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ロスチャイルド財閥-155  東京裁判 暗躍する吉田茂

2023-01-06 01:00:09 | 国際政治・財閥

吉田茂(1878年 - 1967年)戦後初の内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)



東京裁判

東京裁判(正式名は「極東国際軍事裁判」)は、1946(昭和21)年5月3日(金曜日)に東京市ヶ谷の陸軍士官学校大講堂で開始されました。 

A級戦犯28人の「平和に対する罪」の審議が2年10ケ月間も続き、戦争に負けたから責任を取らされます。「ポツダム宣言」で戦争犯罪人の処罰が明示されており、「敗戦処理」からは逃げれません。 

戦勝国からすれば、「ポツダム宣言」を受諾しておきながら、「正義の戦争」と宣(のたま)う日本無罪論を主張する、戦後、吉田茂や岸信介~安部晋三ら首相に尻尾を振る情けない一部の阿呆な産経新聞などの記者は、支離滅裂な姿にしか映りません。 

東京裁判は市ヶ谷で審理されましたが、「国際裁判」であることをわすれてはなりません。 法理論も国際法が優先されます。






暗躍する吉田茂

「戦犯」や「公職追放」される身の危険を感じた政治家たちのなかには、GHQや検察に協力する者がでてくる。 俗にいえば、己の身をまもるために戦友・友達・知人を裏切るのだ。 

日本国憲法制定の章で言及したように、1946(っ昭和21)年2月13日(水曜日)、ホイットニー准将に極右の保守政治家のままでは政治生命が絶たれると脅された吉田茂は、急速に左傾化していった(フーヴァー・トレジャーズ【文書二】)。

1946年3月、吉田外相は秘密裡に日本の外交記録を検察に提供。
吉田の斡旋で、検察局は日米交渉の外交飼料資料を入手。 吉田は、飼料を提供することで、検察活動に大貢献した(栗屋『東京裁判への道』)。 

太平洋戦争の宣戦布告遅配という失態を犯し、「真珠湾騙し討ち」の汚名を着せられる原因を作った外務省は積極的に協力した。

1948(昭和23)年12月13日(月曜日)に外務省官房文書課が作成した「文書課記録班担当の極東軍事裁判関係事務概略」によると、1945(昭和)20年11月上旬にかけてGHQの職員が外務省の記録や残存記録を査察。 翌年の1月15日(火曜日)以降、東京に設立された米陸軍省・海軍省の共同で運営された日本語文献を扱う「ワシントン・ドキュメント・センター」(Washington Document Center・WDC)の係員一行が外務省の記録を査閲した。

GHQが必要とする資料は接収されることになり、2月9日(土曜日)に「大袋入り43個その他内容目録」がワシントン・ドキュメント・センター(WDC)に引き渡された。この膨大な文書は「郵船ビル内のWDC事務所に収納されたが、一部は市ヶ谷極東軍事裁判所内に移され、同裁判に資料として使用された」(外務省『日本外交文書 占領期 第二巻』61書房・2017年)。


吉田茂はこの動きに呼応し、協力を惜しまない。 戦争犯罪を追及することが免罪符になるからだ。吉田は進んで外務省の文書をGHQに提供して、己の地位と権力を安泰にした。

裁判が始まってからも、外務省は検察団(International Prosecution Section・IPS)から資料を求められたが、「如何なるものが要求されたか後になって解らなくなったものが相当数ある」

「提出文書の控えをとっておくのが原則であるが、非常に急がれた時はコピーをとる余裕なく、この点か、何を無いと云ったか全然不明と「IPSにないと拒(すま)ったものが、弁護団から提出されて、IPSから厳重抗議され、書類整備の必要から公文書類提出については、文書課長の下で記録班が外務省に対する要求を一括取り扱う事となった」という(外務省『日本外交文書 占領期 第二巻』)。

当時、吉田茂や外務省に強い不信を抱く人物もいた。 A級戦犯として起訴された橋本欽五郎(1850-1957年・参謀本部ロシア班長・大日本青年党総裁・衆議院議員)の弁護人である林逸郎(1892-1965年)は、1920(大正9)年に東京帝大を卒業して弁護士となり、刑事部を専門に扱い、東京第二弁護士会会長を務めた人物だ。

林は、「日本人弁護団にたいして、当時、外務省が終止不協力の態度をとったことは、あまりにも明確なことであった」と証言する。 満州事変の審議のときがひどく、「陸軍側の主張を裏書きするような有利な証拠は、外務省にいくらでもあるはずだ」と強く主張したが、外務省が提出した書類は陸軍だけでなく「日本にとって不利になる情報ばかりであった」と外務省に対して怒りをぶちまけた。

林弁護士は、戦争には負けたが「裁判にだけは勝たねばならない」と奮闘しており、なけなしの財産を処分してまで弁護にあたっていた。 林は、裁判の証拠資料を固めるためアシスタントを何度も外務省に出向かせ、関連文書の提供を求めた。

ところが、外務省は「そんなものは見当たらないとの」一点張りで、まるでノレンに腕押しだったという。 林は「当時の外務省の役人らは、東京裁判に対しては、このように非協力的であったのだ。
その理由は、いまだに解せない」と不満を漏らしている(林逸郎『敗者』二見書房・1960年)。

外務省文書課の報告によると、日本弁護団からの資料要求,とくに「外務省関係の弁護人はその主力が外務省の先輩であった為、個人的関係を経由して(現役省員)資料を要求してきた。 従って記録を貸し出す時、仮に来た人が裁判に使用する為と明言しない時は記録班では解らず、通常の貸出をしていた」「最も困難を感じた時は、現在外務省が保有していない文書類が退官者の手元にあり、これらが弁護人にさがし出された事である」と記されている(外務省『日本外交文書 占領期 第二巻』)。

ここからも日本の公文書管理のいい加減さが垣間見れる。

林弁護士の被告人は、陸軍大学卒の橋本欽五郎。 A級戦犯の弁護に非協力的であった外務省は、宣戦布告の遅配を隠蔽するため、また遅配の原因を作った大本営の陸軍に復習するために、ことさら陸軍に都合の悪い資料だけを提供したのだろう。

吉田茂は軍国主義の「一味徒党」(軍人・官僚・右翼・財閥)を排除し、対米協調にもなる・鈴木内閣外相東京裁判を歓迎していた。 たとえば、元外務大臣の東郷重徳しげのり(1882-1950年・東京帝大独文科卒・東条内閣外相・鈴木内閣外相・東京裁判で禁固20年の判決を受ける)の嘆願書に署名を求められた際、

吉田は「東郷君は開戦時の外務大臣だから日米交渉が失敗に帰した際に潔く責任を取って辞めるべきであったのに、便々(べんべん)としてその後も外相として居座ったのは、はなはだ心得難い」と断った(日墓吉延『東京裁判』講談社現代新書・2008年)。
                               
出所 『占領神話の崩壊』 著者:西鋭夫・岡崎匡史、発行:中央公論新社  
西鋭夫 : スタンフォード大学フーヴァー研究所・教授
岡崎匡史:元スタンフォード大学フーヴァー研究所・リサーチフェロー

*占領期の日本から多くの公文書が密かに米国に持ち出されていた。 スタンフォード大学・フーヴァー研究所に手付かずのまま残された数万枚に及ぶ極秘文書。これらを徹底的に調査し、新たな発見をもとに、隠蔽された歴史の真実にせまる。








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