相洲遁世隠居老人

近事茫々。

加藤 廣 『信長の棺』を讀む。

2021-08-12 10:50:21 | 日記
加藤 廣 『信長の棺』を讀む。
【 ―  吉川英治、司馬遼太郎、遠藤周作との對比に於いて ― 】



FB お友達の書き込みで 加藤 廣 の名前を識る。
經歴を見て驚いた。
昭和5年生まれ。 東京大學法學部卒、政府系金融機関、山一證券 等を歴て、七十五歳で作家デビュー。 (2018年 87 歳にて急逝)
「信長の棺」がデビュー作で、『秀吉の枷』、『明智左馬助の戀』と共に 本能寺三部作だとある。
   『空白の桶狭間』を加えて 四部作としたい。

兎に角 面白い。 初出が 日本經濟新聞社でなく、文藝春秋社なり新潮社だったら 直木賞受賞は間違いなかったところ。
一連の著作を「歴史ミステリー小説」と謂うらしいが、いちいち 事實關係の眞否を詮索するのは 愚の骨頂だとは識りながら、吉川英治、司馬遼太郎で確立された『定 説』にない事を 老人の頭で納得させるのは 中々容易ではない。

先ずは 讀んでみよう;

1. 信長の棺 2005年 日本經濟新聞社

物語の展開は、「信長公記」の作者 太田牛一(信定・又介)が本能寺の變の直後 信長の美濃金を隠匿したと疑う佐久間盛政に誘拐される。 その身柄を横取りした 前田利家(又左)により、羽柴秀吉が 柴田勝家との勝負が決っし、天下を取るまで、約10ヶ月間 幽閉されてゐたとする事から始まる。
 よって、太田牛一は 本能寺の變の後の經緯については 全くの“浦島太郎”で、解放されてより後に 自分で その事を調べる經過を 自身の口を通して語らせる筋書きである。

從來の定説にない物語の舞台装置は二つある;
一つは、明智光秀謀叛の動機に『右府(信長)追討ノ御綸旨』がある。
太田牛一には、柚の里の別名ある 京の隠れ家 嵯峨水尾の茶屋四郎次郎邸での白晝夢で明智光秀を 暴虐非道なる紂王を討った周山公になぞらえて 前(さきノ)太政大臣・關白・近衞前久(さきひさ)に御綸旨教唆を獨白させてゐる。  (P-114 - P-121)
茶屋四郎次郎絡みの話だから、徳川家康には情報が筒抜けであった事であろう。

これは從來の定説を覆すものながら、近衞前久の動向からして大いにあり得る話ではある。
しかも 明智光秀には 主君謀殺の意圖は無く、飽くまでも幽閉して主君を諫言せんとする意圖であったと。
これが事實なりせば、從來の定説である 明智光秀の主君謀殺は全くの汚名・冤罪だと謂う事になる。

二つ目は、本能寺と その東に位置する 南蛮寺との間に その距離70間(約130米)、地下通路が通じてゐたと謂うもの。
現在の本能寺は 何故だか秀吉により150米程 北へ移轉させられてゐるが、元の位置を現在の地圖でなぞってみると 蛸薬師通りを東へ約280米だと計測される。

京都の地下には 琵琶湖からの地下水脈が縦横に走ってをり、そうゆう理屈を抜きにすれば 掘って掘れない距離ではあるまい。

勿論 この地下通路工事は 信長から秀吉に直接の密命でなされ、實際の工事は 秀吉の與力である前野將右衛門長康配下で生野銀山の穴掘り人足がやったものであらう。

そして、ここで 木下藤吉郎の出自について、蜂須賀小六、前野將右衛門 等と同じ丹波篠山(ささやま)を本貫とする『山の民』だと。  吉川英治も司馬遼太郎も考えつかなかった まことに大膽な筋書きであるが、これなくしては 加藤本能寺も 加藤桶狭間も成り立たない。

明智光秀謀叛を事前に察知した羽柴秀吉は前野將右衛門に命じて この地下通路を塞ぎ、更に 逃げて來る信長とその近習を 松葉や松笠で燻して窒息死させたと謂う。
即ち 主君謀殺の下手人は 光秀ではなくて 秀吉だとするもの。

まことに大膽な發想であるが、あり得ない筋書きではない。
洋の東西を問わず、中世の城廓や城砦には 屡々 逃げ道があったものであり、 用心深い信長が 秀吉に命じて 防御脆弱な本能寺と南蛮寺との間に 逃げ道を作らせたであらう事に 全く不思議は無い。

