これだけでは、何のことか分からないので実例を挙げる。
原子力安全・保安院、原子力安全委員会どちらも原子力の安全確保するための国の機関であり、その名称には安全が使用されている。どちらも、その存在により安全が保障されたかのイメージを見たものに植えつけることに主眼が置かれている。
しかし、水力安全・保安院や水力安全委員会は存在しない。安全なものには、安全を題する機関など本来必要がないからである。原子力安全・保安院や原子力安全委員会は、危険性の存在に基づいて、存在するのであるが、危険を題する名称とはならない。
原子力の安全と危険この二つの相反する概念を同時に信じたのが、この組織のメンバーと、その協力者である。
設置者自身は、二重思考の欺瞞性には気が付いているからこそ、原子力危険院や原子力危険委員会と名づけなかった。しかし、設置者自身も、この名づけの意味、二重思考であることを忘却し、相反する概念を同時に遂行できると信じ始める。
(二重思考は、自らが作った信仰を信じることにより、自らが作った信仰にいつか支配される。この点では一種の信仰である。二重思考では、危険を説きながら、平安を説く。そして信仰が作られたものであることを忘却し、ドグマを信奉することに価値を置く。そして少数の為政者のみが、二重思考の欺瞞性に気づきつつ、民衆を支配する道具として二重思考を利用している。)
二重思考は、欺瞞の方法、技術であるが、そのことを作成者自身も含めて、その語を聞いた者に正当性を信じ込ませるところ危険がある。リストラは、今では首切り、解雇の意味であるが、本来は再構築であり首切りの意味ではない。しかしながら、再構築という意味をもって首切りを実施するので、罪悪感を忘却することが可能となる。
「1984」は、ソビエト型社会、戦前の日本のような全体主義、より高度に為政者が民衆の心を支配することによる恐怖を描いたと思う。私は、ソビエトの崩壊後は、一時この小説の意義を忘れていた。もはやこの恐怖は現実にはならないとさえ信じていた。
しかし、この考えも浅はかであることに今になって気が付いた。世界には、二重思考の網が張られている。メディアの至るところに二重思考が織り込まれている。私を包む言葉、情報の多くに、二重思考の言葉が織り込まれている。そしてこの情報操作による二重思考は、そのものの存在さえ感じさせないほどに巧妙に設置されている。
もう一つ例を挙げれば、「節電」、電力会社が節電をコマーシャルしているのは何故か。本当に、節電されては儲からない電力会社が、オール電化を進めてきた電力会社が節電を推奨するつもりがあるのだろうか。彼らの意図は、節電しなくとも良い社会、電気の溢れた社会の実現が目標であり、彼らの利益である。ひとつ、ひとつの言葉に織り込まれた、他者を支配しようとする意思、節電のコマーシャルには、電力を潤沢に消費する豊かさという価値観、電力がない恐怖感、脅迫としか思えない。
私が、私の言葉で考えを持っているのか、他者の思考の枠による言葉で考えているのか 、マスメディアの言葉については特に意図がある。言葉の意味を考えよう。