相洲遁世隠居老人

近事茫々。

回想の外交官生活

2021-02-24 15:45:23 | 日記


「回想の外交官生活」
<日本の名譽ある地位>を求めつつ
戰後外交を膽った外交官の迫眞のメモワールと提言

英 正道  グッドタイム出版 2020年5月1日

意外なことに、戰前戰後を通じて 慶應義塾出身者で初めてのキャリア外交官だとある。
昭和33(1958)年入省。 オックスフォード大學セント・ピーターズ・ホール(SPH)に學ぶ。
卒業後、そのまま官補として倫敦(ロンドン)大使館勤務。  大使は 後に 岳父となる 大野勝巳氏。

最初の 本省勤めは 經濟協力局政策課。
昭和37年の事であるから 日本の對外援助の揺籃期である。

昭和41年、北米局北米課へ。 日米間には まだ あまり問題のなかった頃の事である。
課長の 枝村純郎さんの名前が出てくる。 後に FB で、小唄談義をなさってをられたが、枝村さんとのお付き合いはこの頃に始まった古いものらしい。
昭和42年、在盤谷(バンコック)大使館勤務。 昭和42年と謂えば、日本の經濟大國への躍進が始まった頃であるが、對外經濟協力資金は まだ 戰時賠償資金が主體の時代で、戰時賠償のなかった泰にODA資金が使われ始めた頃でしょう。

昭和45年、華盛頓(ワシントン)の大使館へ。  大使は 下田武三さんで その下に 大河原良雄さんが公使としてをられた頃。  繊維摩擦から ニクソンショックの時代。 アメリカは越南(ヴィエトナム)戰で疲弊して ヒッピー横行の時代。  日米經濟摩擦の始まり。

昭和47(1972)年 アジア局東南アジア第一課首席事務官。 印度支那情勢が激動の時代である。  昭和50年4月30日 西貢(サイゴン)陥落。

昭和50年8月、調査部分析課長、外務大臣秘書官(小坂善太郎外務大臣)、官房機能強化對策室長、 三木降ろしから福田内閣時代の政局多端な頃である。

昭和52(1977)年、5年間の本省での激務の後のボーナス休暇でしょうか? 倫敦の王立國際問題研究所客員研究員として出向。  引きつずき大使館勤務。
昭和56年 中近東阿弗利加局参事官。  局長は 村田良平さん。
例の 三井グループの伊朗(イラン)IJPCが問題になった頃である。
阿弗利加の飢餓救済に 當時 一世を風靡した地婦連(全國地域婦人團體連絡協議會)に協力を求めたが どうしても聞き入れて貰えなかったとある。 今なら Black Lives Matter として 國際問題になるところ。

昭和59 (1984)年 官房審議官。  中曽根康弘総理大臣の下 國會對應が主務である。

昭和61 (1986) 年、經濟協力局長。   中曽根内閣末期から 竹下登内閣にかけての頃であり、日本の國際貢献が 益々 その重要度を増す時代である。
阿弗利加向けの特別援助計劃で 英國のクラウン・エージェント(後 返還時の香港総督を務めた クリストファー・パッテン長官)を活用するとは 大英帝國のなんたるかを知り盡した經濟協力局長ならではの發想である。

昭和63 (1988) 年、紐育(ニューヨーク)総領事。  大使資格である。



同じ紐育には 初代外務報道官であり後に 學習院院長を長く務められた 波多野敬雄國際聯合代表部大使が在任。
經濟大國日本が 最も光り耀いてゐた頃である。  55歳、最も脂の乘り切った時期、華の紐育での大活躍。  昭和天皇崩御、灣岸戰爭、伯林の壁崩壊、米蘇冷戰終結と 激動の時代。 日米関係も 高度に緊張した時代の三年四ヶ月。
文字通り 公私に亘り アメリカン・ライフを満喫された容子が 50 頁を費やして語られてゐる。

平成4 (1992) 年、宮澤内閣 渡辺美智雄外務大臣の下で 外務報道官就任。
米國は パパ・ブッシュから クリントン大統領時代で まだ日米貿易摩擦が續いてゐた。

そして、外交官生活の終着地羅馬へ。(1993年10月 ― 1997年8月)

大役は 村山富市内閣総理大臣の 拿破里(ナポリ)サミット アテンド。 新聞に報道されなかった秘話二つ;
政府特別機なので拿破里空港でなく 近郊の空軍基地に着陸。 空港司令官が自分の出番を作れとばかり、外務省との事前の打ち合わせにない閲兵を準備。
慌てて機内の総理に説明しようとしたところ、総理は「ああそうかい!」と聞き流して 美事に閲兵をやってのけた。  歩兵第四十七聯隊 村山富市 元一等兵の面目躍如。

総理は サミット開幕前夜 體調不良の爲 入院静養。  この事は新聞にも報道されて承知してゐた。  その原因であるが、翌年 センチメンタル・ジャーニーで羅馬を訪れた折に伺うと、「食前に出たピーチ・ジュースが美味しいので飲み過ぎた!」との事。
有名な食前のプスマンテのカクテル「ベリーニ」。
これを3杯も呑めば 誰でも ひどく吐いて脱水症状を起こす。

壓巻は 「伊太利亜ニ於ケル日本 1995/1996」の 諸行事。
余人を以て代え難き大活躍が 克明に綴られてゐる。
將に 四十年に亘る 外交官生活の掉尾を飾るに相應しい適役である。

最後の章に 今後の日本の目指すべき道についての提言がなされてゐる。



是非 お勧めしたい一書である。

改訂新版 回想の外交官生活  英 正道  グッドタイム出版
2020年5月1日

(2021/02/24 初稿)



コロナ・ワクチン

2021-02-20 21:18:55 | 日記

今日から 醫療從事者へのワクチン接種が始まった。
BBC, F-2, ZDF その他 RTR ニュース放映に據ると A社のワクチンは 有効率70%臺で 副作用も多いため 65歳以上には接種不可、一般にも敬遠されてワクチンが余ってゐると。(今朝の 獨逸ZDF)
日本で最初に承認されたB社のものは、有効率90%臺で 副作用例も僅少のようだが、-70℃以下での保管が必要で 取り扱いが容易ではあるまい。
意外にも 露西亞開發の スプートニク-Vが 有効性・安全性で 今や西歐で評判になってゐる。
人口17萬人の我が町は 昨日までの 累計感染者數 575 人。
人口比罹患率 0.34%  それも 特定の新市街での比率が高い。
この ワクチンの有効性と 累計罹患比率を どう考えればよいのだらうか?


