相洲遁世隠居老人

近事茫々。

海堂 尊(たける) 『よみがえる天才 森鷗外』

2022-07-21 14:31:33 | 日記


海堂 尊(たける) 『よみがえる天才 森鷗外』 ちくま新書 2022/04/10 初版第一刷

文久二(1862)年 石見國(いわみノくに)津和野で生を受けた 鷗外・森林太郎が大正十一(1922)年七月九日 東京・本郷區駒込千駄木の觀潮樓で生涯を逐へて 今年で 丁度 百年。

  命日には 三鷹・禪林寺の墓前で盛大に百年忌が營まれる事と思う。

本書は天才文豪「森鷗外」の生誕から 六十一歳で生涯を逐へるまでの軌跡を余す所なく具(つぶさ)に詳述した傳記である。

  鷗外と謂へば終生の友 賀古鶴所(かこつるど)に口述した有名な遺書「余ハ石見人森林太郎トシテ ・・・」と共に、代々 石見國津和野藩四萬三千石・龜井家の典醫の家系だとして知られるが、そのこと自體に誤りはないが、本來 曾祖父に當たる嫡男 森 秀菴が 醫業を嫌って出奔し 森家は一旦断絶してゐる。

それが 祖父白仙・綱淨(つなきよ)を養子に迎へる事により、時の藩主・龜井茲監(これみ)の温情もあって、祿を七十石から五十石に減俸されたものの 慶安年間(1650)から續く典醫森家のお家再興が認められたものである。

 また 實父静男(静泰)も 白仙の長女峰子の婿養子であり、系圖上では 森家の正統ながら 血筋的には断絶してゐる。
よく 西 周(にし あまね) との仲を取り沙汰されるが、西周の實父・時義は出奔した 秀菴の實弟であり、從って 西周と鷗外・森林太郎とは血縁は無く、寧ろ 西周家の方が 典醫森家の正嫡な血筋だと謂へる。

巻末の年譜より 生誕から 獨逸留學までの軌跡を追ってみよう;
 なお、昭和の時代、かの國の表記は「獨逸」で統一されてゐたが、「赴徳國習衛生學」だとか「在徳記」等の記述が見へるので、明治の頃は 支那式に「徳國」(徳意志)表記が用ひられてゐたものだと思はれる。(或るいは 鷗外の漢籍の素養によるものか?)

文久二(1862)年一月十九日(太陽暦では二月十七日)父静男、母峰子の長男として誕生。
慶應三(1867)年 津和野藩校「養老館」にて「論語」の素讀を學ぶ。(六歳)

慶應四(1868)年・明治元年 「孟子」の素讀を學ぶ。(七歳)
明治二(1869)年 「四書」復讀を學ぶ。 首席褒賞「四書正文」(八歳)

明治三(1870)年 「五經」復讀、首席褒賞「四書集註」。
父に「和蘭(おらんだ)文典」にて蘭學を學ぶ。(九歳)
明治四(1871)年 「左國史漢」復讀。 室良悦に和蘭陀文典を學ぶ。
11月 藩校「養老館」廢校。(十歳)

明治五(1872)年 6 月 父と共に出郷。  向島 龜井藩下屋敷に住む。(十一歳)
10月 神田小川町 西周邸に寄寓、本郷「進文學社」で獨逸語を學ぶ。
明治七(1874)年 第一大學區醫學校豫科入學。(十三歳)
入學學齢は 15歳の爲、萬延元年(1860)生まれだと 年齢を2歳誤魔化す。

年齢は 數へ歳であり、如何に早熟かつ天才であり神童であったかが判る。
その作品の格調高さは 六歳から學んだ漢籍の素養によるものだが、九歳から和蘭陀語を學び 十一歳から獨逸語を學んでゐる。
獨逸語は醫學生の頃から 學術論文の翻譯、獨逸留學後は會話にも全く不自由がなかったと謂はれる。  讀み・書き・喋る、將に 語學の天才である。

明治八(1875)年 9 月 東京醫學校本科一年生。(十四歳)
11月 嘉永5年生まれ 23歳の北里柴三郎 東京醫學校豫科に入學。

明治九(1876)年 下谷和泉橋 藤堂藩邸跡地の寄宿舎で 賀古鶴所と同室になる。
(ここは 大正時代に帝國大學醫科大學附属病院となり、昭和になって 三井和泉橋病院、現在の 千代田區神田和泉橋町一番地 三井記念病院のある塲所である。
 父が本郷・鐵門の耳鼻咽喉科醫局勤務時代、震災まで ここの醫局長を兼務してゐた懐かしい名前である。)

東京醫學校は 本郷元富士町の加賀藩邸跡地(鐵門)に移轉。
(因みに 法文系は「赤門」)

明治十(1877)年 4 月 東京醫學校と 東京開成學校が合併し 東京大學醫學部となる。(十六歳)
明治十四(1881)年 7月 東京大學醫學部を卒業、醫學士號授與。28人中八席。
12月 陸軍軍醫副。 (二十歳)