この點に関し、本書から2年後に上梓された 三作目の「明智左馬助の戀」の あとがきの中で 作者加藤廣は 「・・・一部の歴史家や作家に、『本能寺に抜け穴があったはずはない』などという、心ない批判 ・・・」と わざわざ書いて、根強い反對意見のあった事を註記してゐる。   と謂う事は、筆者の加藤廣自身は これを fiction ではなくて 史實だと信じてゐると謂う事になる。

問題は 備中高松城攻め眞っ最中の秀吉が いつの時點で 光秀の謀叛を察知したかである。
皐二十八日に 光秀は愛宕權現西の坊 威徳院に聯歌師里村紹巴を招いて 聯歌の會を催してゐる。

ときはいま あめがしたなる さつきかな

は この時の 光秀の有名な發句である。  後に この發句が;

土岐ハ今 天ガ下知ル 五月カナ

として世に廣まったのは 秀吉に謀叛人との同席を責められた記録係の里村紹巴が 苦し紛れに 雨ガシタナル を 天ガ下知ル に一字改竄したものであり、謀略好きな黒田官兵衛の入智恵に違いないと 太田牛一に代わって筆者の加藤 廣自身が断言する。

因みに、吉川英治本には、 紹巴が秀吉に差し出した巻は 原文「・・・天が下知る・・」を「天ガ下なる」に書き直してあった、と 全く逆の事が書いてある。

 この5月28日の聯歌の會の段階では 光秀はまだ謀叛を最終的に決心してゐなかったか、少なくとも 他人様には その意圖を漏らしてゐなかった事として、 その夜、山籠(やまこもり)と穪して社殿に籠もった筈の光秀が、夜陰に紛れ、水尾の茶屋四郎次郎別邸で 近衞前久に御綸旨を教唆されたと謂う筋書きは 上述 白晝夢で語られた通りである。

この 茶屋四郎次郎邸での 近衞前久と明智光秀との密談は 羽柴秀吉が送り込んだであらう細作に探知され 當然 秀吉の許に その諜報は届いた筈である。
問題は その時刻であるが、筆者の加藤廣は、「恐らく二十八日の夜半過ぎか、遅くとも二十九日の明け方・・」だと書く。

嵯峨水尾と備中高松間は 七十余里(約300 Km)。  どんなに早驅けの馬を飛ばしても一晝夜半はかかり、しかも この月は二十九日までの小月であり、諜報を受け取ってから、前野將右衛門に命じて地下道を塞ぐには 時間的に間に合わない。 穴塞ぎ人足は早驅けの馬と謂うわけにはいくまいし、燻す爲の松葉や松笠の準備等、 少なくとも一週間は必要であった筈。 だから 秀吉が 謀殺の張本人だとすれば、それを決断したのは 遅くとも五月の二十五日頃ではなかろうかとの推測は成り立つ。

あってない話ではないので、この説を信じるか否かは 讀者次第と謂う事になりませう。

なお この小説が世に出た時、時の首相小泉純一郎が絶讃したとの逸話が残されてをります。



2. 秀吉の枷 2006年 日本經濟新聞社

上巻第一章は「竹中半兵衛死す」で始まり、下巻終章は「秀吉・その死」で終わる書き下ろしの 1,300 枚。

即ち、天正七年(1579) 半兵衛の死から 秀吉死没の 慶長三年八月十八日(1598)までの二十年間の「太閤記」である。

中に 盛んにflush back 塲面が登塲し、第一章でも 桶狭間前年の永禄二年二月、當時、尾張の片田舎の青年武將に過ぎなかった信長に、將軍足利義輝から突然 京で逢いたいとの誘いがかかり入洛した。  その時、 何か怪しいとにらんだ、樹陰(このかげ)與助、(後ニ 木下藤吉郎ト改メ)の氣轉で 豫定された宿舎の妙心寺を避け、歸路は東海道を避け 八風峠越えとすることで、信長の危急を救う。  これが秀吉の出世の糸口になった と 筆者の加藤廣は謂う。

また、本能寺と南蛮寺の間の 地下トンネル掘削の經緯も詳述されてゐる。
將に「信長の棺」や 後述の「空白の桶狭間」で語り盡せなかった部分を補完してゐる。

第二章 「諜報組織」 と 第三章 「覇王越え」には 徳川家康の正妻・築山殿 と 長男・長康が 信長の命令で殺された經緯が 詳しく書かれてゐる。
『ミソサザイ、みそさざい』(鷦鷯)、初めて聴く説である。
が、今川義元のホトトギス、納得、納得。