寫眞は通稱 “イエロー・カード” と呼ばれた INTERNATIONAL CERTIFICATE OF VACCINATION 豫防接種國際證明書。
昔は 海外旅行には 旅券と共に 必須必携品であった。
中身を開けてみると、先ず SMALLPOX(麻疹)、CHOLERA(コレラ)、YELLOW FEVER(黄熱病)、TYPHUS(發疹チフス)、TYPHOID FEVER(腸チフス)、PLAGUE(ペスト)と 恐ろしい病名が書いてある。
麻疹以外は 接種すると一晩寝込むのが biasa biasa でした。 だから 間隔を空けて打つのですが、この證明がないと、國に據っては 査證が發給されませんでした。
 
これは La Fiever Typhoide 即ち 發疹チフスですね!
 

一番澤山打ったのが コレラで 最後に打ったのも コレラで 日付は DEC 13, 1978 (昭和53年)になってゐます。


以降、廢止されたものだとおもいますが、今回の武漢發 冠状病毒肺炎で またまた これが復活するようです。

   2021/02/18 記

今朝の ZDF によると、A社の有効率70%、B社 95%、C社 94% だと。 一方 RTR によると、スプートニク・L(ライト)と A社のものを組み合わせると 遣い勝手が非常に向上すると。 

    2021/02/19 記



加瀬俊一秘録

2021-02-19 08:06:27 | 日記



『開戰と終戰をアメリカに發した男』
― 戰時外交官 加瀬俊一秘録 ―
福井雄三著 毎日ワンズ社  2020年4月13日 第一刷發行

帯びに「『黒子』として松岡洋右、廣田弘毅、東郷茂徳、重光葵、吉田茂に仕えた男が見た 虚々實々の外交戰!」
「日本が戰った大東亞戰爭。 この大東亞戰爭と激動の昭和史を 自己の一身で象徴できる一人の人物がゐる。 その名を加瀬俊一という。」とある。

英語のみならず 獨逸語、佛蘭西語にも堪能な加瀬俊一には數多くの著書があるが、意外にも 加瀬自身に関する傳記の類いは聞かない。
著者福井雄三は 東京國際大學教授。 同大學は昭和40年の創立で 加瀬俊一自身が
 初代理事兼教授を勤めた大學であり、御子息 英明氏は 現在も 同大學理事兼教授を勤められてをり、加瀬俊一傳を書くに最適の人であらう。

加瀬俊一の名前を聞いて直ぐにも思い浮かぶ連想は 重光 葵(まもる)の顔であり、初代國際聯合
日本政府代表部特命全權大使であるが、本書によると 加瀬の才能を 最初に見いだして重用したのは 松岡洋右であると。 また、初代國聯大使は澤田廉三で 加瀬は第二代目。
その着任は 昭和30年6月。 即ち 日本の國聯加盟の一年半前のことだと。

東京商科大學を卒業して 史上最若年の22歳で入省した加瀬は 先ずアマースト(Amherst College)で學び、ハーヴァード(Harvard University)の大學院を卒えて 
昭和三(1928)年、華盛頓(ワシントン)で官補としての外交官生活が始まる。
「加瀬をアマーストに入れたのは僕だよ!」と重光さんが云ったのを 誰かに聴いたか讀んだかした記憶があるのだが、出典が定かではない。

最初に仕えた上司は 東郷茂徳首席書記官。  後に 日米開戰時と終戰時に 東郷茂徳外務大臣の秘書官としての關係は ここに始まる。
獨逸語にも堪能な若き官補の加瀬は東郷家に入り浸りで 一人娘のイセの良き遊び相手でもあったという。

東郷茂徳は 薩摩・鹿児島の出身。 豐臣秀吉が朝鮮征伐の時に島津藩が連れ歸った陶工の末裔であり、明治十九(1886)年、朴家は東郷を名乘る士族の家禄を購入してその戸籍に入り、當時満3歳であった朴茂徳は「東郷茂徳」となった。
エディー夫人(エディ・ド・ラロンド、建築家ゲオルグ・デ・ラロンドの未亡人、
舊姓ピチュケ Pitsschke)は 猷太(ユダヤ)系獨逸人。
後に事務次官、駐米大使を勤める 東郷文彦(東京府出身で舊姓は 本城、昭和14年入省、ハーヴァード大學在學中に日米開戰となり抑留、交換船で歸國)は その一人娘イセ(伊勢神宮に因んでの命名とか)の婿。
この縁談、加瀬が深く係わった事は間違いない。 その双子の次男が條約局長、歐亞局長を歴任しながら、鈴木宗男事件で田中眞紀子外務大臣に和蘭陀(オランダ)大使を解任された東郷和彦。
加瀬にしてみれば 小泉純一郎内閣時代の この一連の事件の展開を見るに 氣が氣ではなかった事であらう。

一連の經緯は 優(まさる)クンが詳しい。マサル君によると、猷太人社會は母系主義であり、申請すれば以色列國籍が得られる筈だと。 檢察の追及を海外へ遁れた時、 和蘭陀(オランダ)・雷電大學が隠れ家を提供したのも 猷太コネクションの一環か?
小和田のお父さんが事務次官だった頃の話だから、大臣は 渡辺美智雄だったか?
マサル君が政務次官の鈴木宗男を焚き付けて 例の杉原千畝なる人物を 外務大臣表彰にしようとした事がある。 お父さんに一蹴されて 政務次官表彰にする騒動があたっけ。 歐亞局蘇聯邦課長が東郷和彦で 猷太コネクションを使って 日蘇關係打開の糸口にしようとした可能性を排除しない。 杉原千畝なる人物の名前が世間に知られるようになった切っ掛けであり、猷太コネクション工作の裏金作りが 鈴木宗男事件の發端である。
 因みに、昭和22年、蘇聯の収容所から歸國した杉原千畝に免官を申しつけたのが、後に名前の出て來る 岡崎勝男事務次官であったとWikiにある。

