相洲遁世隠居老人

近事茫々。

入管難民法

2023-03-06 15:08:31 | 日記

妹二人が まだ 日本にゐるんだ。  何の目的で、何しに?  費用はどこから出てゐるの?

そもそも事の発端は、不法滞在で「國外強制退去」處分を拒否した事に始まる。
あのとき 素直に セイロンに帰ってゐれば 今回の事案は起きなかった。 自業自得でせう。

日本の「入管難民法」も甘いよ。
不法滞在外国人にとって日本が住みやすい國であっては、悪徳、不良外人天国になってしまう。
一刻も早く 入管難民法を改正して、不法滞在外国人のゐない、即ち 収容者のゐない國にせねば。

セイロン人に「日本の悪い制度」なんて言われる筋はない。
早くお帰りなさい、セイロンへ。



朝井まかて 「類」

2022-12-18 10:22:44 | 日記
朝井まかて 「類」(LOUIS)
集英社 二○二○年八月三十日  第一刷


「類」を讀む。
言はずと知れた 文豪・森鷗外の末子である「森 類」、500頁、820 枚の大著である。



鷗外には先妻の男爵・海軍中將赤松則良長女・登志子との間に生した長男於菟 (OTTO) の他に 後妻の大審院判事荒木博臣長女・志けとの間に 長女茉莉(MARRY)、夭逝した次男・不律(FRIZ)、次女杏奴(ANNE)と この小説の主人公たる三男・類(LOUIS/LUIS)の 三男二女がヰる。

鷗外が小倉の第十二師團軍醫部長で四十歳の時 志け二十二歳で お互いに再婚である。
絶世の美人であったと傳へられるが 世間の評判は決して良妻賢母とはほど遠いものがある。

就中 多感な年頃の於菟には 徹底して辛く接したらしいが、於菟は 獨協中學を2年飛び級、1年遊んで舊制第一高等學校、1年飛び級で 大正三年帝國大學醫科大學を卒業。
叔父・小金井良精教授の解剖學教室から 臺北帝國大學醫學部解剖學教授だから親譲りの秀才だ。

それに引き換へ 於菟とは21 歳年下、明治四十四(1911)年生まれの三男坊は 學校頭はからきしで、小學校は名門誠之尋常小學校を了へたものの、中學校は國士舘中學にやっとこさ滑り込む。
2年終了時 遂に限界に達して中途退學。 長原孝太郎に師事して繪畫を學び始める。   昭和二(1927)年 川端畫學校へ。




昭和六(1931)年だと謂ふから 滿洲事變の始まった年であるが、次姉杏奴と藤島武二に師事。  同年11月、姉杏奴と共に 巴里へ遊學。

當時 巴里には エコール・ド・パリ以來の仲間である 猪熊弦一郎、中村研一、荻須高徳、三岸節子、それに 亀の甲山の敬さん コト佐藤 敬らと共に後のLeonard Foujita、即ち藤田嗣治もをり 若い畫學生にとっては文字通り古き良き時代の『花の都』であったが、年が違いすぎて このグルウプとは直接の交流はなかったようだ。

こうして姉弟揃って巴里に遊學できたのも 長男於菟が當時の長子相續の習慣を破って 弟妹への應分の財産分與に應じ かつ 惡妻惡母の令名高き後妻志けが夫の遺産に手を付けることなく子供に分け與へた事による。    決して惡妻惡母ではなかったわけで、晩年 病身を子供達が献身的に介護した所以でもある。

 歸國後、杏奴と結ばれる 小堀遠洲の末裔である畫家の小堀四郎とも この巴里で出逢う。 因みに 四郎・杏奴の長男で昭和十三年生まれの小堀鷗一郎醫學博士は 東京大學醫學部を出た 高名な外科醫であり 在宅醫療の先驅者でもある。

昭和九年歸國。  定職に就くこともなく繪畫修業を続ける。 結構なご身分である。

昭和十六年3月 安宅安五郎畫伯の長女美穂と結婚。
戰局は益々逼迫。 昭和十九年梅雨明けには徴兵檢査を受ける羽目になったが、判定は 運良く「丙種」で不合格。  軍需工塲で働かされることになる。

妻美穂に懇願されて福島縣喜多方へ疎開、ここで終戰を迎へる。  東京に殘した家と家財は 戰禍で失った。
幸い生母が類の爲に買っておいてくれた農地が西生田にあり、戰後の農地改革で危うく没収されるところを取り戻してバラックを建て 戰後の生活はここから始まる。
  貨幣價値の暴落で 預貯金は総て無に歸し、糊口を凌ぐ手立ては賣り食いである。 妻の着物や帯が一枚一枚食べ物に換はる。

しかし これにも限界があり、昭和24年5月 姉杏奴の口利きで「評論社」という出版社で働き始める。
元より 根こそぎ動員の時にも徴兵を免れたくらいだから 肉軆勞働は論外。  さりとて 國士舘中學二年中途退學では ホワイトカラアも勤まらぬ。
結局 その年の暮れには 使い物にならぬと謂う事で クビになる。

一時期、福島での疎開時代のご縁で 文化學院の美術科講師を頼まれるが 所詮 片手間仕事で それで 口を糊することは出來ない。

一念發起、昭和26年 文京區千駄木の觀潮樓跡の一角に 住宅金融公庫からの借金で住宅兼店舗を建て 書肆「千朶(せんだ)書房」を開店。
齋藤茂吉の命名であり、千朶萬朶を思い浮かべ 且つ 千駄木に引っかけたものである。

店は 朝7:00開店、夜10:00閉店の年中無休。
店番と帳塲は美穂に任せ、もっぱら 坂道の多い近所を自轉車の荷台に ミカン箱をくくりつけて配達に回る。  重勞働、文字通り 肉軆勞働である。
  とても繪筆を執る余裕なぞ無く 畫業は自然と断念。
一家六人揃っての食事なぞ 到底望めず夫婦共働きで それでも 一男三女 一家六人の家計は火の車。

昭和36年、文京區が「鷗外記念本郷圖書館」を創るとて、千朶書房の土地を賣り渡して閉店。  杉並區今川に引っ越すと共に 恵比壽にアパアトを建てて生活の糧を得る。

この間、昭和17年8月生まれの長女五百(いお)は 家計の實情を察して 高校を卒業すると 進學を断念して就職。

アパアト經營で時間の余裕が出來たので、畫業は断念したが、 昭和38年には  木々高太郎(林髞)の誘いに應じて「小説と詩と評論」の同人となり 創作活動に打ち込む。

それ以前、昭和28年、岩波書店の雑誌「世界」二月號に三十枚の「森家の兄弟」を公表。
 類が世間一般に出た最初である。 これが好評であった爲 續篇の依頼があり 翌年、「森家の兄弟 2」五十枚のゲラ刷りが刷り上がったところで 森兄弟に亀裂が奔る騒動が持上がる。  この件は 後刻詳述する。

