goo blog サービス終了のお知らせ 

ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

いつか

2024-04-24 | 私の好きなこと


不意の来訪者が応接間に入る時、「あ、散らかし放題ですみません。子供たち(孫たち)がまだ小さくて。」と、言い訳がましいことを口にする経験は母親・祖母のどなたでもおありではないだろうか。あるいは、私だけかもしれない。少なくとも私はそれを15年以上続けてきたし、空の巣時代に突入しても、子供たちの雛形の子供たち(孫)という戦陣が控えている。

現役の育児期には、いつか、子供たちが成長したら、親の人生は「変わる」、「変わるはずだ」、「変わるかもしれない」、やがて「おそらく無理かもしれない」という変遷を経ている。

冷蔵庫のドアに色とりどりの付箋が貼られ、「子供#3午後 2 時に小児科医」や「#2,#3, #4木曜日午後6時カブスカウト101隊のパック・ミーティング」、「#1~5水曜日ピアノレッスンは金曜日に変更」(注:#1~5は長子から末子の略)だのが、いつかは、「火曜日午後、美容院」、「土曜日午後夫婦でアート ギャラリーを閲覧」、「月曜よりヨガ レッスン開始」と書かれることを夢見たものだった。

いつか子供たちが成長したら、家から落書きが絶対になくなるはず。 壁に緑色のクレヨンで描かれた「作者」のお名前(それでも「自白」はなし)、車の後方ウィンドウの埃に、Clean Me!!!!!(綺麗にして!!!!!)と指で描かれた言葉、そして固形石鹸に刻まれたイニシャル(容疑者はイニシャルだけに上がっているが)もいつかなくなることだろう。

いつか、子供たちが大きくなったら、引きちぎられたテディベアの鼻や目、時には手足を縫い付ける緊急手術をしたり、幼児がドッグフードを食べようとしている寸前で止めたり、午餐に訪問客をお呼びしてあるので、白いテーブルクロスを広げた途端、赤いガミーベアがべっとりと貼り付いているのを発見し、大急ぎで洗濯を始めねばならなくなり、予定した文化的なこと(つまり読み始めた本を最後まで読み通す)を変更することもなかろう。

いつか子供たちが成長したとき、ベッドの下でひっそりと茶色く干からびたリンゴの芯も、トイレットペーパーがすっかりなくなって、その芯だけが、ハンガーの空のスピンドルに残っていることも、デニムジーンズのポケットにひそやかに潜むビニールのやけにリアリスティックな毛虫も見つからなくなるだろう。 そして、机の引き出しの中には削って使用準備の整った鉛筆が入れた時のままあり、冷蔵庫の中に残ったパイのスライスが入れた時から微動だにしていず、もちろん齧った歯形もなくあり、日曜新聞の漫画ページがまだ残っているのを見つけることができるだろう。


いつか、子供たちが大きくなったら、キーシュ・ロレーインやホタテ貝のアマンディーヌ、あるいはただの芽キャベツと玉ねぎを炒めただけを作っても、誰も「うへ〜!!」とは言わなくなるだろう。 「ホットドッグがあればよかったのに!」 または、「隣のブランドンは、幸運だよ。母親は夕食にチョコレートバーを食べさせてくれるんだ。」といううそぶきは聞こえないだろう。

そして、私たちが文化的に、たまには、と、蝋燭の明かりで食事をしていても、誰も「もっとおいしくするために」エンドウ豆やにんじんをフォークにさして、その蝋燭の火で焼こうとしたり、食べ終わったら誰が、その蝋燭の火を吹き消すかについて一大論議・紛争が勃発したりすることはないだろう。