昭和四(1929)年、東郷茂徳が参事官に昇格して伯林に轉勤になると、加瀬にも獨逸への轉勤辭令が出る。 この辺り 東郷が如何に加瀬の能力を高く評價してゐたかの證左であらう。

張作霖爆殺、滿洲事變、國際聯盟脱退、ナチスの臺頭、ウオール街での株價暴落、國内では 濱口雄幸、井上準之助、團琢磨暗殺、ついには 五・一五事件と 世は將に混沌、騒然たる時代である。
一方で 國際世論は海軍軍縮モードが高潮、昭和五年一月 加瀬は海軍軍縮會議全權團を補佐するため伯林(ベルリン)から 倫敦(ロンドン)に派遣された。
昭和六年九月十八日、柳條溝爆破事件勃發當時は 國際聯盟総會が開催中で、加瀬は 日本代表團を補佐するため聯盟本部のある瑞西(スイス)・壽府(ジュネーブ)にあり。
伯林勤務とはいえ、倫敦へ 壽府へと、七面六被の活躍である。

昭和八年の年が明けると、加瀬に歸朝命令が下る。 海路、途次 盤谷(バンコック)で下船して病氣引き込み中の駐泰公使に代って泰國政府と交渉、聯盟総會での リットン報告書への棄權の確約を得る。  日本全權代表の松岡洋右は加瀬の奮闘に感謝して 壽府から わざわざ 盤谷の加瀬に電話を架けて來たと、筆者は書く。
昭和八年二月二十四日の聯盟総會は リットン報告書への賛成42票、反對1票(日本)、棄權1票(泰國)で 加瀬の盡力で 貴重な棄權1票と謂う味方を得たことになる。

松岡洋右が あの有名な; ・・・ Japan, however, can not accept the report that applied to the Assembly. と宣(のたま)うて 日本代表團に顎で合圖を送り 一齊に退塲する塲面の貴重な映像が残されているが あの塲面には加瀬の姿はない。
松岡洋右自身は 蘇格蘭(スコットランド)訛りのあるオレゴン大學仕込みの英語を驅使して通辯を必要としないが、この時 帝國政府全權代表團随員の中に新聞記者上りで米國國籍のアングロ・サクソンFrederick Mooreを松岡の指示で加えてゐる。
しかし、前年の十二月八日、聯盟総會での一時間二十分に及ぶ、「十字架上の日本」として報道された あの有名な大演説は無原稿であったと謂われ、内容が余りにも刺激的過ぎて 基督者のムーアには相談しなかったであらう、と謂うのが 現代の 松岡洋右研究者の
一致した見解である。
帝國陸軍随員の中に 滿洲事變を主導した 陸軍歩兵大佐に昇進したばかりの石原莞爾 の他に 佛蘭西通で有名な 土橋勇逸(つちはしゆういち)陸軍歩兵中佐(士候24期、陸大32期、
後 陸軍中將、第48師團長、佛印駐屯軍軍司令官 等を歴任。
インテリ將軍の呼び名が高い。)の名前が見える。


昭和八(1933)年 、入省以來 七年ぶりの本省勤務で 情報部配属。
大臣は 廣田弘毅、次官は 重光葵である。

昭和十年暮れから始まった 第二次倫敦海軍軍縮交渉に 加瀬は 随員を命じられる。
この時 全權代表は 永野修身海軍大將で 帝國海軍は條約脱退を決めて軍艦・大和、武藏の建造を始めてをり、翌十一年一月十五日 正式に脱退文書を提出する。 この文書の起草は 勿論 加瀬俊一の筆になる。
日本代表團一行は 歸路 新嘉坡から香港へ向かう船中で 2.26 事件の發生を知る。

この前年、豫備交渉の海軍側首席代表は 山本五十六海軍中將。 當時まだ 世界的には
無名の山本であったが、昭和五年の 第一次倫敦海軍軍縮交渉に財部彪全權代表の随員として以來の倫敦行きである。 その辺の經緯は 阿川弘之が名著「山本五十六」に冒頭の
二章を費やして詳しく記述してある。


 事件後、廣田弘毅内閣誕生。 外相は 有田八郎。  廣田内閣は一年もたづ、次の 
林銑十郎内閣も短命で、翌昭和12年6月4日 第一次近衞内閣誕生。
 直後の 七月七日、コミンテルンの指示を受けた 劉少奇一味による 盧溝橋事件發生。

支那事變の戰火が擴大する中、加瀬は 倫敦駐箚を命じられて 10月28日 横濱發のNYK照國丸で渡歐の途につく。 滿二歳の長女と 昭和11年12月22日生まれ、滿一歳に末たぬ 長男 英明をつれての長途の船旅である。
赤子二人の守役に 慶應義塾大學病院看護婦長が年季雇いで同行。


 そこで想い出すのだが、後年 鎌倉・西御門にお住まいの頃、天気の良い日には 看護婦にエスコートされて 若宮大路をよく散歩されてをられた。 或る時、ふと立ち止まって 僕の顔を しげしげと眺めながら、“どちらさんでしたかねー”と謂う顔をされた事がある。
家の中も靴履きのまま。住み込みの看護婦 というのが 裕福な 日本人離れした加瀬家
の 若い頃からのライフスタイルだったようだ。

