日記のようなもの

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再開

2011-04-02 21:48:09 | 原発問題
  しばらく、記事を書いていない。今回の地震と、それに続いた原発事件は衝撃だった。地震津波については、自然に起きてしまったこと、取り返しがつかない事件だ。
 一方、原発事件は現在進行中の人為的要素を多分に含んだ事件だ。このことは、今この記事を書いている今も進行中である。私は、危険のない場所で文を作っている。
 そこで、このことを興味に文を作って良いのかと思う。ニュースであれ、メディアで興味を引くことは全て楽しみと言える。このことは、悲しむという行為でさえそうであると思う。人は、悲しみを対象にしてをさえTVに張り付いてしまう存在だ。それでいても私は、この事件ことについて何か考えをまとめ、整理していく必要があると思う。
 今回の事件は、多くの日本的な負の部分が生みだしたものだ。損切りができない、いつまでも負けを認めない体質。自分の失敗でなく、引き継いだ人間のせいにして逃げ切ろうとする体質。その場をしのげば組織が守ってくれるという期待、悪い方の予想をしない、むしろ悪い事態を想定すること自体が、子供じみた大人の判断のできない正義感ぶった個人主義者スタンドプレーヤー、空気の読めない奴、誤りは客観的事実でなく、損得勘定で事態を判断する。事実を一時の場の力の大小で判断する体質、これが全て今回の事故に繋がったと思う。第2次世界大戦の負けで明らかになった日本人の欠点がそのままに原発事故を生じさせたものと思う。
 私は、今回の事故をみて、旧日本軍の失敗そのものを思い浮かべざるを得ない。
私は、従軍経験はもちろんないが、状況的にあまりに似通っていると思う。
 50人の労働者が、ヒーローとされているが、彼らには特攻隊を想起せざるをえない。彼らにも家族がいる。にもかかわらず彼らは志願していると報道されていた。志願せざるを得ない環境が彼らをしてそうさせているのだろうが、東電社員であり、協力社員であってもどちらにしても彼らが自身の仕事を拒否することは、困難である。拒否することは可能であろうが、それは生活の基盤を喪失することを覚悟する必要がある。むしろ確実に基盤を失うだろう。さらに現在の基盤を失うことのみならず、労働者としては将来の基盤をも喪失する覚悟が必要だ。誰も目の前の危険から逃げ出した者を非難することはできないと思うが、現実には逃げた者を非難するのが日本人の体質だと思う。
 メディアでも、彼らの安全を配慮することは要請しているが、彼らが逃げ出す場所を用意しようとはしない。逃げ出す場所を与えずに、自由選択もない。誰もが彼らがいなくなれば、彼らの犠牲の上に自身の生活が成立することを知っている。
 私自身が、同じ立場に立たされた時に、拒否することが、自身の生存に万全をかけることが正しいことか苦しむことになるだろうと思う。私は、社長ではない。会社の行為に直接責任を負う必要はない。労働者としての責任を果たすことが私の責任だ。この責任には、自身の生存については自身が判断することが含まれている。会社の生存までを自身の責任することはできない。ましてや日本人の生存についてまで、労働者として責任を負うことできない。にもかかわらず、その責任を果たそうという労働者の存在は、その立場を超えてあるのだと思う。社会の多くの部分が、このような人達の存在をして成立しているものと思う。このことの大きい小さいはあるが、本来その責を負うべき人が、現場にいない現状において。
 今、TVでは普段の番組が戻ってきた。この非現実的と思える状況を忘れさせようとするかのように。 
 私は、今自分の持ち場でやるべきことをやろう。少なくとも、自分の持ち場で責を果たしていないと自分が思わないように。
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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