相洲遁世隠居老人

近事茫々。

瀬島龍三傳説;  私の瀬島龍三研究

2021-06-01 20:19:34 | 日記

瀬島龍三傳説;  私の瀬島龍三研究

世に 「毀譽褒貶(きよほうへん)」と謂う言葉がある。
この人の名前を聞いても、何となく胡散臭(うさんくさ)いと謂う印象のみで たいした興味も関心も持てなかったが、世の中に この人を絶讃する人達が居る事を知って、俄然 興味が湧いてきた。  早速 圖書館から借り出して 關聯 三冊を讀む。



瀬島龍三 参謀の昭和史  保阪正康  文藝春秋社  1987年12月30日

帯びに「日本的エリートの功罪」とある。

この本は 生誕の明治44年(1911)から 執筆の昭和62年(1987)までの76年間の軌跡を 余すところなく調べ上げ 総ての疑問に答へてくれてゐるにと止まらず 積極的に探索して疑問符を投げかけてゐる。
筆者の筆致は 終始 詰問調であり猜疑的である。

冒頭、先ず 「第一章 シベリア體驗の虚と實」から始まる。
米國國立公文書館で調べた 昭和21年10月18日、極東國際軍事裁判法廷での 瀬島龍三元陸軍中佐の 蘇聯側檢察證人尋問;
この時、抑留中のハバロフスク収容所から瀬島龍三と共に連れてこられたのは;

草場辰巳陸軍中將(士候20期 歩兵科、陸大27期、終戰時は豫備役召集で 大陸鐵道司令官)
松村知勝陸軍少將(士候33期 歩兵科、陸大40期、終戰時は關東軍作戰課長兼關東軍総参謀副長)
の二名で、村松少將は兎も角、抑留者の中には 山田乙三關東軍総司令官(士候14期 騎兵科、陸大24期、陸軍大將)や 秦彦三郎關東軍総参謀長(士候24期 歩兵科、陸大31期、陸軍中將)、後宮(うしろく) 淳陸軍大將(士候17期 歩兵科、陸大29期、終戰時 第三方面軍軍司令官)などなど多數ゐる中で 何故 この三名が選ばれたのか 疑問なしとはしない。

この内、草場辰巳中將は 法廷での證言を潔しとせず 連行直後の9月17日に自決。
瀬島龍三の證言内容は極めて差し障りのない内容で、蘇聯側の期待と思惑に沿ったものではなかったのではあるまいか。
同じ檢察側證人でも、キーナン首席檢察官の意向にに沿って あからさまに帝國陸軍を批判した田中隆吉陸軍少將(士候26期 砲兵科、陸大34期、兵務局長時代 東條陸相と衝突して左遷)や 石原莞爾陸軍中將(士候21期首席、歩兵科、陸大30期恩賜、膀胱癌の爲 出廷不能で 酒田での出張尋問)の様に 檢察官の『貴方は 東條と意見の衝突があったと聞くが?』と謂う「ヨイショ」質問に『我が輩には いささか意見と謂うものがあった。 しかし 東條というのは およそ意見なぞ まったくない男である。 意見のない男と 意見のある我が輩との間に意見の衝突なぞあろう筈はあり得ない!』と茶化したと傳へられる。
それに比し 瀬島證言は 全くの優等生の證言であり、能吏の供述である。
しかし、この筆者は 飽くまで猜疑の目を緩めづ、 瀬島が昭和50年に文藝春秋に語った「大本營の二○○○日」の内容との矛盾點を突いたり、松村少將の家族の證言を引用してまで不信感を煽ってゐる。

證言が終わると 再び 西比利亞(シベリア)に連れ戻されてゐるのだが、それから 昭和24年5月3日に逮捕され 7月18日にハバロフスク軍事法廷で 重勞働25年の判決を受けるまでの間の消息が不明である。
松本清張によると、その間 ウランバートルの 第7006 捕虜収容所で;
種村佐孝元陸軍大佐(士候37期 騎兵科、陸大47期)
朝枝繁春元陸軍中佐(士候45期 歩兵科、陸大52期恩賜)
志位正二元陸軍少佐(士候52期 歩兵科、陸大59期)
等と共に 総勢11名が特殊訓練(スパイ教育)を受けていたらしいと謂う。

昭和29年1月27日に 狸穴の蘇聯大使館二等書記官であったラストボロフが米國に亡命すると謂う 衝撃的な事件が起こった。
直後、朝枝繁春、志位正二の両名が「ラストボロフの手下としてスパイ活動を行った!」と 警視廳に自首して出る。 しかし 當時 日本には スパイ行爲に對する處罰法はなく、罰せられる事はなかった。

以下は 志位正二氏に関するWiki からの抜萃引用;