明治十七(1884)年  8月 横濱を出帆。(二十三歳)
 10月 伯林(ベルリン)着。 ライプチッヒ大學フランツ・ホフマン教授に師事。

學齢を2歳誤魔化して 二十歳で醫學士となり しかも 天下の東京大學醫學部で 同期生28人中 8番の卒業成績である。 秀才、天才 以外の何物でもない。

本人は頭初 文部省からの官費留學志望であったが、慣例により これは卒業成績三席までだと知ると、暫く浪人の後 同期の小池正直の推薦と 親友・賀古鶴所の助言を入れて陸軍への奉職を決意する。  この辺りが人生の機微というもので、一年後ないしは學齢通り二年後に入學してゐれば 或いは 森林太郎東京帝國大學醫科大學教授が誕生してゐたかも知れない。

 陸軍に入って分かったことであるが、陸軍軍醫部には 初代軍醫総監・松本 順を筆頭とする順天堂閥と 緒方洪庵の適塾閥 等のあることで、鷗外は西周の縁戚だと謂う事で順天堂閥に入れられて 松本 順総監に目をかけられ、門閥と縁がない第五代軍醫総監・石黒忠悳(ただのり)の知遇を得る。

任官 3年目 二十三歳で念願叶って陸軍省官費にて獨逸留學。 足跡を追ってみよう;

明治十七年 23歳 ザクセン王國 ライプチッヒ大學でフランツ・ホフマン教授に師事。
明治十八年 24歳 ザクセン王國 ドレスデンへ。ザクセン軍團の軍事演習に參加。

明治十九年 25歳 バイエルン王國 ミュンヘン大學でフォン・マックス・ペッテンコウフェル教授に師事。
明治二十年 26歳 プロイセン王國 伯林 ロベルト・コッホ研究所で修學するのに、筆者が天敵とも疫病神とも書く相性の惡い北里柴三郎の世話になる。


この四年の獨逸滞在中に「湖上の小記」を初め文學作品を執筆するようになる。
しかし 何と言っても獨逸語に磨きをかけた事である。

獨逸語の學術論文を讀むにとどまらづ、多數の論文を獨逸語で執筆。
讀み かつ 書く に留まらず 話す(喋る)方にも磨きをかけた事である。

ナウマン象の化石や フォッサマグナ(Fossa magna)の發見で有名な帝國大學理科大學初代地質學教授のナウマン(Heinrich Edmund Naumann)が教授職を解雇された恨みから(本書記述に依る)獨逸へ歸國後 日本を誹謗中傷するに目に余るものあり、反論の機會を伺ってゐたが、明治十九(1886)年三月にドレスデン東亞博物學・民俗學協會で講演した際には、日本人の無知、無能ぶりを嘲笑したため、森鷗外がそれに反駁して論戰し、完膚なきまでに論破したと謂う。

この語學力は天賦の才とあいまって藩校「養老館」で數(かぞ)への六歳から始めた漢籍の素讀に負うところ大だと思ふ。

ライプチッヒでは 午前9時から午後4時まで講義と實驗で 學生生活に戻って細菌學と解剖學を學んでゐる。

歸宅後は 個人的に雇った家庭教師に英語を學び、古本屋で購入した天下の萬書を讀破したと謂う。
      佛蘭西のバルザックから入りソフォクレスの「エディポス王」やダンテの「神曲」、「ゲエテ全集」を耽讀。ハイゼ・クルツ編「ドイツ小説撰集」全24巻 を通讀。 リルケに涙しハルトマンに溺れ、ショウペンハウエルに論戰を挑む。
アンデルセンの「即興詩人」とゲエテの「ファウスト」には特に感銘を受け、何度も讀み返したと謂う。  10ヶ月後 ライプチッヒを去りドレスデンに行く時 文學書だけで藏書は170冊に達したと。

ドレスデンでは田村 怡與造(いよぞう)陸軍大尉に再會。

田村 怡與造と云はれても 今や 知る人は少ない。この時 伯林陸軍大學校留學3年目で獨逸語も堪能。 大元帥ヘルムウト・モルトケに可愛がられてゐたと謂う。
帝國陸軍切っての秀才參謀であり、日露 若し戰はば 作戰中樞の陸軍參謀本部次長にはこの人を措ゐて他にないと 序列を飛び越へて抜擢され、怡與造また 佳く期待に應へるべく 日夜奮勵せるも、日露開戰前夜 過勞で卒去。  陸軍大將兒玉源太郎が降格人事を承知で 少將職の後任となる。
長女の婿が山梨半造陸軍大將であり、次女のそれが菲葎賓の知將・本間雅晴陸軍中將である。