いつか、子供たちが成長したら、何艘もの赤や緑や青のプラスティックのボート、ゴムのワニ3匹、湯によって色の変わる金魚のおもちゃを数種、そして濡れたテニスボールを浴槽へ、放り入れなくても、お風呂の準備ができるようになるだろう。いつか 私自身は丸一時間、熱い湯気と微かな芳香のある泡のバスタブで贅沢に過ごせるはずだ。#1から#5の誰かが、あるいは5人全員に、ドアを拳で叩かれることも、「ママ、早くして!お手洗い行きたいから。」と叫ばれ、「他の二つのバスルームへ早く行きなさい!」と叫び返す必要はないだろう。
そう、いつか、子供たちが成長したら、人生は変わるだろう。

そして子供たちはいつの間にか私たちの巣を離れ、家は静かになり、穏やかになり、夫が逝去し、私には未亡人というタイトルがつき、下の応接間でピンを落とせば、2階の寝室でその音を聞けるほどの静寂だけが残された。
そして、私はそれがまったく気に入らなかった! 

...この先「いつか」ではなく「かつて」を振り返りながら過ごしていくのだろう、と感傷的になっているうちに、ほぼ1歳と5歳のヤンチャな孫息子たちが見事に花咲爺さんの如く, おもちゃをばら撒きながら、一歳児は一歳児言語で、そうすることの正当性を理論付ける。

これでいいのだ、と、ワセダの隣のバカタ大学出身のバカボンパパは、きっとそう言うだろう。私もそれに同感する。

夫や私の周りにいたのは、訓練中の天使たちだと認識したら、それが「いつか」なのだろう。


もちろん、おもちゃ箱はこれだけではない
これだけの筈はない。決してない。
お蔵がいるほど。
孫#10。







ソウルメイトとの出会い

2024-04-14 | 私の好きなこと



アール・ハインツ氏は、アメリカで認定起業家アドバイザー プログラムをUCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)、USC(南カリフォルニア大学)やその他のカレッジなどで教え、合衆国有数の会計事務所で税務マネイジャーを務め、多くの独立公認会計事務所を設立してきた。コペンハーゲンで税務マネイジャーをしている次男が目指したい、と思うような人物である。

この高名な方はビジネスや税務や会計のことばかりが、彼の頭脳を支配していると思っていた私は、しばらく前にハインツ氏の別の面に甚く(いたく)感服した。そして彼の語ったことは夫や私の考えていたことにとても近かった。

私たち夫婦も大学時代に出会い、最初のデートから、お互いがお互いに唯一無二だと「わかっていた」(というよりもピンときた)ので、5人の子供たちに話してきていたのである。そして夫のこの世からの卒業によって結婚は42年目でしかなかったが、お互いのOne and Only(唯一無二)であったのは未だ真実である。
 
それは、ある方があるコラムで次のような質問をしたのに始まる。

ソウルメイト(親しい友人や恋人あるいは婚姻相手として最適な人)は大学時代、あるいはその後の人生で見つかりますか?
 
それに対してハインツ氏は、こう答えた。

付き合っている女性が「あの人」(結婚するに相応しい人)だと知っている男性の視点でお答えします。 そして結婚して43年経った今、私はそのことをさらによく知っています。

ソウルメイトをどうやって見分けますか? 人は「あなたのソウルメイト」なる表示を身に着けておらず、「正確に正しい質問」(あなたは私に相応しい方ですか?)をすることもできず、心のときめきと舞い上がるのを区別することもできません。

あなたにはわかるのです。あなたはただわかっているのです。 最初のデートで私はそれを知りました。 初めて彼女にキスしたとき、私は天国がどのようなものか閃きました。 私は彼女と一緒にいるととても心地よく感じ、世界の終わりまで毎日毎秒毎時間彼女と一緒にいたいと思いました。 私たちは同じ世界観を持っっていると気づき、さらに 私たちは同じ精神的価値観(あるいは霊的な価値観)を共有しているとわかりました(これは非常に重要です)。 私たちはお互いを理解しているのです。

そうやってわかるものなのです。 でも、その人に出会うまでは、心の準備をしておきましょう。 真剣に祈りの時間を費やすまでは自分自身の準備が整っていないことに気づきました。 (瞑想や他のことをすることもできますが、祈る準備はしておいたほうがいいです。そうしないと、その人を逃すことになります…そして、それはあなたのせいです!)

