『潜行三千里』 其の二
潜行三千里 新書版 株式會社毎日ワンズ發行 二〇一六年七月二一日
九月一〇日に 第三刷が發行されてゐるので、賣れ行きは好調であったようだ。
< 補遺 ― 命あるかぎり > として 佐世保に上陸してから 汽車で佐世保を離れるまでの四日間の事が追記されてゐる。
巻頭、福井雄三(國際政治學者)の 「本書に寄せて」なる一文も追加されてゐる。
文中、ノモンハン事件についての 司馬遼太郎・五味川純平・半藤一利による 「司馬史觀」を全面否定して;
『世上に流布している「司馬史観」にはさまざまな問題点が内包されてゐる。 その中の最大のものは、ノモンハン事件という日本近代史上の大事件に関する、歴史的解釈の誤りであろう。 ・・・』と極論して、 『従来の通説とは異なって、ノモンハン事件は 日本軍の大勝利であった ・・・ 。』としながら、著者の作品である、 『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』と『司馬遼太郎と東京裁判』(孰れも2006年主婦の友社)を紹介してゐる。
なにゆえ 斯かる無名の者に巻頭言を書かせたのか不思議に思い、圖書館から借り出して
「司馬遼太郎と東京裁判」を一讀してみた。
著者は昭和28年生まれの66歳。 「大阪青山短期大學助教授」で、『司馬歴史に潜む あるイデオロギー』と副題にある。
第1章 東京裁判に呪縛されていた「司馬史觀」の軌跡
第2章 司馬遼太郎氏の作品に見る「司馬史觀」の誕生と形成
第3章 東京裁判が今も醸成する「閉ざされた言語空間」
第4章 東京裁判史觀とは正反對。 戰前のアジア情勢と國際世論
第5章 <對談>司馬遼太郎氏の作品に映し出される「戰後精神」
抑(そもそ)も 司馬遼太郎は “小説家” であって歴史學者でも何でもないのに「司馬史觀」なぞと謂う大げさなものが存在するのであらうか?
筆者自身が 讀者に さう問いかけ、先ずは、第1章で 東京裁判を簡潔に説明した上で 一見 關係なささうに見えるが、實は「東京裁判史觀」と「司馬史觀」は“通底”してゐのだと謂う。
そして、司馬史觀の誤りの出發點は、「坂の上の雲」での 旅順攻防戰にありと謂う。
「・・・ 氏は旅順攻防戰を描く中で、乃木希典と伊地知幸介を馬鹿の骨頂のようにこきおろし、 かたや兒玉源太郎を神の如くに美化して描いている。 しかしこの悪玉にされた乃木が、愚將で無能だったかといえば、そんなことはない。 それなのに何故愚將にしたかといえば、昭和陸軍の暗黒と破滅の原點をなすのは、明治の乃木大將だとするためではなかったのか。 全ての間違いのルーツはここから始まったのだと、その出発点を設定するためではなかったのか。」 一應、問いかけの型式にはなってゐるが、疑問符は附けてをらず、自己斷定である。
乃木希典が『聖 將』である事は、司馬遼太郎の作品の一つである「殉 死」(昭和42年 別冊文藝春秋初出)を引用するまでもなく なんぴとにも異論はあるまい。 しかし 軍人としての乃木が名將であったかと謂へば 矢張り『凡 將』であったと謂わざるを得まい。
第三軍参謀長の伊地知幸介少將(士官生徒第二期)に至っては愚將と呼ぶに なんの躊躇があらうか。
そして、司馬が いちばん書きたくって書かなかった、いや 書けなかった「ノモンハン」に議論を飛躍させて、この塲合 差し詰め乃木大將役が 關東軍作戰主任参謀 服部卓四郎中佐(士候34期、陸大42期恩賜)であり 伊地知少將役が 關東軍作戰参謀 辻政信少佐(士候36期、陸大43期恩賜)だと結論づけてゐる。
そして、その推論の根據として、「この國のかたち1」や「司馬遼太郎の考えたこと2」を擧げてゐる。
さらに、最終章、第5章 對談の中で、司馬歿二年後に半藤一利が書いた『ノモンハンの夏』を引用して「・・・半藤さん自身も、最初に出した初版のあとがきの中では、この作品は、司馬さんが私に託した遺言であるということを言っているんですね。 ・・」(P-209)
