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ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

絶対に絶対に絶対にあきらめないで

2021-06-09 | アメリカ事情 人間性

doodleunlimited.com

 

 

 

思わぬうちに間違った道を進み始めても、再びあるべき道を進められるのは、人生の温情であり、信仰を持つ者には、神の御加護であり、あるいは、その人自身の動機付け・やる気がむくむくと心の奥深くでその頭をもたげたから、なのかもしれない。四年前のブログに、私は、「エンリケ」と言う素晴らしい大学院生について書いた。彼も、道をあやまったが、まだ若いうちにそれに気付き、行くべき道を歩き始め、今やUCバークレイでの博士号を持つ人となった。こうした事実は、何もエンリケだけではなく、ある若い女性にも起こった投稿がフェイスブックにあった。

オハイオ州のある若い女性の覚醒剤、麻薬などの薬漬け生活からの回復前後の写真が Facebook で数千人に共有されており、道を変える時がいつでもあることを証明している。

「私は、公園のベンチで腕に針を刺したまま死んでいるか、頭を銃で撃たれて死ぬのだろうと正直思っていました。私の人生が今日のようになるとは、百万年にいっぺんも想像もしなかったでしょう」 」と、ジニー・バートンは彼女の過去の写真にキャプションを付けた。

6歳の時、バートンは母親からマリファナを紹介されたと言う。 12 歳の時には、彼女はメタンフェタミンとコカインに夢中になったと言う。 14歳までに、彼女はクラック・コカインを吸って酔いつぶれていた。

彼女は少年院に出たり入ったりを繰り返していた。 3 回投獄もされた。 8年前までそんな悪循環の人生だった。

「8年半前の私の人生が今のように見えるとあなたが言ったら、私はあなたを嘘つきと呼んでいたでしょう」とバートンは10TV局に語った。

来週、バートンは政治学の学士号を取得して卒業する。

彼女のフェイスブックへの投稿は何千人もの人々に共有され、中東、スイス、スペインにまで届いた。

「自分を安売りするのはやめましょう。明日何が起こるか分からないので、今日から始めることを検討してください。」と彼女は言った。

 

Credit: Ginny Burton

 

 

 

 


ある看護士のつぶやき その2

2021-06-01 | アメリカ事情 人間性

 

 

 

 

パンデミックのない生活に戻っていくのは嬉しいことです。私の患者たちが、救命救急室を生きながらえて抜け出て、回復していく途上にあるのを目にしてとても嬉しいです。私の子供たちには他の子供たちと遊んでもらいたいし、愛する夫には、かつてのように見知らぬ人とでも友情を結んでもらいたいです。私は彼が一人で外出を自由にできた以前が懐かしいです。これらのことはみな可能だと思いますし、知っています。しかし、それでも、以前には戻れないと思うこともあるのです。

550,000人を超えるアメリカ市民、または世界中で300万人を超える人々の死について、人々がさりげなく、気にかけていない話し方をしたことを忘れることはできません。私は、友人が65歳以上の隣人の健康の統計上の可能性よりも、たった20分間の買い物で顔にマスクを付けなくてはならないことを煩わしいと気にかけているのを見ました。市民は、医療従事者ができることの可能性を超えてしまう病気の蔓延を必死に食い止めているよりも、マスクを装着することやロックダウンの必要性よりも「個人の権利」についてもっと気にかけて関心を寄せているのです。2020年に看護師として扱える以上の医療現場で何度も限界の壁にぶつかったことを覚えています。涙ながらに同僚に「これは現実なの?!」と訴えたことを覚えています。

 

latimes.com

 

私たちは溺れているのに、誰も気にしませんでした!私たちの患者は死にかけていました、そして誰も気にしませんでした!そして今、状況は良くなっており、一部の人々はCOVID-19は大したことではないと言うようになっています。そして、それを 誰も気にしないようです!私、私の同僚、そして300万人の死者の遺族を除いて。
昨年は、トランプを追放したり、銃規制を改革したり、とんでもないガソリン価格の値上げ引き上げのための単なる政治的策略の年ではなかったことを私は覚えています。