大使は 吉田茂。 しかし 翌昭和13年10月、僅か10ヶ月で交替。
後任は 駐蘇大使から轉任の 重光葵である。
重光は 廣田弘毅外務大臣時代の事務次官であり 舊知の上司であるが、當初 加瀬は
 重光の根暗が好きになれず敬遠したと筆者は書く。
しかし 重光の間近で その謦咳に接する内に やがて その “妖気漂うほどの” 才能に心酔する様になる。

昭和14年9月1日、獨逸軍 ポーランドへの侵攻開始。 第二次世界大戰の勃發である。
昭和15年、日本では 皇紀二千六百年奉祝の年であるが、倫敦はゲーリング空軍元帥指揮の獨逸空軍 對 RAF大英帝國空軍との間で繰り廣げられる死闘 the Battle of Britain の眞っ盛り。 6月、本省から家族引揚げの命が下る。  壽滿子夫人は 二人の子供と 
看護婦長共々 NYK榛名丸で歸國の途につく。

8月、第二次近衞内閣の外務大臣に就任した松岡洋右から重光葵大使のもとに 加瀬を秘書官にしたいので歸國させて欲しい旨の電信が届く。
歸國ルートは リスボンから空路 紐育(ニューヨーク)へ飛び 桑港(サンフランシスコ)からNYK浅間丸で横濱へ。
紐育への飛行機で 偶々(?)隣の席に座ったのが 大英帝國諜報部MI6 の諜報部員で 「月と六ペンス」で有名なサマーセット・モーム(William Somerset Maugham)。
このあたりになってくると、筆者の筆致は 得意の “福井(ふくい)節(ぶし)” も佳境に入る。

松岡洋右といえば、日獨伊三國同盟締結、蘇聯に煮え湯を飲まされた 日蘇不可侵條約締結の張本人としてA級戰犯のイメージが強いが、なにしろ筆者は 大阪青山女子短期大學助教授時代、“帝國陸軍ノモンハン大勝利”説を掲げて 世間の注目を浴びた人物であり、おのずと 松岡洋右に對する見方も評價も違ったものになってくる。

 昭和16年3月 政務秘書官の加瀬俊一は 松岡洋右外務大臣の 蘇聯、獨逸、伊太利亞訪問に随行する。
モロトフ、スターリン、ヒットラー、ムッソリーニ相手に 丁々發止の遣り取りは 廣く知られた通り。
歸路 再び立ち寄った 莫斯科(モスクワ)で 日蘇不可侵條約を締結。  意気揚々としてシベリヤ鐵道で歸途につく。
大連から陸軍機で立川飛行塲へ降り立った松岡を待ってゐたのは、野村吉三郎駐米大使からの「日米諒解案」なるものである。 
 一瞬 松岡は 自分が莫斯科滞在中に スタインハート駐蘇米國大使に仕掛けておいた工作に對する反應だと歡喜したものの すぐにそれが別物であることが判明し落胆、
日米交渉への熱意を急速に失う。

このよく知られた話は、前年秋、ウオーカー郵政長官にコネがあると自稱する ウオルシュとドラウトと謂う二人の素性のハッキリしない耶蘇教の坊主が來日、これに 井川忠夫なる これまた昭和11年に門司税関長を最後に大藏官僚を退官した市井の政界浪人が持って廻り、現役の陸軍大佐である黒岩豪雄が飛びついて渡米、四人で華盛頓ででっち上げて米國側は諒解濟だと偽って野村吉三郎大使に持ち込んだもの。

こんな與太話に引っかかる素人外交官野村も野村だが、それを選んだ外務大臣に責任がある。
素人外交の弊害について 直ぐにも想起するのは、沖縄返還交渉に登場した 若泉 敬の例である。 如何なる經緯で採用されたのか承知しないが、佐藤榮作首相特使として對米裏交渉にあたり、後に 米側機密解除で 一方的に手玉に取られてゐた事が判明。
「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」なる文書を残し 喪服姿で摩文仁の丘で割腹自決の眞似事を演じた騒動は記憶に生々しい。

佐藤榮作首相の ノーベル平和賞受賞は加瀬俊一の裏工作の功績であるが、その事は本書に記述なし。

すっかりやる気を失った松岡洋右は 六月、獨逸が蘇聯侵攻を始めるや、参内して對蘇開戰を上奏、陛下の叱責を受ける。

手を焼いた近衞は 内閣総辭職の奥の手を使って 松岡を更迭。 代って登場したのが これまた帝國海軍部内でとかくの評判ある 豐田貞次郎。 第二次近衛内閣での商工大臣から 第三次近衛内閣での 外務大臣兼拓務大臣への横滑りである。

紀洲・和歌山縣出身の豐田貞次郎は 天王寺中學から東京外語學校英語科を歴て海軍兵學校第33期、クラスヘッド。 同期で次席に 豐後・杵築中學第2回生の 豐田副武(そえむ)がゐる。
貞次郎は 海軍大尉時代 オックスフォード大學に留學、海軍大學校は第17期、首席。

因みに、副武は 大學校第15期、首席であり、第16期首席は 同じく杵築中學第1回生で 兵科32期クラスヘッドの 堀 悌吉。 重光葵は 杵築中學第3回生である。
(越後・長岡中學出身で 兵科32期の山本五十六(舊姓 高野)は 大學校第14期卒業後に ハーヴァード大學留學)

 山本五十六が海軍次官だった頃、當時 佐世保鎭守府司令長官であった豐田貞次郎から山本宛に “佐鎭長官が 親補職だからといって、次官になりたくないだらうなぞとは 決してお思いにならないで下さい。”との手紙が届く。 山本は 腹心の 井上成美軍務局長にこの手紙を見せ、井上が讀み終わると、“豐田貞次郎とは こんな男だ!! 覺えておけ!!” と言ったと、阿川弘之が 名著「山本五十六」の中に書いてゐる。
この一事が 豐田貞次郎の 総てを語って余りある。

昭和16年4月4日、及川古志郎海軍大臣は 豐田貞次郎を海軍大將に昇進させ 即日
豫備役編入、後任次官に兵科36期のクラスヘッド澤本頼雄を充てる。  豐田は 第二次近衞内閣の商工大臣に就任。

