相洲遁世隠居老人

近事茫々。

加賀乙彦 『殉教者』 を讀む。

2021-09-14 09:29:39 | 日記
加賀乙彦 『殉教者』 を讀む。

大分空港から 我が先祖代々本貫ノ地 豐後(ぶんご)香々地ノ庄(かかぢのしょう)三重村(みえむら)佐古(現 豊後高田市上香々地)へ國東半島を海岸沿いに 213號線を行くと 熊毛港の先 岐部川に架かる大日橋のたもと左手に「ペトロカスイ像」を見る。

 付近一帯の現在の地名は「國見町岐部」であるが、古くは 赤根、竹田津、鬼籠、伊美、岐部、櫛木、小熊毛を統合して「豐後ノ浦辺」と呼ばれる大友宗麟の水軍根據地である。

主人公「ペトロ岐部カスイ」は 江戸時代初期の基督教殉教者の一人であるが、一般には 殆ど その名を知られてゐない。

著者の 加賀乙彦は「あとがき」の中で『江戸時代初期、日本人として初めて砂漠を歩いて聖地エルサレムに旅した人としてペトロ岐部カスイの名前は聞こえている。』と書いているが、恐らく 前作「高山右近」「ザビエルとその弟子」の取材過程でその名を知ったのではあるまいか?

著者が引用した文献は「大分縣先哲叢書 ペトロ岐部カスイ」資料で 恐らく 日本國内に残された文献は これに盡るのでは?
ペトロは 勿論 洗禮名であり、カスイは「活水」、自分で名乘った號であらう。

父ロマノ岐部、母マリア波田の子として 天正十五(1587)年誕生。 幼名は遺されてゐない。  秀吉が伴天連(バテレン)追放令を出した年である。

父ロマノ岐部は 大友水軍の武士であり、同時に敬虔な切支丹である。 岐部城、岐部神社は 今もその名をとどめてゐるので、小さいながら一國一城の主でもあった。

主筋のドン・普蘭師司怙(フランシスコ)大友宗麟・義鎭(よししげ)は フランシスコザビエルと親交があり その布教活動を支援すると共に 自らも洗禮を受けた切支丹大名である。

  本能寺の變のあった天正十(1582)年、松浦・平戸藩ドン・バルトロメオ大村純忠、肥前日野江藩ドン・プロタジオ有馬晴信と共に それぞれ名代を立てて 有名な『天正遣歐少年使節』を羅馬(ローマ)に派遣してゐる。(天正十八年に歸國)
その間、薩摩島津勢との抗争の最中 天正十五年に大友宗麟が58歳で死去すると、後を継いだ嫡男コンスタンチノ義統(よしむね)が棄教・改宗して 切支丹彈壓に轉ずる。

ロマノ岐部はこれに反撥して 國東で益々 布教活動を活發化させる。
しかし 大友義統が朝鮮征伐文禄の役 文禄二年(1593)の平壌城の戰いで明の大軍に包囲された撤退作戰の不手際から改易となり、領地そのものが秀吉に召し上げとなる。

主君大友吉統(義統から改名)が改易となったのが 7歳の時。

父は主君を失い歸農して漁師兼百姓となる。 そう言う ゴタゴタの世の中で幼少期を過ごす。

慶長五(1600)年 13歳。 関ヶ原の合戰の年である。
父に連れられて長崎へ。 敬虔な切支丹として有名な父のお蔭で、「岬の教會」と呼ばれてゐたセミナリオ(初等神學校)に入學を許される。 ここは 長崎の大火で焼失したため、1年で有馬セミナリオに移る。 領主は肥前日野江藩主ドン・プロタジオ有馬晴信である。

関ヶ原の合戰前夜、毛利輝元の支援を得て一時復活した大友吉統は西軍として別府に上陸、 黒田如水率いる東軍との間で戰われた「石垣原の合戰」に惨敗して、此處に鎌倉幕府御家人であり 初代豊後守護職大友能直(よしなお)以來 四百年 豊後の地に君臨した大友家は滅亡する。
後に 大友領の大部は天領として徳川幕府に召し上げられ一部は 親藩領となるが、浦辺から香々地にかけては 勝利した 黒田藩領(ドン・シメオン黒田官兵衛・孝高(よしたか)・如水)となるも 黒田如水の後を継いだ嫡男黒田長政が筑前福岡53萬石にお國替えの後 丹後宮津から豊前中津にお國替えとなった細川忠興が引きつぐ。  加藤清正亡き後 二代目藩主細川忠利が 肥後熊本54萬石へ移封となり、江戸時代中期には 日向延岡藩内藤家飛び地として明治維新を迎えてゐる。