この小説の主人公は 勿論 末っ子の「類」であるが、長姉の森茉莉の事も次姉小堀杏奴の事にふれてゐる。

森茉莉については、世間一般では 鷗外最晩年の大正11年に 夫である佛蘭西文學者の山田珠樹について渡佛した事が廣く知られてをり、昭和32年、森茉莉54歳の時、父鷗外を題材にしたエッセイ「父の帽子」を發表。 その文才を三島由紀夫に絶賛されて一躍 世間の脚光を浴びる。
が、その間の消息は 余り知られてゐない。
筆者朝井まかては その辺りも抉り出して辛辣に筆を進めてゐる。

即ち、渡佛前の大正9年に長男𣝣(せき)(佛蘭西文學者、後 東京大學文學部名譽教授)、歸國後の大正14年に次男亨(平凡社勤務)を得るが、夫の藝者遊びが原因で昭和2年に自らの意志で離婚したと謂う事になってゐる。
が、實情は 夫に三行半(みくだりはん)を突きつけられて婚家から放逐されたと謂うのが眞相のようだ。

山田珠樹は結核が嵩じて東京帝國大學文學部教授の職を辞し、戰時中に鬼籍に入ってゐる。
生前 散々 あちこちに 茉莉の惡口を觸れ回ってゐたと謂う。

出戻りのままでは 次女杏奴の縁談に差し障ると 志けの必死の努力で 離婚後 間もなく 東北帝國大學醫學部小児科教授 佐藤 彰の後妻として再婚。
 しかし『仙台には 銀座も三越もないから ・・』と 不平タラタラ。
なれば、東京で ”おしばい” でもみてらっしゃい、と婚家に言はれて揚々歸京。
處が 翌日 仲人が 實家を訪れ「仙台には戻らなくて結構!」だと告げられる。

茉莉の言い分は 孰れも自分の意志での離縁とだ謂う事になってゐるが、實情は 孰れも愛想つかされての三行半(みくだりはん)が眞相のようだ。

母親志けが長患いの後 昭和11年4月に歿すると、昭和16年3月の結婚までのまる5年間 類と二人だけの同居が始まる。

夜更かし朝寝は當たり前、掃除洗濯まるで駄目。 部屋は散らかし放題。 今で謂うところの「ごみ屋敷」であらう。
余りの放縦さ、生活力のなさを 目を掛けてゐた室生犀星がいたく氣にとめてゐたとある。
一旦外出すると、銀座だ、淺草だ、三越だと際限なしの勝手氣儘。

  戰後は世田谷で一人暮らしをしてゐたが、鷗外歿後50年で著作權が切れ無収入となったため、杏奴の口利きで客員執筆者として 當時 一世を風靡してゐた花森安治の 「暮しの手帖」に席を得る。

その間 婚家から固く禁じられてゐた子供達との交流も復活。  なかでも 長男・𣝣とは性格が似てゐたせいもあり まるで戀人のような付き合いであったとか。
前述 「父の帽子」以降 種々の作品を發表、數々の文學賞を受賞してゐる他 週刊新潮連載のドッキリチャンネルの執筆を擔當する等 多彩な活躍をしてゐる。

昭和62年 85歳で歿。
父親譲りの文才に加へ 料理の腕前は 自他ともに認めるものがあったと謂う。


四人の兄妹は それぞれに父・鷗外の想ひ出を書き残してゐる。
年代順に列記すると;

1. 小堀杏奴 『晩年の父』 岩波書店 昭和11年2月

2. 森 於菟 『父親としての森鷗外』 大雅書店 昭和30年4月
  (初出「森鷗外」昭和21年 養徳社刊)

3. 森 類  『鷗外の子供たち』 光文社 昭和31年12月(初出「群像」6月號)

4. 森 茉莉 『父の帽子』 昭和32年2月

昭和11年2月といえば 巴里から歸國、畫家・小堀四郎と結婚して一年余の事で、
三月三日雛祭りに長女・桃子が生まれる一月前の 杏奴二十六歳。

生來の勝ち氣、氣の強さは母親譲りで、いじめられっ子の類が 誠之尋常小學校に馴染めず 度々 杏奴に助けを求めて 近くの佛英和尋常小學校(現 白百合學園)に驅け込んだところから 類の守役として4年生の時、誠之尋常小學校に轉校。
佛英和高等女學校に復學するのに 超多忙の鷗外が手取り足取り受驗勉強の面倒をみたと謂う。

四人の兄妹の中で最も生活力旺盛で 類は文字通りおんぶにだっこ。
巴里遊學の面倒から 評論社への就職の世話まで 類は全く頭が上らなかった筈である。

その類と杏奴が決定的に仲違いをする原因となったのが 岩波書店の雑誌『世界』に掲載豫定であった『森家の兄弟 (2)』 
前年昭和28年、「世界」二月號に三十枚の「森家の兄弟」を公表。


これが好評であった爲 續篇の依頼があり 翌年、「森家の兄弟 (2)」五十枚のゲラ刷りが刷り上がったところで このゲラを 岩波書店の小林 勇が筆者である類に無断で杏奴のところに持ち込む。
一讀した杏奴は激怒して 茉莉にご注進。  茉莉はこの世も末かと嘆き悲しんだと謂う。

小林 勇は更に 岩波書店の黒塗りの高級車を千朶書房の向かいに寄越して 類を淺草の鶏料理屋(「金田」と謂う老舗らしい)の二階に呼びつけて 類の表現によれば 『・・・威張るんじゃあない。 なにさまのつもりだ。  思い上がるな。 お前が偉いのではなくて?外が偉いんだ。 ・・・』と雑言・罵倒したと謂う。

更には『もし他社から出すなら出してみろ。 ぶっつぶしてやる。』とまで言い切ったと謂う。

類は 茉莉の處に行き 氣に入らぬ部分を削除、訂正して 改訂原稿を茉莉同道で岩波書店に届けた。   しかし 岩波書店からは梨のつぶてで無視されてしまう。

抑も最初の原稿は 類が私淑し 時折參上してゐた佐藤春夫に目を通してもらった類の自信作であり、小林 勇がその事を知ってゐれば もとより難癖をつけられる筋はなかった筈である。

結局 茉莉の同意が得られた改訂原稿は『鷗外の子供たち』と改題。
佐藤春夫の計らいで 昭和31年講談社の文藝雑誌「群像」六月號に掲載。

この五十枚に 幼年時代の想い出から書き起こした部分を追加して、更に『森家の兄弟』を併せ、『鷗外の子供たち ー あとに殘されたものの記録』として 同年12月に光文社から上梓されたものである。  森類著作の唯一の單行本でもある。

雑誌「世界」に掲載豫定であった「森家の兄弟 (2)」のゲラ刷り原稿が現存しないため、杏奴を激怒させ 茉莉が死ぬほどの絶望を味わった部分がどんなものだったか今や知る由もない。  何でも 茉莉が裸で化粧をする塲面の描寫があったとか。
事前に佐藤春夫の校閲を受けてゐたと謂うから それ程 常識外れの内容ではなかったのではあるまいか?