 早くから 大將、大臣になりたかった豐田貞次郎にとっては 念願が叶ったわけであり、誰が智恵を付けたものか 及川大臣の名人事である。
しかし、この經緯には複雑な裏話があり、前任の小林一三商工大臣を辭任に追い込むのに 次官の策士・岸信介が一枚も二枚も絡んでゐるが、この件は省略。

余談が過ぎた、話を戻そう。

筆者 福井雄三は なにしろ帝國陸軍禮賛者であるから 帝國海軍、野村吉三郎も
山本五十六にも 筆は冷たい。 この責任を総て 野村に押し付けてしまってゐる。
また、協調外交の主唱者 幣原喜重郎に對しても 福井節(ぶし)は批判的である。
加瀬俊一は 外務大臣政務秘書官をお役御免となり 休暇を取って暫く軽井澤で静養することになる。 その時 松岡から 千圓の慰勞金を渡されたと 筆者は書く。 當時の價値で 半年分の給與に相當する金額であらうか?  こんな話、筆者は誰から仕入れたのであらうか?  今なら差し詰め國家公務員倫理規定違反に問われるところだけど 當時は これが當たり前の時代だったのであらう。

結局 成らぬものは成らぬ で日米交渉は行き詰まり、第三次近衞内閣は 九月十三日の御前會議決定に縛られて頓挫、十月十六日、東條英機が陸軍大將に昇進して組閣の大命を拝する事になる。 外務大臣は 東郷茂徳。  加瀬は 北米課長兼任の儘 外務大臣秘書官を拝命する。

そこで活躍したのが、有名な 十四部からなる最後通告文の起草、英譯である。
本書には 子息英明氏から聞いた秘話として、この案文を 横田喜三郎に事前に見せた經緯が書いてある。 加瀬俊一自身にも これが國際法的に見て 最後通告文(ultimatum)の役割を果たすものか否かの自信が持てなかったものと見える。

因みに この日本語案文を受け取った海軍省軍務局では 柴 勝男中佐(兵50)が 「これは交渉打切り表明で はっきり武力行動に出る旨述べてゐない。」 として 「帝國ハ必要ト認ムル行動ノ自由ヲ留保ス」 と書き加へて 岡 敬純軍務局長から東郷重徳外相に進言したが 外相は變更 の必要はないとして受け入れなかった。

ハーグ條約第三條は 「自衞戰爭には適用されない」 と謂う解釋と、ドイツ軍ポーランド進入に際しフランスはただ「ポーランドニ對スル義務ヲ遂行スル。」 とのみ通告して對獨戰を開始した故知に倣った解釋だと謂はれてゐる。
詳しくは; 

http://ijn2600.web.fc2.com/daitouryou.shinjuwan.html 

を ご参照。
そこまで気を配って準備しながら「騙し討ち」の汚名を着る結果になった事はご承知の通り。

私は、1980年代、シカゴの北郊に住んでいた事がある。 二人の娘は公立の小學校に通ってゐたが、イリノイ洲教育カリキュラムで、當時 十二月になると、眞珠灣攻撃の事を教えてゐた。  Japan as No. 1 の時代で 米國に於ける日本に對する評價は最高の時代であり
TVは 12月7日には Gordon Plange教授原作の 二十世紀フォクス映畫“トラトラトラ”を放映してゐた。  あの映畫を視た人には 少なくとも 日本に騙し討ちの意圖がなかった事は理解してもらえたと思ってゐる。

結局 この大使館の不手際は、野村・來栖両大使も、直接の責任者である井口貞雄参事官も 奥村勝男一等書記官も責任を追及される事なく、井口はその後 事務次官から駐米大使へ、 奥村も マッカーサーと昭和天皇の通譯を勤め、誤解から 一時 懲戒免職となるが 
やがて 外務省に復歸して 事務次官、駐瑞西(スイス)大使を歴任する。

開戰東條内閣で 外務大臣兼拓務大臣を勤めた東郷茂徳は 昭和17年9月1日辭任。
10日だけ東條が兼務したのち、谷正之、昭和18年4月 重光葵が外務大臣に就任。
昭和19年7月 小磯内閣に そのまま留任。
昭和20年4月7日鈴木貫太郎内閣成立で 二日間だけ 鈴木が内閣総理大臣、外務大臣、大東亞大臣を兼務した後 東郷茂徳が 再び 外務大臣兼大東亞大臣に就任。
終戰處理に携ったのち、後継の 東久邇宮稔彦内閣の 重光葵にバトンタッチ。
  

昭和20年9月2日、重光葵は ミズリー號での降伏文書調印の首席全權を仰せつかる。   外務省からの随員は岡崎勝男調査部長と加瀬俊一。 有名な寫眞で周知の事である。
9月17日 重光外相は 辭任して 吉田 茂に代る。
駐英大使以來 不遇の日々を過ごし 長らく世間の表舞臺から消えてゐた 戰後の吉田茂の表舞臺への復歸である。 

 その頃 加瀬俊一は 内閣情報局第三部長兼外務省廣報部長であったが、内閣情報局は廢止され外務省廣報部長のポストも外されて失職。

やがて NHK のラヂヲ番組のニュース解説で 日本全國津々浦々 その名前が知れ渡る。

重光葵さんが巣鴨での刑期を了へ、公職追放解除となって初めて衆議院議員選擧に立候補した時、加瀬俊一さんが 應援にかけつけ、高齢の重光さんを氣遣って、應援演説、名前の連呼一切を加瀬さんが取り仕切ってゐたことを憶へてゐる。  私が高校一年生の昭和27年10月のことである。
 郷土の先達 重光葵さんが立候補すると謂うので 綾部健太郎さん(後 佐藤榮作内閣で運輸大臣)が あっさり選擧地盤を譲って應援に廻る等、古き佳き時代の豐後大分二區の選擧風景である。

