スモーリヌイ修道院
1917年8月、ボリシェヴィキの第6回党大会で、党中央委員会の新委員として獄中のトロッキー、ヨッフェなど5名のユダヤ人が選ばれ、中央員会のユダヤ人比率は40%に達しました。
この頃になると、ロシアの国内事情を反映して、ようやくロシア民衆のボリシェヴィキへの広がりを見せ、その指導下に労働者たちは武装して「赤軍」となっていきました。
ペテログラード(サンクトペテルベルグの旧名)やモスクワの市会選挙では、ボリシェヴィキが大躍進し、メンシェヴィキ(穏健派)と社会革命党は激減しました。
いよいよ、ボリシェヴィキ(過激派)の時代となります。 2017年9月1日、ケレンスキー首相は、「ロシア共和国」に国号を変更しました。
社会主義を称さなかったために、ユダヤ人勢力は激怒しました。 しかも、この時、ケレンスキー首相は信頼できる軍勢力を失っていました。
9月4日、臨時政府は態勢に押されトロッキーを釈放しました。 一方で臨時政府はなおも強硬策に出て、革命的なペテログラード・ソヴィエート執行委員会を非合法化しました。
9月中旬、レーニンは党中央委員会に手紙を送り、すみやかに武装蜂起の準備に着手させました。 この頃には、ボリシェヴィキは、ペトログラードおよびモスクワのソヴィエートにおける労働者や兵士の過半数に勢力を広げていました。
9月23日、ペトログラード・ソヴィエートは、臨時政府の反革命性を訴え、遂に革命決起を決議しました。
ほとんどすべての兵士たちも敗戦に次ぐ敗戦に疲労困憊し、食糧にも事欠き、平和を望みました。 前線から兵士たちの代表者がペテログラードに集合し、「即時和平、司令官更迭、ボリシェヴィキ圧迫の廃止、革命政府建設」を要求したのです。
ペテログラード守備隊は、バルチック海沿岸への敵軍侵入を迎え撃つための臨時政府の出動命令を拒否しました。
10月初め、ボリシェヴィキは、「戦線にては平和、後方にては戦争」のスローガンを掲げ、戦争を内線化する方向へと激しい宣伝活動を開始しました。
10月7日、レーニンはペトログラードに潜入しました。 ボリシェヴィキは、人民の広汎な支持得を獲得していることを踏まえ、いよいよ武装蜂起を日程に上らせました。
10月10日、レーニンの提議によりボリシェヴィキ革命の断行が党内で正式決議され、党内に革命断行最高幹部会を組織しました。 幹部会は合計12名中、ユダヤ人7名、ロシア人2名、その他2名、不明1名とユダヤ人勢力が絶対多数を占めました。
12名の名は、レーニン(不明)、ジノヴィエフ(ユダヤ人)、スウェルドロフ(ユダヤ人)、カメーネフ(ユダヤ人)、トロッキー(ユダヤ人)、ウリッキー(ユダヤ人)、コロンタイ(ユダヤ人)、ソコリニエフ(ユダヤ人)、ブプノフ(ロシア人)、ロモフ(ロシア人)、スターリン(ジョージア人)、ジェルジンスキー(ポーランド人)です。
ちなみに、カメーネフの夫人はトロッキーの妹でした。
同日、さらにボリシェヴィキの最高統帥権を握る政治局が組織され、合計で7名中、ユダヤ人4名、ロシア人1名、その他1名、不明1名とユダヤ人が過半を占めました。
7人の名は、レーニン(不明)、トロッキー(ユダヤ人)、ジノヴィエフ(ユダヤ人)、カメーネフ(ユダヤ人)、ソコリニエフ(ユダヤ人)、ブプノフ(ロシア人)、スターリン(ジョージア人)です。
10月16日、ボリシェヴィキ党中央委員会の指令によって、軍事行動を統括する軍事革命委員会がペトログラード・ソヴィエートの下に組織されました。
軍事革命委員会の中核には、スターリンらの党中央部がありました。 軍事革命委員会は18人からなり、トロッキー、ヨッフェ、スウェルドロフ、モロトフ、ウリツキーなど10人のユダヤ人、5人のロシア人、およびレーニン(不明)とジェルジンスキー(ポーランド人)の他一人のコーカサス人というように、やはりユダヤ人が大勢を占めました。
10月17日、軍事革命委員会はペトログラードおよび近郊の軍隊に革命の通告を発し、大多数の部隊は武装蜂起に賛成しました。 ペトログラード守備軍は、もはや臨時政府を認めず、ペトログラード・ソヴィエートが自分たちの政府であるとの決議を行いました。
同じ10月17日、トロッキーは、アメリカ人ジャーナリストのジョン・リードに革命に対する考えを語っています。そのなかで彼は、
「ロシア革命の圧力は、無併合・無賠償・人民の決議権の講和とヨーロッパ連合共和国の実現の方向へ向けられるであろう」「この戦争の終わりには、ヨーロッパはプロレタリアートによって改造されると思う。 ヨーロッパ連合共和国(ヨーロッパ合衆国)、これにならねばならぬ」と述べています。
「ヨーロッパ連合共和国(ヨーロッパ合衆国)」は。まさにロスチャイルド家好みの言葉です。
10月21日には、トロッキーがペトログラード・ソヴィエート議長と軍事革命委員会委員長の両方に選ばれました。このことは、レーニンにとって武装蜂起に向けての大きな力となりました。
10月23日、ボリシェヴィキ中央委員会は、トロッキーが率いるペトログラード・ソヴィエート軍事革命委員会の名でペトログラード市民に対して布告を出して治安維持ならびに行政機能が事実上、中央委員会に移ったことを宣言し、政府への宣戦布告を行いました。
10月24日の寒い朝、ボリシェヴィキはスモーリヌイ修道院を占領して要塞化しました。 その3階にはトロッキーを中心とした軍事革命委員会の部屋があり、革命をめぐるあらゆる情報が集まり、会議が休むことなく続けられていました。
ケレンスキー首相は、ロシア共和国臨時会議の演説で、ボリシェヴィキとレーニンを「革命の裏切者」「ドイツのスパイ」と呼んで激烈に弾劾しました。
ケレンスキー首相は、武装蜂起クーデターの切迫を察知し、再びボリシェヴィキ指導者の逮捕を試みましたが、もはや事態を好転させることはできませんでした。
臨時政府の枢要機関にはボリシェヴィキが浸透し、軍は臨時政府から離反していました。
10月24日の夜、レーニンは、歴史的文書「中央委員会への手紙」を書き、武装蜂起の即時決行を司令しました。
次の投稿はいよいよ「第二次ロシア革命・10月革命」です。
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