今のところ、それ以上に私は言うことはないと思います。それは疲れ果てて、悲痛にくれているからです。私の心が癒されるのかと思うとき、途端に無慈悲な言葉が壊れた破片の上を私に歩かせます。

私の夫は先に私に言いました、「ブリー、彼らはただ知らないんだ、無知なんだよ。」

私はこう答えました。 「2020年にCovid−19感染のために看護師として行なったことを経験するよりも、パンデミックの現実を知らないほうがどれだけいいかと思うわ。」

ですから、政府によるパンデミックの誤った取り扱いについて論じているときに、遠く離れたところで幽霊のような顔つきの看護士の友人を見かけたら、その理由を理解してみてください。看護士として触れてきた人は、これまでにないほどの数でした。私は政治家が時にはペテン師のような状況を演じていると信じます、物事がCOVID-19に関して間違いながら扱われていたことを知っています、しかし私達はそれよりも大きくいなければなりません。私たち人間は、お互いに思いやりを持って世話をするために、政治やこの世界の喧騒を超えなければなりません。パンデミックの後で何かが正常に戻ることができれば、多分それはそれである可能性があります。

 

ndworks.nd.edu

 


ある看護師のつぶやき その1

2021-05-30 | アメリカ事情 人間性

rcni.com

 

【注】下記はアメリカのある看護士の手記からの抜粋である。この一年余りCovid−19との戦いの最前線で心身粉にして働いてきた彼女への感謝は尽きることはなく、また、その苦悩・苦難を私たちは知るべきかもしれない。長くなるので、二回にわたって載せる。

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つい最近CDC(合衆国の疾病管理予防センター)は、マスクなしで(ワクチン接種終了ならば)どこへでも行けると言いました。それに伴って様々な場所で「要マスク装着」というサインを取り除いているのを見かけます。ディズニーワールドは、米国での疾病率低下、死者が激減し続けている日数、ワクチン接種率などの数字が日々良い方向へ更新されているのを手っ取り早く利用して開園しています。私は、他の誰でもと同じように、通常のCovid-19以前の世界に戻ることにワクワクしていますが、それと同時に手放しで喜べない心境もあるのです。

マスク着用の義務がなくなり、プレキシガラスの仕切りが取り外され、社会的距離の要件が緩和されたとき、それは私が望むように古き良き時代に戻るという幸せな気持ちの到来を告げるだけではないのです。また間違った火が放たれ、好ましくない結果を生むような理論を永続させるのではないかと言う危惧も私にはあるのです。

COVID-19が政治的策略だと思っている人が、少なくないのです。同様に、パンデミックが政府による国民支配の試みであると確信しているFacebookフェイスブックの「友人」たちを合計するには、おそらく両手以外に、靴を脱ぎ両足の指が必要になります。2020年の行動の多くが政府の行き過ぎな支配である証明だと言う人たちも、真実を見ず、気付くことさえありません。しかし、私が以前に聞いたポッドキャストが、ソーシャルメディアを「悪魔の汚水溜め」と呼ぶのも不思議ではありません。

要点は、パンデミックが吹き払われると、その深刻さも風のように飛んでいくということです。もしあなたの知人の誰もがこの病の影響を受けていないのならば、ウイルスを減らすのは至極簡単です。遠いインドからの感染状況ニュース記事だけを知るならば、インドではない所に住む人々の安全を守るために民主党政権が必要以上に国民を支配しようとしたと非難するのはかなり簡単です。おそらくどこか遠い地にだけあったCOVID-19が本当は大したことではなかったとさえ信じることができたでしょう。でも実際にCovid-19は大したことであったのでした。少なくとも私にとっては非常にそうだったのです。

私は救命救急看護士であり、そのキャリアと経験のうちで2020年は最悪最低の年でした。9−11後の戦争の起こり始めた時、軍隊での任務期間を過ごした私は、両手や片足を失い、かろうじて片足だけが残った若い男性兵士たちが、何十人も私のいた医療施設へ担ぎ込まれたのを見たことよりもずっとずっと悪いことでした。少なくとも私が合衆国の地で見た勇敢な負傷兵士たちは生きていました。 Covidパンデミック渦中ではそうではありません。