尤も「鷗外の子供たち」の中に 二十一歳年長で 大正三年帝國大學醫科大學を卒業した長兄・於菟について;  『・・・兄は、大正五年十一月に林美代と結婚したが、まもなく離婚になった。  美代に精神異常の兆が見えたからである。 ・・・』
東邦醫科大學教授の於菟にしてみれば「余計なことを書いてくれた。」と謂うところではあるまゐか?

臺北帝國大學醫學部解剖學教授であった於菟は 戰後は所謂 ”引揚者” であるが、文京區曙町に清家 清設計になる 佛蘭西の雑誌に紹介される程 立派な豪邸に住んでヰたとか。
まあ 當事者にとっては「余計なこと」が色々書いてある。
鷗外が四年間の獨逸留學から歸國すると その後を追うように『黄金(こがね)髪(かみ)ゆらぎし乙女』が來日した話は 今や廣く一般に知られてゐる。
しかし 明治23年に小説「舞姫」が發表された當初から 木下杢太郎のような鷗外研究者も含め  誰一人 それがプロイセン王國ステッチン (Stettin, Konigreich Preusen)(現ポウランド領シュチェチン Szczcin, Pommern)生まれの エリイゼ・マリイ・カロリイネ・ヴィイゲルト(Elize Marie Kaloline Wiegert)、22歳がモデルであることに氣づいた者がゐなかったと云はれる。
この話を初めて世に知らしめたのが昭和11年に岩波書店から上梓された『晩年の父』であり、この中で 杏奴は「母から聞いた話」として その事實を暴露してゐる。
杏奴はエッセイの中で、『亡父が、獨逸留學生時代の戀人を、生涯、どうしても忘れ去ることの出來ないほど、深く、愛してゐたという事實に心付ひたのは、私が二十歳を過ぎた頃であった。』と書く。
小金井良精の妻である 鷗外の妹喜美子は回想記の中で「秘密の暴露」である杏奴の行爲を強く嗜めてゐるとか。
何しろ 小金井喜美子は舞姫を獨逸に追い返した主役の一人であり、その秘密が曝露されたわけであるから 舞姫を『路傍の花』だと片付けてきた喜美子にしてみれば、非難は當然であらう。
おあいこであり、杏奴に類の行爲を嗜める資格はない。 ましてや 一介の編集者に過ぎぬ小林 勇に 類を非難・罵倒する權利も資格もない筈である。

結局、當事者である茉莉とは和解し、於菟とも兄弟付き合いが続いたようだが、杏奴とは終生和解する事がなかったと謂う。

森 於菟; 昭和四十二(1967)年歿  享年七十七歳
小堀杏奴; 平成十(1998)年歿  兄妹の中で 最も長命して享年八十八歳
杏奴はエリイゼの存在を世間一般に「知らしめた。」ことにより、『鷗外研究ヘノ貢献』と謂う評價を得てゐる。


それにしても 鷗外の孫は凄い;

先ず、先妻(赤松)登志子との間の長男・於菟(OTTO)には 五男あり。
長男:眞章(MAX)  臺北帝國大學醫學部卒業、埼玉中央病院皮膚科部長、醫學博士

次男:富(THOM)  東北帝國大學醫學部卒業、東北大學醫學部教授、醫學博士

三男:禮於(LEO)  東芝総合研究所首席技監、工學博士

四男:樊須(HANS)  應用動物學者、北海道大學農學部教授、農學博士。
樊須の子息 森千里は 千葉大學醫學部教授
五男:常治(GEORGE)  英文學研究者、早稲田大學理工學部教授

後妻(荒木)志げとの間の長女・森茉莉には最初の夫・山田珠樹との間に二男あり。
長男:𣝣(JACK) 東京帝國大學文學部佛文科卒業、東京大學文學部教授
次男:亨   平凡社勤務

小堀杏奴には 畫家で夫の小堀四郎との間に 一男一女あり。
桃の節句に生まれた長女:桃子は 横光利一の次男・横光佑典に嫁す。
長男:鷗一郎  昭和十三年生まれ、東京大學醫學部卒業、醫學博士
國立國際醫療センタア院長。在宅醫療の先驅者である。




     類は 昭和十七年生まれの長女・五百を筆頭に 戰中から 戰後にかけて次女・佐代、三女・りよ、長男・哲太郎の一男三女に恵まれる。
三女・りよは 佛蘭西人物理學者と結婚して巴里に暮らす。
末っ子の森哲太郎は 大學の工學部機械工學科を卒業してホンダ技研工業に勤めてゐたが 現在は樹木醫を名乘ってゐる。

昭和四十一年三月 長女・五百が結婚。 夏頃から糟糠の妻・美穂の軆調に異變があり、代々木病院で受診、入院させる。
森家は 東大病院、慶應義塾大學病院、東邦醫科大學病院とあまたコネがあるにも拘はらず 敢へて日本共産黨系の病院で受診させたところが 如何にも生活苦を經驗した類らしい。 本人は ある時期まで 本氣で共産主義革命の起こることを期待してゐたとも謂はれる。

ここで 主治醫である 中田正也副院長と知り合う。   中田醫師は 檢察に睨まれて前年 公職選擧法違反容疑で不當逮捕・起訴されてをり、無罪獲得のため 類自身が深く拘はりあっていく。 入黨こそしなかったが 所謂 シンパとして 新聞・赤旗に寄稿する等、終生關係は続いたようだ。

昭和四十六(1971)年 長男哲太郎が就職・結婚、六十歳になった類の子育ても完了。

昭和五十一(1976)年 長年苦樂を共にしてきた 糟糠の妻・美穗を亡う。
一周忌が了つった頃から 再婚の爲に見合を始め 5、6 回目の見合を經て 類六十八歳の時、大分縣出身でクリスチャンの小屋恵(よし)子と再婚。

