相洲遁世隠居老人

近事茫々。

朝井まかて 「類」

2022-12-18 10:22:44 | 日記
朝井まかて 「類」(LOUIS)
集英社 二○二○年八月三十日  第一刷


「類」を讀む。
言はずと知れた 文豪・森鷗外の末子である「森 類」、500頁、820 枚の大著である。



鷗外には先妻の男爵・海軍中將赤松則良長女・登志子との間に生した長男於菟 (OTTO) の他に 後妻の大審院判事荒木博臣長女・志けとの間に 長女茉莉(MARRY)、夭逝した次男・不律(FRIZ)、次女杏奴(ANNE)と この小説の主人公たる三男・類(LOUIS/LUIS)の 三男二女がヰる。

鷗外が小倉の第十二師團軍醫部長で四十歳の時 志け二十二歳で お互いに再婚である。
絶世の美人であったと傳へられるが 世間の評判は決して良妻賢母とはほど遠いものがある。

就中 多感な年頃の於菟には 徹底して辛く接したらしいが、於菟は 獨協中學を2年飛び級、1年遊んで舊制第一高等學校、1年飛び級で 大正三年帝國大學醫科大學を卒業。
叔父・小金井良精教授の解剖學教室から 臺北帝國大學醫學部解剖學教授だから親譲りの秀才だ。

それに引き換へ 於菟とは21 歳年下、明治四十四(1911)年生まれの三男坊は 學校頭はからきしで、小學校は名門誠之尋常小學校を了へたものの、中學校は國士舘中學にやっとこさ滑り込む。
2年終了時 遂に限界に達して中途退學。 長原孝太郎に師事して繪畫を學び始める。   昭和二(1927)年 川端畫學校へ。




昭和六(1931)年だと謂ふから 滿洲事變の始まった年であるが、次姉杏奴と藤島武二に師事。  同年11月、姉杏奴と共に 巴里へ遊學。

當時 巴里には エコール・ド・パリ以來の仲間である 猪熊弦一郎、中村研一、荻須高徳、三岸節子、それに 亀の甲山の敬さん コト佐藤 敬らと共に後のLeonard Foujita、即ち藤田嗣治もをり 若い畫學生にとっては文字通り古き良き時代の『花の都』であったが、年が違いすぎて このグルウプとは直接の交流はなかったようだ。

こうして姉弟揃って巴里に遊學できたのも 長男於菟が當時の長子相續の習慣を破って 弟妹への應分の財産分與に應じ かつ 惡妻惡母の令名高き後妻志けが夫の遺産に手を付けることなく子供に分け與へた事による。    決して惡妻惡母ではなかったわけで、晩年 病身を子供達が献身的に介護した所以でもある。

 歸國後、杏奴と結ばれる 小堀遠洲の末裔である畫家の小堀四郎とも この巴里で出逢う。 因みに 四郎・杏奴の長男で昭和十三年生まれの小堀鷗一郎醫學博士は 東京大學醫學部を出た 高名な外科醫であり 在宅醫療の先驅者でもある。

昭和九年歸國。  定職に就くこともなく繪畫修業を続ける。 結構なご身分である。

昭和十六年3月 安宅安五郎畫伯の長女美穂と結婚。
戰局は益々逼迫。 昭和十九年梅雨明けには徴兵檢査を受ける羽目になったが、判定は 運良く「丙種」で不合格。  軍需工塲で働かされることになる。

妻美穂に懇願されて福島縣喜多方へ疎開、ここで終戰を迎へる。  東京に殘した家と家財は 戰禍で失った。
幸い生母が類の爲に買っておいてくれた農地が西生田にあり、戰後の農地改革で危うく没収されるところを取り戻してバラックを建て 戰後の生活はここから始まる。
  貨幣價値の暴落で 預貯金は総て無に歸し、糊口を凌ぐ手立ては賣り食いである。 妻の着物や帯が一枚一枚食べ物に換はる。

しかし これにも限界があり、昭和24年5月 姉杏奴の口利きで「評論社」という出版社で働き始める。
元より 根こそぎ動員の時にも徴兵を免れたくらいだから 肉軆勞働は論外。  さりとて 國士舘中學二年中途退學では ホワイトカラアも勤まらぬ。
結局 その年の暮れには 使い物にならぬと謂う事で クビになる。

