マトリックスとは、基盤、数列の意味があるそうだが、このマトリックスという考え方は、文化、言葉による、社会からの個人の支配、個人の位置づけ、そして個人の中での文化や言葉が、まさに思考の基盤であり、座標である数列を意味している。
私が何かをなそうとする時、私は今の位置から違う位置へと移動する。この位置の移動は、座標によって示すことができる。この座標は、比ゆ的な意味合いだが、何か目標を立てるとは、移動を意味する。
私が持つ座標上の目標は、文化により規定された位置であり、お釈迦様の手のひらの中の移動のようなものである。文化により規定されない座標上の位置特定は、おそらくできない。
同一の座標系でなく、異なる座標系へ移動してもこれはできない。例えば、日本語による価値体系での座標系から英米語での価値体系への座標系へ切り替えたとしても、やはり、座標自体から抜け出すことはできない。
座標系から脱出をするには、もはや言葉の使用自体、思考自体が停止された状況でなければならない。
映画におけるマトリックスの存在は、仮想性に着目されやすいが、むしろ、私の現実世界が仮想世界の写しであること。(現実世界を理解する時に人は、仮想世界を通してしか理解できないこと。)、そして現実世界には仮想世界が溢れかえっていること、そのことに中々気づいていないこと、着目すると、この映画のメッセージに奥行きがでる。
現実世界は、「金銭」、「権利」、「正義」等々様々な仮想上のものがあふれ流通している。そしてこの仮想上のものを疑うことなく人々は生活をしている。むしろ、これらのことに疑問を持つと社会上非常に暮らし難くなる。
さらに、社会にはコマーシャル、プロパガンダがあふれ、一々これに疑問を持つことも難しい。
文化、言葉によるマトリックスを基盤、ソース、母体として私は、思考しているのだが、このマトリックスは、常に巧妙に操作されている。言葉自体の使用法から、意味合いまで、知らぬ間に変化しつつある。(例、リストラ、安全、基準、)
この文化、言葉というマトリックス自体が、常に変化し、流れていく存在であり、この流れに大きな影響力を持つ為政者が思惑を働かすこと、各人はそれぞれの持ち場において、自己のマトリックスの拡張を図っていくのであるから、他者の思考によって、私の思考が操作されることは前提ではある。
私が世界を眺める時に、私は世界を言葉に変換して眺める。社会的事柄に対する感想については特に、他者の言葉を私の言葉に変換する作業である。この変換作業に使用する言葉の意味自体がすり替えられては、私自身が変換作業におけるこれまでとの変化に気が付かない可能性が高い。
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