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日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

喜び

2020-06-12 16:49:13 | 日記
    新しい電話機を買った。電話帳を入れ直したのだが、多くの番号が不要になっていた。 これまで、人付き合いなく暮らしてきたので当然のことだ。
    日々の暮らしは、いや応に他人との比較を突き付ける。自分では、そういう事を止めようと思うが、やはり心の底には比較がある。社会は意図してそういう区別を用意している。人の肩書き、店の格、車、自然と区別がある。
    私は、ある意味で世を捨てている。そういう区別の外で生きようと思い暮らしている。それでも、心ではそれを望んでいる事を知っている。それを求める事が馬鹿げた事だと一方で思うのだが、人に承認される事を未だに望んでいる。もう期待しないと考えても理屈ではなく、感情が望んでいるようだ。
    人は、社会的な生き物である以上、交渉、そういうものに喜びがあるのかと思う。同調性そういうものにも喜びがあるように、何か、人との関係の中で比較自体にも喜びがあるのかもしれない。
   私は一人歩もうと思うのだが、そこに喜びがあるのか、それとも、交渉の中で喜びがあるのか。それも私の好き勝手だ。
   喜びは、どこにでもあるように思うが、その種類、イジメを喜びにする人もいる。
   私は、何を喜びにするのか。未だにわからない。

弁当

2020-06-07 17:10:13 | 日記
   今年の春に、子どもの引っ越しをした。行きは、子と妻と一緒に、新幹線に乗り弁当を食べて、帰りは疲れて妻と二人で崎陽軒の弁当をビールを飲みながら食べた。コロナがなければ、東京を観光して、蕎麦でも食べたのだが。
    疲れてたのだが、やっと子どもが一人立ち出来るところまで来たこと、そういうもので満足だ。もっとやれた事もあるだろうが、自分のことでも一杯で、まあ、がんばった方だと思いたい。
    その時は、疲れたけど妻と一緒に子どもの引っ越しが出来た事は、それだけで幸せなことだ。子がいなければ出来ない事だし、子の就職が決まらなくては、また、一緒にいる妻がなくては出来ない事だ。
    時々、幸せな時のこと、そういうものを思い出す。過去を楽しむのは、良い事なのかわからないが、そういう風に思い返すことがあるだけ良いのだろう。
    

パンと時間

2020-06-01 13:28:19 | 日記
    最近、パンを焼き始めた。ピザやフォカッチャは、以前から焼いていたので本格的なパン、カンパーニュやロデヴのような発酵に時間がかかるパンを自分で作り始めた。これまでのピザやフォカッチャは、砂糖を入れてイーストがそれを食べて、アルコールを作っていたのだが、カンパーニュやロデブは、小麦をイーストが食べて、アルコールを発生させる。そのためだと思うのだが、とても香が良いものができる。
 捏ねてから、発酵が終わるまでに4、5時間かかかるのだが、そこから焼き上げに40分程度、完全に冷めないと食べられないから、さらに2時間くらい待つ。
 朝に始めて、夕方に食べられるくらいになる。酵母も自分で起こす事が出来たのだが、これには4日程度かかる。
 こうして作ったパンでワインやビールを飲む。それを楽しみに作っているのだが、自分の技術の向上、出来上がりの向上そういうものが実感できる。パン屋のパンの出来映えのすごさも理解できるようになる。手の仕事の良さは、こういうところにあるのだろう。
 子どもの世話が、後3年で終わる。これが終わった後、自分のために何が残るだろうか。人の中で、仕事以外に人付き合いもなく暮らしてきた。仕事が終わる時が来れば何が残るのだろうか。
    静かに生きようと思い、人付き合いは無い。別に、特に意図した訳でもないのだが、好きなようにしていると自然とそうなっただけのことだ。
    社交的な事に憧れている訳ではない。こういう考え、好みなだけの事だ。
    毎日を、淡々と過ごす。
    歳をとって振り返ると、この時期の事を幸せに思えるだろうか。幸せと思う時には、その幸せはない。そのことに気がつかない時間、後で想い返してようやく気がつく。