何について祈りますか? 「正しい人を送ってください」という愚かなことではありません。 それは時間の無駄です。 いいえ、自分自身について祈ってください。 どうすればより良い人間になれるでしょうか? 他の人をよりよく理解するにはどうすればよいでしょうか? 世界の悪をどのように認識し、さらに重要なことに、どのように対応しますか? 人生の 5 つの領域 (身体的、感情的、精神的、社会的、経済的) において最高の状態になるためには何をする必要がありますか? 何を修正する必要がありますか? どのような進歩がありましたか? すべての行動において、どうすれば思いやり、寛大さ、優しさ、そして正義を実践できるでしょうか? それらのことについて祈ってください。 自分自身を向上させることです。

それから、よく注意して見ることです。 誰かに出会ったとき、その人の見た目、服装、持っているもの、持っていないものを優先して評価しないでください。 その人の魂への手がかりを探してください。 彼らは思いやり、寛大さ、優しさ、そして正義の人ですか? 彼らの行動に注目してください。 その人は、力や影響の優越性を持てない人々をどのように扱うのでしょうか? 私が挙げられる最良の例は、給仕人、管理人、小売店の店員、そして路上ですれ違う見知らぬ人々をどのように扱うかということです。

あなたに相応しい人に出会ったときにあなたはそれがわかります。 それまでに、どうぞご自分の準備をなさってください。

 祝福がありますように。







夢のいくつか

2024-04-05 | 私の好きなこと
イースターの日曜日は光り輝くような日:集う教会の駐車場で



二人の娘たちは、よく父親の夢を見る。特に末娘の夢は往々にして、胸に迫る思いを伴うことが多い。

日曜に集う教会の礼拝堂に隣接する板敷床の大きな部屋は、バスケットボールやバレーボールのできるコートにもなるし、クリスマスやイースターの季節の食事の機会には大きな丸いテーブルがいくつも置かれる。又カルチャーホールともなり、若い人々のダンスも行なわれる。ステージも併設されていることもあり、簡単な音楽コンサートや青少年や子供たちによるお芝居なども催す。緞帳を引くとそこはステージで、ステージの両端は裏方さんや出演者が出入りする狭い場所がある。

末娘の夢では、その小さな場所に父親が座っていた。娘はチェロ奏者として演奏することがあり、夢でもそんな設定らしい。ある時の夢では、ステージに行くほんの一瞬前に父親がステージ端のその狭い場所に折りたたみ椅子に座っているのを見たと言う。父親は蛍光的に光を放つような真っ白な衣服で、娘の大好きな笑顔の父親だと言う。

「最後の晩に、おやすみなさいとお父さんの目を見て話した時よりも、ずっとお元気そうで、私の知っている通りの穏やかで平和なおとうさんよ。」

「おとうさんは私に大きなハグをくれてどれだけみなを愛していることかと言ったの。でも『みなが、特にあなたのおかあさんが悲しみに暮れている時は、辛くて、胸が痛む。』と。それで、夢なのに、私は涙をこぼしながら起きたの。」

末娘にとってそして私や家族にとって、なんとProfound(深い意味)な夢だろうか。

。。。これから悲しくなったら、5分で泣き止み、気持ちを整えて笑みを浮かべるようにしましょう、と私が言うと、娘は、「私も。」と微笑んだ。

しばらく日が経ってから末娘は朝起きてきて、言った。
「おかあさん、また見たわ。今度は前よりも短くて、なんだかおとうさんはとても忙しそうだったの。でも目覚めた時、とてもとても嬉しい気持ちになっていた私なのよ。おとうさんは霊界にいても、私たちをとても愛していると言葉がなくとも、はっきりわかったの。」