一時期、福島での疎開時代のご縁で 文化學院の美術科講師を頼まれるが 所詮 片手間仕事で それで 口を糊することは出來ない。

一念發起、昭和26年 文京區千駄木の觀潮樓跡の一角に 住宅金融公庫からの借金で住宅兼店舗を建て 書肆「千朶(せんだ)書房」を開店。
齋藤茂吉の命名であり、千朶萬朶を思い浮かべ 且つ 千駄木に引っかけたものである。

店は 朝7:00開店、夜10:00閉店の年中無休。
店番と帳塲は美穂に任せ、もっぱら 坂道の多い近所を自轉車の荷台に ミカン箱をくくりつけて配達に回る。  重勞働、文字通り 肉軆勞働である。
  とても繪筆を執る余裕なぞ無く 畫業は自然と断念。
一家六人揃っての食事なぞ 到底望めず夫婦共働きで それでも 一男三女 一家六人の家計は火の車。

昭和36年、文京區が「鷗外記念本郷圖書館」を創るとて、千朶書房の土地を賣り渡して閉店。  杉並區今川に引っ越すと共に 恵比壽にアパアトを建てて生活の糧を得る。

この間、昭和17年8月生まれの長女五百(いお)は 家計の實情を察して 高校を卒業すると 進學を断念して就職。

アパアト經營で時間の余裕が出來たので、畫業は断念したが、 昭和38年には  木々高太郎(林髞)の誘いに應じて「小説と詩と評論」の同人となり 創作活動に打ち込む。

それ以前、昭和28年、岩波書店の雑誌「世界」二月號に三十枚の「森家の兄弟」を公表。
 類が世間一般に出た最初である。 これが好評であった爲 續篇の依頼があり 翌年、「森家の兄弟 2」五十枚のゲラ刷りが刷り上がったところで 森兄弟に亀裂が奔る騒動が持上がる。  この件は 後刻詳述する。

この小説の主人公は 勿論 末っ子の「類」であるが、長姉の森茉莉の事も次姉小堀杏奴の事にふれてゐる。

森茉莉については、世間一般では 鷗外最晩年の大正11年に 夫である佛蘭西文學者の山田珠樹について渡佛した事が廣く知られてをり、昭和32年、森茉莉54歳の時、父鷗外を題材にしたエッセイ「父の帽子」を發表。 その文才を三島由紀夫に絶賛されて一躍 世間の脚光を浴びる。
が、その間の消息は 余り知られてゐない。
筆者朝井まかては その辺りも抉り出して辛辣に筆を進めてゐる。

即ち、渡佛前の大正9年に長男𣝣(せき)(佛蘭西文學者、後 東京大學文學部名譽教授)、歸國後の大正14年に次男亨(平凡社勤務)を得るが、夫の藝者遊びが原因で昭和2年に自らの意志で離婚したと謂う事になってゐる。
が、實情は 夫に三行半(みくだりはん)を突きつけられて婚家から放逐されたと謂うのが眞相のようだ。

山田珠樹は結核が嵩じて東京帝國大學文學部教授の職を辞し、戰時中に鬼籍に入ってゐる。
生前 散々 あちこちに 茉莉の惡口を觸れ回ってゐたと謂う。

出戻りのままでは 次女杏奴の縁談に差し障ると 志けの必死の努力で 離婚後 間もなく 東北帝國大學醫學部小児科教授 佐藤 彰の後妻として再婚。
 しかし『仙台には 銀座も三越もないから ・・』と 不平タラタラ。
なれば、東京で ”おしばい” でもみてらっしゃい、と婚家に言はれて揚々歸京。
處が 翌日 仲人が 實家を訪れ「仙台には戻らなくて結構!」だと告げられる。

茉莉の言い分は 孰れも自分の意志での離縁とだ謂う事になってゐるが、實情は 孰れも愛想つかされての三行半(みくだりはん)が眞相のようだ。

母親志けが長患いの後 昭和11年4月に歿すると、昭和16年3月の結婚までのまる5年間 類と二人だけの同居が始まる。

夜更かし朝寝は當たり前、掃除洗濯まるで駄目。 部屋は散らかし放題。 今で謂うところの「ごみ屋敷」であらう。
余りの放縦さ、生活力のなさを 目を掛けてゐた室生犀星がいたく氣にとめてゐたとある。
一旦外出すると、銀座だ、淺草だ、三越だと際限なしの勝手氣儘。