因みに 我が先祖傳來の本貫、香々地ノ庄は 太古の昔から 宇佐八幡宮領であり、貞觀二(860)年に 石清水八幡が勸請された時、石清水八幡荘園となる。

  大友能直が 豐前・豐後守護職 兼 鎭西奉行に任ぜられたのが建久七(1196)年一月十一日。   神(こう)宮司を先頭に 鶴岡八幡宮の神輿(みこし)を奉じて海路 豐後國速見郡濱脇浦に上陸したのが六月十一日。 現在の朝見に遷座(貞和四1348年)するまで 龍ヶ岡に鎭座。
随って 八幡朝見神社は 宇佐 → 石清水 → 鎌倉・若宮 → 鎌倉・鶴岡 と 宇佐八幡宮の 玄孫勸請だと謂う事になります。



セミナリオの教育は主にラテン語の學習であり、歴史、地理、倫理が加わる。

本貫の地を失った父ロマノ岐部はこの地で歿し、母マリア波田、弟のジョアン岐部五左衛門とその妻ルフィーナも 長崎で 神父や修道士の世話係りをして生計をたてる。

慶長十七(1612)年 徳川幕府 直轄領での切支丹禁止令發令。
慶長十八(1613)年 伊達政宗 慶長の遣歐使節として支倉常長を遣わす。
慶長十九(1614)年 2月 第二代將軍徳川秀忠 南禪寺住職金地院崇傳に命じ伴天連追放
     の命令書を書かせ 長崎に集結の大號令を發す。
  5月 方廣寺鍾名事件、10月 大阪冬の陣。
元和元年(1615)年 4月 大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。
  5月 ペトロ岐部カスイ 28 歳、日本脱出を決意して 長崎を出奔。



加賀乙彦の『殉教者』物語は ここから始まる。

その間、秀吉恩顧の大名で 関ヶ原で東軍側についた切支丹大名は 幕府の意向に忖度して 續々と棄教・轉宗。 のみならず 積極的に これを弾壓する。 就中、筑前福岡黒田藩、肥前日野江有馬藩の切支丹追及と彈壓は凄惨を極める。

そんな 激動の嵐の中を同宿(どうじゅく)身分(みぶん)のペトロ岐部カスイは日本脱出を決行するのだが、動機は 決して 逃避ではなく、基督受難の聖地エルサレムを巡禮し 天主教の本處・羅馬で勉學と研鑽を積んで司祭(パードレ)の資格を得て、再び日本に戻り 布教活動に専念しようと謂う 遠大にして堅い決意である。

15年間の研鑽で 拉丁語(ラテンご)は不自由なく喋れるが、同宿身分では船賃はおろか 途中の路銀も 行く先々で支援者・同情者に頼るしかない。 誠に心細い旅路である。

先ずは 和蘭陀(オランダ)に敵対する 西班牙(エスパニヤ)船で馬尼刺(マニラ)へ。 長崎を出て40日の航海で馬尼刺港着。

改宗・棄教を拒みつずけた切支丹大名の ユスト高山右近 63 歳が亡命先の馬尼刺で客死したのは この年の二月三日の事である。

ここで、日本から同道したイヱスズ會士で西班牙人のドン・ガブリエル・ゴンザレス修道士の父親であるゴンザレス將軍が澳門(マカオ)への乗船券を手配して呉れる。

およそ一ヶ月の航海で 澳門着。1615年の眞夏である。

澳門には 日本から追放された神父、傳道師、同宿、神學生が多數 犇(ひし)めいてをり 日本人集團は招かれざる客である。 此処の管區長も巡察師も日本人に對して 好意的ではない。