第四章 「天正十年」、世の中 動き出した。  その間の中央の情勢は 細川藤孝から刻々 姫路城の秀吉に齎される。  二月、元關白近衞前久(さきひさ)が 太政大臣に就任。
三月、毛利・両川(りょうせん)軍(毛利輝元、吉川元春、小早川隆景)蠢動を開始し羽柴秀吉軍出陣。

 四月十四日には備中高松城から一里の近距離の高臺にある龍王山に本陣を構へ 高松城を包囲して毛利軍と對峙。

 五月十八日、明智光秀は 徳川家康の接待役を僅か三日で解かれ、秀吉の高松城攻めの援軍を申し渡される。
愈々 機は熟す。

第五章 「本能寺の變」では、前野將右衛門に 本能寺と南蛮寺の間の抜け穴封鎖の密命を與えた經緯が書いてある。 日時は明記されてゐないが、前後の行間から五月二十六日以前、二十五日の蓋然性が高い。 第一作、信長の棺の補完だ。
光秀謀叛不發の塲合は、何食わぬ顔して 元に戻せば良いとの判斷で先行したと謂うもの。

この前後の光秀の動きは 細作によって 刻々 高松城を見下ろす龍王山砦の秀吉に齎され、二十八日には 光秀の謀叛決行を見越して安國寺恵瓊を通じて毛利側との和議の交渉を開始する。

本能寺の異變を知らせる早馬が、秀吉の許に届いたのは六月三日の夕刻。
孰れ 毛利側にも知られる事と 恵瓊に事情を打ち明け 和議實行の 確約を得た上で、直ちに 世に謂う「中國大返し」を決行。   豫めこの事あるを豫期して前野將右衛門に命じて 既に街道筋の準備萬端怠りなし。

一方 光秀の方は、『・・・ 惟任(これとう)、朝命黙(もだ)シ難ク、 ・・』と 主君討ちが朝命であるとの釋明の書翰を秀吉らに書き送ったが 秀吉は固よりこれを黙殺。
 光秀を擁護すべき立塲の近衞前久は 異變直後から姿を消して 行方杳として知れず。
朝廷の姿勢も不鮮明とあっては 信長誅殺の正統性を裏付けるものは何も無い。
一方の秀吉の方には『亡君の弔い合戰』と謂う大義名分があり、經過は通説の通り。

第八章  「主をうつみ」

昔より 主をうつみのうらなれば 報いを俟てや 羽柴筑前

  信長の三男、神戸三七信孝 二十六歳の辭世であるが、何とも凄まじい怨恨歌である。 秀吉がよくも 斯かる辭世を公表する事を許したものだ。

   切腹の塲所は尾張知多半島の突端にある景勝の地 内海(うつみ)・野間(のま)にある大御堂寺。

この『主をうつみ』を「内海」と讀むか「討つ身」と讀むか ?
『主』とは誰か ? 亡父信長の事なら 「討つ身」は本能寺の抜け穴の眞相を暗示するものと筆者は書く。  そして 本能寺の眞相を信孝に教えたのは徳川家康しか考えられないと謂ふ。  杳として行方の判らなかった近衞前久は なんと 徳川家康が匿ってゐたと筆者の 加藤廣は謂う。

  (上記は 本書からの書き移しであるが、太閤記などに見られるものは、

「昔より しゅうをうつみの 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」

となってゐる。  信孝の辭世は二つあり、當時の資料である天正記には

「たらちねの 名をばくださじ 梓弓 いなばの山の 露と消ゆとも」

と記されている。)

上巻の最終章である。
柴田勝家を筆頭に 総てのライバルを討ち果たして、徳川家康以外の邪魔者は総て排除すると、ムラムラと滾(たぎ)り起こったのが女色の血である。  


第九章  「心の闇」

 天正十年年六月二日(1582年6月21日)の本能寺の變の翌年、天正十一年 羽柴秀吉 男四十七歳。  若い女を征服する至福の時である。

 翌天正十二年、度重なる交渉の結果、家康の第二子・於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子とすることで 羽柴・徳川の和睦成立。
同時に 凄まじ昇任發令の聯發が始まる;

天正十二年十一月 從三位・權大納言
天正十三年三月 正二位・内大臣
天正十三年七月 從一位・關白、 五攝家筆頭近衛前久の猶子となり「藤原」の姓を名乘る。  藤原秀吉、四十九歳。

佐渡金山、石見銀山、生野銀山と日本の富の大半を掌中に収め、金に飽かせて近衞前久を籠絡しての買官である。

 天正十四年十月 四十四歳の同腹の妹・旭姫を強引に離縁させ 多額の持参金をつけて、家康の正妻として押し付ける。 
流石に 旭姫の夫佐治日向守は武士の沽券に拘ると切腹して果てる。
同時に 實母なか(仲、 後の 大政所)も人質として差し出す。

