『日航123便 墜落の新事實』 目撃證言から眞相に迫る
元日本航空客室乘務員 青山透子 河出書房新社
2017年7月30日 初版發行 10月13日 12刷 定價1,600圓 税別
著者は 1982(昭57)年入社の 『向こう横丁の四〇〇期』(465 期セミ同期生)。
初乘務が 同年 12月23日、同じ 羽田發大坂行き123便であり、しかも 機材が事故機と 1 番違いの JA8118號機B747-SRで、犠牲となった12人の客室乘務員のうち 6 人までが 手取り足取り 直接 教へを受けた先輩スチュアーデスであり、事件を書くには 最も相應しい立塲の人である。
就中、343期、神戸出身でL-5擔當の對馬祐三子ASとは 事故機であるJA8119號機にも 一緒に乘務した事もあり、想い出は盡きないようで、その惟が 愛惜を込めて綴られてゐる。
520人の 亡くなられた方々へ捧げる鎭魂の書であると同時に、運輸省事故調査報告書に 納得せず 多大な疑問を呈する「告發ノ書」でもある。
筆者が教唆する陰謀説のkey words は;
1. 海上自衛隊・護衛艦まつゆき搭載 艦對空missile Sea Spallow
2. 二機の航空自衛隊・Phantom 戰闘機搭載missile
3. 證據隠滅手段としてのM-2 改良型火炎放射器
で あらう。
昭和六十(1985)年八月、忘れもしない、Chicago駐在五年目の夏期休暇、
米國生まれで一歳半の長男を背中に背負って、小學生の娘二人攣れの一家五人で Boston から NewYork 洲 West Point 陸軍士官學校、Maryland 洲 Annapolis 海軍兵學校、世界最大の軍港 Virginia 洲 Norfolk を廻る一週間の旅 第三日目、潜水艦基地のある Connecticut 洲NewLondon から高速95號線で Yale大學のある街、NewHaven のホテルの部屋に着いたのが、;
東部標準夏時間8月12日(月)5:00pm頃、即ち 日本時間13日(火)6:00am。
事故發生から 12 時間を経過した時刻で、TVは 「日航ジャンボ機墜落」 の映像を 放映してゐた。
その後の情報は 三日遅れの新聞と週刊誌のみだが、(そう謂へば 當時 新聞・雜誌は OCS, overseas courier services で 航空便で送られてきてゐた。)
川上慶子ちゃんがヘリコプターで救出されるあの衝撃的映像と共に、記憶の中に遺ってゐるkey words は;
・・・ decompression ・・・
・・・ uncontrolable ・・・
そして Dutch roll の三つである。
「尻餅事故による 壓力隔壁損傷の修理ミス・・」と謂う 事故調の結論を 三十三年來すっかり信じ込んでゐた僕にとって、陰謀説、事件説は 俄には信じ難い事である。
著者には 前著のある事を知り 早速 圖書館で借りて一讀。
「天空の星たちへー日航123便 あの日の記憶」
マガジンランド2010年5月10日
河出本で 實名で記されてゐる客室乘務員の名前が 前著では なぜだか 全部 假名になってゐる。
天空本 河出本 (本 名)
村木 千代30 木原幸代198期 UpperDeck
冨士野美香28 藤田 香316期 R-1
波川 淳39 波多野純 21期 L-1
大泉 征子24 大野聖子505期 R-2
吉山 正子27 吉田雅代344期 L-2
白鳥ゆかり25 白拍子由美子451期 R-3
黒岩利代子31 赤田眞理子243期 L-3
二之宮良子30 宮道 令子320期 R-4
旗本 恭子24 波多野京子515期 R-4
江川 三枝28 海老名光代388期 L-4
大林 幹子26 大野美紀子465期 R-5
前山由梨子29 對馬祐三子343期 L-5
同書も 陰謀説に直接 結びつく確證 ないしは 説得力ある決め手はみあたらないが、事故直後からの 膨大な新聞・雜誌記事を 克明にに精査して、中曽根官邸の對應に疑問を呈し、所謂、状況證據を積み上げて陰謀説に導いてゐる。
中でも 私が注目したのは、第二次中間報告が出されて三週間後に 事故調委員長が辭任してゐる事である。