何とか 印度のゴアまでの船賃を工面して マラッカを經由してゴアに着いたのが 1617年5月のことである。 同宿のミゲル・ミノエスと小西マンショの三人連れである。

筆者のあとがきによると、ゴア以降 羅馬までの經緯は記録資料がなく、想像で書いたとある。

ミゲルと小西とは此処で別れて定期便でリスボン行き。 以後は單獨行動である。

1619年の初頭、グジャラート人のジャンクに操舵夫として雇われ ゴアを出港。
吾は 大友水軍長(おさ)の父親仕込みの海の男である。
一月半で 2,200 粁(キロ・メートル)を踏破、波斯灣(ペルシャわん)入り口のホルムズ島に着く。
ここから便船でウブッラ(現在の アバダン)に上陸して ここで 駱駝の隊商に雇われて砂漠の道をイラクのバグダードを經由してシリヤのアレッポまで徒歩で行く。


筆者は實地檢分の爲 マニラ、マカオ、マラッカ、ゴア、エルサレム、イスタンブール、アッシジ、ローマ、バルセロナ、モンセラート、マンレサ、マドリード、エヴォラ、リスボンを巡ったとあるが、このイラク砂漠は現在 治安の問題で行く事が出來ず、代わりにタクラマカン砂漠で駱駝の旅を體驗したとある。

私自身は、アバダンの近くの最大港灣都市バスラーとバグダードの間をトヨタ車で往復した經驗があるので、砂漠の旅がどんなものであるか 大體の見當はつく。
砂漠というよりは、きめ細かい黄土土漠であり、風に吹かれると視界は全く効かない。
日中氣温は 屡々 50℃を超し、映畫のなかで リビヤの砂漠のロンメル戰車隊が ボンネットの上で目玉焼きを作る姿を想像すれば 当たらずとも遠からじ。

ウッブラからバグダードを經由してアレッポまで 1,150 粁。 此処で賃金を貰い 隊商と別れて、單獨徒歩で南下してダマスカス經由、ゴラン高原を横切ってガリラヤ湖に出る。
更に南下してエルサレムへ。 ウッブラから2,000 粁の徒歩旅だ。

バグダードやダマスカスは 若い頃 出張で何度か訪ねた事があるので 若干の土地勘はある。
現代は空路の旅であるから何でもないが、土漠の徒歩での旅は想像を絶する。

1619年5月末、聖都エルサレムの獅子門をくぐる。
ここの巡禮宿で雑用係として働きながら イエス・キリスト受難の足跡を辿る。

翌年2月中旬、聖都エルサレムを發ち、ダマスカスでイスタンブール行きの隊商をつかまえて 駱駝牽きとして雇われる。

1620年5月初旬 イスタンブールを發ちセルビアのベオグラード、クロアチアのザグレブ、伊太利のトリエステを經由してヴェネチアへ。
あとは アッシジを經由して 大都羅馬までは一足。

1615年晩春に長崎を出奔して、1620年の初夏 羅馬までの五年余の長い旅であった。

羅馬ではイヱスズ會の宿泊所に泊まり、圖書館に通いながら勉學を續ける。
1620年10月18日 日曜日 剃髪式。
10月19日、20日 守門と讀師の聖品授與。
11月1日 副助祭の聖品授與。
11月8日 日曜日 助祭に叙階。
11月15日 司祭に叙階。
11月20日 イエスズ會入會が許可される。
ペトロ岐部カスイ 33歳、 文字通り トントン拍子の異例の叙階である。
十五年間の 長崎と有馬セミナリオでのたゆまざる勉學と研鑽の成果であらう。

11月21日 土曜日、聖アンドレア修練院でイエスズ會士としての生活が始まる。

1622年6月6日 日本への歸國許可が下りる。

羅馬の港町 チヴィタベッキアから船でジェノヴァ經由バルセロナに上陸。
サラゴサを經由して 大學都市アルカラ・デ・エナレスへ。
マドリードで 日本からの膨大な書翰報告書を讀む。
ポルトガルに入り イエスズ會創設のエヴォラ大學へ。
1622年9月15日 リスボンに到着、オリヴェッテ山修練院へ。

11月22日 総ての修練を終えて 正式の歸國許可を得る。
1623年3月25日 印度へ向かう 6隻の艦隊はリスボンを出港、阿弗利加・喜望峰を回って印度へ向かって出港。

