『開戰と終戰をアメリカに發した男』
― 戰時外交官 加瀬俊一秘録 ―
福井雄三著 毎日ワンズ社 2020年4月13日 第一刷發行
帯びに「『黒子』として松岡洋右、廣田弘毅、東郷茂徳、重光葵、吉田茂に仕えた男が見た 虚々實々の外交戰!」
「日本が戰った大東亞戰爭。 この大東亞戰爭と激動の昭和史を 自己の一身で象徴できる一人の人物がゐる。 その名を加瀬俊一という。」とある。
英語のみならず 獨逸語、佛蘭西語にも堪能な加瀬俊一には數多くの著書があるが、意外にも 加瀬自身に関する傳記の類いは聞かない。
著者福井雄三は 東京國際大學教授。 同大學は昭和40年の創立で 加瀬俊一自身が
初代理事兼教授を勤めた大學であり、御子息 英明氏は 現在も 同大學理事兼教授を勤められてをり、加瀬俊一傳を書くに最適の人であらう。
加瀬俊一の名前を聞いて直ぐにも思い浮かぶ連想は 重光 葵(まもる)の顔であり、初代國際聯合
日本政府代表部特命全權大使であるが、本書によると 加瀬の才能を 最初に見いだして重用したのは 松岡洋右であると。 また、初代國聯大使は澤田廉三で 加瀬は第二代目。
その着任は 昭和30年6月。 即ち 日本の國聯加盟の一年半前のことだと。
東京商科大學を卒業して 史上最若年の22歳で入省した加瀬は 先ずアマースト(Amherst College)で學び、ハーヴァード(Harvard University)の大學院を卒えて
昭和三(1928)年、華盛頓(ワシントン)で官補としての外交官生活が始まる。
「加瀬をアマーストに入れたのは僕だよ!」と重光さんが云ったのを 誰かに聴いたか讀んだかした記憶があるのだが、出典が定かではない。
最初に仕えた上司は 東郷茂徳首席書記官。 後に 日米開戰時と終戰時に 東郷茂徳外務大臣の秘書官としての關係は ここに始まる。
獨逸語にも堪能な若き官補の加瀬は東郷家に入り浸りで 一人娘のイセの良き遊び相手でもあったという。
東郷茂徳は 薩摩・鹿児島の出身。 豐臣秀吉が朝鮮征伐の時に島津藩が連れ歸った陶工の末裔であり、明治十九(1886)年、朴家は東郷を名乘る士族の家禄を購入してその戸籍に入り、當時満3歳であった朴茂徳は「東郷茂徳」となった。
エディー夫人(エディ・ド・ラロンド、建築家ゲオルグ・デ・ラロンドの未亡人、
舊姓ピチュケ Pitsschke)は 猷太(ユダヤ)系獨逸人。
後に事務次官、駐米大使を勤める 東郷文彦(東京府出身で舊姓は 本城、昭和14年入省、ハーヴァード大學在學中に日米開戰となり抑留、交換船で歸國)は その一人娘イセ(伊勢神宮に因んでの命名とか)の婿。
この縁談、加瀬が深く係わった事は間違いない。 その双子の次男が條約局長、歐亞局長を歴任しながら、鈴木宗男事件で田中眞紀子外務大臣に和蘭陀(オランダ)大使を解任された東郷和彦。
加瀬にしてみれば 小泉純一郎内閣時代の この一連の事件の展開を見るに 氣が氣ではなかった事であらう。
一連の經緯は 優(まさる)クンが詳しい。マサル君によると、猷太人社會は母系主義であり、申請すれば以色列國籍が得られる筈だと。 檢察の追及を海外へ遁れた時、 和蘭陀(オランダ)・雷電大學が隠れ家を提供したのも 猷太コネクションの一環か?
小和田のお父さんが事務次官だった頃の話だから、大臣は 渡辺美智雄だったか?