クリスマスの頃の夢には、父親は好きだったプレイド(格子縞)のシャツを着て、家族がみな集まっていた居間の椅子に満面の笑みを湛えて静かに座っていた、と言う。娘はそんな父親にすぐ気がつき、逃したくないと、父親のすぐ傍の床に座り、腕を父親の膝に置いたと言う。それでもやがて父親は立ち上がり、壁を抜けて行ってしまった、まるで「ほら、今はこうすることもできるんだよ、」と言わんばかりに。

私は末娘の肩を抱いて、娘の耳元で囁いた。「お父さんが、いらしてくださり、私もとても嬉しいわ。でもおとうさんは、あちらの世界でも、どなたかをお助けするのにお忙しいのよ。そして貴女も十分知っているように、大丈夫よ、復活の朝に、私たちは皆また再会するし、そうすれば、もう時間がない、ということはなくて、永遠なのよ。」

「卒業・旅立ち」から9ヶ月にならんとするのに私たちは未だに夫の、父親のことを話す時、涙ぐんでしまう、5分間でそれは終えようと努力はしつつも。

同時期に長女の見た夢も、毎年繰り返されてきたクリスマスの朝の模様だった、と言う。
クリスマスの朝に、いつものように居間のクリスマスツリーの下で、皆が起き出してくると、最後に階段を父親が降りてくる、と言う。「おとうさんは集まっていた皆を、そりゃあ嬉しそうにニコニコ見ながら降りてきたのよ。それだけ、なんだけれど、起きた時とても幸せな気持ちだったわ。」

私はもちろん、子供たちの誰も創世記にあるヤコブの11番目の息子ジョセフのように、夢を解き明かすことはできないし、ジョセフのように「驚くべきテクニカラーの七色のコート」を持ってはいない。だが、娘たちのこうした夢は単純にそのまま受け止めて、夫が私たちと霊界においてもコンタクトをとっていると思っている。

心のうちにまるでアーリントン墓地のケネディ大統領のお墓にある「永遠の炎」のように愛や思い出や希望を燃やしつづけ、その炎や灯りを絶やさずにいる。

さらに、先日の北部州の姉を訪ねた折のこと。姉は私よりは一回り年上で、長年患っている背中の病気もあり、夫の葬儀には出席を見合わせた。そのしばらく後に私は葬儀のプログラムを郵送したが、姉は仏教徒でも神道でもなく、ましてどの教派のクリスチャンでもなく、そのプログラムにある葬儀の開会の讃美歌がどのような物なのか見当も付いてはいなかった。

その讃美歌は、All Creatures of Our God and King(日本語では、神は造り主、だと記憶する)で、これはアッシシのフランシスの作ったものである。そしてカトリック教徒間では、フランシス(セイント・フランシス)は動物を愛護するセイントとしても有名である。

夫の葬儀のあらましさえ知っていなかった姉は、葬儀の日の晩に、夢を見た。麗らかな春の日のようで、青い木々、そして大海のようにどこまでも美しい草地で、姉ともう一人の姉と私がピクニックをしていると、姉の7年前に亡くなった夫と私の夫が仲良く笑いながら一緒にピクニックに加わり、その二人の他にもう一人多少お年を召したようなヒゲを蓄えた男の方も微笑みながらやってきた。その方がやってくると、みなの周りには多くの動物たちがやってきた、と言う。

その夢の話をしてから、姉は「変な夢でしょう?」と言った。「それがね、私たち姉妹以外は、輝かんばかりの真っ白な服装で、お年を召したような方はローブのような衣を召していたわ。 それにしても、どなただったのかしら。」と言った。

家族で葬儀の準備の話し合いをしている時、次男が「お父さんの好きな讃美歌は、。。。」と言い出し、それを葬儀で歌ったら、と提案したのだった。それが、先述の讃美歌であった。はるかな昔、幼かった次男は父親にどの讃美歌が好きか尋ねたら、そう答えた、と言った。