1624年5月28日 ゴア着。 實に 14 ヶ月と謂う 長い長い 風まかせの帆船での航海である。

そして 更に ゴアから日本行きの便船は無く、結局 馬尼刺行きの船に乘ることが出來たのは一年後の1625年4月の事。
そして そこから 澳門に渡ったり、當時まだ健在だった 山田長政(寛永七1630年死没)のゐる アユタヤに向かわんとしたり、紆余曲折。

寛永元年(1624) 3月 第三代徳川家光は 西班牙(エスパニア)と断交。

日本行き船は 敵對する和蘭陀船しかないことが判り、結局 馬尼刺に戻って 自前の船を仕立てて密航する事になる。
ルバング島で白蟻に喰われたボロ船を調達。自分で修理してここを發ったのが1630年6月。
船の修理や 操船は 水軍の長(おさ)の父親仕込みで得意技。

ルバング島、何か聞いたことのある名前である。 左様 あの小野田寛郎陸軍少尉が 残置諜者として隠れていた島である。

坊ノ津に着いたのが7月中旬。途中 嵐に遭って難破したお蔭で、密航者として疑われる事なく、津ノ口番所の役人から「豐後國東浦辺出身、商人、平藏」と謂う證文を貰う。

1630年は 日本で 第三代將軍 徳川家光の代で 寛永七年。 切支丹への取り締まりは更に嚴しく 世の中様變わりである。

あれ程澤山居た切支丹大名も ユスト高山右近(天正十五1587年の秀吉の禁教令に抗して領地返上、一時 加賀・前田利家の客分となる)を唯一人の例外として 續々と棄教・轉宗。

中でも 外様大名の 筑前黒田藩の伴天連追及は特に嚴しく、弟のジョアン岐部五左衛門は 黒田長政の密偵に怪しまれ、その妻ルフィーナと共に福岡城に引っ立てられて打ち首になった事を知る。

寛永十1633年10月18日、イエスズ會管區長代理で、日本司教區の責任者であった クリストヴァン・フェレイラが 逆さ吊りの拷問に耐えかねて棄教・轉向。  歸化して 野澤忠庵を名乘るという衝撃的な事件が起こる。

結局 長崎を中心とした九洲はもとより、京・大坂でも布教は不可能だと謂う事が判り、仙臺藩の東北地方に向かう。 慶長の支倉常長遣歐使節を出した伊達政宗が頼りである。

 しかし 外様大名である 伊達政宗(寛永十三1636年歿)は徳川幕府に忖度して 天領や親藩より嚴しい探索を行うとともに、密告者に對する報奨金も桁違いに多くして 密告を奨励していた。

密告により捉えられ江戸送りとなったのが寛永十六1639年夏の事である。
逆さ吊りの拷問にも 焼鏝の火刑にも耐え、「ペトロ岐部カスイは轉び申さず候」と叫びつずけると、 < 灼熱の痛みが消えた。 主が痛みを消してくださった。 >
 
ペトロ岐部カスイ 五十二歳での歸天である。


筆者の加賀乙彦とは『歸らざる夏』以來だから ほぼ50年ぶりである。


昭和4年東京生まれの 92歳。  名古屋陸軍幼年學校在學中に終戰。  「歸らざる夏」はその時の體驗をもとにした小説である。
東京大學醫學部卒業の 精神科醫。 遠藤周作の影響で 1987 年のクリスマスに 58歳でカトリックの洗禮を受ける。 遠藤周作の折伏には説得力があると謂う事だ。

フランス留學の前、東京拘置所醫務部技官を勤め 1960年に歸國。
醫學博士の學位を取得した論文の題名が 「日本に於ける死刑ならびに無期受刑者の犯罪學的精神病理學的研究」であるから 臨床醫とはかけ離れた存在である。

偖て、この作品を non-fiction として讀むか、小説として讀むか。
羅馬(ローマ)以降 葡萄牙(ポルトガル)の里斯本(リスボン)を經由して 印度の臥亞(ゴア)までの日時は明解なので、これは羅馬なり馬徳里(マドリッド)に記録が残されてゐるに違いない。

筆者自身が あとがきの中で、「(往路の)ゴア以降 ローマ迄は資料が乏しいので 想像で書いた」とあるが、日本に歸った寛永七(1630)年以降については資料が存在するのであらうか?  機會があったら 大分縣先哲叢書を調べて見たい。