個人的に言えば、私の働く医療施設だけで、数百人の死を見てきました。高齢者だけでなく、複数の健康問題を抱えている人もその死者の中にいます。特に私より若い3人の子供を持つ母親を覚えています。私は彼女が腹臥位にならなければ死ぬかもしれないと彼女に警告しようとしました。当時、それはCovid-19感染患者を最も助けると思われたやり方でした。翌日、彼女は症状悪化に陥り、重症呼吸不全患者または重症心不全患者のための体外式膜型人工肺が挿管されました。一週間後、彼女は亡くなりました。去年はあまりにも多くの患者がそうした経路を辿ったのでした。

私は同僚がPPE(Personal Protective Equipment=防護具ーマスク、フェイスシールド、キャップ、手袋等)を装着したままで、感染患者となった彼女の夫が亡くなる前に別れを告げるのを見ました。私は心が受け止めることができそうにないほど多くの家族の方々と電話する中、泣きました。普段は剛健な男性が症状の悪化に伴い、その瞳から希望の光が消えていくのを見ました。呼吸するために無駄に戦ってきたような毎日に、感染患者たちの瞳から輝きが失われ、薄暗くなっていったのを私は見てきました。それは彼らが勝てなかった戦いでした。そして悲しいことに、それはどんな病院も医師や看護士も勝てなかった戦いでした。

 

 

看護師としての私の仕事責任は、病人が治癒するお手伝いをすることです。私の20年間の看護師歴では、ホスピス看護で2年間の任務がありました。私はそれが大好きでした。困難な人生経験の終点に向かう患者とその家族の世話をすることは非常にやりがいがありました。私は患者を(世を去る前に)準備し、支援し、慰めることができました。言うまでもなく、遺体安置所がいっぱいになり、これ以上遺体を安置できない事態はこれまでありませんでした。

看護師として、私は死にゆく患者に対応することができます。昨年の問題は、患者全員が介護をし尽くしても亡くなってしまうことでした。集中治療室にどなたかが患者として入った場合、そこを退室するときは、その方は遺体バッグに入れられて、でした。救命救急室を生き残られた患者数を数えるのは片手でできました。なんとおぞましく、割り切れないことでしょうか。

介護・看護とは手助けをすることです。誰もCOVID-19で死にたくはなかったのです。患者たちは生きたかったのです! そして、看護士が医療施設で、まるでホスピス介護・看護士のようになったとき、私たちの士気は衰弱していきました。私は2020年からいまだに、PTSD(心的外傷後ストレス症候群)の反応を示しているのです。私の行動は、Covid-19に関する統計の数値が改善されている今でさえ、毎日シフトごとに多数の患者が亡くなるのを見て経験したトラウマによる悪影響を受け続けているのです。

私は信仰を持つ女性です。教会が人々にその門戸を開け始めたとき、私は家族を連れて行きませんでした。悲しいことを見過ぎてしまったのでした。私の信仰が怖れに勝つことがあるのだろうかとさえ思いがちになるのが、私のトラウマ反応の一部でした。私はまだ家族を教会に連れ戻していませんが、家にいるときそっと私にささやき脅かすのはもはやコロナウイルスではありません。PTSDは 私に永続的な効果を与え続けているのです。ワクチン、時間経過、集団免疫があれば、COVID-19を乗り越えることができます。しかし、人々の不注意な言葉、憎むべき態度、ほとんど利己主義とさえ言える言動が、クリスチャンが良きクリスチャンであろうとするのを阻むのです。2020年と言う州公認看護士として人生で最悪の年に、毎日患者の死を多く見て、ウィルスを嘲り笑い、まるで仮想敵だとして、事実を見ない人々と交わりを共有するのは耐え難く難しいことです。私は夫と一緒に家にいて神を崇拝しているところです。神、私の配偶者、そして私の仲間の救命救急看護士は、私の心がこの1年でバラバラになった理由を理解している数少ない人だからです。

 

www.sheffield.ac.uk

 