終戰後シベリア抑留にあい、1948(昭23)年4月にソ連諜報員となる誓約を行い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」において朝枝繁春、瀬島龍三、種村佐孝らとともに諜報員、共産主義革命のための特殊工作員としての訓練を受けたとされる。
1948年11月、シベリアより復員。しかし帰国後の志位は1949年2月からGHQ参謀第2部(G2)の地理課に勤め、抑留帰還者の尋問調書からソ連や中国の地誌を作成していた。1950(昭25)年6月、GHQの取調べを受ける。1951年10月以降、G2在職のままソ連国家保安委員会(KGB)にエージェントとして雇われる。1953(昭28)年11月、外務省アジア局調査員となるが、「二重スパイ」の活動は継続した。

自首とその後;
ユーリー・ラストヴォロフがアメリカに亡命した後の1954(昭29)年2月5日、警視庁公安部に自首し、自身がソ連の工作員(スパイ)であったことを認めた。しかし罪には問われず、その後、海外石油開発株式会社常務となる。1973年3月31日、シベリア上空を飛行中の日本航空のダグラス DC-8型機の機内で死去した。

享年五十三歳。 西比利亞(シベリア)の地下に眠る六萬と謂われる抑留犠牲者の怨念であらうか?
今にして思えば、見せしめにKGB に消された可能性をも否定出來ない。

志位正二氏は 志位正人陸軍中將(士候23期 砲兵科、)の次男であり、五男志位明義
(日本共産黨船橋市議會議員)の息子が 宮顕の秘蔵っ子、現日本共産黨委員長 志位和夫氏である。

事實、志位に遅れること9ヶ月、朝枝繁春も昭和24年8月に 復員・歸國してゐる。
が その後の消息は はっきりしない。(平成12(2000)年10月14日 逝去、享年88歳)

種村佐孝は、昭和25年1月に復員・歸國し 昭和27年9月には 内閣調査室 所謂 
内調の前身である 内閣総理大臣官房調査室に嘱託採用されてゐる。
後に、「大本營参謀機密日誌」を芙蓉書房から刊行して世間に名を知られるようになったが、消息は詳らかでない。 (昭和41(1966)年3月10日 逝去、享年61歳)

  瀬島龍三については 昭和25年4月に ハバロフスクの第21分所に移され、蘇聯側の指名で 約2,000名の収容者の團長に就任してゐる。 そして2年半後の昭和27年秋、蘇聯側に團長を解任され、昭和31年8月19日に 復員・歸國するまで 左官の仕事をさせられてゐたと謂う。  なれば、この事實は 瀬島龍三が蘇聯の手先となることを潔しとしなかった事の證左ではなからうか?

しかし、この筆者は 瀬島龍三が秦彦三郎關東軍総参謀長と共に終戰軍使として 六萬の犠牲者を出した六拾萬將兵を蘇聯に賣り渡す密約をしたのではないかと謂う疑を捨てきってはゐない。
板垣征四郎陸軍大將(士候16期 歩兵科、陸大28期)の次男 板垣 正元陸軍少尉
(陸軍航空士官學校58期)の様に抑留中に 父親のA級戰犯としての處刑を知り、積極的アクティブに轉向、昭和25年に復員・歸國するや 自らの意志で 日本共産黨に入黨、
暫く 東京神田の職安に通ってニコヨン(日雇い勞働者)生活を送る。
やがて目覺めて轉向、自由民主黨参議院議員を三期、日本遺族會事務局長等を歴任して
 九十三歳の天壽を全うした人もいる。

蘇聯抑留と謂うのは 異常な環境の中で 生きるか死ぬかの毎日であり そこでの多少の狡を責めることは酷と謂うものであらうか?

「第二章 大本營参謀としての肖像」
ここには 唯唯 「克(ヨ)ク忠ニ克ク孝ニ」従順にして優秀な陸軍幼年學校生徒、そして、常に上司の目を意識した學業成績抜群の陸軍士官學校生徒が描かれてゐる。
陸幼・陸士(士候44期)を通じてのクラスヘッドは 原 四郎(騎兵科)。
そして 瀬島龍三(歩兵科)は 次席。
陸軍大學校では 瀬島龍三が第51期首席、原 四郎は第52期首席。
まるで 瀬島龍三に首席を譲る爲に 原が一期遅らせたかのようである。
陸幼・陸士・陸大と 常に首席を守るのは稀有の例であるが、後に 伊藤忠商事絡みで防衛廳機密漏洩事件を起こし、あたら 空將、航空幕僚長を約束された人材が、一等空佐で退職を余儀なくさせられる。 その事は 後で詳述する。

昭和13年12月 陸大を卒業。 關東軍隷下の第四師團参謀、第五軍参謀として
参謀實務を學び
昭和14年11月 参謀本部第一部(作戰)に配属、昭和20年3月 陸軍中佐に進級し 同年7月 關東軍参謀として轉出するまで5年7ヶ月と謂う異例の長きに亘って、大本營の作戰中樞に携わる。