1985/08/27 事故調査委員会 第一次中間報告書
1985/09/14 第二次中間報告書
1985/10/09 八田桂三東大名譽教授 委員長辭任
理由は縁者に日航關係者がいた。 後任 武田峻 航空宇宙技術研究所長
八田桂三氏は 熱力學・蒸氣機關の専門家で その適否はさておき、辭任理由の「日航關係者」云々は 最初から判ってゐた事であり、すんなりとは納得し難い。
そこで 直ぐにも想い出されるのは、1966年2月に起きた全日本空輸60便ボーイング727-100型機(JA8302、1965年製造)の全日空羽田沖墜落事故の事である。
この時、事故技術調査團長は、ボーイング727型機の國内線への導入にあたり、積極的な推薦役を果たしてきた、稀代の俗物 木村秀政日本大學教授である。
以下は WIKIPEDIAからの 引用である;
ー 事故調査をめぐり事故技術調査團が紛糾した。 事故技術調査團の 山名正夫明治大學教授が、事故後の 早い段階から、操縦ミス説を主張するN大學K教授らと對立し、辭任した。 これらの事故調査團内の對立と、 内幕・事故調査の進展は、當時NHK社會部記者で 事故についての取材を行った柳田邦男の 『マッハの恐怖』に詳細に記されている。
しかし、航空局航務課は、K.團長の指示に反し、パイロットミスの可能性を否定し、残骸にさまざまな不審な點があり機體に原因があるという方向で 『第一次草案』 をまとめ、1968年(昭和43年)4月26日の會議に提出した。
航務課調査官・楢林一夫が第3エンジンの機体側取り付け部に切れたボルトによる打痕が残っていたこと、第3エンジンが機體から離脱していたことから、取りつけボルトの疲勞破壊説を報告していた。 楢林一夫は 調査團、航空局上層部と對立したため 2年後に退官する。
『第一次草案』で指摘された、第3エンジンの計器だけが他のエンジンと違う値を示していること、第3エンジンの消火レバーを引いた痕跡があること、操縦室のスライド窓操作レバーが開になっており窓が離脱していること、後部のドアの1つのレバーが開になっていること、着陸前であるにもかかわらずシートベルトを外している乘客が多數おり、 乘客によって姿勢が異なることや、後續の日航機と丸善石油從業員が 一瞬の火炎を確認しており、遺体の一部に輕度のやけどの跡があること等の 不審な點については、「原因は不明であり、はっきりしていない。揚収時に操作された可能性もある」などと修正された。
そうした中、1968年7月21日に日本航空の727-100型機 (JA8318) で、本來は 接地後にしか作動しないグランド・スポイラーが飛行中に作動するトラブルが發生し、その原因が機體の缺陥にあることが判明した。
これを受け、事故機でもグランド・スポイラーが作動した可能性の調査が行われ、山名教授は模型による接水實驗と残骸の分布状況から接水時の姿勢を推測し、迎え角が大きくなると主翼翼根部で失速が起き、エンジンへの空気の流れが乱れ異常燃焼を起こすことを風洞實驗によって確かめ、「機體の不具合、もしくは設計ミスのためにグランド・スポイラーが立ったため、機首を引き起こし、主翼から剥離した亂流でエンジンの異常燃焼が起き高度を失い墜落したのではないか」 というレポートを 様々な實驗データと共に調査團に報告した。
しかし、最終報告書案ではそれらを取り上げずに終わった。最終報告書がまとめられるまでの間に提出された5件の草案の提出日は、次の通りである。
第1次案 1968年4月26日
第2次案 1968年6月6日
第3次案 1968年7月18日
山名リポート 1969年10月9日
第4次案 1970年1月
第5次案 1970年8月19日
最終報告書 1970年9月29日
こうした對立や 決定的な原因を見つけられずに事故調査報告書の決定までは 約4年を要し、その間ずっと、事故機の残骸は羽田空港の格納庫の一角に並べられたままになっていた。 ー
山名正夫
明治38(1905)年12月25日兵庫縣神戸市生まれ。昭和51(1976)年1月27日歿。
東京帝國大學工學部航空學科〔昭和4年〕卒,東京帝大大學院修了、工學博士〔昭和7年〕