相洲下島(現平塚市)出身の山梨半造は昭和19年に亡くなるまで鎌倉・由比ヶ濱に居を構へてをり、當時の出入りの床屋から 面白い話を聞いたことがある。
跡嗣は ここで工務店兼 金融業を營んでゐたが バブルで倒産。
佐渡中學出身の本間雅晴の最初の妻は、本間が在倫敦大使館付武官補佐官の時、役者風情と駈け落ち。 英國聯隊付で倫敦にゐた同期の今村 均が慰めたと謂う話を 角田房子が 「いっさい夢にござ候」に克明に書いてゐる。

この時 田村怡與造から獨逸語の讀み書きには不自由しないが これだけは歯が立たないと相談を持ちかけられたのが 何と後に鷗外の人生に轉機を齎すクラウゼビッツ
(Carl Philipp Gottlieb von Clausewitz)の兵書『戰爭論』(Vom Kriege)であった。

筆者は書く;
煤煙の街ライプチッヒで文學の鑛脈に遭遇し、
宮廷の街ドレスデンで貴族文化の精華に觸れ、
青春の街ミュンヘンで演劇、演奏會、繪畫鑑賞に耽溺する文化的生活を堪能した。
獨逸で「文學」に遭遇したのは天命だった、 と。

明治の文豪としてよく對比される 漱石・夏目金之助とは大違いの青春だ。
抑も 専門の英語ですら本塲の倫敦(ロンドン)では四苦八苦する伊豫・松山中學の英語教師と對比する事自體が間違ひいで、鷗外にとって文學作品を物する事は 單なる余技の一部に過ぎず、本職は 飽くまでも 帝國陸軍軍醫である。
後に 宮内省帝室博物館総長兼圖書頭(ずしよのかみ)になったのも、帝國美術院を創設して 初代院長に就任したのも 若き日の獨逸での見聞の精華の一部にすぎない。

留學最後の明治二十一年一月二日 伯林日本人會で 新任獨逸大使 西園寺公望に指名されて獨逸語で演説。ソルボンヌ大學出身で佛蘭西語に堪能な公爵に「私は歐州に長く滞在しましたが、ここまで流暢な獨逸語を話す日本人には初めてお目にかかりました。」と絶賛されたと謂う。

數日後 この演説を聴いた田村怡與造の訪問をうける。
鷗外の語學力なら クラウゼビッツを讀みこなせるに違いないと、「在獨將校に『兵書』を講義して欲しい」と。  そして火曜日と土曜日の夕 2時間「戰爭論」全八篇の第一篇から談ずる事になった。

ここまで詳しく日日の活動が判るのは 漢文調で克明に記した「在徳記」の存在である。

鷗外の獨逸留學中の4年間にも陸軍軍醫部内での派閥爭は活發で 順天堂閥の頭目松本順が失脚し 鷗外に目をかけてくれた 石黒忠悳が内務省衛生局次長に左遷される等 曲折あり、鷗外もその余波をうけることになるが、幸運にも 筆者が石黒左遷の置き土産だと謂う陸軍一等軍醫(陸軍軍醫大尉相當)に昇進し、かつ3年の留學期間も1年延長される事になった。

一時 左遷されてゐた石黒忠悳軍醫監が奇跡の復活を遂げ(筆者曰く)、伯林に長期出張する事になる。
鷗外の語學力を知る石黒忠悳軍醫監は 何かと鷗外を小間使いに使い、希望通り1年間の留學延長とはなったものの 最後の1年間は 鷗外にとって 有難くもあり 有難迷惑でもある1年間となる。

お陰で 石黒忠悳軍醫監に随行して バアデン公國カルルスルウエでの赤十字國際會議にも參加出來 有名なバアデンバアデンにも遊ぶ事も出來た。

明治二十一年(1888) 27 歳。
7 月5 日 伯林を發ち 倫敦、巴里に遊んで 7 月29 日 佛汽船「アバ號」マルセイユを解纜 40 日間の航海の後、9 月8 日 横濱港歸着。
  石黒忠悳軍醫監に随行の窮屈で 憂鬱な2ヶ月間の旅であった。


偖て、四年ぶりに日本に歸り着いて、即座に「舞姫騒動」と呼ばれる大騒動が持ち上がる。

一般には エリイゼなる遊女が 林太郎を追いかけて日本に押しかけて來たとして知られてゐる事だが、本書によると 伯林時代から林太郎と同棲してをり、林太郎自身は同じ船で連れ歸り結婚するつもりであったが、石黒忠悳軍醫監に同行の爲 ブレエメン北方の港(と 筆者は書く; 多分ブレエメルハアフェン(Bremerhaven)か ヴィルフェルムスファアフェン(Wilhelmshaven))出帆の日本行きの別の船に乘せたもの。
しかも林太郎は この船の動向が把握出來るよう 周到に 石黒軍醫監と自分の別送荷物を この船に積んでゐる。

