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ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

唖然とする感覚の違い

2022-06-02 | アメリカ事情

1672年作「キリストの入墓」の彫刻にはマグダラのマリアが悲しみの涙を浮かべている。

 

 

 

最近ニューヨーク州サフォーク郡警察署はFacebookに、下図の護身用に多く用いられる2発(だけ)撃てるデリンジャー銃を所持している男性を違法行為とみなして逮捕したことを投稿した。

生涯拳銃などを実際に触れるどころか目にすることもなく、ましてや日常生活にその必要性を一切感じない日本人としては、この私のように、一見しただけで、恐ろしいと思うのではないだろうか。 ところがこのフェイスブックの投稿に対しての一般市民のコメントは日本人の感覚とは程遠いものである。 そのコメントに賛同する数にも日本人の感覚にはないものがある。

 

old gun recovered police funny comments

アンソニー・ディアス

アンティーク・ロードショウ(公共放送局PBSの巡回興行で各地のアンティークをその道のプロが鑑定し、その価値を持ち主に示す米国の人気番組)へ行く途中の男性を逮捕!! よくやった、サフォーク郡警察署!

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リッチ・ジョン

その拳銃のシリアル番号は1。

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ジア・アンジェラ

この逮捕は1879年のことなの?

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マシュー・ゴンザレズ

逮捕した警察官は誰? ワイアット・アープ?

 

その他にも次のようなコメントが続いた:

 

それでは誰が、「英国軍が来る!」【かつて独立戦争時にポール・リヴィアが真夜中の騎行でそう人々に報らせた】と知らせてくれるの?

その男を連行した時の馬車の速さはどのくらいだったの?

その逮捕された男は、チャタヌガ行き列車の中で列車強盗から身を護るために所持していたんだよ。

 

この拳銃はご覧になられるように、小型上下二連の連装銃で、弾倉をもたない護身用で、昨今の集団銃撃事件に使用された米国製自動小銃AR-15やロシア製自動ライフルAK-47のような大量殺戮を目的としてはいない。 ただしこのデリンジャー小銃は小型故に暗殺用としても用いられ、かのリンカーン大統領暗殺にジョン・ウィルクス・ブースは使用したのだった。 だから、一眼見て恐ろしいと思う日本人の感覚は正しい。 古式だろうが、小さかろうが、二連銃だから、二発続けて撃てる凶器である。 その古さと型を見てジョークにするアメリカ人はやはり本当に銃に対してかなり麻痺観があるのが伺えるコメントだと私は受け取る。

ちなみに全米一銃規制の厳しい州はカリフォルニア州だが、一番安全な州はハワイ州、最近富に銃規制環境が改良された州はコロラド州である。 しかしながら、そのカリフォルニアでさえ、今年に入って極最近二つの銃撃事件が、サクラメントとオレンジ郡で起こり、死者も出している。 そして全米の銃撃事件は1840年から1999年までに352件、2000年以降現在までの22年間には、圧倒的な速さで1000件にならんとしている。 そこには銃規制だけではすまされない因子が見え隠れしている。

アメリカが犠牲者の命以外に失っていったものは、道徳心、互いを思いやる心がけで、ますます増えていくのは、孤独な者はますます孤独に追い込まれるような重圧を生む社会情勢、アルコール中毒や麻薬中毒、弱者虐め、多発する離婚、親の育児放棄、家族崩壊あるいは離散、過度な権利主張、義務感の欠如、廃れていく信仰心、などなどざっと挙げただけでもこれだけある。 1960年代、台頭してきた放任、過度の寛容性が本来あった自己抑制を破壊することに拍車をかけたのは間違いはない。 

そして大麻をとうとう娯楽用に使用することをアメリカの多くの州は法的に認可し、カナダではコケインさえ大統領が今や認可せんという気配がある。 悪に立ち向かえないならば、いっそ合法化してしまえばいい、という社会の風潮は、何一つ人々の幸せにつながらない。

道徳に反する風潮が積み重なって雪崩現象となるのは必然で、火に油を注ぐが如きだ。 子供が若者が銃を取り、学校へあるいは教会やシナゴーグ、モスク、劇場、ショッピングセンター、病院と多くの人々が利用する場所へ出掛けて、事件を起こす。 その裏にはいつも精神的病いに対する安易な対策が原因の一つとして影を落としている。