 七十八歳の夏、幼少の頃、父・鷗外や姉・杏奴等と夏を過ごした懐かしの夷隅(いすみ)・日在(ひあり)に新居が完成、移り住む。
平成三年三月、心臓發作のため恵子に看とられながら死去、享年八十歳。
おだやかな早春 三月十日、自宅での葬儀に黒い喪服を着た白髪の杏奴の姿があった。

畫家としても作家としても成功しなかったが 生母を反面教師として四人の子供を立派に育て上げ 苦勞はあったが悔いのない人生であった。

日在の隣町 御宿靈園にある墓石には佛蘭西語で『森類、森美穂子、ここに眠る』と彫られてゐると。



朝井まかて とは あまり聞き慣れない名前である。
直木賞を受賞しても おかしいくない佳作であるが、 2014年 『戀 歌』で直木賞を 2018年『惡玉傳』で司馬遼太郎賞 等々を受賞した 關西ではかなり名の知れた女流作家である。
昭和34年 大阪府羽曳野市生まれ、甲南女子大學文學部國文學科卒業の63歳。
 「まかて」と謂う耳慣れないペンネームは沖縄出身の祖母・新里マカテの名に由來する。


令和(りようわ)四年十二月十八日  初稿

引用文献;

1. 朝井まかて 『類』 二〇二〇年八月三十日 第一刷  集英社


2. 森 類 『鷗外の子供たち』  ー あとに残されたものの記録 ー
一九九五年  第一刷 ちくま文庫




初出  『鷗外の子供たち』 講談社雑誌「群像」 昭和31年6月號


『鷗外の子供たち ー あとに残されたものの記録』
光文社  昭和31年12月




3. 山崎國紀 『鷗外の三男坊』 森 類の生涯 1997年1月15日 初版 三一書房

















Jonathan Wainwright

2022-10-03 21:23:07 | 日記
Jonathan Wainwright

占領期の別府 (381) 捕虜奪還 ⑧レーションを返せ!?

2010/07/22 18:52
上官思いの米兵の言うところによれば 投下したレーションの内訳は;
バターとパン 月並み
タバコ 兵隊につきもの
缶詰 ありえる
ビスケット 妥当
ミルク 粉ミルク?
コーヒー 飲みたい
ココア アメリカ人とココア?
こういったものがぎっしりと箱に入っていた。 豪勢だよね。

一個は亀川で拾われた。 あとは別府市内で回収された。
これらも、ウエインライト中将と同様に返せと迫る。
中将はともかく、レーション勝手に落としといて、返せはないだろうといえない ところが敗戦国の悲しさ・・・
続く・・

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Commented by izajijoさん
2012/02/25 20:27
パーシバル英陸軍中將、ウエーンライト米陸軍中將の一行は 臺灣花蓮から飛行機で九洲に運ばれ、昭和十九年十月八日(日)汽車で別府着。 亀の井ホテルに二泊。

翌月曜日 東洋軒でチキンライスの晝食を供さる。

十月十日(火)別府驛發門司經由 關釜聯絡船で釜山へ。
そこから鐵道で北上、滿洲の捕虜収容所へ。

當時、國民學校(クヲクミン グワッコウと發音してゐた)二年生だった僕は 十月十日、野口國民學校へ不老町の自宅から登校の途中 別府驛前廣塲に整列させられた一行を目撃したことを記憶してゐる。

Corregidor の米將 Jonathan Wainwright陸軍中將の日記に;
比島で捕虜になった時、後に大分・別府で砂糖卸商を手廣く營んでをられた
草本利恒陸軍中尉の印象を好意的に書き殘してゐる。
2012/02/27 20:24
Commented by izajijoさん
さて、レーションはいつ亀川に投下されたのであらうか?

昭和20年7月16日夜から17日朝にかけての大空襲、B-29 による燒夷彈の絨毯爆撃で
 大分の町は全滅。

父に手を引かれて眠い眼をこすりながら野口の山の中へ避難。 大分の上空は紅蓮の炎を雲に反映させて眞っ赤。

次は別府だと 早速 學童疎開の命令が出る。
中學生、女學生はすでに全員 勤勞動員令で軍需工塲へ。 (役にたったのかなー)

僕は近くの寺に寄宿して亀川國民學校へ轉校。 でも 授業に出た記憶は全くない。

僕は亀川の寄宿先で病氣になり、父親に迎へに來てもらい別府の自宅へ歸った。
暗い夜道を北濱の電停から歩いて歸る時、ラヂヲの七時(または九時だったかもしれない)のニュースは蘇聯の參戰を報じてゐた。

と謂うことは8月9日または10日の夜だった筈。
そして僕はその時すでに海軍病院の西北のレンコン畑に米軍機が落下傘を一つ投下したことを知ってゐた。

レーションと謂う言葉を知ったのは ずっと後の事であるが、防諜、防諜で憲兵の目が光ってゐた時代、辨當箱の中身の噂は口コミですぐに知れ渡った。

ビスケットやチョコレートの他に 日の丸印のタバコ (Lucky Strike) まで入ってゐると謂う噂だった。

海軍病院の屋根に「白十字」のマークが描かれてゐたので捕虜収容所と間違えて、捕虜に食べさせてくれということだろうと解釋された。        續く;
(後記注; 當時は軍事機密で 一般の人は知るよしもなかった事だが、戰前 東別府驛の西南に 女子修道院があって 戰時中 そこが接収されて 捕虜収容所になってゐた。)

2012/02/27 21:05
Commented by izajijoさん
餅ヶ濱に Consolidated PBY Catalina 飛行艇が飛來した話は このブログの記事で今回初めて承知した。

戰前、別府と關西間に航空路があり、單發水上機が就航してゐた。
  その揚陸塲が 的が濱にあったのでPBY が着水したのは 或いは そこだったかも知れない。
偖て、その時期だが、8月19日以降 8月30日以前と考えるのが妥當ではあるまいか?
なぜなら;

8/16に聯合軍から降伏手順打ち合わせの爲の軍使派遣の要請があり 軍使が持參すべき資料に 捕虜収容所關聯の資料も含まれてゐた。

8/19 河辺虎四郎陸軍中將、横山一郎海軍少將以下の軍使がマニラに到着。
この時點で聯合軍側は捕虜収容所の正確な所在地を知った筈である。 だからPBYの捕虜救出隊は亀川海軍病院へ向かはず永石通りの別府警察署へ向かったと考えられる。

聯合軍は正確な捕虜収容所の所在地は承知したが、どの収容所に誰が収容されてゐるかまでは承知してゐなかった。
だから、Wainwright、Percival両陸軍中將が別府にゐるのではないかと推測してゐた。
實際には 両將は滿洲牡丹江(記憶モード)近郊の収容所に収容されてゐたのである。
赤軍に救出されて8/30以前に米軍の捕虜救出特別任務部隊に身柄を引き渡されてゐる。
この項 續く・・・