昭和29年 吉田茂が退陣して12月10日 第一次鳩山一郎内閣が誕生すると
副総理兼外務大臣として 重光葵さんが 外務省に復權。

 昭和30年6月、初代澤田廉三に代って 加瀬俊一さんが 國際聯合日本政府代表部特命全權大使に着任。 この年 慶應義塾大學經濟學部に入學したばかりの長男英明も 遅れて紐育の父親の許へ。 9月新学期からイエール大學に通う事になったので、慶應義塾大學は 僅か3ヶ月で中途退學したことになる。

國際聯合加盟の障碍であった日蘇國交なり 念願の國際聯合加盟が實現したのが
昭和31年12月18日の 國聯総會。 加盟演説を了へて、歸途休養に立ち寄ったホノルルから、第五高等學校、東京帝國大學を通じての二年後輩であった父あてに 直筆の繪葉書が届いたのを憶へてゐる。 昭和31年12月 大學一年生の冬休みで歸省中のことであった。

加盟受諾演説は 加瀬さんが起草した英文のものであったと謂う。
この物語は ここで終わってゐる。

 鳩山一郎内閣は 総ての懸案が解決したとばかり、外相歸國前の 12月23日 総辭職、石橋湛山内閣が登場して 外務大臣は 岸 信介が就任する。

 重光葵さんは 総ての責任を果たし終えたとばかり、一月後の 昭和32年1月26日、湯河原の自宅で狭心症の發作で逝去。  享年六十九歳。
    

 外務官僚出身の外務大臣は 重光 葵さんを最後に 以降 総て 政黨出身の素人さんが外務大臣を勤める。
加瀬俊一さんのドラマは この後 まだまだ續く。

昭和33年、突然 初代ユーゴスラビヤ大使に轉任となり 世間を驚かせる。
岸 信介内閣、藤山愛一郎外務大臣時代のことであるが、この人事、河野一郎の陰がちらつく。

昭和35年、公職を辭して以降、佐藤榮作内閣のブレーンとして裏役に徹し、佐藤榮作の
ノーベル平和賞受賞の裏工作に貢献する。

平成十六(2004)年、神奈川縣鎌倉市西御門の自宅で天壽を全う。 享年101歳。


「開戰と終戰をアメリカに發した男」
― 戰時外交官 加瀬俊一秘録 ―
福井雄三著 毎日ワンズ社 2020年4月13日 第一刷發行



2021/02/16 初稿脱稿




激  痛

2021-02-15 21:48:55 | 日記
令和三年二月十五日 復刻掲載

座骨神經痛 根治方。
 
「痛み」の辛つらさ、苦しさは 本人にしか分からない。
文字通り「筆舌に盡つくし難がたい」苦痛。 だから 長年の 伴侶つれあい と謂へども「痛み」に関するかぎり、「赤の他人」。
 
六月中旬、五年間 全く痛痒のなかった左足に違和感を覺へる。
六月二十日(水)、二十一日(木)、二十二日(金)、二十三日(土)と掛かり付けの整軆院で施療を受ける。
まあまあ我慢の許容範囲だったので、豫定の旅行を敢行。 結果的には これが間違いだった。
 
二十四日 日曜日早朝、羽田で飛行機に乘る時、既に座席に座ることが儘 (まま) ならず、なんとか那覇のホテルに辿り着いたものの そのままダウン。  五年前の悪夢が一氣に甦 (よみがへ) る。
 
折角 旨いフルーツと泡盛を期待してゐたのに、ホテルのベッドで上を向いて寝たっきり。
食事はワイフにデパ地下で握飯を買って來てもらい、仰向けに寝て ほおばる。
初めての沖縄、観光に出かけたものの、最後部座席に仰向けに寝てバスの天井を眺めただけ。
 
ついに我慢もこれまでと、六月二十七日(水)旅行を早めに切り上げて歸宅。
驛近くの Dペイン・クリニックに驅け込む。
院長に 七年前の左足首骨折から五年前の 左足激痛に至る經過を説明。
 
種々の體位 (たいい) をとらされて、膝小僧を金槌で叩き、足首を捻 (ひね) り、レントゲンを撮った結果、
「七年前の足首の骨折と左足の激痛とは無関係。 背骨の関節が加齢變形で磨 (す) り減り それが神經を壓迫して痛みを發症してゐる。」と 自信満々のご託宣 (たくせん)。
その日は座薬(ボルタレン 50mg)を處方してもらう。 しかし座薬なんぞで治まる痛みではなく、翌二十八日木曜日は休診日で 一日自宅のベッドの上で仰向けに ただただ激痛を堪 (こら) へ忍ぶ。
 
二十九日(金)早朝 驅け込んで 局部  (ツ ボ)  に麻酔 (神經ブロックではない) を打ってもらう。
院長は「これで痛みは治まるので 週明けには完全に良くなってゐる筈だ。」と 宣  (のたま) う。
 
ところがギッチョン、そう簡單に「激痛」は治まってくれない。
七月二日(月)二度目の麻酔注射を打って貰う。
 
「麻薬は血糖値を上げるので あまり頻繁に打つわけにはいかないんだ!」とのことだったので ぐっと我慢してゐたが、ついに我慢の限界で七月六日(金)再度通院。
院長は「まだ 痛みがあるの!」 と 他人 (ひと) ごとのように謂う。 
その間 仰向けに寝たきりで、座薬(一日二回八時間間隔限度)とアスピリン(一日三錠限度)で内臓は 完全に活動停止状態。
 
七月十六日(月、海の日) 豫約を三回も變更したこともあり、無理して北海道旅行に出發。
飛行機も、往復四時間のフェリーも、バスも、汽車も 仰向けに寝た状態。
禮文島も、旭山動物園も、富良野も、美瑛も、札幌も 何を見、なにを食ったか記憶さだかならず。 折角の 旬 (しゅん) の馬糞雲丹 (ばふんうに) も 美瑛牛 (びえいぎゅー) も 富良野ワインもだいなし。
氣息奄々で我が家へ歸りつく。
 