 「信長殺し」の秘密を知る家康の口を封じ 自分自身の「心の闇」を晴らさんが爲の なりふり構わぬ振る舞いである。

天正十四年十二月 太政大臣・豐臣賜姓
從一位・太政大臣・關白豐臣秀吉誕生、五十歳

 文字通り 位人臣を極める。 しかし その手段、方法を選ばぬ遣り方に、その前半生の素晴らしい生き方、活躍ぶりに比し この頃からの秀吉の生き方は 余りにも様變りである。
 爲に 吉川英治が <家康が 小牧・長久手に勝利し、筆頭家老・石川數正が出奔して秀吉側に寝返り、執拗な秀吉の上洛要請を峻拒した天正十三年>、
   司馬遼太郎が  <秀吉が實母大政所を人質に差し出して、家康の上洛、秀吉への臣從を果たした天正十四年> で筆を擱いてゐる。

卑賤の身から十七歳で「小者」として信長に仕官、生得の小才でめきめき頭角を顕し、稀代の暴君・織田信長の忠實な家臣として 持ち前の佞臣(ねいしん)ぶりを發揮する。

が、本能寺の變の後は、目的の爲には手段を撰ばず、自身が 奸猾(かんかつ)な暴君に變身する。
吉川も司馬も そういう 驕りに傲った秀吉を書くに忍びず 天下を取ったところで筆を擱いたものであらう。


晴れて 天下様にはなったものの、儘ならぬのは子作りである。

京極高次の妹で、明智方の武將だった武田元明の未亡人・京極龍子を筆頭に多數の側室を大阪城に抱えて子作りに勵む。  龍子は美貌ながら 既に三十を超す姥櫻であるのが難點。

第十章  「九洲遠征」

天正十五年三月一日 關白秀吉は、 弟の羽柴秀長を総大將に 黒田官兵衛を軍監として主力九萬余を先發させ、 自ら參萬余の軍勢を随えて大坂城を發進。

これを最後の子作りの機會だと心得て、遠征に引き連れた輿の數は五十を下らず。
側室筆頭の西の丸殿・龍子 三十三歳。
岡山城時代からの馴染みの 福、こちらは既に四十歳。
織田一族の女、三の丸殿と 姫路殿。
加えて信長の側室「お鍋の方」の血縁に當たる 鍋二世と 豐富かつ多彩。
それに 行く先々で現地調達。
  しかし 結局子作りの成果は得られず 島津氏を屈服させて 七月十四日 大阪城に歸還。

第十一章  「淀の方」

あれ程 拒み續けた 茶々が どうした風の吹き回しか 側室となることを諾す。
天正十六年十月初旬、攝津・茨木で鷹狩りの最中に 茶々に仕える奥女中筆頭・大藏卿局から密書を受け取る。 「ちゃちゃさま ごかいにん」の知らせである。
 「まさか夫重(つまかさ)ねではあるまいな ・・」
先ず 頭をよぎったのは、大藏卿局の息・大野治長の顔である。

天正十七年五月二十七日 捨(すて)(後 鶴松と改名)誕生。
秀吉にとっては 長濱時代 南殿が生した 石松丸(秀勝)以來の第二子である。
しかし、「妾ノ腹ハ、借リ腹」と謂う思想のもと、捨誕生三ヶ月後、石松丸の時と同様に正妻である禰々(おね、 寧々、ねね とも。 後の 北政所)の許へ奪い去られる。

鶴松を得た事により、内定してゐた 後陽成天皇の異母弟 胡佐丸殿下 (後の 八條宮智仁親王)との養子縁組も解消となる。


第十二章  「家康追放作戰」

天正十八年三月一日、秀吉は、直属の旗本參萬貮千騎を率いて聚楽第を發進。
小田原の北條攻めである。

六月末、一應 戰線が落ち着くと 本陣を石垣山に移して 家康を招きいれる。

「内府殿も小用をたさぬか、余と一緒にな ・・」と誘って 一緒に放尿しながら、それとなく 關東への國替えの話を持ち出す。
世に廣く知られた有名な話である。

この時、鶴松を奪われて無聊をかこつ茶々、淀の方を戰線に招いてゐる。
そして、偶然の行きがかりで 蒲生氏郷の元寵童で この年十五歳の 那古野(名古屋)山三郎(さんざぶろう)にめあわせる。  それが後に 淀の方と劇的再會を果たすとは この時 誰が豫想したであらうか。