2012/02/27 21:28
Commented by izajijoさん
8/30 マッカーサーが厚木に降り立つ。
この時點では占領地域は厚木・横濱間で 東京にはまだ進駐してゐない。
8/31 宿舎にしてゐた横濱の Hotel New Grand で晝食中の所に 眞新しい軍服を着た
Jonathan Wainwright陸軍中將が現れ、Corregidor 以來の再會を果たす。Percival中將がその間どこで何をしてゐたか はっきりしないが、両將揃って9/02 USS Missouri での降伏文書調印式に顔をみせてゐので、行動を共にしてゐたものと考えられる。
陸海空三軍交互の通信網が完備した米軍で、USS Missouri以降に Wainwright、Percival両將を返せ戻せと謂う話ははなはだ解せない。
この項 コメント終はり。

2012/02/27 21:47
Commented by izajijoさん 
Google map は役に立つ。
當時の亀川國民學校は現在の「日中一時支援なかま」か「べっぷ優ゆう」の辺りにあった。

當時は 海軍病院と西念寺のある丘陵との間は家一軒ない一面の田畑で 東側が水田、西側にレンコン畑が廣がってゐた。 問題の落下傘は このレンコン畑の中に落ちた。
亀川驛から西念寺への田圃の中の畦道には 青大將やらマムシがにょきにょきしてゐた。
66年前、日本が完膚なきまで米國に打ちのめされた頃のお話です。
2012/02/29 18:18
Commented by izajijoさん
whitearthさん、一生懸命調べて書いたのに、『言いたい放題』暴走老人がlousy commentしてごめん。 こらえちょくれ。  暴走老人の戯言ついでに 「秘話」を一つ;

鶴見丘高校に F先生と謂う 東京外語出の英語の先生がをられた。
『世間じゃあ、一中・一高・東大(東京府立第一中學校、第一高等學校、東京帝國大學)と謂うが、うちの息子は 別中(縣立別府中學校)・一高・東大だから 日本一だ!』と宣うのが口癖で、『マニラの軍使の通譯は 全部 うちの息子がやったんだ!』と鼻高高のご自慢だった。

後に調べてみたら、軍使一行の末席に F海軍主計豫備少尉の名前が確かにある。
辭令を交付された13名の正式随員の中に海軍切っての と謂うより日本随一の名通譯 米國生まれの ジョーヂ・溝田主一海軍嘱託が含まれてゐる。

首席全權の河辺虎四郎參謀本部次長はドイツ語は堪能だが英語はからっきし駄目。
海軍側首席の横山一郎海軍少將は 若き日 語學研修生としてYale大學に學び、開戰時の 駐米海軍武官。

次席の大前敏一軍令部作戰課長も 若き日 Pennsylvania洲立大學で語學研修。
陸軍側にも 山本 新參謀本部歐米課長は駐米陸軍武官經驗者。
この項 續く・・・

2012/02/29 19:02
Commented by izajijo さん
通譯を通しては時間がかかると謂うことで、結局 この3人が英語で直接交渉し、折角の George溝田名通譯の出番も少なかったとの事。

9/02 USS Missouri 艦上で杵築中學3回生重光 葵(まもる)外務大臣と、中津出身の梅津美治郎
大本營陸軍參謀総長が調印した降伏文書 (Instrument of Surrender)は この時マニラでRichard K. Southerland參謀長とのあいだで合意されたものです。

F元海軍主計豫備少尉は後に この時のことを大分合同新聞に投稿してゐる。
軍刀を取り上げられたことなど書いてをられたが、厚木の雷電・零戰にも狙われて文字通り軍使は命がけだったらしい。

白塗り緑十字の一式陸上攻撃機一番機は 歸路 不時着してゐる。
伊江島で給油の時、gallon と litre を間違えた爲だと謂う事になってゐるが 一番機には英語に堪能な NY 大學航空學科出身の大西 甫(はじめ)海軍飛行兵曹長が乘ってをり、この話 ちとおかしい。
ともかく、一番機の機長、海軍切っての名パイロット、須藤傳(あとう)海軍飛行特務大尉の冷静沈着な操縦で天龍川河口に無事着水。

この話、ご興味あれば続けますが、やだきーけん 今日はここまで。

2012/03/01 11:43
Commented by izajijoさん
ここまで記憶モードで書いてきて、間違いがあってはいけないと、念のため、「外務省所藏外交文書」を基に編纂された研究論考『降伏文書調印經緯』(講談社1981)を調べてみました。

8/19 20:30 在マニラ軍使發として聯合國軍から要求あった提出すべき資料が列記され、その「要求事項第一號」の中に;

二、 ロ 何レノ地ニアルヲ問ハス日本國内及日本國ノ支配下ニアル地域ニ於ケル俘虜及非戰闘員収容所及抑留所、特ニ「ジー・エム・ウエインライト」及「エー・イー・パーシバル」將軍ノ現在ノ所在地ヲ通報スヘシ

また「要求事項第三號」第五項に;

聯合國部隊ハ1945年8月25日06:00ヲ期シ其ノ數個ノ行動區域内ニ於テ左ノ一般的措置ヲ講ズ   として・・・
(ロ)  聯合國空軍部隊ハ聯合國俘虜収容所及非戰闘員収容所宛航空機ニ依リ給養品ヲ投下スヘシ

とある。
この項 つづく・・・

2012/03/01 12:25
Commented by izajijoさん
以上により、海軍病院北西のレンコン畑に落下傘が投下されたのも、PBYが 的が濱に着水したのも 8/25 以降 8/30 以前だと日時が狹められた。

Wainwrightが赤軍から米軍に引き渡された日時が特定出來れば 更に日時を限定出來る。

僕は八月十五日の玉音放送を自宅のラヂヲで聴いてゐる。
意味はチンプンカンプンだったが、父が「戰爭は終はった!」と言ったのをはっきりと憶へてゐるので確かな記憶だ。
すると、その後、8/25以前に 再度 亀川の疎開先に戻ったと謂うことになる。
このへんになると小學三年生の記憶は曖昧になる。
さて、上記論考によると;

全員が 姓・名が明記されてゐる中、一人だけ「海軍少尉F」として「姓」だけが記されてをり、括弧して(伊江島に殘留)とある。

横山一郎さんの回想手記 『海へ歸る』(原書房1980)にも;

『・・・伊江島に殘留すべき搭乘員の取りまとめ役として F主計少尉が配員された。 ・・』とある。

なんのことはない。 主計短期現役出身 F海軍主計豫備少尉は 中繼地伊江島でバシリとして殘留、マニラには行かなかったと謂う事になる。


Stars & Stripesに載った交渉塲面の寫眞をを見ると;