昭和6 - 20年 海軍航空技術廠で飛行機の研究と設計に從事、名機と謂はれた 艦上爆撃機 「彗 星」、 雷撃も 60°の 緩降下爆撃も可能な世界に比類なき傑作機・双發陸上爆撃機 「銀 河」 の設計主任を務める。
昭和10年東京帝國大學助教授、18年教授を兼任。 昭和19年 海軍技術中佐。
戰後28年自家用飛行機操縦士の資格を取り、29 - 31年防衞廳技術研究所第6部長を務める。 昭和31 - 41年東京大學工學部教授に復歸。 退官後、明治大學工學部教授。
昭和41年2月4日に起きた全日空ボーイング727型機の羽田沖墜落事故で全日空機事故技術調査團に参加、機材の欠陥で失速したと主張したが、受け入れられず、學者の良心が許さないとして45年團員を辭任。
調査團は原因不明との報告書を同年9月提出した。
この事故は「最後の30秒」という著書にまとめられた。
乘客、乘員 133人全員死亡と謂う 1966年當時としては未曾有の航空機事故は 結局 「原因不明」 として片付けられ、今や『全日空機羽田沖墜落事故』を記憶する人も少ないし、世間の話題に上る事もない。
機體の構造缺陥であるground spoiler誤作動の可能性が絶大であるにも不拘らず、強引に 「原因不明」 と結論つけた、學者の風上にもおけぬ政治人間K..H.、辭任すべきは 利害關係者であり、賣名屋で 稀代の俗物・K.H.自身であり、 山名正夫博士ではなかった筈。
一方、日航ジャンボ墜落事故に関しては、U-tube だけでも 十指に余るdocumentaryが net上に掲載されてゐる。
その内の一本に注目した。 内容は、voice recorder の解析であるが、從來 事故調が;
・・・ all engines ・・・
だとして來た音聲は、noise を取り除いた専門家の解析で、全く異なる 『body gear』 である可能性が絶大である事が判明。 然からば、垂直尾翼の脱落原因が 壓力隔壁損傷に起因すると謂う事故調の結論とは異なった方向性が推測される。
孰れにしても、確たる證據、説得力ある裏付けが出てこない限り、陰謀説への告發は成立しない。
それよりも、僕にとっては 29期 の お姐さん方が懐かしく想い出される。
博多っ子で、青學出身のN.佳子さん。 弟の晃君は内定してゐた東芝を振り切ってJALへ。慶大同窓會名簿では「モーゼスレイク乘員訓練所」のままになってゐるが、コーパイ時代 一度 乘り合はせた事がある。 彼も 70 歳を越へた筈。
芦屋生まれ 關西學院大學出身、ナイーヴで多才なM.穆子さん。
乘務中に盲腸炎を發病、モスクワの病院に緊急入院したのは1969年の事だっけ。 當時 ご両親は鎌倉・若宮ハイツにお住まいだった。
姐御・ヤマカズことY.順子さんと I.富貴子さんに最後にお目に掛かったのは1973年秋 新婚旅行で立ち寄った布哇・檀香山で 四人で食事をした時の事。
携帯もメールもない時代、どうやって聯絡とったのか、さっぱり記憶にないが、 お元氣にしておいでかなー? お二人 聖心女學院の同窓だった。
I.淑恵さん。 何期だったか? ご両親 弟さんと藤澤本町にお住まいだった。
今でも名前を憶へてゐるのは この五人だけだが、機内でお世話になったスチュワーデス、パーサーは 數限りない。
初めて飛行機に乘ったのが 國内線の DC6B。
初めての國際線は、1964(昭和39)年3月17日(火)羽田から 泰・盤谷。 慥か 給油の爲 香港に寄港した筈だ。
暫く DC8 の時代が續く。 その間、一時期 CV440 CV880 なんてのもあったっけ。 慥か 南回り 中近東を飛んでゐた記憶がある。
DC8 で 初めて 太平洋を渡ったのが 1969(昭和44)年4月5日 羽田發 帆埜瑠瑠經由 合衆國東部を 七週間の長旅だった。
當時は 東回りでも 西回りでも 太平洋を渡る毎に 日付變更線通過證明書(Certificate of Crossing IDL)を呉れてゐた。 松尾静磨社長名儀で 日付はないが、旅券と照合すると 羽田發 日本時間4月5日 と 5月23日 羽田着の事だ。
初めて B747 に乘ったのは、1970年7月29日。 羽田發 布哇・火奴魯魯行きだった。
