相洲遁世隠居老人

近事茫々。

Jonathan Wainwright

2022-10-03 21:23:07 | 日記
Jonathan Wainwright

占領期の別府 (381) 捕虜奪還 ⑧レーションを返せ!?

2010/07/22 18:52
上官思いの米兵の言うところによれば 投下したレーションの内訳は;
バターとパン 月並み
タバコ 兵隊につきもの
缶詰 ありえる
ビスケット 妥当
ミルク 粉ミルク?
コーヒー 飲みたい
ココア アメリカ人とココア?
こういったものがぎっしりと箱に入っていた。 豪勢だよね。

一個は亀川で拾われた。 あとは別府市内で回収された。
これらも、ウエインライト中将と同様に返せと迫る。
中将はともかく、レーション勝手に落としといて、返せはないだろうといえない ところが敗戦国の悲しさ・・・
続く・・

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Commented by izajijoさん
2012/02/25 20:27
パーシバル英陸軍中將、ウエーンライト米陸軍中將の一行は 臺灣花蓮から飛行機で九洲に運ばれ、昭和十九年十月八日(日)汽車で別府着。 亀の井ホテルに二泊。

翌月曜日 東洋軒でチキンライスの晝食を供さる。

十月十日(火)別府驛發門司經由 關釜聯絡船で釜山へ。
そこから鐵道で北上、滿洲の捕虜収容所へ。

當時、國民學校(クヲクミン グワッコウと發音してゐた)二年生だった僕は 十月十日、野口國民學校へ不老町の自宅から登校の途中 別府驛前廣塲に整列させられた一行を目撃したことを記憶してゐる。

Corregidor の米將 Jonathan Wainwright陸軍中將の日記に;
比島で捕虜になった時、後に大分・別府で砂糖卸商を手廣く營んでをられた
草本利恒陸軍中尉の印象を好意的に書き殘してゐる。
2012/02/27 20:24
Commented by izajijoさん
さて、レーションはいつ亀川に投下されたのであらうか?

昭和20年7月16日夜から17日朝にかけての大空襲、B-29 による燒夷彈の絨毯爆撃で
 大分の町は全滅。

父に手を引かれて眠い眼をこすりながら野口の山の中へ避難。 大分の上空は紅蓮の炎を雲に反映させて眞っ赤。

次は別府だと 早速 學童疎開の命令が出る。
中學生、女學生はすでに全員 勤勞動員令で軍需工塲へ。 (役にたったのかなー)

僕は近くの寺に寄宿して亀川國民學校へ轉校。 でも 授業に出た記憶は全くない。

僕は亀川の寄宿先で病氣になり、父親に迎へに來てもらい別府の自宅へ歸った。
暗い夜道を北濱の電停から歩いて歸る時、ラヂヲの七時(または九時だったかもしれない)のニュースは蘇聯の參戰を報じてゐた。

と謂うことは8月9日または10日の夜だった筈。
そして僕はその時すでに海軍病院の西北のレンコン畑に米軍機が落下傘を一つ投下したことを知ってゐた。

レーションと謂う言葉を知ったのは ずっと後の事であるが、防諜、防諜で憲兵の目が光ってゐた時代、辨當箱の中身の噂は口コミですぐに知れ渡った。

ビスケットやチョコレートの他に 日の丸印のタバコ (Lucky Strike) まで入ってゐると謂う噂だった。

海軍病院の屋根に「白十字」のマークが描かれてゐたので捕虜収容所と間違えて、捕虜に食べさせてくれということだろうと解釋された。        續く;
(後記注; 當時は軍事機密で 一般の人は知るよしもなかった事だが、戰前 東別府驛の西南に 女子修道院があって 戰時中 そこが接収されて 捕虜収容所になってゐた。)

2012/02/27 21:05
Commented by izajijoさん
餅ヶ濱に Consolidated PBY Catalina 飛行艇が飛來した話は このブログの記事で今回初めて承知した。

戰前、別府と關西間に航空路があり、單發水上機が就航してゐた。
  その揚陸塲が 的が濱にあったのでPBY が着水したのは 或いは そこだったかも知れない。
偖て、その時期だが、8月19日以降 8月30日以前と考えるのが妥當ではあるまいか?
なぜなら;

8/16に聯合軍から降伏手順打ち合わせの爲の軍使派遣の要請があり 軍使が持參すべき資料に 捕虜収容所關聯の資料も含まれてゐた。

8/19 河辺虎四郎陸軍中將、横山一郎海軍少將以下の軍使がマニラに到着。
この時點で聯合軍側は捕虜収容所の正確な所在地を知った筈である。 だからPBYの捕虜救出隊は亀川海軍病院へ向かはず永石通りの別府警察署へ向かったと考えられる。