その間 仕えた作戰課長(大本營陸軍部、参謀本部第一部第二課長)は;
岡田重一、士候31期、陸大41期
土井明夫、士候29期、陸大39期恩賜
服部卓四郎、士候34期、陸大42期恩賜
眞田穰一郎、士候31期、陸大39期
天野正一、士候32期、陸大43期首席
参謀本部第一部長(作戰)は;
富永恭次、士候25期 歩兵科、陸大35期
田中新一、士候25期 歩兵科、陸大35期
綾部橘樹、士候27期首席 騎兵科、陸大36期首席
眞田穰一郎
宮崎周一、士候28期 歩兵科、陸大39期 
と 實に 5代に亘る異常・異例の長さ。 上司にとって いかに部下として使い易い能吏であっかが判る。

「第三章 敗戰に至る軍人の軌跡」

この章での壓巻は 所謂「臺灣沖航空戰電報握リ潰シ事件」である。
ルソン島での決戰を決めてゐた大本營陸軍部が 帝國海軍による臺灣沖航空戰大勝利という大誤報により、急遽 レイテ島決戰に作戰を變更して敗北を喫した因縁の事件である。

筆者は 「瀬島龍三功罪」の「罪」の原點は此處だとばかりの執念を燃やし、25頁を費やしてその經緯を詳述してゐるが(P-115-141)、結局 瀬島龍三本人は この件を全面否定してゐる。

問題の電報とは 参謀本部第二部(情報)の 堀 榮三陸軍機甲少佐(士候46期 騎兵科、陸大56期)が 馬尼刺(マニラ)の第十四方面軍(軍司令官 山下奉文陸軍大將、士候18期首席 歩兵科、陸大28期恩賜)への出張の途次立ち寄った新田原(にゅーたばる)陸軍航空基地から 参謀本部第二部長(有末精三陸軍少將、士候29期 航空兵科、陸大36期恩賜)宛に發信したものである。

堀 榮三氏は 2.26事件當時の第一師團長 堀 丈夫陸軍中將(士候13期 航空兵科)の養子で、堀家は 土地の鄕士・堀孫太郎信増を祖とする吉野神宮社家の由緒ある家系。

昭和42年3月、事情あって陸將補で防衛廳を退官した同氏の自宅は、奈良縣吉野郡西吉野村和田(現:五條市)にあり 後醍醐天皇、後村上天皇、後亀山天皇が南北朝時代に行宮(あんぐう)として使った賀名生(あのう)行在所(あんざいしょ)といわれ、『足利時代初期に近い構造を残している』として、堀氏の生前の1979年(昭和54年)5月21日に重要文化財に指定され、『堀家住宅 賀名生皇居跡』として現在も保存されている。
Wikiによると、筆者の保阪正康は 堀氏との面談が中々叶わず、押しかけで 何度か逢っている内に やっと取材に應じて貰える仲になったとある。

瀬島龍三が西比利亜抑留から歸國して暫くしてから、虎ノ門の共濟會館の食堂でカレーライスを食べながらの座談で;
抑留の11年間 ずっとその事を悔いてゐたと告白したと謂うのだが。(P-120-122)

次に引用する瀬島龍三自傳『幾山河』のなかでは、同年九月下旬から約二ヶ月休務(臺灣沖航空戰は昭和19年10月)として その間「東京・池の上の借家で休養・・・」と記述してある。 即ち、病気引き込み中の出來事で 自分は レイテ島決戰の作戰變更にはかかわってゐないと謂う。
そして 本書を引用しながら、≪≫ 付で ≪・・・「堀君の思い違いではないか」と言っている≫ と まるで 他人事の様な書き方をしてゐる。(P-162-163)
この辺りが アンチ瀬島派に謂わせると、都合の良いことには饒舌、悪いことは沈黙の狡いところだらうか。

因みに この 帝國海軍による大誤算は ルース・ベネディクト(Ruth Fulton Benedict)が名著「菊と刀」(The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture)の中でも 日本人の七不思議の一つとして引用した 有名な大誤報である。

「第四章 商社經營者への道」

瀬島龍三が 高卒女子並の4等社員として伊藤忠商事に入社したのが 昭和33年1月。
暫く 大部屋で新聞を讀む毎日であったが、これを 引き立てたのが 一介の大阪の繊維商社であった伊藤忠商事を今日の総合商社に發展させた功勞者である 越後正一である。
昭和35年4月 航空機部次長
昭和35年7月 航空機部長
昭和36年10月 業務部長
昭和37年4月 業務本部長
昭和37年5月 取締役
昭和38年11月 常務取締役
昭和43年5月 専務取締役
昭和47年5月 副社長
昭和52年5月 副會長
昭和53年6月 會長
文字通り トントン拍子の出世である。  三井物産や三菱商事のような財閥系総合商社を含めて同業他社で舊軍出身者がこれほどの出世を遂げた例を他に知らない。
 流石は伊藤忠商事である。
では、その間 一體 何があったというのか?
防衛廳絡みの航空戰である。
即ち、瀬島龍三入社直後の昭和33年4月、國防會議で次期主力戰鬪機FXを
グラマンF-11-Fに決定。 これが翌昭和34年6月の國防會議で白紙還元となる。
そして、源田 實空將を團長とする第三次FX調査團の報告書を基に同年11月に ロッキードF104に あっさりと決まる。
グラマンへの決定に当たっては、伊藤忠商事は 川島正次郎自由民主黨幹事長や大野伴睦副総裁への工作が奏功したものであるが、代理店を 三井物産復歸以前の第一物産から 河野一郎に近い丸紅飯田に代えたロッキード社の巻き返しにあったものだと謂われる。