とも言ってゐる。 因みに 私の手許にある「ノモンハンの夏」は1998年8月30日 第14刷(第1刷 同年4月20日)であるが、そのような記述はみあたらない。
蘇聯軍全損耗は24,492人(P-344)とあるので、 福井書の25,565名(P-30)とは 若干食い違うが、日本軍のそれを上回る事は 既知であったと謂うことである。
司馬遼太郎が急逝したのは 1996年2月だが、1980年代後半に始まった ゴルバチョフによるペレストロイカ(Perestroika)の一環として情報公開(glasnost)による蘇維埃(ソヴィエット)聯邦共和國の機密文書が順次公開となり、司馬遼太郎も 生前 その一部を知る立塲にあった。
日本側の呼稱が「ノモンハン事件」と 飽くまで單なる國境紛爭として捉えてゐるのに反し
蘇聯側のそれは、「ハルハ河の戰争」(War in Khalkhyn Gol)と呼ばれてゐる事が判ったのも その時の事である。
露西亞軍事史公文書館が「ノモンハン事件」關係の嚴重機密文書公開を始めたのは 蘇維埃聯邦崩壊から8年が過ぎた、1999(平成十一)年春のことであり、NHKでは、この年8月に「ノモンハン事件六十周年記念特集番組」を放映すべく 直ちに擔當ディレクタアを莫斯科(モスクワ)に派遣して 半年間に亘って10,000ファイルを越える 膨大な關係文書解析による情報蒐集をおこなった。
その時の記録に據れば、蘇聯側の死傷者數は種々の文書に異なった數字の記載があり一定しないが 最大のものは以下;
戰死 7,974
負傷 15,952
全損失 23,926
いずれにしても日本側のそれを上回ってゐることは慥かであるが、それを以て「日本側の大勝利」だと謂えるであらうか?
筆者は、その他、航空機の損失が 日本側 179機に對し蘇聯側 1,673機。
戰車については 日本側 29両に對し 蘇聯側損失は 800両以上だと。
ちょっと信じがたい数字であるが、もし本當だとすれば 文字通り日本軍の大勝利である。
しかし、戰車については 少し事情が異なる。
安岡正臣中將(士候18、陸大26)を團長とする第一戰車團(第三戰車聯隊ならびに第四戰車聯隊)が敵と觸攝したのは七月二日夜半。 瞬く間に出動73両中29両を失い(損耗率 39.7%)、戰車第三聯隊長 吉丸清武中佐(士候26)は戰死(任 陸軍少將)。
あわや全滅を危惧した關東軍が七日には早くも「戰車兵團ハ原駐地ニ歸還スベシ」の作戰命令を發している。
即ち 29両を失ったところで、日本軍の戰車は戰塲から総て姿を消し、損耗は29両ですんだと謂うことである。
そもそも、日本の戰車は世界標準には遠く及ばず、最新の 九七式チハは57mm砲を搭載しているものの、砲身長は 拾八口徑で、砲彈重量は砲手が片手で装塡できる3kgs。
まるで 玩具のような代物である。
三十六口徑搭載の 九五式ハ號は37mm砲で, 四十五口徑37m/m、四十六口徑45m/m砲搭載の 蘇聯軍戰車には太刀打ち出來ない。
戰車戰に勝ち目なしと悟った關東軍は 内地から最新装備の野戰重砲兵聯隊を出動させて砲兵團を組織、とっておきの重砲を繰り出す。
砲兵團長 内山英太郎少將(士候21、陸大32)
第一砲兵群 畑勇三郎少將(士候23、陸大33)
野戰重砲兵第一聯隊、野戰重砲兵第七聯隊
第二砲兵群 伊勢高秀砲兵大佐(士候25)(14.08.29 戰死、任 陸軍少將)
野砲兵第十三聯隊、獨立野砲兵第一聯隊
七月二十三日に始まった砲戰は 當初 多大な戰果を擧げるものと期待されたが、三日目には勝負が決まる。
赤軍は この時、現在の野戰重砲の世界標準である155mm加農砲を繰り出し、實に30,000米の長距離射程を利して 日本軍の射程外からの狙い撃ちで手も足も出ない。
帝國陸軍の野戰砲で 當時 國際水準に達していると考えられたものは 「九○式75m/m野砲」(昭和五(1930)年制定)のみで これは佛蘭西シュナイダー社 (SCHNEIDER CA) 75m/m FIELD GUNを模造した國産品であるが、原設計が複合砲身 (compound laminated tube) であったものを 當時の日本の素材、製造技術では對應出來ず、單肉自緊砲身 (one piece autofrettage tube)を採用したもの。