夫のまだ若い甥は精神心理分析医としてユタ州に住んでいるが、週の半分はカリフォルニアへ飛んできて、州立刑務所の服役者を対象に治療をしている。 彼はもともと青少年層が研究・治療対象であるが、刑務所からの要望が多い。やむを得ず、そうしているが、実際には治療を最も必要とするのは、服役者ではなく、そうならないようにするために若い層を中心に治していかねばならないはずだ。

知り合いの内科医の許で働くナース・プラクティショナーは、話の弾みで夫の甥の多忙さが話題になった時、突如真剣な顔をして、「私は刑務所に若い人を送るよりも前に、精神医学を再学習し、その治療の一環として働きたいのです。その方に私はシャドウできるかお願いしてもよろしいでしょうか。」と訊いた。(シャドウイングとは、専門医師のそばに付き、その医師の診察や治療・手術などを観察して学んでいく方法)「何故ならば、内科での患者を診ていると、いかに精神衛生が身体に影響を及ぼすか、顕著なんですよね、そして内科治療よりもむしろ内心治療(心療)が如何に必要か実感するんです。」

40,50年ほど前までは、親が道徳の基本、正直、勤勉、努力などを家庭の中で教えてきたのだろうが、今ではすっかりそれは「学校」や「教師」や精神分析医学へ責任転嫁されているようである、アメリカでも、日本でも。

 

 

 


シエラ・ネヴァダに寄せる ー3ー

2022-05-16 | アメリカ事情

timberlinetrails.com

インヨー郡側のシエラ・ネヴァダ山脈

 

 

マツムラ・ギイチ氏の遺骨との関係性を調べるためにDNAサンプルを提供した彼の孫娘、マツムラ・ロリに、インヨー郡保安官事務所のネイト・デアは、彼女の祖父の遺骨が発見されたと信じていると彼女に連絡した。結局のところ、マツムラ氏は75年近く前(発見時の2019年時点で)に一度発見され、埋葬されていたのだ。

「それはちょっとした再発見でした」と彼女はAP通信に語った。 「何が起こったのかを知っていたので、彼がどこにいるのかを知っていました。祖父がそこにいることを知っていたんです。」

少女の頃、祖母が遠くの山の小さな石を重ねた即席の墓に紙切れの墓標を貼ったそんな写真を見せてくれた。その重ねられた石の下に祖父が眠ると、聞かされていた。

 

Photo: sierrawave.net Charles James

マツムラ・ギイチ氏の1945年に作られたマウント・ウィリアムソンでのオリジナルの墓所

 

「久しぶりに、祖母はその写真を持ってきて、 『そう、この写真があの山から持って来られたあなたの祖父の全てなのよ。』と言うでしょう。そして、私の叔母は、『いいえ、ロリにその写真を見せないでちょうだい』となるでしょう」とマツムラ・ロリは言った。 「その写真は私を怖がらせました。何故なら『ああ、神様、その下に私の祖父が埋まっているんですもの。』」

彼女の叔母のカズエさんは、ロリの祖父が「マンザナーの幽霊」として知られていると彼女に話した。

「今日までも、マツムラ・ロリの祖父は亡くなってはいませんよ」と、2年前に83歳で亡くなったカズエさんは生前マンザナー国定史跡事務所にそう語った。 「私は彼の遺体を見なかったので、彼はどこかに行ってしまっただけなんです。」

 

Photo: sierrawave.net Charles James

マツムラ・ギイチ氏(後列中央)はマンザナール日系人収容所内16ブロックの食堂で料理人をしていた。そのマツムラ氏は1945年山へ出かけ帰らぬ人となった。

 

マツムラ氏が山で亡くなった当時10歳だった娘のカズエさんによると、その頃マツムラ氏の妻イトさんは心配のあまり髪の毛が白い雪色に変わってしまったと言う。

「彼女をとても気の毒に思いました」とカズエさんは国立公園局のインタビューに語った。 「彼女は何も食べられなかったんですよ…それまでは黒い髪をしていたのに、突然真っ白くなってしまって。」