記録によると、7月1日 就航とあるから、就役して直ぐのころだ。
初めて First Class に乘ったのが 1972年9月30日 香港發 羽田着。
當時C-class(Executive class と呼ばれてゐて、後の Business class) は無くて Y と Fだけだったが、差額を自前で拂って upgrade 四時間半の 空の旅を満喫した。
或る時、B747 C 席に着いたら、離陸前の忙しい時に 僕の席にスットンデ來て、 『原辰徳のジャイアンツ入團が決まりましたよ!』と 嬉しくって感に堪へぬと謂う表情で跳び去って行ったスチュワーデスがゐた。 1980年秋、成田での事だ。
1999年12月、Millennium前夜、「大路羅を見ると人生觀が變はる」との言い傳へを信じて 阿拉斯加に大路羅見物に出かけた。
12年ぶりの安克拉治空港。 嘗て、歐洲便も北米東岸便も給油寄港で 榮耀榮華を誇った空港賣店は 機材の航續距離伸延で すっかり様變はり姿を消してゐた。 榮枯盛衰。
オーロラ見物一行の中に、休暇のJALスチュワーデスが居り、何期ですかと尋ねるに、 今は 二年間契約社員で「期」はないんですと。
JALも變はったことを實感。
山崎豊子「沈まぬ太陽」を熱心に讀んでゐたのを想い出す。
123便墜落を知ったのは、夏季休暇で旅行中、 Connecticut洲NewHavenのホテルに着いて部屋のTVをつけた;
東部標準夏時間8月12日(月)6:00pm、即ち 日本時間13日(火)7:00am。
事故發生から 13 時間を經過した時刻で、「日航ジャンボ機墜落」の映像を 放映してゐた。
長男と 小學生の娘二人の家族五人旅。 その時 一歳半だった長男も 今や 三人の子供の父親になった。
僕の青春は、羽田空港、赤丸印の鶴のマークと JALスチュワーデスのお姐さん方sと共にあり。 想い出は盡きない。 古き佳き時代、暴走老人の 懐かしい想い出です。
昔を想い出させてくれて 有り難う。 多謝、多謝。
2018/05/10 初稿 2022/08/12 改訂復刻掲載
元日本航空客室乘務員 青山透子 河出書房新社
2017年7月30日 初版發行 10月13日 12刷 定價1,600圓 税別
著者は 1982(昭57)年入社の 『向こう横丁の四〇〇期』(465 期セミ同期生)。
初乘務が 同年 12月23日、同じ 羽田發大坂行き123便であり、しかも 機材が事故機と 1 番違いの JA8118號機B747-SRで、犠牲となった12人の客室乘務員のうち 6 人までが 手取り足取り 直接 教へを受けた先輩スチュアーデスであり、事件を書くには 最も相應しい立塲の人である。
就中、343期、神戸出身でL-5擔當の對馬祐三子ASとは 事故機であるJA8119號機にも 一緒に乘務した事もあり、想い出は盡きないようで、その惟が 愛惜を込めて綴られてゐる。
520人の 亡くなられた方々へ捧げる鎭魂の書であると同時に、運輸省事故調査報告書に 納得せず 多大な疑問を呈する「告發ノ書」でもある。
筆者が教唆する陰謀説のkey words は;
1. 海上自衛隊・護衛艦まつゆき搭載 艦對空missile Sea Spallow
2. 二機の航空自衛隊・Phantom 戰闘機搭載missile
3. 證據隠滅手段としてのM-2 改良型火炎放射器
で あらう。
昭和六十(1985)年八月、忘れもしない、Chicago駐在五年目の夏期休暇、
米國生まれで一歳半の長男を背中に背負って、小學生の娘二人攣れの一家五人で Boston から NewYork 洲 West Point 陸軍士官學校、Maryland 洲 Annapolis 海軍兵學校、世界最大の軍港 Virginia 洲 Norfolk を廻る一週間の旅 第三日目、潜水艦基地のある Connecticut 洲NewLondon から高速95號線で Yale大學のある街、NewHaven のホテルの部屋に着いたのが、;
東部標準夏時間8月12日(月)5:00pm頃、即ち 日本時間13日(火)6:00am。