マサル君が政務次官の鈴木宗男を焚き付けて 例の杉原千畝なる人物を 外務大臣表彰にしようとした事がある。 お父さんに一蹴されて 政務次官表彰にする騒動があたっけ。 歐亞局蘇聯邦課長が東郷和彦で 猷太コネクションを使って 日蘇關係打開の糸口にしようとした可能性を排除しない。 杉原千畝なる人物の名前が世間に知られるようになった切っ掛けであり、猷太コネクション工作の裏金作りが 鈴木宗男事件の發端である。
因みに、昭和22年、蘇聯の収容所から歸國した杉原千畝に免官を申しつけたのが、後に名前の出て來る 岡崎勝男事務次官であったとWikiにある。
昭和四(1929)年、東郷茂徳が参事官に昇格して伯林に轉勤になると、加瀬にも獨逸への轉勤辭令が出る。 この辺り 東郷が如何に加瀬の能力を高く評價してゐたかの證左であらう。
張作霖爆殺、滿洲事變、國際聯盟脱退、ナチスの臺頭、ウオール街での株價暴落、國内では 濱口雄幸、井上準之助、團琢磨暗殺、ついには 五・一五事件と 世は將に混沌、騒然たる時代である。
一方で 國際世論は海軍軍縮モードが高潮、昭和五年一月 加瀬は海軍軍縮會議全權團を補佐するため伯林(ベルリン)から 倫敦(ロンドン)に派遣された。
昭和六年九月十八日、柳條溝爆破事件勃發當時は 國際聯盟総會が開催中で、加瀬は 日本代表團を補佐するため聯盟本部のある瑞西(スイス)・壽府(ジュネーブ)にあり。
伯林勤務とはいえ、倫敦へ 壽府へと、七面六被の活躍である。
昭和八年の年が明けると、加瀬に歸朝命令が下る。 海路、途次 盤谷(バンコック)で下船して病氣引き込み中の駐泰公使に代って泰國政府と交渉、聯盟総會での リットン報告書への棄權の確約を得る。 日本全權代表の松岡洋右は加瀬の奮闘に感謝して 壽府から わざわざ 盤谷の加瀬に電話を架けて來たと、筆者は書く。
昭和八年二月二十四日の聯盟総會は リットン報告書への賛成42票、反對1票(日本)、棄權1票(泰國)で 加瀬の盡力で 貴重な棄權1票と謂う味方を得たことになる。
松岡洋右が あの有名な; ・・・ Japan, however, can not accept the report that applied to the Assembly. と宣(のたま)うて 日本代表團に顎で合圖を送り 一齊に退塲する塲面の貴重な映像が残されているが あの塲面には加瀬の姿はない。
松岡洋右自身は 蘇格蘭(スコットランド)訛りのあるオレゴン大學仕込みの英語を驅使して通辯を必要としないが、この時 帝國政府全權代表團随員の中に新聞記者上りで米國國籍のアングロ・サクソンFrederick Mooreを松岡の指示で加えてゐる。
しかし、前年の十二月八日、聯盟総會での一時間二十分に及ぶ、「十字架上の日本」として報道された あの有名な大演説は無原稿であったと謂われ、内容が余りにも刺激的過ぎて 基督者のムーアには相談しなかったであらう、と謂うのが 現代の 松岡洋右研究者の
一致した見解である。
帝國陸軍随員の中に 滿洲事變を主導した 陸軍歩兵大佐に昇進したばかりの石原莞爾 の他に 佛蘭西通で有名な 土橋勇逸(つちはしゆういち)陸軍歩兵中佐(士候24期、陸大32期、
後 陸軍中將、第48師團長、佛印駐屯軍軍司令官 等を歴任。
インテリ將軍の呼び名が高い。)の名前が見える。
昭和八(1933)年 、入省以來 七年ぶりの本省勤務で 情報部配属。
大臣は 廣田弘毅、次官は 重光葵である。
昭和十年暮れから始まった 第二次倫敦海軍軍縮交渉に 加瀬は 随員を命じられる。