マツムラ氏のばらばらになってしまった遺骨は、彼が行方不明になってひと月ほど経ってから近くのインデペンデンスの町に住むハイカーによって見つけられた。

公園管理局によると、あの釣りハイキングのメンバーはその後、マツムラ氏の妻イトさんが用意したシートの下に遺骸を埋葬するべく山腹の斜面に墓を作るために山に登っていった。彼の遺骸の上に花崗岩を置き、墓碑銘の代わりに紙のメモをその岩に貼り、目印とした。その紙には、日本語で、彼の名前と年齢を示し、「安らかに眠れ」と書いた。

埋葬者は、収容所での追悼式のために、故人の頭髪少しと指の爪を切ったものを持ち帰った。これは、体が戻れないときの仏教の伝統であるとした。

家族の過去の古い傷口を開けるのではなく、この簡易墓所の74年後(2019年当時)の発見は、収容所での人々の話とそこで過ごした時間についてもっと学び、甥と姪にそれを伝えて、家族の歴史を共有したいという興味を呼び起こした、と故人の孫のロは言った。

最近たまたま当時の捜索隊の写真を見るまで、ロリは自身の父親のマサルが彼の父親そしてロリの祖父であるマツムラ氏を探す役割を果たしていたことさえ知らなかった。

彼女の父親マサル氏は寡黙で、ことさらその経験について決して話さなかったし、彼女自身もっと父親に多くを尋ねなかったことを悔やんでいる。祖国に忠実であり続けることを恐れて、11万人以上の日系人(アメリカ市民が3分の2)が投獄されたとき、米国史上最も暗い章の1つである苦難と屈辱に耐えた多くの人々のように、マツムラ・マサル氏は、苦渋に満ちた収容所生活と時代について滅多に話さなかった、と娘のロリは、語ったが、生まれた国からの偏見と差別と無条理な仕打は、その後の人生をそう楽しくはさせなかった。

マツムラ家族がその祖国出身(子供たちは米国市民であったにもかかわらず)故に、ルーズベルト大統領の大好きな大統領令の一つで、強制的に荒地のマンザナールに送られ、収容所に収監されたとき、息子のマサルは高校を卒業する寸前だった。父の死後、マサルは母親と3人の弟妹とでサンタモニカに戻ったときには、一家の長として家族を支えていかねばならなかった。彼は父親と同じように庭師としての仕事をしなければならなかった。

妹のカズエさんは、マンザナール強制収容所での口語歴史伝によると、43歳で未亡人となった母親は2、3の仕事を掛け持ちして働きに働いていた、と語った。

未亡人となったマツムラ・イト氏は2005年102歳で逝去した。彼女は夫の一房の頭髪と彼の名前を書いたものと共に埋葬された。

孫のロリ・マツムラがキャンプについて知っていることのほとんどは、サンタモニカで育った小さな家の向かいに住んでいた彼女の祖母イトさんと叔母カズエから聞いてきたことである。

家族の過ぎ来し方に好奇心が刺激された今、ロリさんは収容所での彼らの経験や彼女の祖父の死が家族に与えた影響についてはもう誰にも尋ねることができない。彼女の父親マサル氏は去年の夏(2019年)、その世代の最後手であるかのように94歳の生涯を閉じた。

「もう少し深く掘り下げて、父からもっと多くの話を聞き出せてたらどんなによかったか」と彼女は言う。 「父はそれについて本当にあまり話しませんでした。もっともっと聞きたかったのですが。」

 

Sierra Wave Media/Charles James

サンタモニカの新しい墓所でご夫婦揃って眠るマツムラ・ギイチさん、イトさん。この墓地にはご子息二人も埋葬されている。安らかにお眠りください。

 

inyocountyvisitor.com

マンザーナールと同じインヨー郡オーエン・ヴァレーにあるシエラ・ネヴァダ山脈ホワイトマウンテンには、古代ブリッスルコーンパイン森林があり、そこには、樹齢4千年を超える地球上で最古の生物の1つの樹木がある。小さく遅く成長する高地の松は、ひび割れたような錆色・茶色の樹皮と5つの束になった短い針葉と棘が先に被ったコーン型の皮を持つ厚い枝がある。高地の強い風、積雪などに耐えてそれでも何千年と生きるこの松を目にするたびに人生こうありたいと思う。そして11万以上の収容所に収監された日系人の生き模様もさもありなんと思い起こさせる。

 

 

 


