ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

日本人になりたかったアメリカ人

2019-11-22 | アメリカ事情

ドナルド・キーン氏、大津市馬場、義仲寺にある芭蕉の墓にて。1955年。(セイキ・キーン所蔵の写真)


夫と私の出会った大学で、夫は日本文学のクラスを取り、私はその教授に授業の合間を縫って働いた。二年目には私も興味があった400レベルの日本文学クラスをEasy A(たやすく取れるA)を取るためにも、履修した。その時よくコロンビア大学のドナルド・キーン教授の書物を読み、彼の知識に圧倒されたりした。日本語や日本文化をアメリカで学ぶ人には、ドナルド・キーンは必ず耳にする名前で、その著作は一度は必ず手にしているはずである。その博士は今年二月亡くなったが、彼についてコロンビア大学機関紙に載った記事をここに掲載する。作者は例の如くポール・ホンド氏である。


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アメリカの一流の日本学者、ドナルドキーンを追悼して

このコロンビア大学教授は、選んだ祖国日本と彼の学生のために生きた。

 
 
コロンビア大学を卒業したジャーナリストのフレッド・カタヤマは、日本の記者として5年間働いた後、1994年にニューヨークに戻り、彼の恩師ドナルド・キーンに連絡し、キーンの誕生日に共に夕食を一緒にと依頼した。カタヤマはキーンの日本文学の学部課程を履修しており、恩師を忘れていなかった。二人はキーンの誕生日の夕食に行き、次の25年間、この儀式を繰り返した。
 
今年の2月に96歳で亡くなったコロンビア大学教授のキーンは、西洋における日本文化学の第一人者だった。彼はコロンビアで56年間教鞭をとり、数十冊の著作をした。文学と歴史の間を流動的に移動し、能楽や明治天皇に関する主要な作品を執筆し、友人の三島由紀夫や阿部公房を含む多くの日本の詩人や作家の作品を英語に翻訳した。 1955年に出版され、現在も印刷されている彼の日本文学選集と、記念すべき4巻の「日本文学の歴史」は、日本文学についてあまり馴染みのなかった西洋人に恩恵をもたらした。
 
しかしカタヤマにとっては、キーンの学識に個人的な意味あいがあった。 60年代にロサンゼルスで育ったカタヤマは、日本の伝統をむしろ恥じていた。たまたまコロンビア大学で、キーンのクラスを受講し、文化「風景とポートレート:日本文化の鑑賞」という彼の著書を読んで、日本文化のはかないものへの審美主義の原則を理解し始め、さらに探っていったのだった。 「彼は日本への私の目を開かせたのです」と、カタヤマは言う。
 

「ドナルドは、どんな西洋人よりも日本について多くのことを知っていました」と、コロンビアの歴史学教授の一人キャロル・グルックが言う。
「彼にとって、日本文学は世界文学の一部であり、それを日本語で読む必要はありませんでした。 彼は私たちに日本文学を愛する方法を教えてくれましたー興味を持つだけでなく、それを批判するだけでなく、それを愛するために、です。」

1986年に設立されたコロンビアのドナルドキーン日本文化センターのアシスタントディレクターのヨシコ・ニイヤは、「キーン教授は、小柄で、静かに話す、穏やかな方でした」と述べている。「でも講義では、彼の愛と情熱の満ちた雰囲気を感じることができました。」

キーンはブルックリンのフラットブッシュで育ち、16歳でコロンビア大学に入学し、ギリシャとフランスの文学を学んだ。 「ドナルドは早熟だったが、コロンビアは彼を知的に形作った」とグラックは言う。 「彼は感じやすいティーンエイジャーが核心に出会ったときに何が起こるかの完璧な例です。」

キーンは、詳細に語ることを好んだ。それによれば、「日本」との最初の接触は1940年に学部生としてタイムズスクエアの書店のショーウィンドウを通りがかり、広大な11世紀の世界初の小説と言われる源氏物語の一冊49セントのコピーを見たときだった。そのバーゲン品に惹かれて、彼はそれを買った。そしてヨーロッパの野蛮な文化よりも、キーンは、光源氏のロマンチックな陰謀と平安時代の宮廷の絶妙な礼式に没頭した。そして1941年12月7日、日本は真珠湾を爆撃した。米国は戦争に突入した。

平和主義者であるキーンは、1942年2月にアメリカ海軍日本語学校に入学した。 そこで彼はセオドア・”テッド”・デ・バリィ(同じくコロンビア大出身)に出会い、二人は通訳としてハワイに送られた。キーンは捕虜を尋問し、死んだ日本兵の日記を読んだ。戦後、彼はコロンビア大の日本研究の主流である角田柳作(コロンビア大に日本文化研究所設立し、そこのキューレイターでもあった)のもとで大学院へ進むためにコロンビアに戻った。彼は1955年にフルタイムで教え始めた。

教師として、キーンは、時間を厳守し、ジャケットとネクタイを身にまとい、教える課題に喜びを感じながら、ノートなしで講義し、学生に自分の洞察についてを直接伝えた。 「私たちは皆、彼をセンセイ『先生』と呼びました。」と、コロンビア大学C.V.スター東アジア図書館の元館長のエイミー・ハインリッヒは言う。「”センセイ”は教師・先生を意味しますが、それは敬意の言葉でもあります。彼は生涯、私たちの先生でした。」

キーンは2011年の春コロンビア大学で最後のクラスを教えた。翌年、彼は帰化して日本国民となり、東京に常在して生活する日本人となった。 「最初は私の祖先とは関係がなかった日本人、私の文学の趣味、あるいは自分自身を一人の人間として認識していた日本人は、私の人生の中心的な要素になりました」とキーンは彼の回想録クロニクルズオブマイライフ(私の人生の年代記):日本のこころに書いている。

昨年8月、カタヤマは「愛する先生」の自宅を訪問した。二人は近くのレストランに行ったが、あいにくレストランの定休日だった。しかしレストランのオーナーはキーンのために店を開き、キーンのお気に入りの食事を作ってくれた。 「ドナルドは天皇と皇后について話していましたー彼は両殿下を知っていらして、両方を愛していましたね。それから彼の親友である故テッド・デ・バリィに関する本を仕上げつつある、と言い、もうそれ以上研究はしていないと言いました。それは聞いて私は悲しく思いました。」

晩年の数ヶ月で、キーンは多くの友人訪問を受けた。 「彼はとても疲弊していたように見えました、」とグラックは言う。「それでも最後まで、彼が一番会いたかったのはかつての教え子たちでした。」

キーンは今年2月24日に心不全で亡くなった。彼の死は世界中で話題になった。 天皇と皇后は葬儀場に花輪を送った。 4月、東京での公開追悼式には、ハインリッヒを含む1,500人が集まった。 そして、ニューヨークで、フレッド・カタヤマは、彼が日本のもつ無常の美しさを発見するのを助けた先生に敬意を表して、ドナルド・キーン・センターに寄付をした。


 

 
我が家の書棚にもあるキーンの著書
キーンの著書は、非常に理解しやすく、彼がいかに聡明な書き手であったかがわかる。


コメント (2)
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