事故發生から 12 時間を経過した時刻で、TVは 「日航ジャンボ機墜落」 の映像を 放映してゐた。
その後の情報は 三日遅れの新聞と週刊誌のみだが、(そう謂へば 當時 新聞・雜誌は OCS, overseas courier services で 航空便で送られてきてゐた。)
川上慶子ちゃんがヘリコプターで救出されるあの衝撃的映像と共に、記憶の中に遺ってゐるkey words は;
・・・ decompression ・・・
・・・ uncontrolable ・・・
そして Dutch roll の三つである。
「尻餅事故による 壓力隔壁損傷の修理ミス・・」と謂う 事故調の結論を 三十三年來すっかり信じ込んでゐた僕にとって、陰謀説、事件説は 俄には信じ難い事である。
著者には 前著のある事を知り 早速 圖書館で借りて一讀。
「天空の星たちへー日航123便 あの日の記憶」
マガジンランド2010年5月10日
河出本で 實名で記されてゐる客室乘務員の名前が 前著では なぜだか 全部 假名になってゐる。
天空本 河出本 (本 名)
村木 千代30 木原幸代198期 UpperDeck
冨士野美香28 藤田 香316期 R-1
波川 淳39 波多野純 21期 L-1
大泉 征子24 大野聖子505期 R-2
吉山 正子27 吉田雅代344期 L-2
白鳥ゆかり25 白拍子由美子451期 R-3
黒岩利代子31 赤田眞理子243期 L-3
二之宮良子30 宮道 令子320期 R-4
旗本 恭子24 波多野京子515期 R-4
江川 三枝28 海老名光代388期 L-4
大林 幹子26 大野美紀子465期 R-5
前山由梨子29 對馬祐三子343期 L-5
同書も 陰謀説に直接 結びつく確證 ないしは 説得力ある決め手はみあたらないが、事故直後からの 膨大な新聞・雜誌記事を 克明にに精査して、中曽根官邸の對應に疑問を呈し、所謂、状況證據を積み上げて陰謀説に導いてゐる。
中でも 私が注目したのは、第二次中間報告が出されて三週間後に 事故調委員長が辭任してゐる事である。
1985/08/27 事故調査委員会 第一次中間報告書
1985/09/14 第二次中間報告書
1985/10/09 八田桂三東大名譽教授 委員長辭任
理由は縁者に日航關係者がいた。 後任 武田峻 航空宇宙技術研究所長
八田桂三氏は 熱力學・蒸氣機關の専門家で その適否はさておき、辭任理由の「日航關係者」云々は 最初から判ってゐた事であり、すんなりとは納得し難い。
そこで 直ぐにも想い出されるのは、1966年2月に起きた全日本空輸60便ボーイング727-100型機(JA8302、1965年製造)の全日空羽田沖墜落事故の事である。
この時、事故技術調査團長は、ボーイング727型機の國内線への導入にあたり、積極的な推薦役を果たしてきた、稀代の俗物 木村秀政日本大學教授である。
以下は WIKIPEDIAからの 引用である;
ー 事故調査をめぐり事故技術調査團が紛糾した。 事故技術調査團の 山名正夫明治大學教授が、事故後の 早い段階から、操縦ミス説を主張するN大學K教授らと對立し、辭任した。 これらの事故調査團内の對立と、 内幕・事故調査の進展は、當時NHK社會部記者で 事故についての取材を行った柳田邦男の 『マッハの恐怖』に詳細に記されている。
しかし、航空局航務課は、K.團長の指示に反し、パイロットミスの可能性を否定し、残骸にさまざまな不審な點があり機體に原因があるという方向で 『第一次草案』 をまとめ、1968年(昭和43年)4月26日の會議に提出した。
航務課調査官・楢林一夫が第3エンジンの機体側取り付け部に切れたボルトによる打痕が残っていたこと、第3エンジンが機體から離脱していたことから、取りつけボルトの疲勞破壊説を報告していた。 楢林一夫は 調査團、航空局上層部と對立したため 2年後に退官する。