聯合軍は正確な捕虜収容所の所在地は承知したが、どの収容所に誰が収容されてゐるかまでは承知してゐなかった。
だから、Wainwright、Percival両陸軍中將が別府にゐるのではないかと推測してゐた。
實際には 両將は滿洲牡丹江(記憶モード)近郊の収容所に収容されてゐたのである。
赤軍に救出されて8/30以前に米軍の捕虜救出特別任務部隊に身柄を引き渡されてゐる。
この項 續く・・・

2012/02/27 21:28
Commented by izajijoさん
8/30 マッカーサーが厚木に降り立つ。
この時點では占領地域は厚木・横濱間で 東京にはまだ進駐してゐない。
8/31 宿舎にしてゐた横濱の Hotel New Grand で晝食中の所に 眞新しい軍服を着た
Jonathan Wainwright陸軍中將が現れ、Corregidor 以來の再會を果たす。Percival中將がその間どこで何をしてゐたか はっきりしないが、両將揃って9/02 USS Missouri での降伏文書調印式に顔をみせてゐので、行動を共にしてゐたものと考えられる。
陸海空三軍交互の通信網が完備した米軍で、USS Missouri以降に Wainwright、Percival両將を返せ戻せと謂う話ははなはだ解せない。
この項 コメント終はり。

2012/02/27 21:47
Commented by izajijoさん 
Google map は役に立つ。
當時の亀川國民學校は現在の「日中一時支援なかま」か「べっぷ優ゆう」の辺りにあった。

當時は 海軍病院と西念寺のある丘陵との間は家一軒ない一面の田畑で 東側が水田、西側にレンコン畑が廣がってゐた。 問題の落下傘は このレンコン畑の中に落ちた。
亀川驛から西念寺への田圃の中の畦道には 青大將やらマムシがにょきにょきしてゐた。
66年前、日本が完膚なきまで米國に打ちのめされた頃のお話です。
2012/02/29 18:18
Commented by izajijoさん
whitearthさん、一生懸命調べて書いたのに、『言いたい放題』暴走老人がlousy commentしてごめん。 こらえちょくれ。  暴走老人の戯言ついでに 「秘話」を一つ;

鶴見丘高校に F先生と謂う 東京外語出の英語の先生がをられた。
『世間じゃあ、一中・一高・東大(東京府立第一中學校、第一高等學校、東京帝國大學)と謂うが、うちの息子は 別中(縣立別府中學校)・一高・東大だから 日本一だ!』と宣うのが口癖で、『マニラの軍使の通譯は 全部 うちの息子がやったんだ!』と鼻高高のご自慢だった。

後に調べてみたら、軍使一行の末席に F海軍主計豫備少尉の名前が確かにある。
辭令を交付された13名の正式随員の中に海軍切っての と謂うより日本随一の名通譯 米國生まれの ジョーヂ・溝田主一海軍嘱託が含まれてゐる。

首席全權の河辺虎四郎參謀本部次長はドイツ語は堪能だが英語はからっきし駄目。
海軍側首席の横山一郎海軍少將は 若き日 語學研修生としてYale大學に學び、開戰時の 駐米海軍武官。

次席の大前敏一軍令部作戰課長も 若き日 Pennsylvania洲立大學で語學研修。
陸軍側にも 山本 新參謀本部歐米課長は駐米陸軍武官經驗者。
この項 續く・・・

2012/02/29 19:02
Commented by izajijo さん
通譯を通しては時間がかかると謂うことで、結局 この3人が英語で直接交渉し、折角の George溝田名通譯の出番も少なかったとの事。

9/02 USS Missouri 艦上で杵築中學3回生重光 葵(まもる)外務大臣と、中津出身の梅津美治郎
大本營陸軍參謀総長が調印した降伏文書 (Instrument of Surrender)は この時マニラでRichard K. Southerland參謀長とのあいだで合意されたものです。

F元海軍主計豫備少尉は後に この時のことを大分合同新聞に投稿してゐる。
軍刀を取り上げられたことなど書いてをられたが、厚木の雷電・零戰にも狙われて文字通り軍使は命がけだったらしい。