關東軍の實用試驗で 聯續發射すると、装薬室の熱膨張で公算躱避(こうさんだひ)(散布界)が 無制限に擴大、果ては砲彈が前後轉倒し、即ち どこに飛んで行くやら分からなかったと謂はれてゐる。 當時、23D作戰参謀であった 扇廣氏(士候39、陸大49)が 自著の中で さう陳べてをられるので 間違いあるまい。
この頃の世界のなかの日本の工業技術水準を 現代のそれに 相似形に置き換えてみると、丁度 現在の北朝鮮のそれに相當するものであらうか。
戰車の支援なく、砲兵の援護射撃なく、倍する敵と互角に戰い、壓倒的敵の砲撃に耐えて なを800両の敵戰車を屠るという大戰果を擧げたのは第二十三師團將兵の全滅を賭しての奮戰の賜物以外の何物でもない。
第二十三師團は、前年四月四日に編成が發令された新設師團である。
支那事變勃發直後、東京101D, 弘前108D, 金澤109D等々、八個の特設師團が急造され、加えて 現役師團の復活、新設は 昭和十二年度 仙臺13D、名古屋26D、久留米18D、昭和十三年度 宇都宮22D、東京27D、名古屋15D、金澤21D、姫路17D、熊本23Dと 特設師團 八個、現役師團 九個の實に 一擧十七個師團の増加で 且つ 支那事變に動員された24個師團が多數の補充兵を必要としたため、 この時期 日本は既に人的資源枯渇を來たし國力の限界で、帝國陸軍傳統の 四個歩兵聯隊による旅團編成の仕組みに代わって三個歩兵聯隊による歩兵團編成を採用した師團である。
歩兵團編成を最初に採用した師團は、昭和12年9月、山西省大同(タアツン)で編成された 名古屋を師團管區とする26D であるが、昭和13年4月4日付けで 金澤21D、宇都宮22D と共に 熊本23Dが編成を發令されたものである。
師團長は 莫斯科(モスクワ)駐箚陸軍武官、哈爾濱(はるぴん)特務機關長 等を歴任した 蘇聯通の 小松原道太郎陸軍中將(士候18、陸大27)。 正式發令は昭和十三年七月七日附。
熊本に師團編成本部を置いて 各聯隊は 大隊單位で編成完了次第 聯隊本部に集合することなく 順次 駐屯地の滿洲に移動してゐる。
具體的には 歩兵第六十四聯隊編成本部は熊本に置かれてゐたが、第一大隊は 第一大隊長 田坂 豊少佐(士候28、杵築市出身、7/03戰死)、第一中隊長 園下善蔵大尉(行橋市、7/21戰死)、第二中隊長 河合 定大尉(大分市、8/28戰傷)、第三中隊長 太田軍記大尉(熊本縣、7/03戰傷)、第四中隊長 染矢初男中尉(佐伯市、7/23戰傷)、機関銃隊長 船倉榮四郎大尉(豊後高田市、7/13戰傷)を以て 大分・駄ノ原の留守歩兵第四十七聯隊兵舎で編成された大分の郷土部隊で、聯隊として集結することなく、日豊線西大分驛から勇躍出征、門司港、大聯を經由して駐屯任地滿洲へ。
駐屯豫定地 海拉(ハイラ)爾(ル)の兵舎が完成するまでの三ヶ月間 濱(バン)江(ジアン)省(現 黒龍江省)一面坡(イイミヤンポウ)(牡丹江と哈(ハ)爾(ル)濱(ピン)の中間)で警備任務に就いた後 十一月九日 海拉爾着任、同地で聯隊は編成を完了してゐる。 また聯隊副官 立川恒喜大尉(8/29戰死)も湯布院町の出身である。
各大隊は それぞれの留守聯隊から大隊單位で要員を抽出して編成すると謂う異常な手段が採られてゐる。
聯隊が大隊毎に 異なった聯隊區で構成されているのは、それ以前にはなかったことで、帝國陸軍傳統の『郷土聯隊』の仕組みも破断界に達してゐたということであらう。
公式戰史である防衛廳防衛研究所戰史室編纂「戰史叢書27」では 各聯隊補充區を;
64i廣島、71i島根、72i九洲だとしてゐるが、 十数年前 私自身が 熊本、都城、大分、鹿児島、廣島、福山、濱田に 直接 足を運んで 各聯隊蹟ならびにそれぞれの 護國神社を廻って調べた結果は 大隊毎に;