1866年9月15日 プロイセン王國ステッチン (Stettin, Konigreich Preusen)(現ポウランド領シュチェチン Szczcin, Pommern)生まれの エリイゼ・マリイ・
カロリイネ・ヴィイゲルト(Elize Marie Kaloline Wiegert)、22歳。

この舞姫が誰なのか、net 上では 未だに諸説探索が續いてゐる。

林太郎は エリイゼを築地の精養軒に宿泊させて 親族や友人に逢はせるが、エリイゼは 自分が歡迎されてゐない事を 敏感に感じ取り 次第に元氣を失っていく。

森家の女達は 一齊に猛反發。  中でも 母峰子と妹喜美子の反對は凄まじく 喜美子の夫・小金井良精(よしきよ)に泣きついて 林太郎の翻意を促す。

小金井リョウセイ、懐かしい名前である。

安政五年(1859) 越後長岡藩家老・河井継之助の信頼厚い家臣の次男に生まれる。
林太郎より3歳年長。
戊辰戰爭の時は 9歳で、父親と別れて仙台へ逃れ
  維新後は荒蕪の地・陸中岩手で辛酸を嘗める。

明治3年(1870)10月20日 大學南校に入學。
明治5年 (1872) 10月7日 第一大學區醫學校入學。
明治13年(1880) 7月10日 東京大學醫學部を首席で卒業、醫學士となる。
        10月16日 ドイツ留學を命じられ、11月14日に日本を離れる。
明治14年(1881)     ベルリン大學入學(ライヘルト教授の教室)。
明治15年(1882)     ストラスブルク大學へ轉籍(ワルダイヤー教授の教室)。
明治16年(1883)     ワルダイヤー教授のベルリン大學へ異動に伴い轉籍、ベルリン大學助手を命じられる。
明治18年(1885) 歸朝。東京大學醫學部講師を命じられ、9月11日に日本人による初めての解剖學の講義を行う。
明治19年(1886) 帝國大學醫科大學教授に就任。
明治20年(1887) 醫學博士の學位を授ける。
明治26年(1893) 東京帝國大學醫科大學長。

學長を退任後も 大正11年(1922)まで 解剖學教室教授の職にあったので、大正三年 醫科大學卒業の私の父は 直接 その教へを受けたと謂うことになる。
その他、青山胤通、三浦謹之助(孰れも 内科學教室教授)、長與又郎(病理學教室教授)等 本書に 度々 名前を見るが 父が學生時代 その謦咳に接した教授連であり、
小金井良精(りようせい)の名前と共に 父の口から 度々 その名を聞かされてゐる。


温厚で人望厚い義兄から説得されても林太郎は肯んぜず、獨逸語で説得してもエリイゼに謝絶され、結局 賀古鶴所に援軍を恃むことになる。

賀古鶴所、2ヶ月後に 山縣有朋の通譯として1年間 歐州に行くので ここは 一旦 獨逸へ歸るよう説得、林太郎もエリイゼも納得して、來日の時と同じ船で獨逸へ戻る。

これにて一件落着であるが、エリイゼとの文通は その後も續いたらしい。
林太郎自身 何か書き残した筈であるが、その死後、後妻の志げが 総て燒却してしまった爲、詳細を知る術がない。
筆者によると 帽子職人として生計をたて 結婚したと謂うが、諸説あって いまだ好事家の探索は續いてゐる。


賀古鶴所は 頭初 細菌學を専攻し 陸軍軍醫學校で教鞭を執ってゐたが、この年 豫定通り山縣訪歐團に同行、獨逸・伯林大學に留まって 當時の 最先端醫學であった耳鼻咽喉科學を修める。 歸朝後、陸軍軍醫學校に復職すると共に、明治27年の日清戰爭に 第一師團野戰病院長として出征するまで日本赤十字社病院での耳鼻咽喉科外來診療をも受け持つ。


明治35年に 岡田和一郎博士が 東京帝國大學醫科大學耳鼻咽喉科教室初代教授に就任する 12年前の事であり、文字通り 我が國 耳鼻咽喉科學の鼻祖である。

陸軍軍醫現役の儘 明治29年に東京市神田區小川町に「賀古耳科院」を開業。 (當時は許されてゐた。) 我が國初の「耳科」専門醫院である。
賀古鶴所は林太郎より七歳年長であるが、明治14年醫學部卒業の同窓であり、在學中から 陸軍委託生となり 林太郎の陸軍入りを勸めた仲である。

舞姫騒動が落着すると 母峰子が強く勸め西周が自分の娘の如く可愛がる男爵・赤松則良(のりよし)海軍中將の長女との縁談が待ってゐる。  しかも 生母は明治15年に巴里で客死した第二代陸軍軍醫総監林紀(つな)の妹である。陸軍軍醫として順天堂閥に列なる願ってもない良縁である。
10月には17歳の赤松登志子嬢との婚約が纏まり、翌明治22年2月24日、元老院審議官西周夫妻の媒酌で結婚式を擧げ、 3月13日、両國橋の中村樓で披露宴が行はれた。
出席者は 林洞海・つる(佐藤泰然長女)夫妻、順天堂主・佐藤進・志津(洞海三女)夫妻、逓信大臣・榎本武揚・多津(洞海次女)夫妻、等々 順天堂一門がずらりと顔を揃へた。 客死早世した第二代陸軍軍醫総監林紀の地位にどっぷり嵌まり、順天堂閥の一員として認知されたわけである。