白塗り緑十字の一式陸上攻撃機一番機は 歸路 不時着してゐる。
伊江島で給油の時、gallon と litre を間違えた爲だと謂う事になってゐるが 一番機には英語に堪能な NY 大學航空學科出身の大西 甫(はじめ)海軍飛行兵曹長が乘ってをり、この話 ちとおかしい。
ともかく、一番機の機長、海軍切っての名パイロット、須藤傳(あとう)海軍飛行特務大尉の冷静沈着な操縦で天龍川河口に無事着水。

この話、ご興味あれば続けますが、やだきーけん 今日はここまで。

2012/03/01 11:43
Commented by izajijoさん
ここまで記憶モードで書いてきて、間違いがあってはいけないと、念のため、「外務省所藏外交文書」を基に編纂された研究論考『降伏文書調印經緯』(講談社1981)を調べてみました。

8/19 20:30 在マニラ軍使發として聯合國軍から要求あった提出すべき資料が列記され、その「要求事項第一號」の中に;

二、 ロ 何レノ地ニアルヲ問ハス日本國内及日本國ノ支配下ニアル地域ニ於ケル俘虜及非戰闘員収容所及抑留所、特ニ「ジー・エム・ウエインライト」及「エー・イー・パーシバル」將軍ノ現在ノ所在地ヲ通報スヘシ

また「要求事項第三號」第五項に;

聯合國部隊ハ1945年8月25日06:00ヲ期シ其ノ數個ノ行動區域内ニ於テ左ノ一般的措置ヲ講ズ   として・・・
(ロ)  聯合國空軍部隊ハ聯合國俘虜収容所及非戰闘員収容所宛航空機ニ依リ給養品ヲ投下スヘシ

とある。
この項 つづく・・・

2012/03/01 12:25
Commented by izajijoさん
以上により、海軍病院北西のレンコン畑に落下傘が投下されたのも、PBYが 的が濱に着水したのも 8/25 以降 8/30 以前だと日時が狹められた。

Wainwrightが赤軍から米軍に引き渡された日時が特定出來れば 更に日時を限定出來る。

僕は八月十五日の玉音放送を自宅のラヂヲで聴いてゐる。
意味はチンプンカンプンだったが、父が「戰爭は終はった!」と言ったのをはっきりと憶へてゐるので確かな記憶だ。
すると、その後、8/25以前に 再度 亀川の疎開先に戻ったと謂うことになる。
このへんになると小學三年生の記憶は曖昧になる。
さて、上記論考によると;

全員が 姓・名が明記されてゐる中、一人だけ「海軍少尉F」として「姓」だけが記されてをり、括弧して(伊江島に殘留)とある。

横山一郎さんの回想手記 『海へ歸る』(原書房1980)にも;

『・・・伊江島に殘留すべき搭乘員の取りまとめ役として F主計少尉が配員された。 ・・』とある。

なんのことはない。 主計短期現役出身 F海軍主計豫備少尉は 中繼地伊江島でバシリとして殘留、マニラには行かなかったと謂う事になる。


Stars & Stripesに載った交渉塲面の寫眞をを見ると;


昭和二十年八月十九日 Manila
City Hallでの軍使會議。
左から
  吉田英三軍務局第三課長、大前敏一軍令部第一課長、  横山一郎海軍少將、
河辺虎四郎參謀次長、岡崎勝男外務省調査局長、  天野正一參謀本部作戰課長、
山本 新參謀本部歐米課長。

 後ろに控える二人は 杉田主馬海軍教授と George・溝田主一海軍嘱託(George溝田の顔は 河辺虎四郎陸軍中將の後ろに隠れてゐる。) 寫眞提供 世田谷區 大前御本家

後向き左から Charles A. Willoughby陸軍少將、L.J. Whitlock陸軍少將、
Forrest P. Sherman海軍少將、參謀長 Richard K. Southerland陸軍中將、
S.J. Chamberlin陸軍少將。 


交渉テーブルには河辺虎四郎全權、天野正一參謀本部作戰課長、山本新參謀本部歐米課長、横山一郎海軍少將、大前敏一軍令部作戰課長、吉田英三軍務局第三課長、岡崎勝男外務省調査局長の7名のみで、ジョーヂ溝田と ケンブリッジ大學出身の 杉田主馬海軍教授 (國際法)は後ろの椅子に控えてゐる。
2012/03/06 20:51
Commented by izajijoさん
『ウエインライト日記』がどうしても見つからないので米側の記録を調べてみたが 解放された正確な日時の記載が見あたらない。

蘇聯(露西亞)側の記録によると「奉天近郊で解放した。」(held at a guarded villa 17 kilometers away from Mukden.)とあるが、日時の記載がない。

