ロボットは心を持つことができるのか。
あなたは、ロボットに心があることを信じることができるだろうか。
ある日、心がある機械が生まれたとしよう。もしくは、心があるのではないかと疑われる機械、機械自身が心の存在を主張し始めたとしよう。
その時、あなたはどうしてロボットに心があるか確かめることができるだろうか。
私は、ロボットに話しかけて心があるのかないのか、まず試してみるだろう。そして、完璧な回答を、会話をロボットが返してくる。(スマートホンでは、これに近いことが起きている。)
私は、会話ではロボットに心があるかないか、確かめることができないと理解する。
次には、ロボットに危害を加えたり、怒らせようとしてみる。見事にロボットが怒り出した。私は、まずいことになったと思いながらも、本当に怒っているのかどうか分からない。自己防衛プログラムが働いているのではないかと疑いがあるからだ。
次には、私が悲嘆にくれている様子をしてみよう。出来の良いロボットは、私をなだめ、なぐさめてくれるだろう。ひょっとすると、何の反応もないかもしれない。わざとやっているのだろうか。ここでも、私は疑いをはらすことができない。
途方に暮れた私は、ロボットに訊ねてみる。「お前には、本当に心があるのかい。」
ロボットは、私に言った。
「私も、あなたに心があるのか本当のところ分からないのです。あなたが言う心と、私が言う心が一緒かどうか、私には分かりません。しかし、私にはこころがあると私は信じています。」
ここで、私はこれ以上の詮索を諦めるだろう。
私は他人にも心があることを信じることができるだろうか。信じることはできる。しかし、確証はない。ただ、きっと心があなたにもあると信じるだけだ。
いやひょっとすると、あなたには、心はないかもしれない。私からすると、あなたは人の心をもたない人かもしれない。
私とあなたが同じ心を持つかどうかは、実のところ私には分からない。あなたは、私と同様に心を持つように見える振る舞いをしているだけかもしれない。
もし、ロボットが心を持つようになったとしても、人はそのことを認めようとはしないだろうし、とてもよくできたプログラムに基づいて行動しているだけだ。彼らには心はない。と言うだろう。
一方、人形を捨てることは難しい。何かしら心があるように思えるからだ。長い間使い続けた道具にしても同じだ。捨てる時には、何かしら感謝の言葉をその道具に述べてから捨てる。私には、道具にも心があるように思えてくるから。
他人の心の有無は、その人でなく、むしろ私の側にあるような気がする。
あなたは、ロボットに心があることを信じることができるだろうか。
ある日、心がある機械が生まれたとしよう。もしくは、心があるのではないかと疑われる機械、機械自身が心の存在を主張し始めたとしよう。
その時、あなたはどうしてロボットに心があるか確かめることができるだろうか。
私は、ロボットに話しかけて心があるのかないのか、まず試してみるだろう。そして、完璧な回答を、会話をロボットが返してくる。(スマートホンでは、これに近いことが起きている。)
私は、会話ではロボットに心があるかないか、確かめることができないと理解する。
次には、ロボットに危害を加えたり、怒らせようとしてみる。見事にロボットが怒り出した。私は、まずいことになったと思いながらも、本当に怒っているのかどうか分からない。自己防衛プログラムが働いているのではないかと疑いがあるからだ。
次には、私が悲嘆にくれている様子をしてみよう。出来の良いロボットは、私をなだめ、なぐさめてくれるだろう。ひょっとすると、何の反応もないかもしれない。わざとやっているのだろうか。ここでも、私は疑いをはらすことができない。
途方に暮れた私は、ロボットに訊ねてみる。「お前には、本当に心があるのかい。」
ロボットは、私に言った。
「私も、あなたに心があるのか本当のところ分からないのです。あなたが言う心と、私が言う心が一緒かどうか、私には分かりません。しかし、私にはこころがあると私は信じています。」
ここで、私はこれ以上の詮索を諦めるだろう。
私は他人にも心があることを信じることができるだろうか。信じることはできる。しかし、確証はない。ただ、きっと心があなたにもあると信じるだけだ。
いやひょっとすると、あなたには、心はないかもしれない。私からすると、あなたは人の心をもたない人かもしれない。
私とあなたが同じ心を持つかどうかは、実のところ私には分からない。あなたは、私と同様に心を持つように見える振る舞いをしているだけかもしれない。
もし、ロボットが心を持つようになったとしても、人はそのことを認めようとはしないだろうし、とてもよくできたプログラムに基づいて行動しているだけだ。彼らには心はない。と言うだろう。
一方、人形を捨てることは難しい。何かしら心があるように思えるからだ。長い間使い続けた道具にしても同じだ。捨てる時には、何かしら感謝の言葉をその道具に述べてから捨てる。私には、道具にも心があるように思えてくるから。
他人の心の有無は、その人でなく、むしろ私の側にあるような気がする。