  戰後は世田谷で一人暮らしをしてゐたが、鷗外歿後50年で著作權が切れ無収入となったため、杏奴の口利きで客員執筆者として 當時 一世を風靡してゐた花森安治の 「暮しの手帖」に席を得る。

その間 婚家から固く禁じられてゐた子供達との交流も復活。  なかでも 長男・𣝣とは性格が似てゐたせいもあり まるで戀人のような付き合いであったとか。
前述 「父の帽子」以降 種々の作品を發表、數々の文學賞を受賞してゐる他 週刊新潮連載のドッキリチャンネルの執筆を擔當する等 多彩な活躍をしてゐる。

昭和62年 85歳で歿。
父親譲りの文才に加へ 料理の腕前は 自他ともに認めるものがあったと謂う。


四人の兄妹は それぞれに父・鷗外の想ひ出を書き残してゐる。
年代順に列記すると;

1. 小堀杏奴 『晩年の父』 岩波書店 昭和11年2月

2. 森 於菟 『父親としての森鷗外』 大雅書店 昭和30年4月
  (初出「森鷗外」昭和21年 養徳社刊)

3. 森 類  『鷗外の子供たち』 光文社 昭和31年12月(初出「群像」6月號)

4. 森 茉莉 『父の帽子』 昭和32年2月

昭和11年2月といえば 巴里から歸國、畫家・小堀四郎と結婚して一年余の事で、
三月三日雛祭りに長女・桃子が生まれる一月前の 杏奴二十六歳。

生來の勝ち氣、氣の強さは母親譲りで、いじめられっ子の類が 誠之尋常小學校に馴染めず 度々 杏奴に助けを求めて 近くの佛英和尋常小學校(現 白百合學園)に驅け込んだところから 類の守役として4年生の時、誠之尋常小學校に轉校。
佛英和高等女學校に復學するのに 超多忙の鷗外が手取り足取り受驗勉強の面倒をみたと謂う。

四人の兄妹の中で最も生活力旺盛で 類は文字通りおんぶにだっこ。
巴里遊學の面倒から 評論社への就職の世話まで 類は全く頭が上らなかった筈である。

その類と杏奴が決定的に仲違いをする原因となったのが 岩波書店の雑誌『世界』に掲載豫定であった『森家の兄弟 (2)』 
前年昭和28年、「世界」二月號に三十枚の「森家の兄弟」を公表。


これが好評であった爲 續篇の依頼があり 翌年、「森家の兄弟 (2)」五十枚のゲラ刷りが刷り上がったところで このゲラを 岩波書店の小林 勇が筆者である類に無断で杏奴のところに持ち込む。
一讀した杏奴は激怒して 茉莉にご注進。  茉莉はこの世も末かと嘆き悲しんだと謂う。

小林 勇は更に 岩波書店の黒塗りの高級車を千朶書房の向かいに寄越して 類を淺草の鶏料理屋(「金田」と謂う老舗らしい)の二階に呼びつけて 類の表現によれば 『・・・威張るんじゃあない。 なにさまのつもりだ。  思い上がるな。 お前が偉いのではなくて?外が偉いんだ。 ・・・』と雑言・罵倒したと謂う。

更には『もし他社から出すなら出してみろ。 ぶっつぶしてやる。』とまで言い切ったと謂う。

類は 茉莉の處に行き 氣に入らぬ部分を削除、訂正して 改訂原稿を茉莉同道で岩波書店に届けた。   しかし 岩波書店からは梨のつぶてで無視されてしまう。

抑も最初の原稿は 類が私淑し 時折參上してゐた佐藤春夫に目を通してもらった類の自信作であり、小林 勇がその事を知ってゐれば もとより難癖をつけられる筋はなかった筈である。