この時 全權代表は 永野修身海軍大將で 帝國海軍は條約脱退を決めて軍艦・大和、武藏の建造を始めてをり、翌十一年一月十五日 正式に脱退文書を提出する。 この文書の起草は 勿論 加瀬俊一の筆になる。
日本代表團一行は 歸路 新嘉坡から香港へ向かう船中で 2.26 事件の發生を知る。
この前年、豫備交渉の海軍側首席代表は 山本五十六海軍中將。 當時まだ 世界的には
無名の山本であったが、昭和五年の 第一次倫敦海軍軍縮交渉に財部彪全權代表の随員として以來の倫敦行きである。 その辺の經緯は 阿川弘之が名著「山本五十六」に冒頭の
二章を費やして詳しく記述してある。
事件後、廣田弘毅内閣誕生。 外相は 有田八郎。 廣田内閣は一年もたづ、次の
林銑十郎内閣も短命で、翌昭和12年6月4日 第一次近衞内閣誕生。
直後の 七月七日、コミンテルンの指示を受けた 劉少奇一味による 盧溝橋事件發生。
支那事變の戰火が擴大する中、加瀬は 倫敦駐箚を命じられて 10月28日 横濱發のNYK照國丸で渡歐の途につく。 滿二歳の長女と 昭和11年12月22日生まれ、滿一歳に末たぬ 長男 英明をつれての長途の船旅である。
赤子二人の守役に 慶應義塾大學病院看護婦長が年季雇いで同行。
そこで想い出すのだが、後年 鎌倉・西御門にお住まいの頃、天気の良い日には 看護婦にエスコートされて 若宮大路をよく散歩されてをられた。 或る時、ふと立ち止まって 僕の顔を しげしげと眺めながら、“どちらさんでしたかねー”と謂う顔をされた事がある。
家の中も靴履きのまま。住み込みの看護婦 というのが 裕福な 日本人離れした加瀬家
の 若い頃からのライフスタイルだったようだ。
大使は 吉田茂。 しかし 翌昭和13年10月、僅か10ヶ月で交替。
後任は 駐蘇大使から轉任の 重光葵である。
重光は 廣田弘毅外務大臣時代の事務次官であり 舊知の上司であるが、當初 加瀬は
重光の根暗が好きになれず敬遠したと筆者は書く。
しかし 重光の間近で その謦咳に接する内に やがて その “妖気漂うほどの” 才能に心酔する様になる。
昭和14年9月1日、獨逸軍 ポーランドへの侵攻開始。 第二次世界大戰の勃發である。
昭和15年、日本では 皇紀二千六百年奉祝の年であるが、倫敦はゲーリング空軍元帥指揮の獨逸空軍 對 RAF大英帝國空軍との間で繰り廣げられる死闘 the Battle of Britain の眞っ盛り。 6月、本省から家族引揚げの命が下る。 壽滿子夫人は 二人の子供と
看護婦長共々 NYK榛名丸で歸國の途につく。
8月、第二次近衞内閣の外務大臣に就任した松岡洋右から重光葵大使のもとに 加瀬を秘書官にしたいので歸國させて欲しい旨の電信が届く。
歸國ルートは リスボンから空路 紐育(ニューヨーク)へ飛び 桑港(サンフランシスコ)からNYK浅間丸で横濱へ。
紐育への飛行機で 偶々(?)隣の席に座ったのが 大英帝國諜報部MI6 の諜報部員で 「月と六ペンス」で有名なサマーセット・モーム(William Somerset Maugham)。
このあたりになってくると、筆者の筆致は 得意の “福井(ふくい)節(ぶし)” も佳境に入る。
松岡洋右といえば、日獨伊三國同盟締結、蘇聯に煮え湯を飲まされた 日蘇不可侵條約締結の張本人としてA級戰犯のイメージが強いが、なにしろ筆者は 大阪青山女子短期大學助教授時代、“帝國陸軍ノモンハン大勝利”説を掲げて 世間の注目を浴びた人物であり、おのずと 松岡洋右に對する見方も評價も違ったものになってくる。
昭和16年3月 政務秘書官の加瀬俊一は 松岡洋右外務大臣の 蘇聯、獨逸、伊太利亞訪問に随行する。