シエラ・ネヴァダに寄せる −2−

2022-05-13 | アメリカ事情

マウント・ウィットニー山頂付近に咲くスカイパイロットの美しい花

 

 

 

academic.csuohio.edu

 

民主党のフランクリン・デレノア・ルーズベルト大統領は歴代で最多の3721本の大統領令を発しているが、そのうちの大統領令2066号は、通称「防衛上のための(日系人)強制移動の権限」と言われ、第二次世界大戦中の1942年2月19日に署名、発令した。そして米国西部を主に十ヶ所の日系人収容所を建設した。カリフォルニア州ではシエラ・ネヴァダ山脈に沿った西側盆地の北はシスキュー郡トゥーリーレイクに、南はインヨー郡マンザナールに建てた。

 

britannica.com/s

カリフォルニア州インヨー郡マンザナールの荒地にあったマンザナール日系収容所

 

二人のハイカーたちが、最高峰のマウント・ウィットニーに次ぐ高さのウィリアムソン山頂上に向かう途中で遺骨に偶然出くわしたのは、2019年10月7日のことだった。彼らはハイキングコースをはずれ、湖の流域にある花崗岩の岩の寄せ集めのような岩場を通る険しいルートを歩いていた。ひとりが眼下を見やると、骨らしきものを見た。

その日の早い段階で、ハイカーたちはシェパードパスの下に骨の山を発見した。そこでは、2年前に移動する鹿の群れが急な氷の斜面で滑り落ちて死んでしまった場所だと当初は思えた。それで骨はその多くの鹿の残骸であると考えたが、詳しく調べてみると、そこには人間の頭蓋骨があった。

大きな岩を動かしてみると、そこには腰あたりにベルトがあり、足あたりには革の靴が履かれた無傷の骸骨を見つけた。腕が胸を横切っているようにも見えた。

 

Photo by: CHP Inland Division Air Operations ABC10 サンディエゴ局の写真から。

二人のハイカーたちが遺骨を発見したマウント・ウィリアムソン頂上下の水辺近く。捜索・回収に使われたCHP(カリフォルニア・ハイウェイ・パトロール)ヘリコプター。

 

一人のハイカーはFacebookフォーラムにこの発見について投稿し、靴はロッククライマーが履いているタイプらしいのと、頭蓋骨が骨折しているように見えることから、不正確に判断し、犯罪ではと示唆したのだった。

通報を受け取り、調査とヘリコプターによって遺骨回収をしたインヨー郡保安官は後にAP記者に答えて、これは犯罪ではないが、ただの謎の死因だとだけ述べた。実は彼はその時これが「マンザナールの幽霊」ではないかと予感していたのだった。

あまり知られてなかったが、2012年にコーリー・シオザキ氏によるドキュメンタリー映画「マンザナールフィッシングクラブ」が公開され、それが注目を集めたのを保安官は覚えていたのだった。それはマンザナールに収監されていた日系人男性たちが夜収容所を抜け出して山の湖へ釣りに行ったという話もあった。その「脱走」は時には数週間からひと月にも及んだということだ。

戦争の最終年には、収容所警備塔にはもはや武装した兵士が配置されておらず、人々は自由に収容所を離れることができた。マツムラ家は、他の多くの人と同じように、帰る家も仕事もなかったので、退去には遅れをとっていた。

釣り好きの男性グループがウィリアムソン・ボウルの湖へ釣りとハイキングとを計画したとき、マツムラ氏は自分も同行したいと言った。グループリーダーは、当時マツムラ氏が年を取り(46歳で!)、体調が良くないと知っていたので加わっては欲しくなかったが、結局は彼の同行を許した、とドキュメンタリー制作者のシオザキ氏は語った。 よって1945年7月29日、6人から10人の日系人男性グループは、シエラ・ネバダ山脈に向かった。

厳しいトレッキングをしていたが、ある時点で、マツムラ氏は水彩画を描きたいので、後から合流するからと言ってその地点で皆と別れたようだった。別れた直後、7月なのに突発的に高山特有の気まぐれな異常な吹雪が吹き荒れ始め、マツムラ氏以外は皆洞窟に避難した。マツムラ氏はどうやらこの吹雪によって低体温症を起こして落命したようである。