 一時的にもグラマン決定でグラマン社の株價は急騰、事前に買い占めてゐた CI-NYは莫大な利益を手にしたらしいと筆者は書く。 今なら差し詰め 所謂インサイダー取引でSECにとっちめられるところであらう。

防衛廳は このFX決定に 三次の調査團を米國に派遣してゐる;

昭和32年8月 第一次調査團
團長 永盛義夫航空幕僚監部技術部長(東京帝國大學航空學科卒、海軍技術中佐、後 空將)
候補機種;F102A, N156F, F11F, F104A, F100D の5機種だが 結論は出さず。

昭和33年1月 第二次調査團
團長 佐薙 毅航空幕僚長(兵科50期、海大32期、駐米、海軍大佐、空將)
調査團の結論を基に4月10日 國防會議は伊藤忠商事の擔ぐグラマンF-11-Fに決定。
ところが、9月になって岸信介内閣はこの決定をあっさり白紙撤回。

翌昭和34年6月 國防會議も 正式にグラマンF-11-Fの白紙撤回を決める。
昭和34年8月 第三次FX調査團を派遣;
團長 源田 實航空幕僚長(兵科52期、海大35期優等、駐英、海軍大佐、空將)
パイロット出身の源田實空將は 自ら候補機を操縦、その姿は日本の週刊誌に大きく報道され 機種選定の妥當性を強く國民に印象つける。 我々庶民は その裏で政治力學が作用してゐたなぞとは 夢想だにしなかった。

昭和34年11月6日、國防會議は 正式にロッキードF104Cに決定。
半年後に60年安保騒動で退陣する 岸信介内閣最後の政治決断だったと謂えましょうか。
河野一郎に強いコネを持つ 市川忍丸紅飯田社長の工作が奏功したものでしょうか?
 60年安保騒動まっ盛りの最中に 瀬島龍三を航空機部次長に抜擢したのは この敗北を教訓に 防衛庁内部への人脈作り體制立て直しにある。 次なる狙いはバッジ・システムである。

候補社は; ヒューズ社 (NEC―伊藤忠商事)
GE社 (東芝―三井物産)
リットン社 (三菱電機―日商岩井) の三社である。

系列メーカーを持たぬ 伊藤忠商事は 防衛廳への強いコネを武器に NEC の商權を獲得、 後述 同時期進行のインドネシア賠償案件でもNECの商權を得る。

昭和37年9月 バッジ・システム第一次調査團
團長 丸田文雄空將補(士候44期、加藤隼戰鬪隊パイロット、後 航空総隊司令官、空將)

昭和38年6月 バッジ・システム第二次調査團
團長 浦 茂空將(士候44期、陸大52期恩賜、陸軍中佐、後 航空幕僚長)
 6月30日、調査團羽田に歸國、報告書は 翌7月1日に防衛廳長官に届けられ 同日 ヒューズ社の採用が決定という早技である。
こちらは 判り易い。  何しろ 二人の調査團長が孰れも 瀬島龍三と陸軍士官學校の同期生である。

この伊藤忠商事の華々しい勝利の陰に 防衛廳内部では 数々の悲劇を生んでゐる。
先ず 瀬島龍三が航空機部次長に抜擢される一年前、昭和34年4月に防衛廳データ流出事件が發生してゐる。
第二次防衛力整備計劃において地對空ミサイルの導入を検討、ボーイング社のボマークとダグラス社のナイキが有力候補であった。 陸軍航空本部の技術將校出身で、航空幕僚監部調査課の技術班長だった爲我井忠敬二等空佐が作成したB4版、約20ページの機密資料が流出。 筆者保阪正康の筆致は「巷間、噂されるところでは、」こともあらうに 伊藤忠商事はダグラス社との代理店契約條件を有利にすすめるため、この資料を漏洩させたと謂う。
米國防総省からの嚴重抗議に調査の結果、通し番號から、當時 航空幕僚監部調査課長であった原 四郎一等空佐が保管する資料である事が判明。

將來の空將、航空幕僚長を約束されてゐた 士候44期首席、陸大52期首席の原 四郎は 一等空佐で退官を余儀なくされ、伊藤忠商事の關聯會社に天降ってゐる。
また、爲我井忠敬二等空佐も 瀬島龍三の航空機部次長就任に併せるように 航空自衛隊を退官、瀬島龍三の部下として伊藤忠商事航空機部に就職してゐる。
財閥系の三井物産や三菱商事には眞似の出來ない、伊藤忠商事流である。