天正十八年九月一日 歸京。
この頃から秀吉の運命は暗轉を始める。

天正十九年一月二十二日  弟の豊臣秀長死去。  五十一歳の働き盛りである。
 二月  利休に切腹を命ず。
 八月五日  鶴松夭逝。
 八月六日  明征壓を宣言して 肥前國に出兵據點となる名護屋城築城を命じる。

利休の怨念か? 鶴松の死が 完全に秀吉を狂わせたのである。


第十三章  「秀次殺し」

文禄元年四月 小西行長率いる第一軍壹萬八千は 對馬・大浦港を出發して釜山に上陸開始。

世に文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮征伐の開始である。
この 文禄元年は西暦1592年であり、天正十九年1591年の翌年に年号が變ったものであるが、 筆者は何故だか<天正二十年>としてゐる。

この頃の 曽呂利(そろり)新左衛門の傑作だといわれる落首が書いてある;

太閤が一石米を買いかねて
今日の五斗買い(御渡海)明日も五斗買い 
(原文のママ)

昭和十四年春、日獨伊三國同盟問題が紛糾、平沼騏一郎内閣が右往左往した頃の;

平沼が 一斗の米を買いかねて
今日も五升買い(首・陸・海・外・藏、五相會議)明日も五升買い


と謂う落首を想い出した。 元歌は 曽呂利新左衛門だったんだ。

十二月二十七日 關白の位を養子・秀次に譲り 太閤を自稱する。
文禄二(1593)年八月三日  淀の方が大坂城で 第二子秀頼を出産。 「拾(ひろい)」と命名。

さてこそ、受胎の日時は名護屋に出陣中の事、またもや ミソサザイ か?
  なれば ホトトギス は?
遠藤周作は 大野治長と共に淺井長政の小谷城落城を體驗した 元淺井(あざい)家々臣の片桐旦元(かつもと)が怪しいとみてゐる。
筆者は 前出 名古屋山三郎の名前を擧げてゐる。聞き慣れない名前であるが、果たして實在の人物なりや?

秀次ならびにその一族郎党の命運については語り盡されてゐる。  文禄四年の事である。


第十四章  「前野家千本屋敷」
 木下藤吉時代からの 蜂須賀小六と共に 最も古い家臣であり 秀吉の出世に最も貢献した 前野將右衛門長康を 秀次一家處刑に聯座して その息と共に切腹させるとは。

二度に亘る明國征服の爲の出兵と謂い 耄碌して冷静な判断力を失ったとしか言い様がない。

終章  「秀吉・その死」

信長亡き後、天下取りに鬼才を發揮した麒麟も 耄碌して判断力を失い、猜疑心と奸計はますます冴え、殘忍・冷酷な老醜と化した姿は讀むのに苦痛を感じる。



3. 明智左馬助の戀 2007年 日本經濟新聞社

明智光秀には 二人の息がゐたが、孰れも 病弱で 跡取りとして 三宅彌平次 幼名 光春、後の 明智左馬助を婿養子とする事になってゐた。
 光春は 備前・兒島半島出身で 「天莫空勾践(てんこうせんをむなしうすることなかれ) 時非無范蠡(ときにはんれいなきにしもあらず)」で有名な兒島高徳 本名 三宅備後三郎の末裔である。

冒頭、第一章 「攝津動亂」、天正六(1578)年十月 荒木村重が有岡城(伊丹城)で突如信長に對して反旗を翻した亂である。

荒木村重と云われても、秀吉の使いとして説得に訪れた小寺祐隆(すけたか) 後の黒田官兵衛孝高(よしたか)を地下牢に幽閉して跛(あしなえ)にしてしまった男としてしか記憶されてゐないが、信長、光秀、秀吉との關係は古く かつ 複雑である。

信長の長男・信忠、長女・徳姫、次男・信雄(のぶかつ)を生した側室・生駒吉乃(きつの)には 先夫・土田彌平次とのあいだに 多志(たし)という娘がゐた。
<「それはそうと・・・。 このたび處刑される者の中に、お屋形さまにはご自分の義理の娘である荒木の妻の多志(たし)殿がいる。 その多志殿を村重に娶(めあ)わせたは、なにを隠そう、このわしなのじゃ」> との秀吉の言葉を引用して;

<連れ子の 多志 は 幼時から義父となじまぬ疎遠の娘であったが、これに目を付けた秀吉が 多志を、「攝津の虎」と謂われた荒木村重を織田陣営に引き込む爲に、村重の席直(むしろなを)しに賣り込んだのである。>  と 前作「秀吉の枷」にみえる。(上巻P-82)