姉の夢について私が、思うことを伝えると、姉はほぼ絶句したが、私とて、セイント・フランシスまで夢にご登場なったとは、と、とても驚いた。

その後私の滞在中に、再び義兄と私の夫が同じように姉の夢に現れ、ふたりとも、いそがしそうに立ち働いていた、と言う。先の夢と同じ服装で。面白かったのは多くの人々が必要としているモーターホームをもっと買わなければと話していたと言う。霊界でもモーターホーム?その意味はそれこそヤコブの11人目の息子ジョセフもお分かりにならないだろう。それにしても義兄と私の夫は、同じように、人をお助けするにいつでも躊躇なくいた人たちだった。

そんな姉の見た夢も、私たち姉妹の心を和ませ、幸せに感じられたのだから、私や姉は相当単純に作られているに違いない。


愛犬Boo(ブー)も藤の花びらに囲まれてイースターを骨型のスナックで楽しんだ。








北の癒し

2024-03-30 | 私の好きなこと
これは加州のシェラネヴァダ山脈(アンドロイド使用ではないが、新画像はフォルダーに取り入れられず、とりあえず現在のシェラを)


北部州の長姉の元へこの2年来初めて訪問し、2週間ほどゆっくり過ごしてきた。お互い未亡人となってしまった今、時には涙をながしながら、積もる話は尽きなかった。木々に囲まれた家で、北国の遅い春を、スェーデン製の50年という年季の入ったストーブで頻繁に暖を取った。庭の林から切り出した薪は10年近く乾燥させてあり、気持ちが良いほど燃えてくれた。7年前に他界した義兄がそれまでに切り出した木々を薪にしたもので、いまだに薪は底を尽いていない。

春分の日を過ぎても、病後から手足が冷たくなりがちの私は、燃える薪を見ながら暖を取るのは、まるで世界一のカウンセラーやそれこそ主と話をするが如くに、心身共に癒されることだった。

北の島は寒いが、それでも木々には花々があふれ、水仙があちらこちらに背筋を伸ばしてその健気な律儀さを見せていた。パティオには牝鹿一家が始終訪問し、さまざまな大中小のキツツキは盛んに専用のワイヤー格子のフィーダーにいれた四角く固めた牛脂肪で穀物を混ぜたスエット・ケーキをついばみにやってくる。寒い朝からハチドリは用意した水蜜を吸いにせわしなくやってくる。森からはフクロウが頻繁にその相方への挨拶に忙しく、白頭ワシも通りを隔てた森から飛来してくる。

窓辺に座ってそうした「森の世間」の様子を目にしていると、心のシワがだんだんに伸ばされていく気もして、「帰ったらあれをしよう、これをしたい」という気持ちが湧いてくる。自然の為す技だろう。帰宅しての孫たち、4歳児と10ヶ月児との遊びが恋しくなり、里心がつき始めれば、滞在の目的は果たされていたと思う。10ヶ月児は私を忘れたろうかと思ったが、再会すれば、私に腕を大きく開き真っ直ぐにやってきた。

北へ飛び立った日、雲海の切れ間に見え隠れする緑の森や湖や白い山脈を目にしては、なんども「そうか、ここにもあそこにも、もういないんだ」と、頭では理解していることを、心がなかなか理解しない自分を持て余した。世界の果てまでずっと飛び続けても、もうこの地上には決して探し出せない人。本当はすぐ私のそばにいる気配を感じても、私のその「時」が来るまでは、目には見えず、その手や頬にも触れられない。

飛行機の窓外の輝く雲が、霞がかってしまいそうな途端、突然906年前に鳥羽天皇に誕生した悲劇の第一皇子・崇徳院 の詠んだ歌が脳裏を駆け巡った。

「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」

(現代訳:川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が2つに分かれるが、末にまた1つになるように、愛しいあの人と今は分かれても、いつかはきっと再会したいと思っている)