昭和二十年八月十九日 Manila
City Hallでの軍使會議。
左から
  吉田英三軍務局第三課長、大前敏一軍令部第一課長、  横山一郎海軍少將、
河辺虎四郎參謀次長、岡崎勝男外務省調査局長、  天野正一參謀本部作戰課長、
山本 新參謀本部歐米課長。

 後ろに控える二人は 杉田主馬海軍教授と George・溝田主一海軍嘱託(George溝田の顔は 河辺虎四郎陸軍中將の後ろに隠れてゐる。) 寫眞提供 世田谷區 大前御本家

後向き左から Charles A. Willoughby陸軍少將、L.J. Whitlock陸軍少將、
Forrest P. Sherman海軍少將、參謀長 Richard K. Southerland陸軍中將、
S.J. Chamberlin陸軍少將。 


交渉テーブルには河辺虎四郎全權、天野正一參謀本部作戰課長、山本新參謀本部歐米課長、横山一郎海軍少將、大前敏一軍令部作戰課長、吉田英三軍務局第三課長、岡崎勝男外務省調査局長の7名のみで、ジョーヂ溝田と ケンブリッジ大學出身の 杉田主馬海軍教授 (國際法)は後ろの椅子に控えてゐる。
2012/03/06 20:51
Commented by izajijoさん
『ウエインライト日記』がどうしても見つからないので米側の記録を調べてみたが 解放された正確な日時の記載が見あたらない。

蘇聯(露西亞)側の記録によると「奉天近郊で解放した。」(held at a guarded villa 17 kilometers away from Mukden.)とあるが、日時の記載がない。

一方、8/20には在支米軍司令官Wedemeyer中將が Wainwright中將救出の爲の飛行機の奉天着陸許可を求めて來たとある。 そして一行は8/29に重慶に到着してゐる。
別の資料で Wainwright、Percival両中將が蔣介石と面談の寫眞が殘されてゐる。
重慶で身体檢査を受け、服装を整えて 8/31 厚木に飛び、晝過ぎ、Hotel New Grand で MacArthurとの再會となったと謂う事のようです。
米軍は遅くも、8/28には両將の身柄解放の確報を得てゐたと考えられます。

2012/03/08 09:45
Commented by izajijoさん

いや たまがった!!
「World War II Database」と謂うweb-siteによると Wainwright、Percival 両將が赤軍により解放されたのは 8/20 だとある。

蘇聯側の資料によると、「解放後直ちに その旨 聯合國軍(The Allies)に通告し、8/20付けで在支米軍司令官Wedemeyer中將から 救援機の奉天飛行塲着陸許可申請があった。」とある。
 關東軍は 8/16には停戰命令を發令しているが 通信網寸断で徹底されず、加えて 奉天付近は 匪賊の跋扈(bandits were still hanging about the city and its suburbs in large numbers.) と謂う事で、重慶到着が 8/29 になったと謂う事らしい。
Wainwright/Percival 両將と蔣介石が一緒に冩った寫眞があるので 重慶に飛んだ事は間違いなかろう。

たまがったのは その後のことだ。   ・・・續く ・・・

2012/03/08 10:09
Commented by izajijo さん
滿洲國は在支米軍の管轄下だからWedemeyerが取り仕切ったのおは分かるが、その足で直ぐにManilaに飛んだとある。 (Upon release, Wainwright was flown from Mukden to Manila by means of Chungking.)

なにしおう Flying Tigers の獨壇塲であったでのであろうが、奉天・重慶間 地圖上の直線距離でも 2,500Kmあり、重慶・マニラはさらに遠く 命知らずのFlying Tigersの連中でも DC-3/C-46/C-47 では直行は無理で、北京、上海あたりで給油したものか、或いは 航続距離 7,000Kmの B-29 を使ったものか?

Wainwright/Percival両將は 9/02 USS Missouriでの降伏文書調印式出席の後、翌9/03 9:30am からのバギオでの 山下奉文第十四方面軍司令官 と 大河内傳七南西方面艦隊司令長官との降伏文書調印式出席のため再びマニラに戻っているが、この時エスコートした人の名前がfull nameで記載あるので間違いなかろう。  ・・つづく・・

2012/03/08 12:16
Commented by izajijoさん
旧知の Sid Huff が付き添って床屋へ行き、洋服屋へ行って軍服を整へたとある。

たまがったのは その後だ。
何と 8/30 には日本へ向けて飛び立ったとある。8/30とはMacArthurがコーン・パイプくわえてバターン號で厚木に降り立った日であり、同じHotel New Grandに宿泊したとある。
食堂で着物姿の女性の給仕で夕食をとってゐる寫眞の日付が8/30とあるから間違いない。

8/29 重慶にて 8/30 横濱NewGrandで夕食 8/31 NewGrandにて
(寫眞 欠落)

有名な MacArthur との再會は 翌8/31晝食時であり、MacArthur にとっては全くの surprising 否 astonishing encounter であったとの事である。
(He (Mac)was ecstatic when his aide announced his (Wainwright's) visit)

MacArthurにしてみれば、Wainwright に對して忸怩たる思いがあったであろうし、
Wainwright にしてみれば、Corregidor に置き去りにされて、Gene夫人と令息Arthur君と共に魚雷艇で濠洲へ逃げた張本人であり お互いに複雑な感情の交錯があったであらう。

Wedemeyerは 8/20に解放を知りながらMacArthurには知らせなかったと謂うことかもしれない。  くわばらくわばら。


2012/03/08 19:40
Commented by izajijoさん

General Jonathan Mayhew Wainwright は 四代つづく名門の軍人の家系で 傳統的 騎兵科將校。

その日記に Corregidor で捕虜になった時の想い出として、我が郷土聯隊、
歩兵第四十七聯隊の Kusumoto陸軍中尉のことを非常に好意的に書き殘してゐる。

Kusumoto中尉とは、戰後 別府・大分で砂糖卸商を手広く營んでをられた草本商店社長 草本利恒さんの事である。


海軍の 友永丈市海軍中佐、陸軍の草本利恒陸軍中尉と わが郷土・豐後には誇りとする軍人がゐる。

(edited 2012/03/13)

令和(りようわ)三年(2021)十二月十二日 復刻・編集




すばらしい人体 ダイヤモンド社

2022-09-23 20:01:23 | 日記

山本健人  すばらしい人体 ダイヤモンド社 2021年8月31日 第一刷發行

FB お友達の頁を見て 圖書館に豫約を入れたのが 2021/11/14、34番目の待ちでした。 やっと順番が回ってきて一讀。


肛門は氣體と液體と固體を瞬時に見分け氣體のみ排出するという(個人的には 時々 誤作動もあるが)人工的に作るのは不可能な機能を持っているとか 傷口は、 消毒するな とか 嗽(うがい)は無意味 だとか。 興味あるお話し満載。 素晴らしい内容の本です。 記述は明快、是非 御一讀を!!