瀬島龍三の辣腕で 或る時期 防衛廳内部の情報は 伊藤忠商事に筒抜けであった事が、當時 西獨逸駐在の防衛武官であった 先述 堀 榮三一等陸佐の證言からも明らかである。

  昭和43年3月、航空幕僚監部防衛課長 川崎健吉一等空佐が第三次防衛計劃に関する機密文書を伊藤忠商事に漏らしたとして 東京地方檢察廳公安部により逮捕、同時に
 伊藤忠商事東京本社も家宅捜索を受ける。
東京地検公安部に出頭を命じられた 山口二三防衛部長は 出頭前日 玉川上水で入水自殺を遂げる。
結局 全貌が解明されぬまま 本件は 有耶無耶に終わるが、川崎一佐は 後に有罪が確定するも、この時も 伊藤忠商事からは 一名の逮捕者も出してゐない。

 山口二三空將補は 人徳、人望厚い人柄で その葬儀には 防衛廳関係者は勿論、源田實参議院議員初め 各界から多數の會葬者があり非常に盛大であったと謂う。享年五十三歳。

その間の事情を知る者は 瀬島龍三に對して嚴しい目を向けたであらうし、先輩軍人として また 淨土眞宗本派本願寺派門徒として 忸怩たる思があったであらう。

保阪正康は書く、 「昭和四十年代の初め、そのころ瀬島は常務だったが、航空機売りこみ商戦にからんで常務会で突然こんな発言をしたという。」として 瀬島龍三常務取締役が 唐突に 軍用機の取り扱いからの撤退を宣言したと言う。
筆者の保阪正康は その時期を 昭和41年の後半だとしてゐるが、
私は これは 山口二三空將補自裁の直後だと確信する。


後に 昭和51年2月に 世に謂うロッキード事件が發覺。
田中角榮前内閣総理大臣、 兒玉譽士夫、 小佐野賢治 等が逮捕され、 丸紅飯田では 檜山廣會長、伊藤宏専務、大久保利春専務が 夫々 有罪判決を受けてゐる。
その時 東京地方檢察廳特別捜査部で擔當檢事であった 堀田 力氏の後の回想で、疑惑の焦點は P-3C 對潜哨戒機と E-2C 早期警戒機であったが、どうしても證據が得られず 外國爲替管理法違反での起訴に終わってしまったと。
何しろ 米國側から提供される「證 據」は すべて 民間機である 全日空向けロッキード・トライスタートに限られてをり、そこから 本件は 田中角榮潰しの陰謀説が 今だに 根強く残ってゐる。
また、昭和54年2月には ダグラス・グラマン事件が發覺、檢察の狙いはロッキード
P-3C Orionと グラマン E-2C Hawk Eye であったが、日商岩井 島田三敬常務の自殺、海部八郎副社長の外國爲替管理法違反容疑での起訴に終わってゐる。

孰れの事件にも 伊藤忠商事からは 一名の逮捕者も出してゐない。 美事なものである。


「第五章 臨調委員の隠れた足跡」
 省   略
「エピローグ」
 省   略



瀬島龍三回想録 「幾山河」 瀬島龍三 發賣(株)扶桑社 1995年9月30日

優等生の自叙傳である。  題名の『幾山河』は 若山牧水から。
平成19(2007)年に 九十五歳で亡くなる 12年前、83歳の時の著作である。

(株)産經新聞ニュースサービス發行になる

第一章 幼少期から陸大卒業まで 【明治四十四年~昭和十五年】
大正末年、冨山縣立砺波中學校を中退し、笈を負うて東京陸軍幼年學校へ。
陸軍士官學校豫科、本科を了えて、郷土聯隊である富山歩兵第35聯隊にて任官。
臨終の母親の願いを入れて同郷の松尾傳蔵陸軍歩兵大佐(士候6期)の長女を娶 る。  2.26事件で岡田啓介首相の身代わりとなる一年前の事である。
その關係から 岡田啓介海軍大將(士候15期、海大2期) 迫水久常との
係累形成に繋がる。

第二章 大本營時代 【昭和十五年~二十年】
第三章 シベリア抑留 【昭和二十年~三十一年】
第四章 伊藤忠商事時代 【昭和三十一年~五十六年】
第五章 國家・社會への献身 【昭和五十六年 ~ 】
土光臨調(土光敏夫・第二次臨時行政調査會)を實質牛耳り、政界・財界への絆を 確立する。 主計短現出身の中曽根康弘海軍主計少佐と意氣投合。 中曽根内閣  實現に裏で奔走。 中曽根内閣の政策立案に深く係わる。
第六章 思い出の人々
この中で、陸軍幼年學校時代からの親友であった 原 四郎元一等空佐からの、「經濟的支援を受けた事を謝す」旨の 遺書とも謂うべき個人的書翰を全面公開してゐる。
終生の友を裏切ったのだから、支援、援助は當然であらう。 が、斯かる話は 當事者間の秘密である間でこそ「美 談」であり、これを一方の當事者が 相手の死後とは謂え 世間に公表するとは 二重の裏切り行爲である。
このあたり、この方の 人生哲學に於ける “美 學” はどうなってゐるのであらうか?