 

その2へ続く

 

 

 

 

 


車に残されたメモ

2021-05-24 | アメリカ事情 人間性

feline-nutrition.org

 

 

SNSに投稿されたこんな記事を見た。つい2月のことである。

ある夫婦が新しい家に移るまでの間、借りることになった家へ引っ越してきてしばらくしたある日、夫婦の車のフロントガラスのワイパーの下に心温まるメモを見つけた。

そのメモは、近所に野良猫がいて、その付近の住人が何年もの間餌を与え続けていて、新しい隣人に動物管理局に電話して駆除を頼まない様に、知らせたかったと説明していた。

「妻と私は、次の家に引っ越せるまでこの借家に住むことになったのですが、とても心の温かい隣人がうちの車のフロントガラスの下にメモを残してくれたのです。」

そのメモとは下記。

「私の名前はエイミー・ジャクソンです。私はあなたがたが、この家の新しい所有者(あるいはレンター)とあなたのお向かいの隣人から聞きました。おそらく既にお宅の裏庭に三つの餌ボールと一匹の赤茶と白の混じった猫がいるのにお気づきかもしれません。この雄猫は、クージョーと言い、以前住んでいらしたこの家の所有者に許可を取って、給餌をしてきました。彼女(以前の居住者)がこれについて心配した時に用意したこの通りの隣人たちへの状況説明の一部を記します。

『私の両親は42番街/オーシャンフロント通りに何十年も住み、16年近く前に捨てられた子猫が現れたときにその仔に餌を与え始めました。私の母はこの猫に避妊去勢手術と最初の一通りの予防接種をさせました。クージョーはいつも同じ街区内にとどまり、ほとんど毎日をここら辺の低木の茂みで過ごしていました。しかし、私の両親は3年前に55番街(私の家族の隣)に引っ越しました。私たちはこの猫を人道的に罠にかけ、両親宅に移動させようとしましたが、私たちのやり方に嵌るにはあまりにも頭が良かった様でした。残念ながら、この猫の代わりにアライグマ、ポッサム、キツネが罠にかかっていました!

それでも、とにかく、あなたの裏の家を所有している紳士は、親切にも彼の庭でこの猫に給餌しても良いと申し出てくれました。クージョーは歯がもろくなり、自ら獲物を取れなくなり、今では私が毎日持ってくる缶詰の餌に頼っています。

この猫はとても長い人生を送っており、慣れ親しんだ環境で最後の日々を過ごさせるのが最良なので、どうか動物管理局に電話連絡なさらないでください。彼はかなり物怖じするので、手をたたくだけで急いで逃げます。』

私の電話番号は...そしてメールです....ご質問やご懸念がある場合ご連絡ください。

ありがとうございます、そしてご近所へようこそ、

エイミー」

良き人々はいまだ健在です!

 

 


遅いことはない

2021-05-18 | アメリカ事情 人間性

 

 

GUS CHAN

カール・アランビー医師

 

 

カール・アランビーはある問題を抱えていた。それは彼の自動車修理事業についてだった。彼は19歳の若さで修理業を始め、友人のガレージの一部を借り、一人で働いてきた。何年かの間に、11人の従業員を抱え、2つのショップを持つまでに成長したが、アランビーはもっと何か他に遣り残したしたことがあったのではなかったかと思い始めたのだった。最初、彼はそれが自分のビジネスをさらに成長させることに関係しているに違いないと思った。そのため、34歳のときに、オハイオ州ビーチウッド住民の彼は、経営学の学士号を取得することにした。

次の5年間にパートタイムでクラスを受講した後、アランビーは学位を取得するために生物学を受講する必要があると言われた。彼が受けた最後の生物学のクラスは9年生の時だった。アランビーは、生物学を何のために取る必要があるのか​​と考えた。

結局のところ、それは起こり得た最高のことだった。生物学の授業は、彼が自分の奥深くに隠れていた子供の頃の夢を再燃させた。 「初日の後、私は若い頃に持った医者になりたいという気持ちを思い出しました」とアランビーは言う。 「私は高校や人生のどこかでその夢を失いました。若いときは、何でもできると感じます。そうすれば、世界はあなたにまったく違った方法で教えてくれるようです。」