因みに この作者は嘗て、来栖三郎駐米大使一家を題材にした作品の中で 日米混血で 陸軍航技大尉の御子息の戰死の經緯がはっきりしてゐるにも拘らず、全く別のストーリーにしてしまった事がある。 
假名ではあるが 讀む人が讀めば 来栖大使一家の事であることは明白である。
結局、讀者の疑問に答える事なく、改訂版では本名に變更して出版してしまった。
頭脳明晰な精神科醫の思考は 凡人には理解し難いものがある。

ペトロ岐部カスイの行動様式についても、他力本願の淨土系佛教徒には 門徒モノシラヅで 到底 理解の及ばぬものがある。
 まるで牧師の娘 メルケル首相の謂う、「そこに困った人がゐれば、扶けの手を差し伸べるのが人の道!」と同じ思想である。
 しかも 命懸けで。     

  南无阿彌陀佛 南无阿彌陀佛。

2021/09/13 初稿掲載


加賀乙彦 『殉教者』 (株)講談社 二〇一六年四月 第一刷發行



遠藤周作 『宿敵』

2021-09-03 17:17:58 | 日記

遠藤周作 『宿敵』上下(昭和六十(1985)年十二月初版 角川書店)を讀む。

 宿敵とは 共に 豊臣秀吉の忠實な家臣であった 加藤清正(虎之助) と 小西行長(彌九郎)のことである。

小西行長については 徳川幕府史觀とともに 戰前の文部省制定の 大日本帝國皇國史觀の中で 明智光秀と共に 殆ど その功績はおろか その存在すら 蔑ろにされてきた。
 同じ基督(カトリック)教徒である遠藤周作は この 小西行長を發掘して 彼の生涯を語ると共に そのライバルであった 加藤清正についても 決して 貶める事なく公平な筆致で克明に描いてゐる。

物語の展開は 殆ど 所謂 通説に基づいて綴られてゐるが、通説とは異なる、 或いは 遠藤周作史觀とも謂うべき箇所が三つある。

その第一點は、文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮征伐の第一軍團長に 海外貿易で繁榮を極めた堺の貿易商人 小西隆佐の息子であり、戰下手(いくさべた)の評判高い 小西彌九郎が選ばれた背景である。
「先鋒」は武將なら誰もが渇望する名譽の役目であり 戰上手と評判の加藤虎之助が第二軍團長では 内心忸怩たる思があったであらう。
 しかも その第一軍團が アウグスティヌス小西彌九郎直帥の肥後宇土衆に加え 肥前大村藩ドン・サンチョ大村喜前、肥前日野江藩ドン・プロタジオ有馬晴信、肥前五島藩ドン・ルイス五島純玄の吉利支丹(切支丹)大名で構成された事である。
同じ切支丹信者である遠藤周作の見方は、孰れ取り潰すつもりの切支丹大名を先鋒にたて、獅子奮迅の活躍を 期待するとともに、傷つき消滅しても差し支えなしとの 關白秀吉の意圖があったと謂うもの。

第二點は、文禄四年七月の 關白秀次切腹事件である。
通説では 鶴松を失い、實姉の長男、甥秀次を養子に迎へて關白職を譲りながら、文禄二年に秀頼が生まれると これが邪魔になり、難癖を付けて謀叛の疑いをかけて切腹させるのみにとどまらず、妻妾眷属 侍女、乳母、幼児まで含めて 39名すべてを六條河原に引き出して斬首すると謂う狂氣の沙汰である。
遠藤周作説によると、これを仕掛けたのは 秀吉の股肱の寵臣である 石田治部少輔三成だと。
即ち、此の儘 朝鮮出兵を継續しては 豐家の存續を危うくするとみた石田治部が 關白秀次の朝鮮行きを阻止すべく 腹心の島左近清興に相談したところ、秀次謀叛の噂を流す事を示唆されたと謂うもの。