結局 茉莉の同意が得られた改訂原稿は『鷗外の子供たち』と改題。
佐藤春夫の計らいで 昭和31年講談社の文藝雑誌「群像」六月號に掲載。

この五十枚に 幼年時代の想い出から書き起こした部分を追加して、更に『森家の兄弟』を併せ、『鷗外の子供たち ー あとに殘されたものの記録』として 同年12月に光文社から上梓されたものである。  森類著作の唯一の單行本でもある。

雑誌「世界」に掲載豫定であった「森家の兄弟 (2)」のゲラ刷り原稿が現存しないため、杏奴を激怒させ 茉莉が死ぬほどの絶望を味わった部分がどんなものだったか今や知る由もない。  何でも 茉莉が裸で化粧をする塲面の描寫があったとか。
事前に佐藤春夫の校閲を受けてゐたと謂うから それ程 常識外れの内容ではなかったのではあるまいか?

尤も「鷗外の子供たち」の中に 二十一歳年長で 大正三年帝國大學醫科大學を卒業した長兄・於菟について;  『・・・兄は、大正五年十一月に林美代と結婚したが、まもなく離婚になった。  美代に精神異常の兆が見えたからである。 ・・・』
東邦醫科大學教授の於菟にしてみれば「余計なことを書いてくれた。」と謂うところではあるまゐか?

臺北帝國大學醫學部解剖學教授であった於菟は 戰後は所謂 ”引揚者” であるが、文京區曙町に清家 清設計になる 佛蘭西の雑誌に紹介される程 立派な豪邸に住んでヰたとか。
まあ 當事者にとっては「余計なこと」が色々書いてある。
鷗外が四年間の獨逸留學から歸國すると その後を追うように『黄金(こがね)髪(かみ)ゆらぎし乙女』が來日した話は 今や廣く一般に知られてゐる。
しかし 明治23年に小説「舞姫」が發表された當初から 木下杢太郎のような鷗外研究者も含め  誰一人 それがプロイセン王國ステッチン (Stettin, Konigreich Preusen)(現ポウランド領シュチェチン Szczcin, Pommern)生まれの エリイゼ・マリイ・カロリイネ・ヴィイゲルト(Elize Marie Kaloline Wiegert)、22歳がモデルであることに氣づいた者がゐなかったと云はれる。
この話を初めて世に知らしめたのが昭和11年に岩波書店から上梓された『晩年の父』であり、この中で 杏奴は「母から聞いた話」として その事實を暴露してゐる。
杏奴はエッセイの中で、『亡父が、獨逸留學生時代の戀人を、生涯、どうしても忘れ去ることの出來ないほど、深く、愛してゐたという事實に心付ひたのは、私が二十歳を過ぎた頃であった。』と書く。
小金井良精の妻である 鷗外の妹喜美子は回想記の中で「秘密の暴露」である杏奴の行爲を強く嗜めてゐるとか。
何しろ 小金井喜美子は舞姫を獨逸に追い返した主役の一人であり、その秘密が曝露されたわけであるから 舞姫を『路傍の花』だと片付けてきた喜美子にしてみれば、非難は當然であらう。
おあいこであり、杏奴に類の行爲を嗜める資格はない。 ましてや 一介の編集者に過ぎぬ小林 勇に 類を非難・罵倒する權利も資格もない筈である。

結局、當事者である茉莉とは和解し、於菟とも兄弟付き合いが続いたようだが、杏奴とは終生和解する事がなかったと謂う。

森 於菟; 昭和四十二(1967)年歿  享年七十七歳
小堀杏奴; 平成十(1998)年歿  兄妹の中で 最も長命して享年八十八歳
杏奴はエリイゼの存在を世間一般に「知らしめた。」ことにより、『鷗外研究ヘノ貢献』と謂う評價を得てゐる。


それにしても 鷗外の孫は凄い;

先ず、先妻(赤松)登志子との間の長男・於菟(OTTO)には 五男あり。
長男:眞章(MAX)  臺北帝國大學醫學部卒業、埼玉中央病院皮膚科部長、醫學博士

次男:富(THOM)  東北帝國大學醫學部卒業、東北大學醫學部教授、醫學博士

三男:禮於(LEO)  東芝総合研究所首席技監、工學博士

四男:樊須(HANS)  應用動物學者、北海道大學農學部教授、農學博士。
樊須の子息 森千里は 千葉大學醫學部教授
五男:常治(GEORGE)  英文學研究者、早稲田大學理工學部教授