オハイオ州イーストクリーブランドで生まれたアランビーと彼の5人兄弟は、専業主婦の母親と家庭用品を訪問販売していた父親によって育てられた。 「ご想像のとおり、あまり裕福ではありませんでした」とアランビー氏は言う。

貧しいアフリカ系アメリカ人の多く住む地域で育った彼は、自分の夢を追求することへの期待が多くの障壁に直面するのを経験した。黒人の多い学校は、彼を進学課程に導いたかもしれない高度な科学の授業を提供してはいなかった。たとえそうであったとしても、学校でうまくやっていく(勉学に励むこと)は危険に面することだった。 「クラスのオタクであるだけで、多くのトラブルに巻き込まれる可能性があります」とアランビー氏は言う。 「飛びかかられて殴られる恐れがあるため、教科書を家に持ち帰らないことがよくありました。」そこで彼は、より現実的な仕事の進路である車の修理を学ぶことにし、医者になるという考えを脇に置いた。

しかし、その時とは違い、大人になった別のカール・アランビーは39歳でその生物学のクラスに足を踏み入れた。今までチャンスは彼を一度か二度訪れたかもしれないが、彼の満足には至らなかった。彼は夢を生きる準備ができていた。妻と家族の支援を受けて、彼はビジネススクールを飛ばし、医療従事者としての人生2番目のキャリアに必要な理科の授業を優先することにした。彼が50歳に近づくときに医者になることは正気ではないように思えた。彼はそれでは代わりに看護師、医師の助手、または妻のような理学療法士になろうかと考えた。

しかし、クリーブランド州立大学のアランビーの化学教授は、ある日授業の後で彼を呼び止めた。 「カール」と彼は言った。「あなたはここで一番年上の男性のようです。あなたにとって最後のゲームは何ですか?」

アランビーは、自分がどのように医者になりたいか希望したことがあるが、医師というよりやや低い目標を設定する方が現実的だと思うと答えた。

「どうして医者だといけないんですか?」教授は尋ねた。 「あなたはその仕事に対して素晴らしい素質を持っています。あなたは医師になれば長い実りのある道を歩くことでしょう。」

教授は正しかった。アランビーは彼のすべてのクラスで上位になった。 「自分の外側に立っている人が、私自身の内にさえ見えなかったことを教えてくれました」と彼は言う。

そして2015年、アランビーは彼の過去との関係を断ち切った。2つのショップとそこにあったすべてのものを競売にかけた。 「私は積み上げた一生を数時間で売りました」と彼は言う。 「それは解放的なことでしたね。」そして彼は北東オハイオ医科大学へ行った。

2019年、47歳で、カール・アランビーは医学博士カール・アランビーになった。彼はクリーブランド・クリニック・アクロン総合病院で救急医療医学の研修医になった。アランビーが研修医2年となった今、仲間の研修医たちは、彼が部屋の「老人」であることを決して忘れさせない。 「80年代のジョークのいくつかは彼らにはあまり受けないんですよ」と彼は笑う。

彼が今リードするようになった人生に支払うのは小さな代償である。 「人生のこのような後期段階で、これほど真新しいことをし、多くの刺激と責任を持つことができる人は何人いるでしょうか?」 「私の子供たちは私を尊敬してくれています。私のコミュニティは私を尊敬してくれています。私が生まれ育った地域環境の統計から見て、私は医者になるべきではないと非常に多くの人々が言うでしょう。私の年齢、人種、育ち、過去のキャリアは、私が今ここにいるべきではないと言う理由になります。それでも私は今ここにいるのです。」

 

CHRIS SMANTO/COURTESY NORTHEAST OHIO MEDICAL UNIVERSITY

アランビー氏は医学部を医師として卒業。 「私の新しい人生は、長い間すでに(医師として)生きてきた人生のように感じます」と彼は言う。 「たまたま、車を修理する代わりに、人を修理しているのです。」

 

参考:Reader's Digest