明治23年9月 長男於菟が誕生すると 11月には 登志子と離婚、除籍してしまう。

林太郎の言い分は;(見合いの時)「哄(わら)ふと齒茎丸出しなところが氣に入った」と言い
「矢張り噐量が惡ゐ。」と云って離縁している。

今 寫眞で見ると 決して器量は良ひとは言へぬが、家事一切は實家から連れてきた老女に任せ 大柄で 漢籍の文章を朗々と素讀するような男勝りな氣性が合はなかったのが原因だったかも知れない。
   大正9年 赤松則良男爵の臨終に立ち會ってゐるので、赤松家との付き合いは続いてゐたのかも知れない。

可哀想なのは 生まれたばかりの長男・於菟である。
  生母に授乳されることもなく、數へ年の5歳まで本郷森川町のタバコ屋、平野甚三方に預けられた。 森家に引き取られると、支配的な祖母の峰子によって嚴しく育てられ、父鷗外と同じように熱心な教育を受けた。
  生き別れた實母は 明治33年に病死。 (享年28歳)

舞姫騒動、登志子との離婚等 種々あったが、歸朝から明治27年の日清戰爭までの5年間は林太郎にとって 最も充實した時機である。

衛生學の創始者ペッテンコウフェル教授と 細菌學の始祖ロベルト・コッホと謂う双璧直傳の林太郎は 帝國陸軍衛生行政の最重要人物に押し上げられる。

「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」の獨逸三部作を發表。
創作に 飜譯に 文藝批評にと八面六臂の大活躍。

明治35年 林太郎40歳の時、大審院判事荒木博臣長女・志げと再婚。
その12年の空白の間、林太郎は仕立てが生業(なりわい)の未亡人、兒玉せきを無縁坂に囲ってゐる。

後妻との間に 長女・茉莉 次女・杏奴 次男・不律(夭逝) 三男・類の 二男二女を設けてゐる。  義母の志げは十二歳の長男於菟に冷たかったと。

明治22年10月生まれの私の父は 大正3年醫科大學卒業で、明治23年9月生まれの長男・於菟と同期同窓であり、於菟は どこかで1年 飛び級してゐる。
 父林太郎が日露戰爭に出征していた明治38年、獨逸學協會學校中等部(現 獨協學園中等部)を同窓生より2歳若く卒業したが、第一高等學校(舊制)の受驗に失敗。
翌明治39年、醫科志望者のための獨逸語主體の學部である第一高等學校第三部に入學。
東京帝國大學醫科大學には 通常より1歳若く入學してゐる。

解剖學を専攻したのは 伯父小金井良精に倣ったものであらう。
  東京帝國大學醫學部助教授から 長らく臺北帝國大學醫學部解剖學教室教授を務め 戰後は 帝國女子醫學専門學校、東邦大學醫學部教授を勤める。
 昭和42年、77歳で歿してゐる。

大正三年に因み「山椒ノ香リ」と謂う同窓會誌が定期的に父のもとに送られて來てゐた。 その中で 王曽憲 と謂う 中華民國臺灣省高官の名前があったのを憶へてゐる。


明治二十六年 32歳
陸軍一等軍醫正(陸軍軍醫大佐相當)、陸軍軍醫學校長

明治二十七年 33歳
日清戰爭が勃發すると、第二軍兵站軍醫部長として 朝鮮半島に出征。
足跡を追ってみよう;  宇品を出航 釜山上陸。 大同洞、花園口、 緑樹屯、威海衛、柳樹屯、金洲、旅順。

翌明治28年4月 下關の料亭・春帆樓で 伊藤博文内閣総理大臣・陸奥宗光外務大臣 と 李鴻章全權の間で講和が成立。  遼東半島(三國干渉により還付)、澎湖島、臺灣が日本に割譲されると 林太郎は 臺灣への赴任を命じられる。

當時の臺灣は 西蠻が跋扈し、コレラ、マラリアや赤痢が蔓延する瘴癘の地である。
  この頃 日本では既に防疫方は確立されてをり これを片つけて 明治28年10月 東京に歸還。  陸軍軍醫學校長に復職。 森林太郎 34歳の秋。

明治三十一年 37歳
兼 近衛師團軍醫部長

明治三十二年 38歳
6月 陸軍軍醫監(陸軍軍醫少將相當)に任じられたものの、第十二師團軍醫部長として小倉に赴任。
それまで公私ともに順風滿帆であった森林太郎、自身が 菅原道眞の太宰府行きに擬(なぞら)へる初の左遷體驗である。