2022/09/23 秋季皇霊祭


海堂尊 『奏鳴曲 北里と鷗外』 A Sonata by Two Doctors

2022-09-04 17:04:10 | 日記



海堂尊 『奏鳴曲 北里と鷗外』 A Sonata by Two Doctors
文藝春秋社 二○二二年二月二十五日 第一刷發行

出版早々、友人より紹介ありて 早速 圖書館に豫約を入れたものが 半年たってやっと順番が回って來た。

四六判 450 頁、原稿用紙に換筭すると ざっと 1,000 枚の大作である。
遅讀の僕には 貸出期限の二週間で讀みこなすのにちと難しい量である。

著者は 該書に引き続き;

よみがえる天才7 「北里柴三郎」 を 3月10日に

よみがえる天才8 「森鷗外」 を 4月10日に 夫々 上梓してゐる。
            (よみがえる天才シリイズ 孰れもちくまプリマア新書)

即ち 私は その順序を全く逆に讀んだ事になる。

序章 「妖怪石黒、大いに騙(かた)る」に始まる。
石黒忠悳(ただのり)の名前は 夫々1ヶ月遅れで上梓された よみがえる天才「北里柴三郎」「森鷗外」にも度々出て來るが、特に「妖怪」として描かれてはゐない。

しかし、幕府醫學處出身の蘭法・皇漢醫でありながら、帝國陸軍軍醫部に寄生し、既に  獨逸醫學全盛の中 第五代陸軍軍醫総監、陸軍省醫務局長と最高位を極める。

しかも その間、森林太郎が獨逸留學二年目の明治十八(1885)年には 一旦 失脚して内務省衛生局次長に左遷されながら 奇跡の復活を遂げ(筆者の表現)、留學最後の年には陸軍軍醫監(陸軍軍醫少將相當官)として長期出張で獨逸に押しかけ、小間遣ひに使い、歸國の船旅にまで付き合はされてゐる。
まあ、鷗外・森林太郎にとってみれば 疫病神みたいな存在である。

「騙」は 音は「ヘン」であり、訓は「かたる・だます」である。

終章がまた「妖怪石黒、最後に嗤う」で終はってゐる。

明治二十三(1890)年には陸軍軍醫監に昇進し、明治二十七/二十八(1894/1895)年の日清戰爭を陸軍省醫務局長として大本營陸軍部の野戰衛生長官をつとめ、その功で明治二十八年 男爵位を得る。

しかし戰塲での脚氣惨害の現塲を知る高島鞆之助が陸軍大臣に就任すると、明治三十  (1897)年には醫務局長を引責辭任したものの 其の儘 軍醫総監(陸軍軍醫中將相當官)として現役に留まり、豫備役に編入されたのが 四年後の明治三十四(1907)年, 後備役編入がそれから更に六年後の明治四十(1907)年、退官が なんと それから更に五年後の明治四十五・大正元年(1912)の事である。 前代・後代未聞の 粘り腰である。

その間、元老・山縣有朋や児玉源太郎に上手く取り入って生き殘った、まさに『妖怪』そのものである。
そして、退官後は 勅選の貴族院議員となり、大正九(1920)年には「伯爵」位を授かってゐる。

筆者、いや 北里柴三郎は「へちま」と呼んだとある。今 寫眞で見るとまさに「へちま」そのものの 妖怪顔である。



我々 國民學校世代が憶へてゐるのは 息子の農政家・石黒忠篤で 農林官僚から 鈴木貫太郎終戰内閣の農商務大臣を勤め、戰後 公職追放解除後は緑風會所属の參議院議員を務めた。
父石黒忠悳死去に際し、遺言により爵位を返上したと謂はれるが、息子の石黒忠篤は 父親の背中を見て育っており これを反面教師として爵位返上を決めたものだとみる。

石黒忠篤の妻は 穂積陳重の次女であり、次男孝次郎は京都大學法學部から三井物産。
戰後、オリエント出土品を中心とした古美術商となり、セレブ専用の古美術レストラン・クレッセントを創業。(孝次郎逝って久しく先年 コロナ禍で閉店、廢業)
偖て、「奏鳴曲」に戻って、後出しの『北里柴三郎』ならびに『森鷗外』が 所謂「史傳」であるとすれば「奏鳴曲」は 何であらうか?

編集子は奥附けに態態「この作品は史實をもとにしたフィクッションです。」と注記し、 筆者の海堂尊は鷗外の随筆「歴史其儘と歴史離れ」を引用しながら謎めいた事を言ってゐる。
「歴史其儘と歴史離れ」は 歴史小説について 大正四年一月「心の花」第十九巻第一號に掲載された 森鷗外の僅か五枚の小論攷であるが、現代語に直せば ズバリ「歴史其儘」とは「non-fiction」であり、「歴史離れ」とは「fiction」そのものである。
 小説「山椒大夫」の執筆背景に假託して書かれたもので、私流に勝手に解釋すると、「奏鳴曲」は『小説、fiction』 であり、「北里柴三郎」「森鷗外」は『史傳、non-fiction」だと謂う事である。

冒頭の第1章 阿蘇の大鷲で 明治五年熊本御巡幸の折、北里柴三郎が 西郷隆盛の前で睦仁天皇と相撲を取ったと謂う塲面が出てくるが、果たして fact であらうか?