『沈黙のファイル』 「瀬島龍三」とは何だったのか
共同通信社社會部編 新潮文庫 平成十一年
(初出 平成八年四月)(1996)


第一章 戰後賠償のからくり
プロローグ インドネシア賠償ビジネス

冒頭 いきなり「インドネシア國家警察に日本製ジープなど車両約一千台八百萬ドル相當を納める」話が飛び出してくる。
これは、TJAKRABIRAWA REGIMENT(大統領親衛隊)向け FJ40 と RT10の商談である。爲替が¥360.- 時代の話だから 30億圓近い 業界では知らぬ者なき有名な大型案件である。

世間の噂では、抑も東日貿易と伊藤忠商事との結び付きは;
大統領初來日の時、日本の警察では頼りにならぬと 木下産商が 「銀座警察」の異名ある住吉會に繋がる久保正雄氏に日本での警護を依頼した事に始まる。
 そして、帝國ホテルでの初対面から大統領と ピッタリと波長の合った久保正雄氏に 大統領親衛隊への調達案件の総てを任せると謂う話に發展する。

まだ 自販の事務所が八丁堀にあった頃の話で、擔當窓口は 濠亞部の 藤井 實課長。
藤井さんは決して <東日貿易> の名前を口にする事はなく、必要な時は いつも<East and Sun>と言ってをられた事を鮮明に記憶してゐる。

八丁堀の神谷正太郎社長は 三井物産出身の 非常に手堅い商人で、發注時、受け渡し時に併せた100%の約束手形拂が取引條件であった。
 しかし、東日貿易相手では 見積書すら出してもらえづ、 先ずは 財閥系の 三井物産、三菱商事に当たったものの 取引を躊躇されて 伊藤忠商事にたどり着いたと謂うのが世間一般に流布されてゐる噂である。

ところが、本書によると、當時 瀬島龍三氏の部下であった小林勇一氏へのインタビューで;
― 1960(昭和35)年初夏、『・・當時日本橋にあった伊藤忠商事東京支社で航空機部次長の瀬島龍三が部下に「インドネシアの商賣をやるには東日貿易の久保正雄社長を通せばいいらしいよ。 石川縣の國會議員がそう言っていた。」・・・』とある。

これ、世間の噂とは若干 異なるのだが、 石川縣選出の國會議員 辻 政信 絡みで
瀬島龍三が直接關與してゐた話だと初めて承知した。

多分、財閥系総合商社に取引を尻込みされて 窮した久保正雄社長が辻政信の傳手に頼ったと考えれば 話の辻褄はあう。

本書の記述から推察すると、インドネシア賠償使節團との契約者は 伊藤忠商事で 東日貿易は 一切 表に出ず、裏方だったようだ。 しかし、この契約に 東日貿易が 一枚も二枚も嚙んでゐる事は業界周知の事實であった。

同じく 小林勇一氏の證言によると、大統領へのkick-back 10%(外貨)、バスキ(賠償使節團長)への裏金1%(日本圓)、東日貿易への手数料3%(日本圓/外貨) 合計14% だったとある。 當時の嚴しい 外國爲替管理法と 所得税法上の經理處理が非常に難しかったのではなからうか?   流石は 伊藤忠商事である。

これを皮切りに、紡績工場プラント、テレビ局設備等を受注する。

それまでは、戰前 三菱商事耶加達(ジャカルタ)支店にゐた豊島中氏が 戰後 木下産商に移り 戰前からの大統領との繋がりでそれまで、戰時賠償關聯の大型案件をほぼ獨占してゐたのだが これを切っ掛けに一部の商權が東日貿易に移った事になる。
更には 昭和34年9月には東日貿易が コパカバーナで働いてゐた 根本七保子という 昭和15年生まれ 當時19歳の娘を送り込む事により、木下産商が差し出してゐた
  金勢さき子こと周防咲子が大統領の寵を失い自殺する出來事等があって 木下産商は賠償案件から順次脱落してゐく。

昭和37年には 根本七保子は正式にスカルノの第三夫人となり、日本國籍を除籍し、
印度尼西亞國籍を取得し、名を Ratna Sari Dewi Soekarno に變えた。
本書によると、久保正雄氏が根本七保子に現金500萬圓と(世田谷區)等々力の100坪の土地を渡して説得した とある。