東京からは文字通り 雲烟萬里の地。 余技の文藝活動は暫し停止。
林太郎は ここ小倉で 伯林時代にやり殘したクラウゼビッツの大著『戰爭論』全八巻の飜譯を完結し、第十二師團軍司令部から刊行してゐる。

左遷の背景は 脚氣對策としての麥飯派と 飽くまでも白米食に拘る 石黒忠悳軍醫総監の葛藤に纏はる余波だったと 筆者は書く。


「脚氣」は元禄・享保に江戸で大流行し、「江戸患い」と呼ばれ、短期間で死亡するので、京都では「三日坊」と呼ばれた。
慶應二年、第十四代將軍・徳川家茂が脚氣になると、脚氣治療の名醫として名高い下総國佐倉・堀田備中守家臣の三男で皇漢醫の遠田澄庵が江戸から大阪城まで往診して治療に當たってゐる。

明治六年、徴兵令公布に併せ 陸軍は兵食一人一日白米六合を決める。
當時 白米は贅澤品で 一日六合の銀シャリは 兵に對する最強のincentiveである。


江戸の昔から「米一石」と謂う單位は 大人が一人年間に食べる量であり、これを日割りに換算すると、2合7勺となり、6合とは その二倍以上の量になる。

本年度、日本の米の作付けは700萬噸を切ってをり、これには 飼料米、酒造・醸造米、餅・煎餅 等々を含んでおり、農林省は 正確な數字を公表しないが、ウルグアイ・ラウンドの名殘であるminimum access米を加へて 正味 飯米は600萬噸だと見る。
日本人年間平均消費量50kgs、即ち 三分の一石、一日當り 9勺である。

梅干、澤庵に味噌汁で 毎日白米六合を食べれば 容易に健康を害する事 想像に難くない。

明治十年の西南戰爭で 脚気患者が續出。
明治天皇は『朕聞ク 漢醫遠田澄庵ナル者アリ、ソノ療法、米食ヲ絶チテ小豆、麥等ヲ食セシムト、是必ス一理アル可シ。 漢醫ノ固陋トシテ妄リ醫ニ斥クベキニアラス。
洋醫・漢醫各々取ル所アリ。 和法亦スツルヘカラス。 宜シク諸醫協力シテソノ治術ヲ研精スヘシ』  御英明な明治大帝は この時點で脚氣の本質を見抜いてをられたわけである。

現在では 明治四十三年(1910)に鈴木梅太郎博士が發見した ヴィタミンB1 不足が原因であることが解明されてゐるが、歐米にはない 亞細亞人獨特のこの疾患の原因は全く 判ってをらづ 在日の 御雇獨逸人醫師エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Balz)博士の見解等を踏まえて 陸軍では細菌による傳染病説が廣く信じられてゐた。

一方、海軍では薩摩出身で 倫敦セント・トウマス病院醫學校で學んだ高木兼寬(かねひろ)海軍軍醫総監が この遠田療法を知って試驗的に麥飯を採用、明治20年代には 脚氣豫防法を確立してゐる。 また 海軍兵學校では 早くから生徒にパン食を供してゐる。
  後に 慈恵會醫科大學を創立する高木兼寬の業績は 惜しむらく その裏付けとなる「炭窒二素不均衡説」論理に齟齬があった。

日清・日露の両大戰で戰闘による戰死者を上回る脚氣罹患に依る死者を出しながら 頑なに白米食に拘り 陸軍が「麥三割食」に轉換したのは實に 森林太郎陸軍軍醫総監時代の大正二(1913)年の事である。

世間では この脚氣對策の遅延を 鷗外・森林太郎の消すことの出來ない失點として、
高木兼寬海軍軍醫総監 對 森林太郎陸軍軍醫総監、實證・實踐的海軍英吉利醫學 對 論理優先陸軍獨逸醫學、俗世原理=經験的現實主義 對 學問原理主義=學理萬能原理 として捉へてゐる。

筆者は 自身醫師であり この辺の記述は 詳細を究め 紙數を費やしてゐる。

 それにしても、脚氣による死者が 戰闘による戰死者の數を上回ったとは、大東亞戰爭島嶼戰に於ける餓死者の數が 銃砲彈による戰死者の數をはるかに上回った事實と併せ深刻な事實である。

因みに「脚氣」と謂う醫學用語は 英語、米語、佛蘭西語で孰れも 「beriberi」であり
獨逸語でも「Beriberi」である。 語源は 馬來・印度尼西亞語で病氣の事を「beri」と言い これを二つ重ねることにより重病を意味する。
 明治21年に 當時 和蘭陀(オランダ)の植民地であった 蘭領東印度のバタヴィア(Batavia) (現 耶加達(ジヤカルタ))に世界初の「病理解剖學兼細菌學研究所」が開設され、日本以外で唯一 脚氣研究が行はれてゐた事に由縁する。