モロトフ、スターリン、ヒットラー、ムッソリーニ相手に 丁々發止の遣り取りは 廣く知られた通り。
歸路 再び立ち寄った 莫斯科(モスクワ)で 日蘇不可侵條約を締結。 意気揚々としてシベリヤ鐵道で歸途につく。
大連から陸軍機で立川飛行塲へ降り立った松岡を待ってゐたのは、野村吉三郎駐米大使からの「日米諒解案」なるものである。
一瞬 松岡は 自分が莫斯科滞在中に スタインハート駐蘇米國大使に仕掛けておいた工作に對する反應だと歡喜したものの すぐにそれが別物であることが判明し落胆、
日米交渉への熱意を急速に失う。
このよく知られた話は、前年秋、ウオーカー郵政長官にコネがあると自稱する ウオルシュとドラウトと謂う二人の素性のハッキリしない耶蘇教の坊主が來日、これに 井川忠夫なる これまた昭和11年に門司税関長を最後に大藏官僚を退官した市井の政界浪人が持って廻り、現役の陸軍大佐である黒岩豪雄が飛びついて渡米、四人で華盛頓ででっち上げて米國側は諒解濟だと偽って野村吉三郎大使に持ち込んだもの。
こんな與太話に引っかかる素人外交官野村も野村だが、それを選んだ外務大臣に責任がある。
素人外交の弊害について 直ぐにも想起するのは、沖縄返還交渉に登場した 若泉 敬の例である。 如何なる經緯で採用されたのか承知しないが、佐藤榮作首相特使として對米裏交渉にあたり、後に 米側機密解除で 一方的に手玉に取られてゐた事が判明。
「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」なる文書を残し 喪服姿で摩文仁の丘で割腹自決の眞似事を演じた騒動は記憶に生々しい。
佐藤榮作首相の ノーベル平和賞受賞は加瀬俊一の裏工作の功績であるが、その事は本書に記述なし。
すっかりやる気を失った松岡洋右は 六月、獨逸が蘇聯侵攻を始めるや、参内して對蘇開戰を上奏、陛下の叱責を受ける。
手を焼いた近衞は 内閣総辭職の奥の手を使って 松岡を更迭。 代って登場したのが これまた帝國海軍部内でとかくの評判ある 豐田貞次郎。 第二次近衛内閣での商工大臣から 第三次近衛内閣での 外務大臣兼拓務大臣への横滑りである。
紀洲・和歌山縣出身の豐田貞次郎は 天王寺中學から東京外語學校英語科を歴て海軍兵學校第33期、クラスヘッド。 同期で次席に 豐後・杵築中學第2回生の 豐田副武(そえむ)がゐる。
貞次郎は 海軍大尉時代 オックスフォード大學に留學、海軍大學校は第17期、首席。
因みに、副武は 大學校第15期、首席であり、第16期首席は 同じく杵築中學第1回生で 兵科32期クラスヘッドの 堀 悌吉。 重光葵は 杵築中學第3回生である。
(越後・長岡中學出身で 兵科32期の山本五十六(舊姓 高野)は 大學校第14期卒業後に ハーヴァード大學留學)
山本五十六が海軍次官だった頃、當時 佐世保鎭守府司令長官であった豐田貞次郎から山本宛に “佐鎭長官が 親補職だからといって、次官になりたくないだらうなぞとは 決してお思いにならないで下さい。”との手紙が届く。 山本は 腹心の 井上成美軍務局長にこの手紙を見せ、井上が讀み終わると、“豐田貞次郎とは こんな男だ!! 覺えておけ!!” と言ったと、阿川弘之が 名著「山本五十六」の中に書いてゐる。
この一事が 豐田貞次郎の 総てを語って余りある。
昭和16年4月4日、及川古志郎海軍大臣は 豐田貞次郎を海軍大將に昇進させ 即日
豫備役編入、後任次官に兵科36期のクラスヘッド澤本頼雄を充てる。 豐田は 第二次近衞内閣の商工大臣に就任。
