娵」なんて國字を態態遣ったのであらうか? 
松本清張獨特の擬古文趣味の文字遣いであるが、これこそが清張の鷗外への憧憬の原點である。  後述、行人や淳が背伸びしても手の届かない處である。 

鷗外の原文引用部分は 原文に忠實に;

「東京に徃(行)かんとす。」、「倉知藥劑官と偕(共)に」、「滊(汽)車」、「徳山に抵(到)る」、「擅(ほしいまま)」(恣)、「預(豫)測する」、「前後通纂(算)して」とか、抵、預(孰れも第一水準) 纂(第三水準)と偕に 康熙文字がふんだんに遣はれてゐる。

「來る」「來客」等は 鷗外原文引用部分では 第二水準漢字が遣はれてゐるが、自身の文章には 律儀にも第一水準漢字の「来」を遣ひ分けされてゐる。
しかし、流石に「鷗外」の「鷗」(第三水準・環境依存文字)は 鷗外に敬意を拂って 自身の文章にも「鴎外」とせず『鷗外』が遣はれてゐる。
このへんは 岩波・廣辭苑『自序』(第一版)に於ける新村 出同様、松本清張の強烈な金田一京助への當て付けであらうか? 美事なものである。

それより以前、鷗外と清張の結び付き、接點がよく判らない。
敢へて詮索するなら「小倉」であるが、これだけでは少し無理がありそうだ。
まあ、文豪・鷗外に對する文士・清張の憬れ、憧憬だとしてをこう。

そして、第2章では 小倉への左遷の理由詮索が始まる。
 男爵・海軍中將赤松則良の娘 登志子との離婚が影響したのではないかと詮索するが、離婚除籍は長男於菟出産直後の明治二十三年の事であり、その後も 森林太郎は 陸軍一等軍醫正、陸軍軍醫學校長、陸軍軍醫監、近衛師團軍醫部長と順調に出世コウスを辿ってをり 離婚が左遷の原因だとは考へられない。
慥かに舅・赤松則良を憤激させ 伯父にあたる媒酌の元老院審議官西周には勘當・絶縁されるが 十年も前の出來事が左遷の原因だとは考へにくい。

結局 離婚の原因は 播磨守護の名族、赤松則村入道圓心を家祖とする男爵・赤松家との家風の違いであり、小倉左遷の原因は 醫學部の同級生であり 上司に當たる陸軍省醫務局長小池正直との不仲と 石黒忠悳軍醫総監だと結論付けてゐる。

偖て、ここまでで 7章を費やし、第8章、第9章で澀江抽齋と その師・伊澤蘭軒の取材ノオトになる。
『福山には○時○○分に着いた。』、『○○時○分、列車は小郡驛に着いた。』 これは 清張得意の章の書き出しである。 そして、岩波・鷗外全集の関係部分を持って回る。

この旅、最後は山口からタクシヰで石洲津和野へ向かい 冒頭に記した甲賀・土山から移された白仙・静・峰子の墓と共に 鷗外の墓に詣でたところで終はる。

清張は 第10章に至って 鷗外・漱石論を開陳してゐる。
 俗物評論家の「想像力の欠如」なぞという評價は 難解な漢籍を解さぬ薄學の愚論で 鷗外の文章には 漢字そのものに思想と想像力が宿ってゐる。 それこそが象形文字の眞髄であり、 Hieroglyph の眞價である。

東京大學經濟學部出身の柄谷善男に至っては 筆名を「行人」(こうじんkojin)とするくらいの漱石への入れ込み様だから論外として、
吉本隆明コト逸見明、江藤 淳(本名 江頭(えがしら)淳夫)、磯田光一は孰れも東京工業大學絡みの仲間。

    澀江抽齋や伊澤蘭軒、はては北條霞亭の様な難解・難讀な作品を讀みこなす漢籍の素養絶無の 學殖淺き世俗の評論家には、朝日新聞専属の「小説家・夏目漱石」は書けても 「文豪・森鷗外」は書く能力がないのである。

 鷗外の「青年」と 漱石の「三四郎」を比較するに於ひて 全體を論ずるが斯きは、「枝葉」を以て「末節」を論ずるに 似たり。

 流石 松本清張は 鷗外と漱石の素地全貌と背景の違ひを 熟知してゐるので、敢へて對比せず、「鷗外論」を永井荷風 に語らせてゐる。 寔に賢明である。

明治四十三年七月 鷗外自身の筆で『夏目漱石論』が物されてゐる。
  僅か原稿用紙二枚に滿たぬ小論であるが、其の第十章に「その長所と短所」があり、ここに漱石に對する鷗外の好意的な所見が盡くされてゐる。