ところが、本書には <實は多志様には、昔、母君・吉乃さまのお決めになった許婚者がおられたそうでございます。 吉乃さまが早うにお亡くなりになったことも重なり、この取り決めがうやむやとなり、義父の信長さまのご命令で荒木さまの席直(むしろなお)し(後妻)にされたとのことで> ・・・とある。 (P-88)

すこーし ニュアンスを異にするのだが、それはまーよい。
ルビまで振った「多志」(たし)なる信長の義理の娘の存在が どうしても摑めぬのである。

筆者が引用する前野文書(もんじよ)の一節「武功夜話」には 慥かに「吉乃」の名前が確認出來るし その存在は 定説である。

一方、荒木村重の正室は 池田長正の娘。  嫡男村次の生母は 北河原三河守の娘。
三番目に 川那部氏の娘として 「だし」の名前が見える。
永禄元年(1558年)生まれであり 歿年は 天正7年12月16日(1580年1月2日)

「ダシ」と謂う名は基督教の受洗名(Daxi)からだと。 歿年月日が 村重一族妻子女 37 名が六條河原で 信長の命により惨殺された日時と一致する。 享年21歳だと謂う事になり 義娘の綸と同年か 或いは 下であったか。 絶世の美女であったと傳へられる。

要するに 作者の加藤廣は「だし」を 信長の義娘にデフォルメして「多志」(たし)と名乘らせたわけである。

 その目的は 信長とは 義理の娘まで六條河原に引き立てて惨殺する 非道、残忍、無慈悲な輩であることを強調したかったのではなかろうか?


三宅光春は 光秀の長女 綸(さと) と幼馴染みで、いずれ夫婦となる約束であったが、
 <ある日突然、信長から、  ー そなたの娘・綸を、荒木村重の長男村次に嫁(や)れ ー  という嚴命を受けた。  ・・>  (P-28)
と謂う經緯で 二人の仲は切り離されて 綸は村木の嗣子村次に嫁す。

村重の謀叛で人質同然となってゐた綸が 村重の配慮で解放される。
<「我嗣子荒木村次室綸、有故離別致候、悉之以狀」>  (P-64)

晴れて 三宅光春は 明智綸と結ばれ、明智左馬助となるのだが、夫婦關係は形だけのものである。

本書は「明智左馬助の戀」をタイトルにしているが、内容は
最終章 「落城の譜」に至るまでの九章全編を貫いてゐるのは、信長の 理不盡なまでの横暴、殘忍、殘虐、冷酷、非道、である。
 作者の謂わんとする由縁は 婿の生き様を語りつつ、明智光秀の謀叛の正統性を讀者に納得させんとするにありと見た。


明智光秀については、戰前の文部省制定史觀で 徹底的に悪者に仕立て上げられてゐるが、先年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』で 少し評價が變ってきたのではなからうか?

見直し、再評價されて然るべきだと思う。
同時に 徳川家康のブレエン、南光坊天海としての光秀生存説なども 少し掘り下げてみる價値ありだと思う。   然らば 大坂冬の陣の切っ掛けとなった 例の「國家安康」「君臣豊楽」で有名な方廣寺鍾名事件なぞは 光秀の豊臣家への報復として面白い解釋が生まれてこよう。
   打倒信長・反秀吉 で 光秀・家康が 繋がってゐたと謂う筋書きはあり得ない事ではない。



4. 空白の桶狭間 2009年 新潮社

世に「桶狭間の合戰」という「桶狭間山の合戰」が起こったのは 永禄三年五月十九日 (1560年6月12日)の事である。
この日早朝、 織田上総介(かづさのすけ)信長は 昆布、勝栗とともに湯漬けを喰らい、「人間(じんかん)五十年、化轉(げてん)のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり。  ・・・ 」と 幸若舞の敦盛を一差し舞って清洲城を電發。
今川義元率いる総勢二萬五千に對する織田信長率いる電撃旅團 約三千。
この時 木下藤吉(後改め 藤吉郎)は 浅野又右衛門麾下で 三十人の足輕小隊長、 と謂うのが從來の定説である。

桶狭間については 帝國陸軍が陸軍大學校をして徹底的に研究し盡してをり、吉川英治や 司馬遼太郎による定説は これに基づいてゐる。

加藤桶狭間は この定説を覆す 全くの新説であるが、この物語が成り立つ前提は
 木下藤吉郎の出自が <山の民> である事である。

<山の民> 即ち 江戸時代後期以降は「サンカ」と呼ばれ 「山家」、「山稼」、「三家」、「散家」、「傘下」、「燦下」等々の字が當てられたが、 就中 内務省警保局では 「山 窩」の字を使った。