歩兵第六十四聯隊 Ⅰ大分聯隊區、Ⅱ熊本聯隊區、Ⅲ都城聯隊區
歩兵第七十一聯隊 Ⅰ廣島聯隊區、Ⅱ濱田聯隊區、Ⅲ福山聯隊區
歩兵第七十二聯隊 Ⅰ久留米聯隊區、Ⅱ大村聯隊區、Ⅲ鹿児島聯隊區
各聯隊の師團管區が 熊本第六師團、廣島第五師團、久留米第十二師團と 三つの異なった師團管區にまたがってゐるのも、それ以前にはありえなかったことである。
昭和十五年度 兵制改正で、近衛師團も含めて、既存の師團も 順次 歩兵旅團編成を解き 歩兵團編成に改編され、師團も 師團管區をまたがって聯隊が編合されていく。
この 三個歩兵聯隊・歩兵團構成を計劃・立案したのは、昭和13年春、當時の参謀本部第一部第三課(編成・動員)主擔任であった 服部卓四郎少佐と その部下の 辻政信大尉だったと。 そして、第一課長(作戰)の稲田正純大佐(士候29、陸大37恩賜)が これに猛反對したことから、後々ノモンハン作戰方針で 参謀本部作戰課と關東軍作戰課との間に 感情的しこりを残したと 半藤一利は「土門周平氏の興味深い考察」なるものを紹介してゐる。
辻政信大尉が 參本一部三課に在籍したのは昭和8年12月から翌年9月に士官學校幹事として轉出するまでの10ヶ月間のことなのだが。
第二十三師團に配備された速射砲は 正式名稱 “九四式三十七粍砲” で 砲身長四十六口徑。
これを配備された中隊を “速射砲中隊” と呼んでゐた。
世界共通語としては “Anti-Tank-Gun, ATG” “Panzer abwehr Kanone, PAK” なのだが、 帝國陸軍では 何故だか “對戰車砲” とは呼ばずに 通稱で “速射砲” と呼んでゐた。
「九四式」即ち 昭和9年の設計である。 彈丸を發射すると 尾栓(breech plug = 尾栓と謂うのは海軍用語で帝國陸軍では「閉鎖機」)が自動的に開いて 薬莢を排出、次發装塡すると自動的に閉栓する 將に「速射砲」の名にふさわしい、しかも最大射程2,870米の優れものであった。 一部にはラインメタル社 (Rheinmetall AG)の PAK36 の模造品(almost identical in dimensions)であるとの陰口もあるが、PAK36は 1936年、即ち 昭和11年の設計であるから、さうではあるまい。
蘇聯軍の T26輕戰車ならびにBT中戰車は 孰れもガソリン・エンジン驅動で、榴彈でも容易に發火、命中率の高い37mm砲で確實に屠ることが出來たと謂う。
各聯隊の速射砲中隊に配属されたのは4門のみで 彈藥の補給ままならず、かつ 後半に出現した ディーゼルエンジン驅動のT34戰車に對しては 無力であったと謂われる。
では、800両もの敵戰車を どうやって屠ったのか?
大部分が ガソリンをサイダア罎に詰めたモロトフ・カクテルと 對戰車地雷による。
文字通り二十三師團下士官・兵の肉彈である。
『大勝利』と謂う言葉を贈るなら それは、第二十三師團の下士官・兵に贈るべきもので、決して 將軍や参謀にではない。
そして、その事は 敵將であるジュウコフ元帥(Marshal Georgy Konstantinovich Zhukov)も その回想録で 「帝國陸軍の下士官・兵は頑強で勇敢であり、青年將校は狂信的な頑強さで戰うが、高級將校は無能である。」と語ってゐるという。
事態の容易ならぬことを憂慮した参謀本部は8月4日になって、第六軍の編成を發令する;
第六軍 軍司令官 荻洲立兵陸軍中將(士候17、陸大28)
戰線投入月日
熊本23D 23D捜索聯隊 5/21 4:00pm
64i(熊本) 5/21 4:00pm
71i(廣島) 5/30
72i(久留米) 6/20
砲兵團 野戰重砲兵第一聯隊 6/24
野戰重砲兵第七聯隊 7/17
野砲兵第十三聯隊 6/20
獨立野砲兵第一聯隊 6/20
旭川 7D 25i(札幌) 8/25
26i(旭川) 6/20
27i(旭川) 8/23
28i(旭川) 8/04