雑兵の人生

2020-05-26 07:44:11 | 人生の意味
    漫画のキングダムが好きなのだが、そこでは、主人公を除いては、雑兵は将軍に絶対勝てない。将軍を倒すには将軍でなくてはならない。毎回、つまらなく斬られる人が出てくる。これは時代劇でもそうなのだが、シーンの背景として多くの人が死んでいる。
 映画のプライベートライアンでも、機関銃であっと言う間に人が倒れていた。何の活躍もなく、確率的な数字合わせの為に死んだようなものだ。そのおかげで撃たれずに済んだ人もいるんだろうが。
   雑兵扱いの死に方、多くの人はそういう風に死ぬ。背景として死んでいく。
   雑兵にも生まれてから、子供時代、成人して多くの嫌な出来事、良い出来事、その人の人生そういうものがあった。その事は、誰も記憶せず、その人が消えるとともに消え去っていく。描かれることもなく、人々の背景として生きて来て、知らず消えていく。そして、忘れられる。
   私自身が、そういう者なのだ。
   漫画の主人公のように何か世に聞こえるような人は、意味がある人生だったように見える。そうでなく死んでいく人の方が多いのだが、そのような人の人生は、どんな意味があったのだろうか。
   誰かに褒められるのは、気持ちが良いものだが、逆に貶されるのは気分が悪い。自分の人生を、自分が死んでから他人から褒められても貶されても意味はない、意味を持つのは残された家族くらいだろう。他人の人生を褒めたり、貶したりする人も、同じように人から評価されることになるだろう。
    褒められる人生が良いのかと言えば、責任を負わない他人が何を言おうと、当人の人生の価値が決まるものではない。
    聖書に出てくるユダは、生まれて来ない方が良かったと言われるが、イエスが処刑されキリストと呼ばれる事になるのが予め決まった出来事なら、ユダが裏切る事も予め決まった出来事だ。
    ユダの人生は褒められることはないが、意味はあるし、彼にも少年時代があり、両親や関係した人、様々な出来事があったのだろうと思う。
    イエスとユダの人生の価値は、神学的に大きな違いがあると思うが、人の側面で見ると、どちらもそれぞれに、人であり、自分であり、その生を生きて死んだ。
    雑兵のように背景として死んでいく人々にも、それぞれ家族がありそれぞれの人生を持って死んでいく。
 人生の意味や価値というものが存在するのか。意味や価値は人が付与するものだが、死んでいく当人は自分が生きた生に、生きている間に意味や価値を付与できれば
その人は幸せな人だろう。死んだ後で、自分で人生の意味や価値を自分の人生に付与することはできない。
 こう普遍的な人生の意味とかを問うても、そんなものは存在しない。個人それぞれが自分にどのように満足するか。日々の生活に人生の意味があるのであろう。
 
    
   
    

パンと労働

2020-05-16 10:42:14 | 日記
   パンドカンパーニュを焼いた。ピザに比べると、かなり時間と手間のかかるパンだが、上手く出来た。ザワークラウトにウインナーを入れて炊いたものと一緒にワインを飲む。パンが良く焼けていたのでフランスワインの白、いつものチリワインより大分美味い。
    こういう単純なことで喜んでいる。
    子は2人いるのだが、1人は就職した、1人は未だ学生だが、親がかりだが家を出て生活をしている。子供中心の生活ももうすぐ終わる。
    自分で自分が何をして生活がしたいのか、未だに分からない。今の自分の仕事には、個人的生活からの関心はない。労働と、個人生活は分離している。パンを焼いた時のような喜び、そういうものが、労働にはない。
    労働の中に、自分のやりたいことがあれば、そういう仕事を選んでいれば、そう思う事が多い。どんな仕事でも、当人次第で喜びを見つける事が出来るという考えもあるかもしれないが、本質的な喜びは、そこには無い。付随的に、働く事で人と話す中に喜びがあったりすることは否定しないが、当の仕事が喜びである事とは別の事だ。
    世の中には、金のために働く、それ以上の意味は労働にない。それは、一つの真理だろうと思う。自己実現とか、自己啓発とか、そういう言葉があるが、それは、使用者が自分の都合が良い搾取対象である労働者が、自己の意思と信じてキャリアアップ、技術を身につけてくれればいい、そういうものだと思う。
 何をしていようが、自己が実現されている。好きなことをしようが、嫌だと思いながら何かをしようが、そこにあるのはそれを選択した自己、選択せざるを得ない環境も含めて自己が実現されている。そういうものだと思う。
    人に使われて暮らすのは、現代社会の在りようそのもの、そこに、自分の目的を人に使われる。良いように、自分の目的が誘導されていること、そういう事は多い。
    自分がやりたいことが何であるのか、いい歳をして未だ見つからず、もう見つけることも無いのではと思いながら暮らす。
    そんなものは、初めから無いのかもしれない、もっと、今、目の前のパンの出来を見る、やりたくもない仕事も、黙ってする。それだけ、考えて、どうこうなる訳でもないが、そういう風に、考えるのが良いのか、なるようにしかならない。