感覺的には 歐洲における「ジプシー」、 今や この言葉も差別用語だとして使用が憚られるが、今風に謂うと 「ロマ」に似た存在である。
 ロマについては 學術研究が進み、その發祥も經緯も解明されて明確になってゐるが、<山の民>やサンカについては その由來には諸説あるも 明確には判ってゐない。

加藤 廣説では 具體的に 攝政關白藤原道隆の庶子 道宗を祖とする一族の末裔であるとして物語を展開してゐる。

成る程、鎌足のDNA踏襲者なら、第十代崇神天皇に随伴、朝鮮半島を經由して渡來した 塞外の騎馬民族。 ツングウス系北方民族の末裔であり、大道藝人や 傀儡師(くぐつし)、馬飼、犬飼種族であり、ストーリーとして肯ける。

學術的研究の嚆矢は 柳田國男の「イタカ及びサンカ」(明治45年)であるが、實證的研究者としては なんと言っても 朝日新聞社記者出身の三角 寛である。

 明治36年(1903) 大分縣直入郡馬籠の出身で 本名 三浦 守。
昭和の戰前・戰後を通じて 生活を共にし 多くの寫眞記録を残してゐる。
三角に據れば サンカは 遊牧、流浪の民で、農耕・定住は一切せず、獨自の言語と文字を持ち、獨自の生活習慣と習俗を踏襲しながら日本全國に散在して、 竹を材料にした 箕(み)作りを主體に、簓(ささら)、笊(ざる)、籠、茶筌、茶杓、簀ノ子、その他 棕櫚(しゅろ)を材料にした 棕櫚箒(ほうき) 等 手細工品作りを生業(なりわい)にしてゐた。



      サンカ文字

昭和の三十年代半ばまでは 棕櫚箒賣りや 鑄掛屋(ゐかけや)、下駄の鼻緒直(はなおなお)し等 街で見かけたが、東京オリンピックを契機に その姿を全く見かけなくなった。
生活習慣の變化で需要が無くなった事と 生活保護の普及により その姿を消すと共に、「サンカ」と謂う呼び名も 完全に世の中から消滅した。

獨自の傳承を 獨自の文字で綴った、『上記(ウエツフミ)』が大分縣立先史圖書館に所蔵されてゐると謂われる。(全二十七巻)



        『上  記』(うえつふみ)

鎌倉幕府御家人であり 初代豊後守護職 大友能直(よしなを)の編だと謂われ、「神字(カンナ)」 即ち神代文字と呼ばれる特異な五十假名文字で記され、貞應二年 (1223) の成立だと謂われる。
同書の中に「オルシ」人に関する記述があり、これは現代で謂うところの 肅愼(ミシハセ)人であらう。


 記録によると、大正十一年(1922)三月、當時の日本赤十字社総裁 閑院宮載仁親王が別府を公式訪問されるにあたり、的ヶ濱集落には、山窩と癩病が混在して居住し、いわゆるスラムが形成されてをり これを警察が燒き拂ったため 解放同盟が立ち上がり全國規模の騒動に發展した。 所謂 「的ヶ濱事件」であるが、警察の説明に が納得して騒ぎは収まったと謂われる。

この一事は サンカと 所謂 民が 別系統、別系列の別種族なることを如實に示す。

その後も 境川、春木川の橋下に小屋架けで居住し、昭和の中頃まで 鑄掛屋、らおすげ(羅宇屋、 煙管すげ)、下駄の鼻緒直し、棕櫚箒 等を行商してゐたのを憶えてゐる。

偖て、 物語であるが、
加藤桶狭間は「山の民」である 木下藤吉郎が脚本、演出、監督の三役で、シナリオは;

   織田上総介信長が今川義元に降伏を申し出で、油断した義元を その會見塲所で襲をうと謂う筋書きである。

そして 信長の幼馴染みである 松平元康、後の 徳川家康を通じて 事前交渉。
少人數、無腰、塲所を 桶狭間山とする等 詳細を煮詰め 當日現塲に向かう。
虚々實々、今川義元としては、この際 信長抹殺の好機だと この申し入れを受けたもの。

木下藤吉郎は この頃 まだ一介の足輕頭に過ぎず、讀者を納得させる爲、前年の二月、信長が 將軍足利義輝の招聘で入洛した時、義輝が 義元と謀っての信長抹殺の陰謀を、京への密偵行により事前に把握した藤吉郎により 信長の危機を未然に防いだと謂う挿話が前提とされてゐる。


筋書きはこうだ;