第11章で、若し鷗外が 小倉への左遷を機に 官を辭して文筆に専念したらどうなってゐたであらうかとの 清張なりの「 if 」論を展開してゐる。

しかし、私人であり 朝日新聞専属の新聞小説家・夏目漱石と違い、鷗外の本職は帝國陸軍軍醫・森林太郎であり、本人には 官を極めるまで 私人になる意志はなかった。
そして、やがて 第一師團軍醫部長、陸軍軍醫総監と「官」を極める。
其の裏に 鷗外の山縣有朋への接近があったのではないかとの 清張は意地惡な見方を開陳してゐる。

 帝國陸軍の大御所 公爵・陸軍元帥・山縣有朋への接近が事實とすれば それは親友・賀古鶴所の推挽によるものであらう。
事實、清張は 鷗外が 椿山荘や 古稀庵への出入りを避けなかったばかりか、積極的に山縣の爲の歌會・常磐會を興してゐると。
更には 津和野藩主・伯爵亀井茲常の式部官就任を山縣に懇願したりしてゐる。

明治四十三(1910)年に 幸徳秋水による大逆事件が起こるや、西歐の過激思想に疎い 山縣有朋に對し 獨逸仕込みの左翼思想について進講。
 唐木順三による武力クウデタア紛いの陰謀説が披露されてゐる。  しかし これは 二・二六事件に洗腦された清張の妄想でらう。 歌會・常磐會が共同謀議の塲で、この塲合、差し詰め 山縣有朋が眞崎甚三郎、森林太郎が北一輝と謂う構成であらうが、これは現實あり得まい。

森潤三郎説を引用して 鷗外の文藝著作活動期を;

(1) 文壇活躍時代(明治22年 ~ 明治29年)
(2) 沈黙時代(明治32年 小倉轉任時代)
(3) 文壇再活動時代(明治35年 東京へ歸任、日露戰爭出征を經て)
(4) 歴史小説の制作(明治45年 ~ 大正3年)
(5) 考證學者傳記の研究(大正4年 ~)
としてゐる。

明治四十五(大正元)年七月、明治天皇崩御。
大喪の禮の翌日 乃木希典陸軍大將夫妻の殉死を知るや、『興津彌五右衛門ノ遺書』を 一晩で書き上げる。

乃木希典との仲は明治十七年、陸軍少將と陸軍一等軍醫として伯林に始まる 古く永いものである。
これを切っ掛けに「阿部一族」、「佐橋甚五郎」、「大塩平八郎」、等々 14編の歴史小説を書いてゐる。  夫々 評價は區區(まちまち)であるが。

その間、明治四十(1907)年 陸軍軍醫の最高位である 陸軍軍醫総監に昇進して
陸軍省醫務局長に補せらる。  官位を極めたわけである。

大正四(1915)年十一月 醫務局長の任にあること8年半、大島健一陸軍次官に辭意を表明。
大正五年一月 東京日日ならびに大阪毎日に「澀江抽齋」の連載が始まる。
大正五年四月 豫備役編入。

大正五年六月 長編「伊澤蘭軒」の連載が始まる。
大正六年十月 「北條霞亭」の連載が始まる。

しかし、この 史傳三部作は 剰りにも難解で 新聞の一般大衆讀者には受け入れがたく 不評の爲、東京日日新聞社は 第三作「北條霞亭」の連載を 獨断で中止してしまう。

これこそが 文豪・森鷗外の眞骨頂であり、讀者に絶賛を博する朝日新聞専属作家 夏目漱石との違いである。

陸軍軍醫総監に昇進して三年目の明治四十三年三月から始めて翌年八月まで 延々一年半 雑誌「昴(すばる)」に連載した長編小説「青年」なぞは 後世 評論家から漱石の「三四郎」と對比されて 散々な評價であるが、文豪鷗外の眞髄は 自ら開拓した「史傳」にあり。
是ばかりは 後世 誰にも超される事はなかった。


この後も 松本清張の筆は 澀江抽齋、伊澤蘭軒、北條霞亭論が延々と續く。
尚、鎌倉時代にまで遡る 澀江家は 本筋は「澁江」で「澀江」家は その分かれだとある。

『両像・森鷗外』  松本清張  文藝春秋社 一九九四年十一月二十日 初版第一刷

2022/08/19 初稿
追  記;



一時期 江藤淳に凝ったものである。 斷捨離の殘滓が 書棚に今でも眠ってゐる。
今回改めて江藤淳の經歴を調べてみて、夫婦の近隣での評判を含めて 矢張り一般人ではない人柄が浮かび上がる。  英文科出身では 漢籍の素養は押して知るべし。
漱石を書くに最適任であらう。 2022/08/20