昭和9年1月20日生まれの、金勢さき子についてはWiki に;
  ・・・ 金勢は目黒高校を卒業、松坂屋でウェイトレスを2年勤め、松竹のミス明眸コンテストに入選した美貌で、その後は喫茶店で会計係をしていたが、昭和30年夏にすみれモデルグループのファッションモデルとなり、赤坂のナイトクラブに勤めた。昭和33年2月、京都に旅行中、友人の手引きでスカルノ大統領に引き合わされ、スカルノが一目惚れ、金勢は9月1日には羽田空港を発ち、ジャカルタに渡り、クバヨランバールに家をあてがえられた。  これには木下商店ジャカルタ支店長の豊島中の働きがあり、公には金勢は豊島の家庭教師という名目でインドネシアに滞在していた。金勢はチパナスで目撃情報があった事から、年内に週刊誌報道されている。
昭和34年6月6日、金勢はスカルノから結婚の申し込みを受ける。金勢は一旦、日本の世田谷区上野毛の自宅に帰国、再びジャカルタ入りしている。しかし金勢はその後、セントカルロス病院で自殺未遂を図る。そして10月30日夜、ジャカルタ市内の陸軍将校の家の風呂場で睡眠薬をあおり、両手首を剃刀で切って浴槽の中で失血死しているのを発見された。金勢の自殺に前後して、ジャカルタ入りした日本人女性が2人いた。9月12日には20歳の女性が、10月13日には29歳の女性がジャカルタ入りをしている。いずれも木下商店のライバルが送り込んだもので、スカルノ大統領との関係で入国したと思われたが、29歳女性の方は11月7日に日本に帰国した。そのまま滞在した 20歳女性、彼女が後にスカルノ第3夫人となる、根本七保子だった。金勢の自殺はノイローゼとも、あるいは、スカルノの心が新しくジャカルタに来た日本人女性に奪われたため、とも言われる。・・・

その 29歳の女性と謂うのは 赤坂藝者の「トキ子さん」の事であらう。

さて、第三夫人の地位を獲得した彼女は 積極的に賠償案件に首を突っ込み始める。
手始めが サリナ百貨店建設プロジェクトである。
 それまで、建設案件は 木下産商・大成建設の獨壇塲であったが、日本側でも 時の建設大臣 河野一郎だとか、 兒玉譽士夫の名前が出てくる。

本書には その 河野と兒玉の生々しい遣り取りの話が出てくる。
 「出來話」の formality である。  耶加達(ジャカルタ)に建設する百貨店建設プロジェクトに 何故 河野一郎建設大臣だとか 兒玉譽士夫の名前が出てくるのか 部外者には判りにくい。

建設費 1,279 萬弗、伊藤忠商事から大統領へ 6% 77 萬弗、東日貿易へ 5% 64 萬弗が支拂われる約束だったと具體的数字まで書いてある。
そして、昭和38年6月の事として、「帯封の付いたドル紙幣の束が、ぎっしり詰まった茶色のボストンバッグ二個を 伊藤忠商事ニューヨーク店で受け取った。・・・」とある。

東日貿易で 久保正雄社長の腹心として實務を取り仕切ってゐた 桐島正也氏の
oral history に據ると;
ボストンバッグの中身は 大統領に手渡す現金100萬弗だったと。
米100弗紙幣 100枚の束、50束づつだったと推測する。
久保正雄社長と桐島正也氏が 夫々 茶色のボストンバッグ一つづつ持って 紐育(ニューヨーク)から 羅馬(ローマ)に運び 羅馬で 久保正雄社長から大統領に手渡す事になってゐた。
ところが、その内の 30萬弗だか50萬弗が どこかえ消えてしまう。
いつもなら 大統領は金銭に無頓着でそれですんだものを 今回は彼女の目が光ってゐる。
久保正雄社長の 伊藤忠商事から預かったのはこれだけだと謂う説明を信用ぜず、伊藤忠商事に直接問い合せてネコババが發覺。
久保正雄社長自身が persona non grata として入國禁止措置を受けて、大統領―東日貿易―伊藤忠商事と謂う利權のトライアングルの崩壊をみる。
腐れ縁を断ち切る潮時だったのかも知れない。

そもそも、裏金を作る事自體、容易に出來る事ではなく、ある財閥系総合商社では經理上 使途不明金として100%税金を拂って損金計上し會計處理してゐた。  その塲合、余程の高い利益率の取引でなければ採算が合わない。 大型案件では躊躇せざるを得ないと謂う事になる。
加えて、外貨での支拂いと謂う事になると、當時の嚴しい外國爲替管理法では とても手に負えないと謂うのが實狀であった。

伊藤忠商事として あっさり インドネシア賠償案件から撤退するのだが、それ以前、昭和35年には 瀬島龍三自身がインドネシアに行き、大統領以下と面識を得てゐる。
そして、翌昭和36年 宗主國和蘭陀(オランダ)との間に 西部ニューギニア(西イリアン)領有權を巡って緊張が高まった時、元大本營参謀の瀬島に聲がかかり、ムルデカ宮殿で 國軍幹部に大本營作戰参謀として係わった帝國陸軍のニューギニア進攻作戰の概要を進講したと謂う。

偖て、あっさりインドネシア賠償案件に見切りをつけた 瀬島龍三・小林勇一コンビの次なる標的は 朝鮮半島南部への無償・有償併せて五億弗の案件に標的を向ける。
初代伊藤忠商事京城支店長小林勇一氏の證言;
『インドネシアの塲合は、久保にコミッション拂うだけで濟んだけど、韓國の賠償プロジェクトは怖いんだ。 これ(政治資金)が直接絡むから。』