七月二十三日(月)思ひついて 近くの「中國式足裏整軆」へ。 これは結果 我わ ら はの足痛には有効ならざること確認。
 
七月二十四日(火)参議院選挙事前投票の歸路、ワイフが Reflex Body Clinic のパンフレットを手に入れる。 なんとなく我が足痛に宛あ て嵌は まるかんじ。
 
七月二十五日(水)藁 (わら) をも掴む思いで受診。
過去の經緯を説明。 背骨を觸診 (しょくしん)。 第三、第四関節が左にずれてゐるとの診断。
先ずは 両臀部、下肢をほぐすこと三十分。 それから洗濯板だか簀子 (すのこ) 状のベッドにうつ伏せに。 天測器形状の器具を使って背骨をなぞりながら、「ドシン」と洗濯板を落とす。
これがなんとも、骨密度の低い老人なら 背骨が折れやしまいかと思う程 強烈なる荒療治。 四、五回 これを繰り返し、「はい、今日はこれで終はり!」と。
 
吃驚 (びっくり) 仰天 (ぎょうてん)。 これで なんと あれ程の「激痛」がどこへやら雲散霧消。
 
七月二十九日(日)第二回受診。
両臀部、下肢のマッサージは 相當な痛みを伴う。 就中、ツボをやられる時は脂汗 (あぶらあせ) が滲み出て 思はず「やめて!」と言いたくなる。 それでも 最初は 痛み90、氣持良い 10 だったのが 二回目は 痛80 キモ20 になる。 洗濯板落も 三、四回に。
 
八月一日(水)第三回受診。
激痛は完全解消。 ただ 左足全体に「ツッパリ」と「痺 (しび) れ」それから 背骨に痼 (しこ) りが残る。 痛70 キモ30。 洗濯板落 二、三回。
 
やっと 椅子(硬座)に腰掛けて食事が出來るようになった。 ただし ソファー(軟座)は まだいけません。
 
惟(おも)うに、A, B, C, D 四人の整形外科醫が 四人とも揃って「背骨の加齢變形による神經刺激」が原因だと診断しながら、誰一人 背骨を觸 (さわ) るでなし、自覚症状としても 背骨には 全く痛痒を感じてゐなかった。 對症療法にすぎない麻酔注射のみで、「麻酔で痛みが和 (や わ) らげば 痛みも解消する筈」だとの治療方 (か た) に 西洋醫學の限界を見、D医師への信頼も一氣に失せた。
 
「座骨神經痛」と謂うのは 俗称で 正式な医学用語では病名は 「脊柱管狭窄症」 ないしは 「脊椎管狭窄症」 だと謂うんだそうだが、四人の整形外科医ともいずれの病名も使わなかったし、勿論 俗称である「座骨神経痛」と謂う言い方はしなかった。
だから これが 所謂「座骨神經痛」なのかどうかもさだかならず。
 
慥(たし)かに「激痛」の原因は 四人の整形外科醫の診断通りだとして、痛みの解消は東洋醫學、いや「洗濯板」の勝利ではなかろうか。
 
ところで 有名なテレビの司會者が「腰痛」で背骨の手術をしたとつたへられてゐるが、その頃 この有名氏自身が「B」総合病院で支拂をしてゐる姿が目撃されてゐる。
多分 B総合病院でB醫師の診断を仰ぎ B醫師の紹介により都内のクリニックで斯界の権威  K大出身の Y・F醫學博士の執刀で手術を受けたのではあるまいか?
 
八月四日(土)第四回受診。
痛60 キモ40。 洗濯板も心地よいリズム變はる。
 
いまだ 左足に若干の痺れが残るが、これにて暫く様子をみよう。
(2007/08/04 追記)

八月六日(月) から 八月十日(金) 掛かり付けの整体師へ。

八月二十一日(火) 第五回受診。
痛30 キモ70。  左足全体に 多少のツッパリは残るが、激痛は完全解消。 満足すべき回復度です。
これからは 月一回のメンテナンス受診をするつもり。

(2007/09/01 追記)

                            
激  痛  An Unbearable Severe Pain
   わが闘病記。 (平成十六年一月記)
 
それは忘れもしない平成十四 (2002)年、一昨年の夏の事です。
6月30日 日曜日、左大腿部に違和感を覚えました。 お尻のツボを押さえてみると左大腿部にビリビリと電気が走ります。 軽い座骨神経痛であらうと 安易に考えたのが 耐え難き激痛の始まりでした。
 
7月1日 月曜日、鎌倉市内のA総合病院を訪ねて診断を仰ぎました。 A院長はJOC指定医でもあるスポーツ医学の権威で 人徳ある評判の整形外科医です。
レントゲン検査の結果、椎間板が若干 加齢変形(当時六十五歳)しているので、これが座骨神経を圧迫してゐるのでしょう とのご託宣。
痛み止めの座薬と鎮静剤を処方して貰い、これで痛みは軽減される筈ですとの事でした。
ところが 痛みは だんだん増すばかりで、4日 木曜日 再度通院して 腰椎に神経ブロック注射をして貰いました。 しかし効力は数時間で 座薬の鎮痛効果は全く効力がありませんでした。
 