天気が回復するや否や、収容所からの有志が高山に戻り捜索したが、闇雲に見当をつけて険しいところを歩いたが、徒労に終わった。彼の遺体はその後1か月は発見されず、1945年8月2日(日本では3日)に米国が最初の原子爆弾を投下した直後の数日間は、その悲劇が収容所の人々の上にも影を落とし、やがて日本の降伏となり、マツムラ氏遺体捜索はすぐには再開されなかった。西部の10の収容所で亡くなった1,800人以上の日系人拘留者の1人であったマツムラ氏は特に珍しい死10件のうちのひとつであった。

ひと月少しになってから、マツムラ・ギイチ氏の息子マサル氏が、父親の遺骨を見つけて、没した場所の高山のその地で、マツムラ氏の埋葬を収容所のメンバーと家族とで催した。海抜12,000フィートの人里遠く離れた岩だらけの高山にしつらえられた彼の簡易墓地はその正確な位置と共に人々の記憶から薄れていった。即時に彼の遺体が見つからなかったことから、「マンザナールの幽霊」と家族は呼んだ。遺骨発見が、長い間マツムラ氏の息子マサル氏によってなされたことは、実は、孫娘のロリさえ知らなかった。

 

Japanese American Relocation Collection

      収監されていても日系人は収容所内に耕地を願い出て、耕作をする勤勉さがある。故国に於いても、移住先の冷たいあしらいの国で不当な扱いを受けていても。こうした写真を見るとどうしても目頭が熱くなる。

 

シエラ・ネヴァダに寄せるー3ーへ続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


シエラ・ネヴァダに寄せる −1−

2022-05-11 | アメリカ事情

scenicwonders.com

Yosemite

 

シエラネバダ山脈は、カリフォルニア州セントラル・バレー(サン・ワーキン・バレー)とグレート・ベースン(大いなる盆地=ロッキー山脈とシエラ・ネヴァダ山脈の間)の間にある。範囲の大部分はカリフォルニア州にあるが、ネバダ州やオレゴン州にも及ぶ。いわば、アメリカ大陸西部の「バックボーン」を形成するほぼ連続した山脈の連鎖である。

シエラは南北に400マイル(640 km)走り、その幅は東西に50マイル(80 km)から80マイル(130 km)の範囲で、アラスカとハワイを除く48州中の最高峰14,505フィート(4,421 m)のマウント・ウィットニー山があり、15の氷河、3つの国立公園(ヨセミテ国立公園、セコイア国立公園、キングスキャニオン国立公園)がある。体積世界一の巨木シャーマン将軍と呼ばれるセコイア、北米最大の高山湖タホ湖、一億年前の花崗岩が氷河によって削られたヨセミテにはかなり高くから落水するブライダル・ヴェイル滝もある。

Sierra Nevada

マウント・ウィットニーの夕日

sunset.com

 

シエラ・ネヴァダは、カリフォルニア州にとって、威厳のある美しい山脈であるだけではなく、水源としてシエラ融雪(降水も)は、麓だけではなく、サンフランシスコ・ベイエリアから南カリフォルニアに広がる各都市の2,700万人以上の人々に飲料水の一部を提供している。融雪は、セントラル・バレーの農業用水ともなり、昨今の旱魃は今夏は特にひどくなると懸念されている。

たとえば、ヨセミテ国立公園のヘッチヘッチー貯水池は、サンフランシスコの総水需要の85%を占めている。 シエラ高地を源流とするモコルムネ川は、イーストベイ(サンフランシスコ対岸のオークランド市周辺)の水の90%以上を供給しており、シエラ東部のオーエンズ・バレーはロサンゼルスの主要な水源となっている。

そのオーエンズ・バレーのマンザナールには、第二次世界大戦時、日系人収容所が作られ、遠くにマウント・ウィットニーが望めたという。このマンザナール収容所に関係のある話はこの次のブログに書く。

シエラ・ネヴァダの美しさはスコットランド人のアメリカのナチュラリストの草分けで「自然保護の父」と呼ばれる作家・植物学者のJohn Muir(ジョン・ミュア)、彼に感化され、国立公園の理念を確立させたセオドア・ルーズベルト大統領、新聞記者サミュエル・クレメンスが、今はゴーストタウンのボーディで、マーク・トゥエインというペンネームを思いつき、彼もこの山脈を愛した。ヨセミテ公園のハーフ・ドームは登頂しての絶景も、ヨセミテ・バレー全体の威厳に満ちたその美しさは、誰をも魅了する。