醫學用語で唯一 採用された 印度尼西亞語であらう。
因みに馬來・印度尼西亞語でマラリアの事を「dingin panas」と謂う。 「dingin」は 寒い、冷たい、「panas」は 暑い、熱いを意味する。 しかしこれは流石に世界共通語ではなくて、印尼でしか通用しない。
支那語では「脚氣病」(jiaoqibing)で こちらは日本語由來である。

ここで昔噺を;

吉田茂内閣大藏大臣・池田勇人が國會答辯で、「貧乏人は麥を食へ!」とやらかして物議をかもした事がある。 當時はまだ、「麥飯」は貧乏人の食い物だと謂う偏見が 根強く殘ってゐた。  サツマイモやカボチャと共に 健康志向の現代は 雑穀と共に 高級食材に變身してゐる。 我が家は家内が「貧乏人の飯」を嫌い銀シャリonlyである。
 戰中・戰後、嚴しい食糧管理法の下、各家庭では 玄米を闇市塲で手に入れ 一升瓶に詰め はたきの竿でつついて精米したものである。その時、「七分搗(しちぶづき)」(半搗米とも呼ぶ)を嚴しく言はれたものである。 即ち 30%糠を落とし 70% の精米にせよとの事である。

現代の吟醸酒は 精米度50% 前後であり、大吟醸酒に至っては 30% なんてのもある。 贅澤の極みである。
帝國陸軍も 麥飯が嫌なら 七分搗きにしておけば脚氣蔓延は防げた筈であるが。
五分搗きの精白米を梅干と澤庵で 毎日六合も食べてゐれば健康を損なわぬ筈がない。

明治三十五年  41歳
1月 荒木博臣の長女志げと再婚。
3月 第一師團軍醫部長として 東京に戻る。

明治三十七年  43歳
日露戰爭開戰により、第二軍軍醫部長に任ぜられる。 4月 宇品發、鎭南浦(平壌の海の玄關口)に上陸。

楊家屯、劉家店、鞍山站、遼陽、奉天、鐵嶺を轉戰。

明治三十八年  44歳
5月27/28日 日本海海戰。
9月5日 日露講和條約締結。

明治三十九年  45歳
1月1日  鐵嶺を發ち 12日 新橋着で歸還。
8月  第一師團軍醫部長に復歸し、陸軍軍醫學校長を兼務。

明治四十年   46歳
11月   第八代陸軍軍醫総監(陸軍軍醫中將相當官)兼 陸軍省醫務局長。

明治四十四年 紀元節に發した窮民施薬救療事業の「濟生勅語」に基づく 恩賜財團・濟生會の事業に陸軍軍醫総監として 深く關はる。

現在 日本全國に 40 ある 濟生會病院の源流である。

大正五年4月  55歳で豫備役編入されるまでの8年余 帝國陸軍の醫務行政のtopに君臨する。
しかも その間、小説に、戯曲に、飜譯にと 余技の文藝活動にも余念がない。

將に超人である。
豫備役編入となった翌年には 宮内省帝室博物館総長 兼 圖書頭に就任。
大正8年には 帝國美術院を創設して 初代院長に就任してゐる。

大正十一(1922)年  61歳
3月   獨逸へ留學する長男於菟と 佛蘭西に留學する夫山田珠樹に同行する長女茉莉を見送る。  これが二人との今生の別れとなる。

6月   軆調を崩す。
7月6日  賀古鶴所に遺言を口述。
7月9日  觀潮樓にて死去。   臨終は 額田晋が診る。

明治19年備中岡山生まれの額田晋は 於菟より4歳年長であるが 同じ獨逸學協會學校 中等部の出身で、大學は2年早く 大正元年の卒業。  大正6年に米國ハアバアド大學に留學して亞米利加醫學を學んだ新進氣鋭の内科醫である。   大正14年 實兄豐と共に 帝國女子醫學専門學校を創立。  現在の東邦大學である。
 額田晋夫人は賀古鶴所の姪であり、戰後 臺灣から引き揚げた於菟が東邦醫科大學教授になったのは その繋がりであらう。
鎌倉にある 額田記念病院は 昭和の初め設立された結核sanatoriumuを起源とする。

大正九年、海軍の高木兼寬男爵が歿し、翌大正十年、東京帝國大學醫學部入澤達吉内科醫局から 北里柴三郎が創設した慶應義塾大學醫學部教授に轉じた大森憲太博士が 脚氣を

「ヴィタミンB1缺乏症」だと斷定し、各大學でヴィタミンB1 缺乏症の臨床研究が一齊に始まった。


晩年の鷗外は歴史小説と謂う新分野を切り開く。
乃木希典大將の殉死に想を得て 大正元年、「興津彌五右衛門の遺書」を淨土眞宗本派本願寺の啓蒙誌であった中央公論に發表。
翌大正2年、「阿部一族」、「大塩平八郎」と 孰れも中央公論に、さらには「佐橋甚五郎」を書き上げる。