「信長が義元に降伏すると見せかけて 義元を謀殺する」と謂う陰謀 藤吉郎の腹案を、先ずは 藤吉郎が命懸けで信長を説得。
  信長と幼少時 二年間共に過ごしたという幼馴染みで その頃 義元の人質であった松平元康 後の 徳川家康を通じて 降伏を申し出、條件交渉の結果;
日時五月十九日、塲所桶狭間山、降伏文書調印使節は
  信長以下 鐵炮、弓矢、槍なしの二十名の輕武装小部隊、
と謂う事で 話が纏まる。


  一方、藤吉郎は並行して 當時 <山の民>の集合塲所であった 西三河の三國山で救援要請交渉の結果;
 50名からなる切り込み隊と 後方支援の輪轉放牧移動の馬飼集團の派遣の確約を得る。
但し<山の民>には 首取りの習慣がないので 義元の首取りは信長側で行なう事。
  
  <山の民>首脳を説得するのに 信長の正室・濃姫が 同じ<山の民>仲間である 齋藤道三の娘であった事が 大いに寄與したと。


 義元謀殺當日の筋書きは、<山の民>仲間の 蜂須賀小六や 前野小右衛門(後改め 將右衛門)に 事前に調練された 尾張萬歳、傀儡師(くぐつし)、田楽集團を使って今川勢の警戒心を和らげ、馬の放牧移動集團に紛れ込んだ 五十騎の切り込み隊を密かに桶狭間山近辺に待機させる。
一方、腰の大小だけの信長一行二十騎からなる降伏文書調印團は熱田神社で 先導のため元康が派遣した岡崎衆の二十騎と落ち合い桶狭間山へ。
 
そして、桶狭間山の近くへくると、それから先は 五人のみと謂う事で、信長、藤吉郎、簗田(やなだ)政綱、服部小平太と毛利新介のみが腰の大小を預けて會見塲所への移動が許される。

頃合いを見計らって 藤吉郎が つんざくような口笛で合圖をおくると、何處からともなく 五十人の<山の民>精鋭集團と 50匹の人の丈ほどもある黒色の忍犬が 猛烈な勢いで突進して來る。

 なを 前作「秀吉の枷」の中では この五十人が 『 ・・ ≪山の民≫の決死隊百人・・ 』となってゐる。(第七章 阿彌陀寺 P-305)

豫め藤吉郎との打ち合わせにもとづき、<山の民>の一人が、「服部殿、服部殿」と聲をかけながら 小平太に「槍」を渡すと 得たりとばかり、義元に深手を負わせる。
毛利新介が すかさず、敵から奪った太刀で 今川義元の首を獲る。

「親方様 御歸還」の藤吉郎の一聲で <山の民>は 50匹の忍犬と共に かき消すように姿を消し、信長一行も 「御大將今川義元さま、雷に打たれて即死。 金物は一切捨てよ!」と叫びながら退散。

これが當日の筋書きである。

決め手はなんと言っても 喉元に噛付くように訓練された 50匹の「忍犬」の登塲であらう。  しかも 敵味方識別の方法が獨創的である。
帝國陸軍も 吉川英治も司馬遼太郎も考えつかなかった桶狭間の名脇役である。

そして、論功行賞では この加藤桶狭間でも定説通り簗田政綱、服部小平太、毛利新介の三名で辻褄を合せてゐる。

寔に巧妙な筋書きで 讀者を酔わせる、唸らせる。

まあ 四百六十年も昔の噺だし、豊臣、徳川と代變りして、歴史はその都度 覇者に都合の良い様に書き換えられてゐるので、信じるか否かは讀む者次第。

 近年に置き換えても 針小棒大を得意技とする山崎豊子によって造られた瀬島龍三傳説を信じるか否かを問ふようなもの。

佐藤 優クンは絶讃したさうである。




信長の棺 日本經濟新聞社 二○○五年五月二四日
初出 日本經濟新聞聯載小説(750 枚)


秀吉の枷 上、下  日本經濟新聞社 二○○六年四月十八日
書き下ろし、1,300 枚。


明智左馬助の戀 日本經濟新聞社 二○○七年四月二十日
書き下ろし、750枚。


空白の桶狭間    (株)新潮社 二○○九年三月二十五日發行
初出;「小説新潮」平成二十年五月號 ― 七月號(500 枚)


鎌倉は 雨がしたなる 後伏(こうふ)かな

鎌倉は 太陽の季節 秋立つか


令和(りようわ)三年文月頭伏(とうふ)ニ書キ肇メ 葉月立秋ニ至ル
   東京五輪開催ノ年

  (2021/08/12 初稿脱稿)