早くから 大將、大臣になりたかった豐田貞次郎にとっては 念願が叶ったわけであり、誰が智恵を付けたものか 及川大臣の名人事である。
しかし、この經緯には複雑な裏話があり、前任の小林一三商工大臣を辭任に追い込むのに 次官の策士・岸信介が一枚も二枚も絡んでゐるが、この件は省略。
余談が過ぎた、話を戻そう。
筆者 福井雄三は なにしろ帝國陸軍禮賛者であるから 帝國海軍、野村吉三郎も
山本五十六にも 筆は冷たい。 この責任を総て 野村に押し付けてしまってゐる。
また、協調外交の主唱者 幣原喜重郎に對しても 福井節(ぶし)は批判的である。
加瀬俊一は 外務大臣政務秘書官をお役御免となり 休暇を取って暫く軽井澤で静養することになる。 その時 松岡から 千圓の慰勞金を渡されたと 筆者は書く。 當時の價値で 半年分の給與に相當する金額であらうか? こんな話、筆者は誰から仕入れたのであらうか? 今なら差し詰め國家公務員倫理規定違反に問われるところだけど 當時は これが當たり前の時代だったのであらう。
結局 成らぬものは成らぬ で日米交渉は行き詰まり、第三次近衞内閣は 九月十三日の御前會議決定に縛られて頓挫、十月十六日、東條英機が陸軍大將に昇進して組閣の大命を拝する事になる。 外務大臣は 東郷茂徳。 加瀬は 北米課長兼任の儘 外務大臣秘書官を拝命する。
そこで活躍したのが、有名な 十四部からなる最後通告文の起草、英譯である。
本書には 子息英明氏から聞いた秘話として、この案文を 横田喜三郎に事前に見せた經緯が書いてある。 加瀬俊一自身にも これが國際法的に見て 最後通告文(ultimatum)の役割を果たすものか否かの自信が持てなかったものと見える。
因みに この日本語案文を受け取った海軍省軍務局では 柴 勝男中佐(兵50)が 「これは交渉打切り表明で はっきり武力行動に出る旨述べてゐない。」 として 「帝國ハ必要ト認ムル行動ノ自由ヲ留保ス」 と書き加へて 岡 敬純軍務局長から東郷重徳外相に進言したが 外相は變更 の必要はないとして受け入れなかった。
ハーグ條約第三條は 「自衞戰爭には適用されない」 と謂う解釋と、ドイツ軍ポーランド進入に際しフランスはただ「ポーランドニ對スル義務ヲ遂行スル。」 とのみ通告して對獨戰を開始した故知に倣った解釋だと謂はれてゐる。
詳しくは;
http://ijn2600.web.fc2.com/daitouryou.shinjuwan.html
を ご参照。
そこまで気を配って準備しながら「騙し討ち」の汚名を着る結果になった事はご承知の通り。
私は、1980年代、シカゴの北郊に住んでいた事がある。 二人の娘は公立の小學校に通ってゐたが、イリノイ洲教育カリキュラムで、當時 十二月になると、眞珠灣攻撃の事を教えてゐた。 Japan as No. 1 の時代で 米國に於ける日本に對する評價は最高の時代であり
TVは 12月7日には Gordon Plange教授原作の 二十世紀フォクス映畫“トラトラトラ”を放映してゐた。 あの映畫を視た人には 少なくとも 日本に騙し討ちの意圖がなかった事は理解してもらえたと思ってゐる。
結局 この大使館の不手際は、野村・來栖両大使も、直接の責任者である井口貞雄参事官も 奥村勝男一等書記官も責任を追及される事なく、井口はその後 事務次官から駐米大使へ、 奥村も マッカーサーと昭和天皇の通譯を勤め、誤解から 一時 懲戒免職となるが
やがて 外務省に復歸して 事務次官、駐瑞西(スイス)大使を歴任する。
開戰東條内閣で 外務大臣兼拓務大臣を勤めた東郷茂徳は 昭和17年9月1日辭任。
10日だけ東條が兼務したのち、谷正之、昭和18年4月 重光葵が外務大臣に就任。