東京1D 1i(本郷) 8/28
49i(甲府) ―
3i(麻布) 9/10
57i(佐倉) ―
仙臺 2D 16i(新發田) 8/26
30i(高田) 8/26
4i(仙臺) 8/26
29i(會津若松) ―
軍司令官が海拉爾に着任したのが8月12日
7D, 1D, 2D と 精鋭中の精鋭を揃えての戰鬪序列であるが、如何にも 泥縄式の 兵力の逐次投入の典型である。
参謀本部には 大兵力を結集して戰線を擴大する意圖はさらさらなく、抑制の効かない關東軍を抑える爲に 間に第六軍を置いたものだと私はみる。
この發令時點、即ち 第1次攻防の終わった時點で23Dの死傷者は4,400名を超えてをり、捜索聯隊長 東(あずま)八百蔵陸軍騎兵中佐(士候26)5/29戰死、23D参謀長 大内 孜陸軍騎兵大佐(士候26、陸大34)7/04戰死、64iでは第Ⅰ大隊長 田坂 豐陸軍歩兵少佐(士候28) 7/03戰死、第Ⅱ大隊長 徳丸 満中佐(士候28)7/06重傷・後送、第Ⅲ大隊長 譜久村安英少佐(士候30)7/23重傷・後送、等々、將校の戰死者54名、負傷・後送者45名の多くを數ぞえ、これに6/20付けで23D師團長の指揮下に配属された旭川7D・26iの將校戰死者12名 負傷・後送者20名を加えると23Dは 既に戰鬪力を半減してゐたことになる。
結局、彈藥、糧秣、飲料水の補充もままならぬままの半身不随の23Dと 旭川7D/26i
それに8/03に編成された歩兵二個大隊からなる長谷部支隊、8/04に戰塲進出した28iで、
8/20の蘇聯軍の大攻勢を迎え 全滅の憂き目に遭う。
8月初旬、戰塲は暫く静謐がつずき、關東軍の情勢判断は「國境紛争ハ終ハッタ!」と、 實質 一個師團の兵力を關東軍が主張する國境線、即ち哈爾哈(ハルハ)河沿に 北はフイ高地から 南はホルステン河の南、三角山に至る30KMに及ぶ長大な作戰正面に展開して越冬準備に取りかかる。(通常、一個師團の戰鬪範囲は 7-8KM、精々 10KMだと謂われる。)
その間、蘇聯・蒙古聯合軍は極秘裏に狙撃三個師團を中心に 57,000人の兵力を展開。
哈爾哈河沿い8カ所に架橋。 その装備が凄い。 機甲三個旅團(装甲車385両)、戰車二個旅團(498両)、機関銃旅團(2,255挺)、火砲・迫撃砲542門、航空機 515機。
これだけの兵力を展開し 8カ所に架橋されて、なを敵情を把握出來なかったとは、その事の方が寧ろ驚きである。
8/20(日)5:45amに始まった攻撃は、日本軍にとって 文字通り不意撃ちで、 特に南北正面に重點を置いて、哈爾哈河を背に 蘇聯側が主張する國境線の内側に日本軍を包囲する形に展開する。 8/24には勝負は略々決する。
一方 莫斯科では、8/22にロゾフスキイ外相代理が東郷茂徳大使に停戰交渉を打診して來る。 東郷茂徳大使は9/09に條件提示を約す。
戰況を全く把握してゐない關東軍はホルステン河の南に兵力を集中して 8/24の反撃を指示。 戰線全體の崩壊を早める結果を招く。
8/27ジュウコフは北、正面、南の三方面兵團に對し「包囲中ノ日本軍ヲ殲滅セヨ」との命令を發する。
8/30 参謀本部は關東軍司令官に對して「作戰終結」の「大陸令」を發する。
しかし關東軍は この「奉勅命令」の第二項;
「二. 關東軍司令官ハ『ノモンハン』方面ニ於テ勉メテ小ナル兵力ヲ以テ持久ヲ策スヘシ」を擴大解釋して攻勢を策す。
9/03 4:00pm 参謀本部は 参謀総長名の「大陸命第三四九號」を發令。
一. 情勢ニ鑑ミ大本營ハ爾今ノモンハン方面國境事件ノ自主的終結ヲ企圖ス
二. 關東軍司令官ハノモンハン方面ニ於ケル攻勢作戰ヲ中止スヘシ
これにより 流石の關東軍も停戰せざるを得ない。
その時までに;
歩兵團長 小林恒一陸軍少將(士候22、陸大34)8/24 重傷・後送、(後 陸軍中將)
参謀長 岡本徳三陸軍歩兵大佐(士候25、陸大35)8/31重傷・後送、
64i 聯隊長 山縣武光陸軍歩兵大佐(士候26、陸大38)8/29 自決、(任 陸軍少將)
