「上海東亜同文書院」風雲録
嘗て 日中共存共榮のための架け橋たらんと青春を懸けた若者の學び舎が 上海にあった。
その名を『東亞同文書院』 と謂う。 若者の數 5,000人。
終戰で 忽然と消えた その名を知る人は 今や少ない。
私が 東亞同文書院と聞いて 直ぐにも思い出す名前は、日中戰爭初期に外務省東亞局長を務め、戰爭擴大に走る軍部に抵抗し、日中和平を試みたことで知られる 石射猪太郎さんの名前である。 (明治41 (1908)年卒業、第五期生、後、駐泰國(タイこく)特命全權大使、駐伯剌西爾(ブラジル)特命全權大使、駐緬甸(ビルマ)特命全權大使を歴任。)
その他 書院外交官としては 若杉 要(在紐育総領事、駐米特命全權公使)、 堀内干城(外務省東亞局長、駐中華民國特命全權公使 兼上海総領事)、山本熊一(東亞局長、アメリカ局長、外務事務次官、大東亞次官、駐泰國特命全權大使) 等々 錚錚たる人材がゐる。
以上は 孰れも 戰前の軍部獨裁の時代に 日中和平に身命を賭して活躍した外交官であるが、戰後 私の現役時代にも、春名和雄丸紅飯田社長、小田啓二兼松江商社長、香川英史東洋綿花社長 はじめ 財閥系総合商社にも役員クラスが ゴロゴロゐた。 坂口幸雄日清製油社長、福田克美日本碍子社長、田中香苗毎日新聞社社長、政界では 日本共産黨 中西 功衆議院議員がよく知られた東亞同文書院出身者である。
この本は 20年前、創立100年にあたる2001年に書かれたものであるが、その時點での ご存命の卒業生は900名以上をられたとある。
皆様 戰後も 初志を忘れず 日中共存共榮に盡力された方々である。
では、一方の 中華人民共和國の方では 東亞同文書院とその出身者をどの様にみているのであらうか? 残念乍ら 「スパイ學校」「侵華日軍ノ手先」などという汚名がつきまとう。
東亞同文書院の最大の特色であった 所謂 卒論に相當する 「大旅行」 がスパイ行爲だと看做され、戰爭末期 多數の學生が 通譯として 軍に徴用されたことなどがその原因である。 東亞同文書院の関係者にとっては 甚だ理不盡に感じられたことであらう。
第二次上海事變勃發で 長年住み慣れた 虹橋路(ほんちゃおろ)校舎が放火により焼失。
昭和十三年からは 上海交通大學の校舎を借用して授業をつずけた。
昭和十八年、徴兵猶豫が解かれ 學徒動員令が發令された時、學長の本間喜一は 學窓を去る學生に向かって「お前たち、死ぬなよ!」と語りかけたとある。
最後の上海東亞同文書院長としての 精一杯の 餞(はなむけ)の言葉である。
この本の中に 昭和43年に総合商社に勤める卒業生の一人が 理由も説明されずに 五年間も投獄された人の事が書いてある。
先日も、大手総合商社員が罪状も明らかにされずに長期間拘留、釋放された旨の新聞報道があったが、
新疆維吾爾(ウイグル)、香港問題、海洋進出、一帯一路、等々。 現在の中國共産黨の覇權主義を
嘗ての書院関係者が知ったら どう感じるであらうか?
最早、「飲水思源」なんて言葉は 現代の中國では死語である。
十年ぶりに 該書を讀み返してみて 日中関係 轉荒寥の感無量なり。
2021/03/07 初稿
西所正道 『上海東亞同文書院』風雲録 角川書店 2001年5月 初版
日中共存と追い続けた五○○○人のエリートたち
栗田尚彌 『上海東亞同文書院』 日中を架けんとした男たち
新人物往來社 1993年12月