後妻(荒木)志げとの間の長女・森茉莉には最初の夫・山田珠樹との間に二男あり。
長男:𣝣(JACK) 東京帝國大學文學部佛文科卒業、東京大學文學部教授
次男:亨   平凡社勤務

小堀杏奴には 畫家で夫の小堀四郎との間に 一男一女あり。
桃の節句に生まれた長女:桃子は 横光利一の次男・横光佑典に嫁す。
長男:鷗一郎  昭和十三年生まれ、東京大學醫學部卒業、醫學博士
國立國際醫療センタア院長。在宅醫療の先驅者である。




     類は 昭和十七年生まれの長女・五百を筆頭に 戰中から 戰後にかけて次女・佐代、三女・りよ、長男・哲太郎の一男三女に恵まれる。
三女・りよは 佛蘭西人物理學者と結婚して巴里に暮らす。
末っ子の森哲太郎は 大學の工學部機械工學科を卒業してホンダ技研工業に勤めてゐたが 現在は樹木醫を名乘ってゐる。

昭和四十一年三月 長女・五百が結婚。 夏頃から糟糠の妻・美穂の軆調に異變があり、代々木病院で受診、入院させる。
森家は 東大病院、慶應義塾大學病院、東邦醫科大學病院とあまたコネがあるにも拘はらず 敢へて日本共産黨系の病院で受診させたところが 如何にも生活苦を經驗した類らしい。 本人は ある時期まで 本氣で共産主義革命の起こることを期待してゐたとも謂はれる。

ここで 主治醫である 中田正也副院長と知り合う。   中田醫師は 檢察に睨まれて前年 公職選擧法違反容疑で不當逮捕・起訴されてをり、無罪獲得のため 類自身が深く拘はりあっていく。 入黨こそしなかったが 所謂 シンパとして 新聞・赤旗に寄稿する等、終生關係は続いたようだ。

昭和四十六(1971)年 長男哲太郎が就職・結婚、六十歳になった類の子育ても完了。

昭和五十一(1976)年 長年苦樂を共にしてきた 糟糠の妻・美穗を亡う。
一周忌が了つった頃から 再婚の爲に見合を始め 5、6 回目の見合を經て 類六十八歳の時、大分縣出身でクリスチャンの小屋恵(よし)子と再婚。

 七十八歳の夏、幼少の頃、父・鷗外や姉・杏奴等と夏を過ごした懐かしの夷隅(いすみ)・日在(ひあり)に新居が完成、移り住む。
平成三年三月、心臓發作のため恵子に看とられながら死去、享年八十歳。
おだやかな早春 三月十日、自宅での葬儀に黒い喪服を着た白髪の杏奴の姿があった。

畫家としても作家としても成功しなかったが 生母を反面教師として四人の子供を立派に育て上げ 苦勞はあったが悔いのない人生であった。

日在の隣町 御宿靈園にある墓石には佛蘭西語で『森類、森美穂子、ここに眠る』と彫られてゐると。



朝井まかて とは あまり聞き慣れない名前である。
直木賞を受賞しても おかしいくない佳作であるが、 2014年 『戀 歌』で直木賞を 2018年『惡玉傳』で司馬遼太郎賞 等々を受賞した 關西ではかなり名の知れた女流作家である。
昭和34年 大阪府羽曳野市生まれ、甲南女子大學文學部國文學科卒業の63歳。
 「まかて」と謂う耳慣れないペンネームは沖縄出身の祖母・新里マカテの名に由來する。


令和(りようわ)四年十二月十八日  初稿

引用文献;

1. 朝井まかて 『類』 二〇二〇年八月三十日 第一刷  集英社


2. 森 類 『鷗外の子供たち』  ー あとに残されたものの記録 ー
一九九五年  第一刷 ちくま文庫




初出  『鷗外の子供たち』 講談社雑誌「群像」 昭和31年6月號


『鷗外の子供たち ー あとに残されたものの記録』
光文社  昭和31年12月




3. 山崎國紀 『鷗外の三男坊』 森 類の生涯 1997年1月15日 初版 三一書房

















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