海軍兵學校出身の 小林が「怖いんだ」というだけあって、金鍾泌 や 李厚洛 だの
 はては 金炯旭 等々 怖い名前が續々出て來る
この内、金炯旭は 金鍾泌と陸士八期の同期生で 第四代KCIA部長であったが、 後に 朴正煕大統領(日本名 高木正雄)と仲違い、亡命先の巴黎(パリ)でKCIAにより暗殺されたと傳えられる。
その 朴正熙大統領自身、昭和54年に車智澈大統領府警護室長と共に 側近であった筈の金載圭(日本名 金本元一)大韓民國中央情報部(KCIA)部長(第8代)により 仲間内の私的酒席で拳銃で射殺されてゐる。   金載圭部長は 軍事裁判にかけられて 翌年 絞首刑執行。
孰れも 朝鮮戰爭で死線をくぐり抜け、昭和36年5月16日の軍事クーデターで政權を奪取した軍人仲間である。

朴大統領の二番目の妻 陸英修も在日朝鮮人の文世光に拳銃で射殺されてをり、次女で第18代大統領の朴槿恵は 両親とも暗殺されると謂う すさまじいお國柄である。

また 李厚洛は 日韓交渉當時、大統領秘書室長として権勢を振るい、第3代駐日大使を勤めた後 第6代 大韓民國中央情報部長(KCIA)として 昭和48年に東京九段のグランドパレス・ホテルで起きた 金大中誘拐事件の黒幕である。

偖て、大韓民國との交渉だが、實際に裏交渉にあたった金鍾泌の腹心、崔英澤 と伊藤忠商事初代京城支店長 小林勇一氏に 生々しく語らせてゐる。

矢次一夫、岸信介、兒玉譽士夫、大野伴睦とか 昔懐かしい名前が續々出て來る。
なんでも日本の外務省アジア局長に相談すると、『兒玉さんに頼め』との事で、昭和37年3月13日に等々力の兒玉邸で初對面。 一ヶ月後に 兒玉邸で 瀬島龍三に引き合わされたとある。
抑(そもそ)も 瀬島龍三を 兒玉譽士夫に引き合わせたのが 海軍の源田實だと謂う。
源田實と兒玉譽士夫の結び付きは 大西瀧治郎海軍中將(兵科40期、終戰時 割腹自決)を介するもので、それを語るには 日華事變初期の海軍航空隊に遡り 紙數を要する。
何とも 地下水脈は 人知れず繋がってゐるものだ。
瀬島龍三陸軍参謀、小林勇一海軍少佐の伊藤忠商事組は ここぞチャンス到來とばかり 果敢に本丸に突入して活躍の容子を 當事者であった 小林勇一京城支店長に 金銭の受け渡しを含めて 克明に語らせてゐる。
成果は 嶺東發電所(総工費2,600萬弗、 日立製作所)であり韓一合繊馬山工塲(旭化成)であり 
この辺が 他社の眞似の出來かねる部分で、金鍾泌とか 李厚洛とか 或いは 兒玉譽士夫の名前は判ってゐても 直接 接觸をしかねて躊躇してゐた。
同業他社は 精々 通商産業省(MITI)傘下の 機械輸出組合とか 鐵道車輌輸出組合を隠れ蓑に 日商岩井を幹事會社にたてて、海部八郎副社長のルートで 岸信介事務所に接觸するのが関の山であった。

兎も角、この朝鮮半島南部案件は 伊藤忠商事の完勝であった。





晩年、本派本願寺派門徒総代に推擧され 九十五歳の天壽を全うされたのだから、
本人としては悔い無き人生であったことだと思う。

最後に
<昭和の怪物・瀬島龍三、編集者が追った「名参謀神話」の虚構とは>という本書の編集時のアシスタントを務めた元週刊文春・月刊文藝春秋編集長 木俣正剛氏の;

「瀬島龍三伝説」とは、完全に裏返すことができるような「虚構」の上に成り立っているのではなく、勝手に人々がつくった虚像を 本人が否定せずに乗っかっているという構造の「傳説」だ・・・」  (2020.12.23)
と謂うコメントを附記します。  https://diamond.jp/articles/-/258068




引用文献 ならびに 引用出典;

瀬島龍三 参謀の昭和史  保阪正康 (株)文藝春秋 1987年12月30日

瀬島龍三回想録 「幾山河」 瀬島龍三 (株)扶桑社 1995年9月30日

沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか 共同通信社社會部 平成11年  平成八年(1996)四月 初出


インドネシアと日本 桐島正也回想録 桐島正也述
倉沢愛子編 論創社 2011年3月20日發行
日本陸海軍総合辭典  東京大學出版會 1991年10月15日
陸海軍將官人事総覧 陸軍編 芙蓉書房 1981年9月1日發行



2021年6月1日(火) 初稿脱稿



最新の画像もっと見る

コメントを投稿