71i 聯隊長 森田 徹陸軍歩兵大佐(士候23)8/26 戰死、(任 陸軍少將)
72i 聯隊長 酒井美喜雄陸軍歩兵大佐(士候23)8/24重傷、9/15 自決、(任 陸軍少將)
と謂う事態に 三本の聯隊旗を失う。
13A聯隊長 伊勢高秀陸軍砲兵大佐(士候25)8/29 戰死、(任 陸軍少將)
戰線に在った聯隊長クラスで生き残ったのは
26i 須見新一郎陸軍歩兵大佐(士候25、陸大34)、
28i 芦塚長藏陸軍歩兵大佐(士候23)
7SA 鷹司信煕陸軍砲兵大佐、
フイ高地を守る23SO 井置榮一陸軍騎兵中佐(士候28)、
ノロ高地を守る長谷部支隊 長谷部理叡陸軍歩兵大佐(士候25)
の五人だけであるが、廣く知られてゐるように、井置聯隊長は フイ高地獨断撤退を理由に 長谷部支隊長は ノロ高地無断撤退を理由に辻政信から自決を強要される。 須見、鷹司の両聯隊長は抗命を理由に豫備役編入。 孰れも 小松原師團長の意向だと謂われるが詳細不明。 それぞれに それぞれの事情はあったであらうが、帝國陸軍においては 理由や事情は 一切考慮されない。
9/09 莫斯科でモロトフ外相と東郷茂徳大使との間で開始された停戰交渉は 既に戰鬪は停止してをり、9/15 深夜に妥結。
結局、國境線は 両軍の現地交渉で 蘇聯側が主張する線で決まる。
關東軍の完敗である。
この著者は 何を根據に「日本軍の大勝利」だと主張するのであらうか? その理由は記されてゐない。
更には、折角 10 萬の精鋭を集めたのだから、停戰交渉なぞやらずに一戰交えていたら 蘇聯軍を完膚なきまでにやっつけて恒久平和が確立したであらう、と主張する。
この著者の他の著作をみるに、推薦のことば が 渡部昇一であったり、解説が 西尾幹二であったりと(孰れも PHP出版)おおよそ その思想信條は見當がつく。
この著者は否定するが、私は、司馬遼太郎に代わって書いたと謂われる、 半藤一利「ノモンハンの夏」がすべてを語り盡してゐると思う。
参謀本部、關東軍、第六軍首脳陣は 多數、孰れも引責の形で豫備役に編入されるが、
辻政信についても荻洲6A軍司令官が「辻が勝手に第一線にいって部隊を指揮したりしたのは軍紀をみだす行爲であり、責任をとらせて豫備役に編入すべきである」と強く主張し、 陸軍省人事局長もこの見解を支持したが、参謀人事をにぎる参謀本部総務部長 笠原幸雄少將(士候22騎兵、陸大30恩賜、後 中將、關東軍総参謀長)が「將來有用な人物」であるとして、現役に残す處置をとったと半藤は書く。
服部も辻も 一時的に左遷されるが、大東亞戰爭開戰前夜には 参謀本部作戰課長、作戰主任参謀として 中央に返り咲く。 そして、ガダルカナル島戰に敵兵力を下算して 兵力の逐次投入と謂う ノモンハンと同じ過ちを繰り返す。
辻は この失敗で中央を逐われ 以後 返り咲くことはなかったが、服部は 陸軍大臣秘書官兼副官として中央に残り、18.10.20 參本作戰課長に復歸。20.02.12 會津若松65i 聯隊長として支那戰線に赴任するまで中央に留まる。
戰後いち早く GHQ GⅡウイロビイ少將差し回しの特別機で復員、腹心として活躍する。
後に 情報公開法施行により CIA機密ファイルの中に(實行には至らなかったが、服部卓四郎起案になる)『吉田 茂首相暗殺計劃』なるものの存在が暴露されてゐる。
昭和三十五年四月三十日逝去、享年五十八歳
少し古いが、私自身のノモンハンの見方は;
私記・私説 「ノモンハン」第二十三師團の諾們汗 (NOMUNKHAN) 戰爭
http://ijn2600.web.fc2.com/nomonhan.html
に盡してある。
「司馬遼太郎と東京裁判」 福井雄三 主婦の友社 2006年8月15日初刷
「ノモンハンの夏」 半藤一利 文藝春秋社 1998年8月30日第14刷
令和(りょうわ)二年正月五日 初稿
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