7月6日 土曜日、ついに耐え難き激痛に ホーム・ドクターに紹介して貰ったB総合病院を訪ねる。 8時半から待って 診察の順番が回って来るまで待合室のソファーで七転八倒。 レントゲンとMRI検査の結果は、ほぼ A病院のみたてと同じでした。
入院手続きをした上で 少し強い神経ブロック注射をする事になる。 二、三時間効いたでしょうか。 あとは又また耐え難き激痛。 神経ブロック注射は あまり頻繁に打つわけにはいかぬとて、痛み止めの皮下注射をして貰う。  これも二、三時間効いたでしょうか。  神経ブロック注射と違って 痛みの発生源を抑えるのではなくて、意識朦朧にさせて痛みを忘れさせるのです。  最初の二、三本はそれなりの効果はあったのですがだんだんと効き目が弱くなっていきました。  根本療法としては、原因が脊椎の変形が神経を圧迫してゐるのだからと、両足を器械に固定して腰を引っ張り上げるのです。
しかし 自分自身の自覚症状としては 腰椎部位には全く痛みはなくて、激痛箇所は左大腿部裏側なのです。
そこではたと思い出したのは、ちょうどその一年前に 左足首関節を骨折して A病院で固定釘手術をしてゐた事です。 腰椎部位には痛痒なく 左大腿部裏側の激痛と謂う事は この左足関節の固定釘が関係してゐるのではないかと B医師に訴えてみましたが 関係なしと一蹴されました。
通常、椎間板変形による腰痛は ある姿勢で安静にしていれば耐え難き激痛はない筈ですが 私の場合は、腰痛ではなくて 左大腿部裏側の激痛で、姿勢や体位に無関係に常時激痛が走るのです。
B病院では 相も変わらぬ腰の牽引と 痛み止め注射ですが その痛み止め注射も だんだん効かなくなって来ました。 B医師への不信感と 種々 看護婦の不手際等もあって B病院を退院、自宅療養する事にしました。
 
自宅へ帰って 種々素人療法を試みるものの 激痛は相変わらずです。 意外なことにアスピリンの服用 (Bayer Aspirin 日本薬局方500mg)が 痛みを和らげるのに それなりの効果があった事です。
 
7月23日 火曜日、先進の心臓外科手術で有名な 鎌倉市郊外のC病院を訪ねる。
なにしろ評判の有名病院だけあって、早朝6時に家を出て 6時半から診療の順番待ちです。 初めての通院で不慣れな事もあり 診察の順番が回って来たのが10時半。 それから レントゲンだ血流検査だとあって 昼近く、C医師のご託宣は椎間板変形による神経根圧迫の疑い濃厚と謂うものでした。 その上で 座薬(ポルタレン50 mg)と鎮静剤(デパス0.5 mg)を処方されました。
 
要するに、A, B, C医師とも ほぼ同様の見立てです。 しかし これには納得出来ません。  そこで A病院長に直接電話して 自分自身の所見を話し、左足首関節の抜釘手術をお願いしました。 麻酔医が夏休みで不在な事、血糖値が高すぎる(当時 空腹血糖値 170-180mg/dl)等 即刻の手術にはかなり渋りましたが、結局 局所麻酔条件で抜釘手術をして貰う事になりました。
 
抜いてみて驚いた事に 全長 73 mm, 直径 3.6 mm のステンレス・ボルトが打ち込んであったのです。

抜糸が終わったところで、MRS(最新の MRI装置)で検査をして貰いました。 (ボルトが入った状態では磁気共鳴を起こすためMRI検査は出来ない)
A院長の所見は「左足関節骨折は完璧な状態で完治してゐる。 左足関節と左大腿部激痛との因果関係は特定出来ない。 しかしA病院としては これ以上の施療は思いつかないし、出来ないので ホーム・ドクターで血糖値を下げるようにされたい。」
 
すこし 心に引っかかるところあって、快晴炎天の八月十五日 次女に手を引かれて 正午 靖國神社に参拝、英霊の平安とともに 自身の激痛快癒、無病息災を祈願。
その後 徐々に痛みから解放され 全身整体で 約一ヶ月後 完全復調しました。
 
私なりの素人診断;
 
平成十三(2001)年五月の連休に 左足首関節部位腓骨を骨折しました。  高名な整形外科医であるA病院長に奨められて釘締 (stainless bolt埋め込み)手術を行う。 思えば この時の術後経過が思わしくなく、リハビリで痛みが取れるのに4-5ヶ月掛ってゐる。 神経腺を巻き込んでしまった嫌疑濃厚。
ボルト埋め込みのままで不具合生じたと謂う例症は 多々耳にします。 異物を身体の中に埋め込むのは 出来るだけ避けるべきでしょう。  A病院長は因果関係を否定しましたが 私は 激痛の原因は足首関節近辺の神経を締め上げてゐた為だと確信してゐます。
 
その後 すべては極めて順調で痛みの再発はありませんが、一年経過した昨夏、お尻のツボに若干の違和感を感じました。 ただちに 掛かり付けの整体院で治療を受けましたが、知らず知らずのうちに左足をかばうためにバランスを崩してゐるとの診断でした。 一週間の通院で全快。  半年に一回、全身整体をして貰う事にしてゐます。
 (2004/01/20 記)
2021/02/15 復刻

辻政信著「ノモンハン秘史」 [完全版]を讀む。

2021-02-04 09:22:57 | 日記

辻政信著「ノモンハン秘史」 [完全版]を讀む。

内容は 先の新書版と同じであるが、巻頭の「本書に寄せて」の筆者の肩書きが 東京國際大學教授に昇格してゐる。

また 巻末に “手記「ノモンハンの罪人と呼ばれて」”なる手記が追加されてゐる。
この手記は 戰後の 潜行三千里中にものしたとあるが、まだ事件のほとぼりさめやらぬ昭和14年9月 長沙作戰中の漢口の第11軍司令部に着任するところ「流謫の漢口」から始まる。

そして、翌年2月8日付けで 支那派遣軍総司令部付に轉補。
轉任早々、「派遣軍將兵に告ぐ」なる一文を起草、皇紀二千六百年天長の佳節に板垣征四郎支那派遣軍総参謀長名で隷下全軍に布告すると共に、大新聞にも全文が掲載された。

六項目に亘る長文であるが、今 これを讀みなをしてみて 非常に當を得た まっとうな布告文であると思う。
反響は非常に大きく、國内外に好評を博したことから 東條一派から嫉妬され 板垣失脚の名目になったとある。 

内容は 皇軍の綱紀の粛正を訴え、石原莞爾將軍の主張する東亞聯盟促進を唱えるものである。 皇軍の軍紀弛緩を示すものでもある。

そして 同年12月15日付けで 臺灣軍研究部員に轉補される事になったとある。
好戰派と目された辻政信のあらぬ一面を見た思いがする。
2021/02/03 初稿