昭和19年7月 小磯内閣に そのまま留任。
昭和20年4月7日鈴木貫太郎内閣成立で 二日間だけ 鈴木が内閣総理大臣、外務大臣、大東亞大臣を兼務した後 東郷茂徳が 再び 外務大臣兼大東亞大臣に就任。
終戰處理に携ったのち、後継の 東久邇宮稔彦内閣の 重光葵にバトンタッチ。
昭和20年9月2日、重光葵は ミズリー號での降伏文書調印の首席全權を仰せつかる。 外務省からの随員は岡崎勝男調査部長と加瀬俊一。 有名な寫眞で周知の事である。
9月17日 重光外相は 辭任して 吉田 茂に代る。
駐英大使以來 不遇の日々を過ごし 長らく世間の表舞臺から消えてゐた 戰後の吉田茂の表舞臺への復歸である。
その頃 加瀬俊一は 内閣情報局第三部長兼外務省廣報部長であったが、内閣情報局は廢止され外務省廣報部長のポストも外されて失職。
やがて NHK のラヂヲ番組のニュース解説で 日本全國津々浦々 その名前が知れ渡る。
重光葵さんが巣鴨での刑期を了へ、公職追放解除となって初めて衆議院議員選擧に立候補した時、加瀬俊一さんが 應援にかけつけ、高齢の重光さんを氣遣って、應援演説、名前の連呼一切を加瀬さんが取り仕切ってゐたことを憶へてゐる。 私が高校一年生の昭和27年10月のことである。
郷土の先達 重光葵さんが立候補すると謂うので 綾部健太郎さん(後 佐藤榮作内閣で運輸大臣)が あっさり選擧地盤を譲って應援に廻る等、古き佳き時代の豐後大分二區の選擧風景である。
昭和29年 吉田茂が退陣して12月10日 第一次鳩山一郎内閣が誕生すると
副総理兼外務大臣として 重光葵さんが 外務省に復權。
昭和30年6月、初代澤田廉三に代って 加瀬俊一さんが 國際聯合日本政府代表部特命全權大使に着任。 この年 慶應義塾大學經濟學部に入學したばかりの長男英明も 遅れて紐育の父親の許へ。 9月新学期からイエール大學に通う事になったので、慶應義塾大學は 僅か3ヶ月で中途退學したことになる。
國際聯合加盟の障碍であった日蘇國交なり 念願の國際聯合加盟が實現したのが
昭和31年12月18日の 國聯総會。 加盟演説を了へて、歸途休養に立ち寄ったホノルルから、第五高等學校、東京帝國大學を通じての二年後輩であった父あてに 直筆の繪葉書が届いたのを憶へてゐる。 昭和31年12月 大學一年生の冬休みで歸省中のことであった。
加盟受諾演説は 加瀬さんが起草した英文のものであったと謂う。
この物語は ここで終わってゐる。
鳩山一郎内閣は 総ての懸案が解決したとばかり、外相歸國前の 12月23日 総辭職、石橋湛山内閣が登場して 外務大臣は 岸 信介が就任する。
重光葵さんは 総ての責任を果たし終えたとばかり、一月後の 昭和32年1月26日、湯河原の自宅で狭心症の發作で逝去。 享年六十九歳。
外務官僚出身の外務大臣は 重光 葵さんを最後に 以降 総て 政黨出身の素人さんが外務大臣を勤める。
加瀬俊一さんのドラマは この後 まだまだ續く。
昭和33年、突然 初代ユーゴスラビヤ大使に轉任となり 世間を驚かせる。
岸 信介内閣、藤山愛一郎外務大臣時代のことであるが、この人事、河野一郎の陰がちらつく。
昭和35年、公職を辭して以降、佐藤榮作内閣のブレーンとして裏役に徹し、佐藤榮作の
ノーベル平和賞受賞の裏工作に貢献する。
平成十六(2004)年、神奈川縣鎌倉市西御門の自宅で天壽を全う。 享年101歳。
「開戰と終戰をアメリカに發した男」
― 戰時外交官 加瀬俊一秘録 ―
福井雄三著 毎日ワンズ社 2020年4月13日 第一刷發行
2021/02/16 初稿脱稿