確かに夫は大学時代古事記や源氏物語などの古典を読み、特に気に入っていたのは方丈記だったが、久安百首にある崇徳院 の詠んだ歌を記憶のどこからか引っ張り出してきて、それはまるで、私に伝えたかったかのように。亡くなる前に「なんとか私に連絡してちょうだい」という私のたわごとを覚えていてそれを私に伝達したとしたら、とても彼らしい。

「カサブランカ」の映画が好きで、主演のハンフリー・ボガートも気に入っていた人は、その映画でボガート(ボギーと呼ばれた)が口にした、
”Here's looking at you, kid."
 
和訳すると、「あなたを見ているよ。」は、単に彼は彼女がそこにいてくれてうれしい、彼女がきれいに見える、という意味のいわば戯言を、時折”Here's looking at you, XXX(私の呼び名).” と言ったことがあった。それを私の頭に送ってくれたら、「チャラい!!」と愉快になって私は、突如一人笑い出して、乗務員や乗客は驚かれたかもしれない。

されど地味でも崇徳院の歌は、私にはしっかり受け止められ、希望は捨てまいと再びこれからも邁進してまいろう(どうも古典的になってしまう)、と思ったのは確かである。そして私こそ、見えない貴方に向かって、”Here's looking at you, kid!"と言ってみよう。




謙虚にさせた何か

2024-03-27 | 私の好きなこと


先日花を買いに行った時、通りがかりに出会った友人が、先週の金曜日の午後に起こったことをちょっと話したい、と私に言った。それは彼女が夫と小さな息子とでとあるレストランで食事をした時のこと。


友人家族がレストランで食事を終えんとする時、ホームレスの男性が持ち物を満載した小さなカートを引きずってレストランへ入ってきた。外を歩きまわり、明らかにとても疲労し、明らかにお腹が空いていて、また喉も渇いている様子だった。


支払いを済ませた友人一家が帰ろうと席から立ち上がると、その人は彼女たちの前を通り過ぎて、今まで座っていたテーブルに座り、残りのチップスを食べ始めた。


友人たちは、レストランのスタッフが、そのテーブルを片付けるようにお互いに合図しているのに気づいた。 そのまま外に出ると、誰かが「失礼ですが、」と言う声に呼び止められた。


振り向くと、それは友人一家の座っていたテーブルに着席した男性だった。友人はバッグを席に置き忘れていたのを、彼はそれを返すために即座に追ってきたのだった。


友人と彼女の夫は心から感謝を言い、その感謝の気持ちを表すために彼に食事と飲み物を注文した。


「私は自分の善行を宣伝したり、認めてもらいたいと思ったことはありません。困っている方々を助けるように常に努力していますが、それはむしろ、本を表紙で判断しない(見かけで人を判断しない)ことです。 レストランのスタッフは彼が残り物を食べていることに明らかにイライラしていましたが、その間、この紳士はすぐに私のバッグを見つけ、返してくれました。


帰り道の車の中で、私は6歳の息子に何が起こったのか、他の人を助けることの大切さ、そして自分に住む家と食べるものがあることへの感謝の気持ちを説明していました。


さらに屈辱的でイライラする展開となったのは、2日後、財布の中に持っていたことを忘れていた現金50ドルが入っていたことに気づきました。 彼にあげればよかったと心から思いました! 彼は簡単にそれを受け入れること(勝手に拝借すること)ができたでしょうが、彼はそうしませんでした。 私は子供に優しさの大切さを説明することに集中しすぎて、そもそもバッグを確認することなど頭に浮かびもしませんでした。」


この世界は、良くても残酷で厳しいものだが、本当に美しく正直な心も存在するのだ。


誰かの一日を少しでも明るくするために、私たち全員ができるときにできることをしてみたいものだと思いつつ、友人にその経験を分けてくれたことを感謝して帰途についた私だった。