相洲遁世隠居老人

近事茫々。

徳川 おてんば姫 

2022-03-31 15:34:52 | 日記


徳川 おてんば姫    井出久美子  2018

東京キララ社

最後の將軍・徳川慶喜公爵の直孫であり、戰死した最初の夫は 越前福井藩主・松平春嶽の曾孫である松平康昌公爵の長男・松平康愛(やすよし)海軍中尉。   兵科豫備學生第一期出身で 第二十六航空戰隊(司令官 有馬正文海軍少將)司令部付として比島にて戰死。
(因みに 阿川弘之は 兵科豫備學生第三期生)

高松宮喜久子妃の令妹、即ち 高松宮宣仁親王殿下は 義兄にあたり、「高松宮日記」には 「第六天 クミ子」として なんと 65 回も その名が引用されてゐる。





大正十一(1922)年小石川區小日向(こひなた)第六天町(現東京都文京區・國際佛教大學院大學校舎)敷地 3,400 坪、建坪 1,300 坪の大豪邸に父徳川慶久公爵の四女として生まれたお姫様。

往時は 豫備役海軍大佐の家令を筆頭に(表)をなす執事、主治醫、教師、運轉手、書生、請願巡査、(奥)には 老女、お次、下女 総計50人を下らぬ使用人に傅(かしず)かれて育つ。
谷中・寛永寺の慶喜公の墓所は 200 坪を下らぬと謂う。

母・實枝子は 有栖川宮威仁親王殿下の次女であり、後嗣なく廢家となった有栖川宮家の祭祀は 高松宮宣仁親王殿下御自身が引き継がれ、書道ならびに歌道の有栖川御流(ありすがわごりゆう)は直孫に当たる高松宮妃殿下が引き継がれてをられる。 その後を引き継いだのが 秋篠宮家だというから、これは 最早 廢嗣同然であらう。

因みに、秩父宮雍仁親王殿下の勢津子妃殿下(舊姓 松平節子)は 會津中將・京都守護職松平容保(かたもり)の六男で外交官の松平恆雄の長女。

本文の中に 昭和の初めの女子學習院では まだ徳川・松平(朝敵・賊軍)と 薩(島津)長(毛利)土(山内)肥(鍋島)(官軍)の間に感情的痼りがあったとあるが、直の宮であらせられる秩父・高松両妃殿下がお揃いで會津松平(松平容保)・水戸徳川(徳川慶喜)と繋がり 更には 越前福井(松平春嶽)と 江戸末期の三雄藩が奇しくも繋がるとは單なる偶然であらうか?

一方では 松平恒夫夫人であり秩父宮妃殿下の生母は肥前佐賀藩主・侯爵鍋島直大の四女である松平信子女史であり、將に朝敵の最右翼・會津松平と官軍の末席である鍋島の手打ちだとも謂えまいか?
尤も、藩主となる前の鍋島直大は維新以前の文久元年(1861)に將軍・家茂から「茂」の一字と「松平」の名字を與えられ「茂實(もちざね)」と名乘ってゐたそうだから 外様大名得意・特有の多元外交の常道かも知れない。

ところで、昭和40年(1965)司馬遼太郎が 42歳の時に『王城の護衛者』を別冊文藝春秋に掲載すると、秩父宮妃勢津子殿下は早速お目を通され 會津松平家當主・松平保定を遣わし;
『祖父・松平容保ノコト 初メテ好意的ニ カツ公平ニ書イテ呉レタ』
と司馬遼太郎に對し感謝の御言葉をつたえられたと謂う。


慥かに明治維新と謂うのは 孝明天皇を亡き者にし、幼帝を擁した岩倉具視が 玉松操なぞという得體の知れぬ人物を使嗾した陰謀・謀略の匂いプンプンである。
會津中將(あいづノちゆうしよう)・松平容保が逆臣・朝敵であるなぞと謂うのは「勝てば官軍」の論理に他ならない。

それにしても、「王城の護衛者」の文末にある 今も東京銀行の金庫にねむってゐると謂う 孝明天皇の『二通の宸翰』の存在を 司馬遼太郎はどこから嗅ぎつけたのであろうか?


御家柄・御育ちと謂うようなものは 二代、三代では叶うものにあらづ、昭和の時代の宮中とはまさしく藩屏により支えられてゐたものである。

常磐會を宰領する松平信子女史は 皇太子明仁親王の妃候補に北白川肇子(現 島津肇子)王女を推薦していたが、その後 上州館林の醤油屋の娘が入内する運びとなり、
「妃は華族すなわち學習院出身者に限る」という慣例を主張して香淳皇后や 雍仁親王妃勢津子、宣仁親王妃喜久子、梨本伊都子、柳原白蓮らと共に激しく反對したと謂われる。
しかしこの婚姻に昭和天皇が理解を示したこともあり、その後は表立って批判することはなくなった。 (『入江相政日記』)


結局、常陸宮正仁親王妃に 弘前・津輕義孝伯爵令嬢・華子様とのご結婚が皇室最後の皇室らしい縁組みとなった。 (津輕義孝伯爵第四女、生母久子は 毛利元雄子爵令嬢)

2022/03/28 初稿



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