そして「史傳」と謂う新しい分野を開拓。  大正5年に新聞連載を始めた「澀江抽齋」を皮切りに、「伊澤蘭軒」、「北條霞亭」を執筆。
しかし、孰れも格調高い漢文調の文體は庶民には難讀・難解そのもので不評の爲、東京日日新聞は 獨断で連載を取りやめてしまう。
この辺が 同時代の一般受けする通俗小説家・夏目漱石との違いである。
史傳三部作は結局 鷗外存命中は 單行本としては日の目を見ることはなかった。

醫學博士であり 文學博士でもある鷗外・森林太郎の遺骨は 石洲津和野にある開基750年の名刹・永明寺と 向島・弘福寺に納められたが 弘福寺のそれは 後に三鷹の禪林寺に移される。

今や世間一般では 「禪林寺」と言へば 櫻桃忌の行はれる塲所として有名であるが森鷗外にこよなく憬れたカルモチン中毒患者が紛れ込んだものである。

  天才文豪・森鷗外にしてみれば、「何を間違って俺の墓の前にやって來た?」と言うところであらうか?


作者の海堂尊は千葉縣生まれ。 縣立千葉高等學校から一浪して 千葉大學醫學部を卒業した外科醫・病理醫である。
高校三年の夏休みまで 劍道の部活と 麻雀に打ち込んだ爲 一年間 駿臺豫備校で浪人生活を送ってゐるが、本人には 現役東京大學醫學部への拘りはなかったようだ。
本書は;
奏鳴曲、北里と鷗外  文藝春秋社 2022/02/21

北里柴三郎 よみがえる天才   ちくま新書 2022/03/10

に續く 第三彈である。

2022/07/09 森鷗外歿後100年目の日に初稿脱稿




海堂尊『森鷗外』よみがえる天才 ちくま新書 2022年4月10日 初版第一刷



『鷗外追想』宗像和重編  岩波文庫 2022年5月13日 第一刷



追  記;

現在の 東京大學醫學部は 徳川幕府直轄の「(西洋)醫學所」を源流とする。

維新後、明治新政府により;

明治二(1869)年二月    「醫學校」と改稱
    十二月    「大學東校」と改稱

その間、蘭方醫から 英吉利(ヰギリス)醫學へ 更に 獨逸醫學へと變遷する。

明治五(1872)年九月 「第一大學區醫學校」と改稱


明治七(1874)年五月 「東京醫學校」となる。

明治九(1876)年十二月六日   本郷元富士町加賀藩邸跡地(鐵門)に移轉

明治十(1877)年四月十二日  「東京大學醫學部」と改稱 (現在の東京大學はこの日を創立記念日とする)


明治十九(1886)年   「帝國大學醫科大學」と改稱

明治三十(1897)年     「京都帝國大學」が開設されたことにより、 「東京帝國大學醫科大學」と改稱

大正八(1919)年   大學令により 「東京帝國大學醫學部」と改稱

昭和二十四年      新學制により 「東京大學醫學部」と改稱、現在に至る

2022/07/15 追記了



史傳三部作は 難讀・難解に過ぎて 第2作「北條霞亭」の新聞連載を東京日日新聞が 獨断で中止した如く 新聞讀者に不評で、出版社も 單行本の發行を躊躇。
鷗外存命中には 史傳三部作は日の目を見ることはなかった。

令和4年7月18日(月)  産經新聞文化欄 記事



森鷗外全集 全八巻  筑摩書房  昭和四十年四月 初版第一刷

米(アメリカ)合衆國に赴任するにあたり求めたもので 太平洋を二往復してゐる。

昭和四十年は東京五輪の翌年であり、既に出版物は 新假名遣い、第一水準漢字がなかば強制されてゐたが、本書は soft cover ながら、鷗外原文其の儘を「康熙文字」で印刷されてをり、現在では得がたい文化遺産である。

就中、第4巻 史傳Ⅰ に収録された「澀江抽齋」の「澀」の字は現在では 印刷物はもとより net で覧ることもあるまい。

第1巻 小説Ⅰ 「舞姫」に始まって、「伊澤蘭軒」は 第5巻 史傳Ⅱ に、「獨逸日記」は 第7巻 評論・随筆・詩歌 に 夫々 収録されてゐる。

「伊澤蘭軒」は 大正五年四月 豫備役編入直後から書き始めて 東京日日新聞と 大阪毎日新聞に連載を始めたもので、鷗外全著作中の最大作で、1,400 枚の長編である。
難解な内容は、巻末の「語註」だけで 100 余頁、130,000字を費やしてゐる。

惜しむらくは 活字が小さすぎて老人には讀みづらい。
2022/07/20 追記