『第一次草案』で指摘された、第3エンジンの計器だけが他のエンジンと違う値を示していること、第3エンジンの消火レバーを引いた痕跡があること、操縦室のスライド窓操作レバーが開になっており窓が離脱していること、後部のドアの1つのレバーが開になっていること、着陸前であるにもかかわらずシートベルトを外している乘客が多數おり、 乘客によって姿勢が異なることや、後續の日航機と丸善石油從業員が 一瞬の火炎を確認しており、遺体の一部に輕度のやけどの跡があること等の 不審な點については、「原因は不明であり、はっきりしていない。揚収時に操作された可能性もある」などと修正された。
そうした中、1968年7月21日に日本航空の727-100型機 (JA8318) で、本來は 接地後にしか作動しないグランド・スポイラーが飛行中に作動するトラブルが發生し、その原因が機體の缺陥にあることが判明した。
これを受け、事故機でもグランド・スポイラーが作動した可能性の調査が行われ、山名教授は模型による接水實驗と残骸の分布状況から接水時の姿勢を推測し、迎え角が大きくなると主翼翼根部で失速が起き、エンジンへの空気の流れが乱れ異常燃焼を起こすことを風洞實驗によって確かめ、「機體の不具合、もしくは設計ミスのためにグランド・スポイラーが立ったため、機首を引き起こし、主翼から剥離した亂流でエンジンの異常燃焼が起き高度を失い墜落したのではないか」 というレポートを 様々な實驗データと共に調査團に報告した。
しかし、最終報告書案ではそれらを取り上げずに終わった。最終報告書がまとめられるまでの間に提出された5件の草案の提出日は、次の通りである。
第1次案 1968年4月26日
第2次案 1968年6月6日
第3次案 1968年7月18日
山名リポート 1969年10月9日
第4次案 1970年1月
第5次案 1970年8月19日
最終報告書 1970年9月29日
こうした對立や 決定的な原因を見つけられずに事故調査報告書の決定までは 約4年を要し、その間ずっと、事故機の残骸は羽田空港の格納庫の一角に並べられたままになっていた。 ー
山名正夫
明治38(1905)年12月25日兵庫縣神戸市生まれ。昭和51(1976)年1月27日歿。
東京帝國大學工學部航空學科〔昭和4年〕卒,東京帝大大學院修了、工學博士〔昭和7年〕
昭和6 - 20年 海軍航空技術廠で飛行機の研究と設計に從事、名機と謂はれた 艦上爆撃機 「彗 星」、 雷撃も 60°の 緩降下爆撃も可能な世界に比類なき傑作機・双發陸上爆撃機 「銀 河」 の設計主任を務める。
昭和10年東京帝國大學助教授、18年教授を兼任。 昭和19年 海軍技術中佐。
戰後28年自家用飛行機操縦士の資格を取り、29 - 31年防衞廳技術研究所第6部長を務める。 昭和31 - 41年東京大學工學部教授に復歸。 退官後、明治大學工學部教授。
昭和41年2月4日に起きた全日空ボーイング727型機の羽田沖墜落事故で全日空機事故技術調査團に参加、機材の欠陥で失速したと主張したが、受け入れられず、學者の良心が許さないとして45年團員を辭任。
調査團は原因不明との報告書を同年9月提出した。
この事故は「最後の30秒」という著書にまとめられた。
乘客、乘員 133人全員死亡と謂う 1966年當時としては未曾有の航空機事故は 結局 「原因不明」 として片付けられ、今や『全日空機羽田沖墜落事故』を記憶する人も少ないし、世間の話題に上る事もない。
機體の構造缺陥であるground spoiler誤作動の可能性が絶大であるにも不拘らず、強引に 「原因不明」 と結論つけた、學者の風上にもおけぬ政治人間K..H.、辭任すべきは 利害關係者であり、賣名屋で 稀代の俗物・K.H.自身であり、 山名正夫博士ではなかった筈。
一方、日航ジャンボ墜落事故に関しては、U-tube だけでも 十指に余るdocumentaryが net上に掲載されてゐる。
その内の一本に注目した。 内容は、voice recorder の解析であるが、從來 事故調が;
・・・ all engines ・・・
だとして來た音聲は、noise を取り除いた専門家の解析で、全く異なる 『body gear』 である可能性が絶大である事が判明。 然からば、垂直尾翼の脱落原因が 壓力隔壁損傷に起因すると謂う事故調の結論とは異なった方向性が推測される。
孰れにしても、確たる證據、説得力ある裏付けが出てこない限り、陰謀説への告發は成立しない。