この『小説』を簡潔に総括すると;
先ず
森林太郎は 内にあっては 生母峰子に頭が上がらず 完全にその支配下にあり、外にあっては上司である疫病神・石黒忠悳に決して逆らはず逆らへない茶坊主的存在に過ぎなかったのではないかと謂う姿が浮かび上がって來る。 巨人像が音を立てて崩れた思ひがしなひでもない。
この點は 我が人生にも多少重なる部分があり 同情を禁じ得ない。

林太郎の結婚相手は 大學入學前から周囲の關係者、即ち林太郎の生母・峰子、大伯父・西周、赤松良則海軍少將、林紀(つな)陸軍軍醫監の間で、赤松良則の長女・登志子と謂う事で話が固まってをり、陸軍軍醫部の廊下トンビ 石黒忠悳も當然その事を承知してゐた。
林太郎としては これへの反發もあってか、伯林で知り合ったエリスを日本に連れ歸って寄り添うつもりでゐた。

ところが、留學最後の年、一旦失脚した石黒忠悳軍醫監が奇跡の復活遂げて、一年間の豫定で獨逸出張にやって來る。  外國語が全く話せない上司に小間使いに使はれて、留學最後の一年間は散々な目にあった。  おまけに歸國の船旅にまで付き合はされ まさに 疫病神そのものである。 しかし一方、留學2年目で 疫病神が内務省衛生局に左遷された時、その置き土産の様に一等軍醫(陸軍軍醫大尉相當)に昇進した事、そして、奇跡の復活を遂げて 林太郎の希望通り 1年間の留學延長が認められた事は
 まさに 福の神でもあった。

疫病神との40日間の船旅。 お陰で エリスと一緒の船での歸國を諦め、別の船を手配してエリス一人 日本に向かはせる。

日本に着いて、森家の女どもの猛反對にあう。  なかでも生母峰子の氣も狂わんばかりの猛反對には抗しきれず、あっさりと親友・賀古鶴所の取りなしを受け入れて エリスを獨逸へ送り返してしまう。

母親が強く勸める陸軍軍醫部で絶對支配を誇る順天堂閥と縁深い男爵令嬢を娶ったものの、これが家事一切を實家から連れてきた老女に任せきり。 本人は 漢詩を朗々と吟ずる女丈夫。  おまけに この老女が 森惣領家の一切を差配するとあっては 姑・峰子としては我慢ならず、初孫・於菟が誕生すると直ぐ 實家へ追い返してしまう。

この時も 惣領である林太郎は 爲す術なく生母の言いなりで、唯々 世間には 「矢張り 器量が 惡かったから!」と 言い譯にならない言い譯をして糊塗してしまう。

そこへいくと ドンネル北里柴三郎は 出來が違う。

本宅は 「乕(とら)」と謂う文字通りの女丈夫の虎ならぬ 乕に守らせ 三男三女を設け、獨逸留學中には下宿屋の未亡人と合意の上で空閨を充たし、歸國後は土筆ヶ岡養生園を金蔓にして 新橋だ向島だと 庶子、庶生は 其の數知れず。
  森林太郎には その面での器用さはなく完敗だ。

北里柴三郎の幸運は 歸朝後 内務省の休職期限超過で失職した處を 新任の後藤新平醫務局長に拾われ、福澤諭吉先生と謂う 福の神に助けられた事である。

私立傳染病研究所は 福澤諭吉先生の理解で あっさりと(内務省)國立傳染病研究所に移管されたものの、再度 文部省・帝國大學醫科大學への移管のゴタゴタの黒幕が   陸軍軍醫総監・陸軍省醫務局長森林太郎であったとは ちと 信じられない話である。  著者の海堂尊は確たる證據を摑んでゐるのであらうか?  願わくば fiction であって欲しい。

「森鷗外」の中で 著者は 森林太郎と北里柴三郎の仲を 不倶戴天の敵だとか 疫病神だとか天敵だとか表現してゐるが、本文には そのような記述は一切見當たらない。
大學の年次は北里柴三郎が二年遅れであるが、年齢は九歳年長であり、弟分・森林太郎のロベルト・コッホ研究所入りを先輩らしく かいがいしく世話した經緯が美談の如く語られてゐる。

平野庸太郎(つねたろう)は奥洲伊達(現福島縣)で幕府代官處手代と謂うから最下級役人の子として生まれが、両親を早くに亡くし、幼にして越後國三島郡片貝村(現新潟縣小千谷市)の貧農石黒家の養子となり 元服して石黒忠悳と名前を替へた。 「悳」は「徳」の古字である。

 二十歳で江戸の「醫學處」にもぐり込み松本良順の知遇を得る。 明治政府で 大學東校の句讀師としてしぶとく生き殘るも失脚。 軍醫寮に拾はれて保身術の達人となる。
  獨逸醫學全盛の中 學術的業績がなく、事務方を歩きながら 同じく足輕出身で劣等感を持つ 天保九年生まれで七歳年長の山縣狂介とは氣脈を通じるところがあったと謂う。

日清・日露の両大戰で 戰死者以上の脚氣死亡者を出した陸軍白米食の元兇は この近代醫學知識のない石黒忠悳であり、その主張の裏付けとなったのが 陸軍軍醫森林太郎の 「陸軍兵食論」であったわけであるから、森林太郎の責任は 重かつ大である。


文久二(1862)年生まれの鷗外・森林太郎は 大正十一(1922)年七月 六十歳で死去。

嘉永五(1853)年生まれの北里柴三郎は 昭和六(1931)年六月 七十八歳で歿。

最後まで生き殘ったのは弘化二(1845)年生まれの石黒忠悳で 昭和十六(1941)年六月 大東亞戰爭開戰を知らずに 九十六歳の天壽を全うする。 前年六月、長男の忠篤が第二次近衞内閣に農林大臣として入閣と謂う晴れ姿を見ての大往生であるから 思い残す事はなかったであらう。

誰が勝って 誰が負けたかではなくて、今の日本で 森林太郎の名前を知らぬ人がゐても、森鷗外の名前を知らぬ人はゐまい。
百年に一回の頻度で コロナ禍が世界を席巻する毎に ロウベルト・コッホの名前と共に 北里柴三郎の再來を庶民は渇望する。 肥後熊本のモッコス北里柴三郎の名前は永遠である。

現代の日本人で 奥洲伊達郡出身の 石黒忠悳の名前を知ってゐる人が果たして何人ゐるであらおうか?

北里柴三郎は 本貫の肥後國阿蘇郡小國郷北里村も 孰れも「きたざと」と訛る。
獨逸留學に際し、「キタザト」と呼んで貰うために、総ての書類を『Kitasato』と獨逸語式に綴った。 これが 日本を含めた英語圏で「キタサト」と發音されて廣まってしまう。

現在問題となっている ザポリイジャ原發について、ZDF は 當然の事ながら獨逸語式に “Saporischja" で報道してゐる。 一方 BBC は ”Zaporizhzhia” F-2 は
 ”Zaporijjia”、TVE 西班牙では ”Zaporiyia” と ゲルマン語圏は「S」ノルマン・ラテン語圏は「Z」と 各國夫々自國語で報道してゐる。
日本のマスコミ各社は ザポリヰジャ か ザポロヂエ と 魯西亞語と烏克蘭語の間をウロチョロしてゐる。

 學校法人北里研究所は「The Kitasato Institute」であり 北里大學は「Kitasato University」であり どこかで「Kitazato」に書き換え損ねたと謂う事になる。
本書にも「きたさと」と間違ってルビがふられてゐる。



2022/09/04 初稿