   最後の第三點は 秀吉の死は 小西行長の妻 糸 の手にかかったものだとする、大膽 かつ 危険極まりない説である。
彌九郎の妻 糸 は 明智光秀の娘であり細川三齋忠興の妻である細川珠子ガラシャに仕える侍女であったが、或る時 高山ジュスト右近の説教を聴いている姿を認め 彌九郎が一目惚れしたもの。
その切支丹信者の糸が 秀吉暗殺に手を貸したと謂うのだからただ事ではない。
筆者の遠藤周作は 余程 確實な文献資料に基づいて記述したものか、さもなくば 切支丹を殺人者に仕立てるのだから同じ切支丹である遠藤周作に許される事ではない。
尤も 遠藤周作と謂う作家は、代表作とされる「海と毒薬」において、間違った取材により事實無根の冤罪を犯しているので、記述内容を事實だと判ずるのは 些か躊躇せざるを得ない。 (詳細は 私のホーム・ページ; https://jusmin.web.fc2.com/dokuyaku.html  をご参照いただきたい)

若し これが遠藤周作による 全くの創作だとすれば、切支丹の遠藤周作だから許される事なのであらうか?  淨土眞宗僧籍にある五木寛之だったら決して許される事ではあるまい。  兵が朝鮮で 寒さと飢えに苦しみ、民百姓は 戦費調達の爲に重い年貢に苦しむ。朝鮮征伐そのものが無益な事で、その元凶である秀吉を剪除する事に躊躇は要らないと謂う 基督教十字軍の原理か?   記述は詳細を極めてゐる。

毒薬は「灰褐色の粉で、シャム國に産するトリカブトに似た草から取ったもの」で薬種問屋出身の行長の堺の實家から取り寄せたもの とある。

直接の下手人は 京極家出身の側室、松の丸殿の侍女で、明智光秀息女 細川ガラシャの侍女おくらが見込んだ女。

ギヤマンの杯に注いだ南蛮の酒が小道具 だと あくまでも具體的である。

糸が淀ノ方に秀頼誕生祝言上に大阪城を訊ねた期に工作を始めたとあるので、文禄二年の事であらうか。

この計畫は 典醫 曲直瀬(まなせ)道三の慧眼で露見するが、石田三成の機轉で發覺をまぬがれる。
糸は 人を使っての毒殺を諦め、次の機會を辛抱強く俟つ。
慶長三年三月十五日、有名な醍醐の花見。

自分の茶室に巧く秀吉を誘い込んだ 糸は 小壺の匂いを肺いっぱいに吸い込ませる。
香壺の中には、香の他に 山田長政を暗殺に導いた、無臭の猛毒、沈太羅(ちんたら)が吹き付けてあったと謂う。 秀吉が昏睡したのは それからまもなくのことである。

天主教の洗禮をうけた遠藤が 小説の中であるとはゆへ、吉利支丹信徒である 小西行長・糸を殺人犯に仕立てるとは 余程の確證あってのことだと思うが、他に斯かる毒殺説は寡聞にして承知しない。

遠藤一流の 「人擔ぎ」 なりや否やは判断がつきかねるが、遠藤の筆は 讀む者を信じ込ませる 説得力がある

そして、物語の結末は 小西行長は 関ヶ原の合戦の後、落人狩りの辱めを受けるは本意ではないと自ら名乘り出て、一方 逃げ回って捕まった石田三成、安國寺恵瓊と共に 大阪、行長の本貫地・堺、そして京の街を引き回された上 六條河原で斬首される。

その間 糸の方は加藤清正の攻撃を受けて 宇土城に籠城。籠城の指揮を執るのは行長の弟の小西隼人。 月余の籠城で 関ヶ原の歸趨を知ると、清正から開城勸告。
隼人の命と引き換えに 全員の解放を認める。   この辺り 加藤清正の武人としての面目躍如である。
  糸は二人の子供、三人のパードレ(切支丹宣教師)と共に解放され、終生の住處となる長崎の修道院へ向かう。
文中、括弧書きで、(わたくしは生きのびます。 生きのびて、あなたさまの心を子に傳え、自分は鬼となってあなたさまの宿敵である清正を害してみせます。 わたくしには力はございませぬが、女の智慧はございます。 太閤に毒を飲ませたように、清正にもいつの日にか、仇を討ってお目にかけます)と 不氣味な事が書いてある。

そして関ヶ原から六年目の慶長十一年五月の加藤清正の死を報じ、「・・・人々は彼が毒を飲まされたと噂した。 しかしその下手人が誰かは永久にわからなかった ・・・。」 で本文を終えている。

遠藤周作「宿 敵」 上下  角川書店  昭和六十年十二月二十日 初版

(2021/09/03 初稿脱稿)