それよりも、僕にとっては 29期 の お姐さん方が懐かしく想い出される。
博多っ子で、青學出身のN.佳子さん。 弟の晃君は内定してゐた東芝を振り切ってJALへ。慶大同窓會名簿では「モーゼスレイク乘員訓練所」のままになってゐるが、コーパイ時代 一度 乘り合はせた事がある。 彼も 70 歳を越へた筈。
芦屋生まれ 關西學院大學出身、ナイーヴで多才なM.穆子さん。
乘務中に盲腸炎を發病、モスクワの病院に緊急入院したのは1969年の事だっけ。 當時 ご両親は鎌倉・若宮ハイツにお住まいだった。
姐御・ヤマカズことY.順子さんと I.富貴子さんに最後にお目に掛かったのは1973年秋 新婚旅行で立ち寄った布哇・檀香山で 四人で食事をした時の事。
携帯もメールもない時代、どうやって聯絡とったのか、さっぱり記憶にないが、 お元氣にしておいでかなー? お二人 聖心女學院の同窓だった。
I.淑恵さん。 何期だったか? ご両親 弟さんと藤澤本町にお住まいだった。
今でも名前を憶へてゐるのは この五人だけだが、機内でお世話になったスチュワーデス、パーサーは 數限りない。
初めて飛行機に乘ったのが 國内線の DC6B。
初めての國際線は、1964(昭和39)年3月17日(火)羽田から 泰・盤谷。 慥か 給油の爲 香港に寄港した筈だ。
暫く DC8 の時代が續く。 その間、一時期 CV440 CV880 なんてのもあったっけ。 慥か 南回り 中近東を飛んでゐた記憶がある。
DC8 で 初めて 太平洋を渡ったのが 1969(昭和44)年4月5日 羽田發 帆埜瑠瑠經由 合衆國東部を 七週間の長旅だった。
當時は 東回りでも 西回りでも 太平洋を渡る毎に 日付變更線通過證明書(Certificate of Crossing IDL)を呉れてゐた。 松尾静磨社長名儀で 日付はないが、旅券と照合すると 羽田發 日本時間4月5日 と 5月23日 羽田着の事だ。
初めて B747 に乘ったのは、1970年7月29日。 羽田發 布哇・火奴魯魯行きだった。
記録によると、7月1日 就航とあるから、就役して直ぐのころだ。
初めて First Class に乘ったのが 1972年9月30日 香港發 羽田着。
當時C-class(Executive class と呼ばれてゐて、後の Business class) は無くて Y と Fだけだったが、差額を自前で拂って upgrade 四時間半の 空の旅を満喫した。
或る時、B747 C 席に着いたら、離陸前の忙しい時に 僕の席にスットンデ來て、 『原辰徳のジャイアンツ入團が決まりましたよ!』と 嬉しくって感に堪へぬと謂う表情で跳び去って行ったスチュワーデスがゐた。 1980年秋、成田での事だ。
1999年12月、Millennium前夜、「大路羅を見ると人生觀が變はる」との言い傳へを信じて 阿拉斯加に大路羅見物に出かけた。
12年ぶりの安克拉治空港。 嘗て、歐洲便も北米東岸便も給油寄港で 榮耀榮華を誇った空港賣店は 機材の航續距離伸延で すっかり様變はり姿を消してゐた。 榮枯盛衰。
オーロラ見物一行の中に、休暇のJALスチュワーデスが居り、何期ですかと尋ねるに、 今は 二年間契約社員で「期」はないんですと。
JALも變はったことを實感。
山崎豊子「沈まぬ太陽」を熱心に讀んでゐたのを想い出す。
123便墜落を知ったのは、夏季休暇で旅行中、 Connecticut洲NewHavenのホテルに着いて部屋のTVをつけた;
東部標準夏時間8月12日(月)6:00pm、即ち 日本時間13日(火)7:00am。
事故發生から 13 時間を經過した時刻で、「日航ジャンボ機墜落」の映像を 放映してゐた。
長男と 小學生の娘二人の家族五人旅。 その時 一歳半だった長男も 今や 三人の子供の父親になった。
僕の青春は、羽田空港、赤丸印の鶴のマークと JALスチュワーデスのお姐さん方sと共にあり。 想い出は盡きない。 古き佳き時代、暴走老人の 懐かしい想い出です。
昔を想い出させてくれて 有り難う。 多謝、多謝。
2018/05/10 初稿 2022/08/12 改訂復刻掲載