一方、8/20には在支米軍司令官Wedemeyer中將が Wainwright中將救出の爲の飛行機の奉天着陸許可を求めて來たとある。 そして一行は8/29に重慶に到着してゐる。
別の資料で Wainwright、Percival両中將が蔣介石と面談の寫眞が殘されてゐる。
重慶で身体檢査を受け、服装を整えて 8/31 厚木に飛び、晝過ぎ、Hotel New Grand で MacArthurとの再會となったと謂う事のようです。
米軍は遅くも、8/28には両將の身柄解放の確報を得てゐたと考えられます。

2012/03/08 09:45
Commented by izajijoさん

いや たまがった!!
「World War II Database」と謂うweb-siteによると Wainwright、Percival 両將が赤軍により解放されたのは 8/20 だとある。

蘇聯側の資料によると、「解放後直ちに その旨 聯合國軍(The Allies)に通告し、8/20付けで在支米軍司令官Wedemeyer中將から 救援機の奉天飛行塲着陸許可申請があった。」とある。
 關東軍は 8/16には停戰命令を發令しているが 通信網寸断で徹底されず、加えて 奉天付近は 匪賊の跋扈(bandits were still hanging about the city and its suburbs in large numbers.) と謂う事で、重慶到着が 8/29 になったと謂う事らしい。
Wainwright/Percival 両將と蔣介石が一緒に冩った寫眞があるので 重慶に飛んだ事は間違いなかろう。

たまがったのは その後のことだ。   ・・・續く ・・・

2012/03/08 10:09
Commented by izajijo さん
滿洲國は在支米軍の管轄下だからWedemeyerが取り仕切ったのおは分かるが、その足で直ぐにManilaに飛んだとある。 (Upon release, Wainwright was flown from Mukden to Manila by means of Chungking.)

なにしおう Flying Tigers の獨壇塲であったでのであろうが、奉天・重慶間 地圖上の直線距離でも 2,500Kmあり、重慶・マニラはさらに遠く 命知らずのFlying Tigersの連中でも DC-3/C-46/C-47 では直行は無理で、北京、上海あたりで給油したものか、或いは 航続距離 7,000Kmの B-29 を使ったものか?

Wainwright/Percival両將は 9/02 USS Missouriでの降伏文書調印式出席の後、翌9/03 9:30am からのバギオでの 山下奉文第十四方面軍司令官 と 大河内傳七南西方面艦隊司令長官との降伏文書調印式出席のため再びマニラに戻っているが、この時エスコートした人の名前がfull nameで記載あるので間違いなかろう。  ・・つづく・・

2012/03/08 12:16
Commented by izajijoさん
旧知の Sid Huff が付き添って床屋へ行き、洋服屋へ行って軍服を整へたとある。

たまがったのは その後だ。
何と 8/30 には日本へ向けて飛び立ったとある。8/30とはMacArthurがコーン・パイプくわえてバターン號で厚木に降り立った日であり、同じHotel New Grandに宿泊したとある。
食堂で着物姿の女性の給仕で夕食をとってゐる寫眞の日付が8/30とあるから間違いない。

8/29 重慶にて 8/30 横濱NewGrandで夕食 8/31 NewGrandにて
(寫眞 欠落)

有名な MacArthur との再會は 翌8/31晝食時であり、MacArthur にとっては全くの surprising 否 astonishing encounter であったとの事である。
(He (Mac)was ecstatic when his aide announced his (Wainwright's) visit)

MacArthurにしてみれば、Wainwright に對して忸怩たる思いがあったであろうし、
Wainwright にしてみれば、Corregidor に置き去りにされて、Gene夫人と令息Arthur君と共に魚雷艇で濠洲へ逃げた張本人であり お互いに複雑な感情の交錯があったであらう。

Wedemeyerは 8/20に解放を知りながらMacArthurには知らせなかったと謂うことかもしれない。  くわばらくわばら。


2012/03/08 19:40
Commented by izajijoさん

General Jonathan Mayhew Wainwright は 四代つづく名門の軍人の家系で 傳統的 騎兵科將校。

その日記に Corregidor で捕虜になった時の想い出として、我が郷土聯隊、
歩兵第四十七聯隊の Kusumoto陸軍中尉のことを非常に好意的に書き殘してゐる。

Kusumoto中尉とは、戰後 別府・大分で砂糖卸商を手広く營んでをられた草本商店社長 草本利恒さんの事である。


海軍の 友永丈市海軍中佐、陸軍の草本利恒陸軍中尉と わが郷土・豐後には誇りとする軍人がゐる。

(edited 2012/03/13)

令和(りようわ)三年(2021)十二月十二日 復刻・編集