冠雪したシエラ・ネヴァダの峰々をフロントウィンドウ越しに眺めながら、フリーウェイを東に運転していくそんな時は、いつだって、思わず”How Great Thou Art!"と感嘆し、溜息をつく私である。そして、あの歌が脳裏に浮かぶのだ。

その歌は、讃美歌であるが、下に紹介するHome Free(ホーム・フリー)というアカペラグループは、カウントリー音楽が基本にあるが、壮大で荘厳な自然に神の創造を感嘆して賛美する歌は心に響く。 二番目のヴィデオは実際に教会合唱団によるものである。 どちらも素晴らしい。Home Freeは途中でIt Is Well With My Soulの一節を少し忍ばせている。

【注意】このヴィデオは歌が終わった後宣伝が入るので、そこでお止めください。

How Great Thou Art 輝く日を仰ぐとき

 

このヴィデオでは、Sissel(シソー)が最初スェーデン語で(この原曲スェーデンの讃美歌O store gud)歌い、英語でタバナクル合唱団と共に歌う。和訳は下に。

 

  1. 輝く日を仰ぐとき 月星(つきほし)眺(なが)むるとき 雷(いかずち)鳴り渡るとき まことの御神(みかみ)を思う 我が魂(たま) いざたたえよ おおいなる御神を 我が魂 いざたたえよ おおいなる御神を
  2. 森にて鳥の音を聞き そびゆる山に登り 谷間の流れのこえに まことの御神を思う 我が魂(たま) いざたたえよ おおいなる御神を 我が魂 いざたたえよ おおいなる御神を
  3. 御神は世人(よびと)を愛し 一人の御子を下(くだ)し 世人の救いのために 十字架にかからせたり 我が魂(たま) いざたたえよ おおいなる御神を 我が魂 いざたたえよ おおいなる御神を
  4. 天地(あめつち)造りし神は 人をも造り替えて 正しく清き魂 持つ身とならしめ給う 我が魂(たま) いざたたえよ おおいなる御神を 我が魂 いざたたえよ おおいなる御神を

 

 

 


油断

2022-05-08 | アメリカ事情

meaning-book.com

 

 

フィエイスブックに小さな記事が載っていた。以下はその記事から。

テキサス州当局によると、ベテランのガラガラヘビのハンドラー(蛇使い)は、ショーの最中にヘビに噛まれ、数時間後の4月30日土曜日に死亡した。

警察はKII-TVに、テキサス州フリーアでのガラガラヘビ総まとめイベント中にユージーン・デレオン・シニアが蛇に肩を噛まれてしまい、即時コーパスクリスティの病院に搬送されたが、そこで死亡した、と語った。

ケンダル郡カウンティ・フェア協会の主催者は、デレオンが「ガラガラヘビと一緒にいて、彼が好きなことをしていて」死んだと言う。

ガラガラヘビ総まとめイベントは、フリーア商工会議所によって行われ、皆デレオンの死を悼んでいる。

「彼がコミュニティに示した愛と献身は、奉仕消防隊員として、蛇の駆除を申し出て助けてきたが、それは日々目撃されていた。」と商工会議所は述べた。 

「デレオンは、蛇の駆除にお困りの人々をいつでも助ける準備ができていました。テレビ局とのインタビューからテレビ放映された野生生物番組への出演まで、蛇の総まとめイベント期間中の彼の嬉しそうな様子を決して忘れません。彼はすべてをやりました。」

彼の妹は、デレオンはヘビの扱いに情熱を持っていた、と言い、何年もの間ガラガラ蛇を扱ってきたと語る。

「彼は人々にとても愛されていた」と米国議会の候補者サンドラ・ウィッテンは付け加えた。 「私の家族と私は、彼がただ蛇と踊っているかのように、こうしたヘビを毒蛇をいとも簡単に扱うのを見て楽しんでさえいました。笑顔を浮かべ、心に明らかに喜びを感じていました。」

*********

不幸な事故死であったが、デレオン氏は、毒蛇の扱いに慣れ、それ故に毒蛇に魅入られた住宅などでの駆除奉仕を喜んで買って出たのだろう。 この記事をフェイスブックで読み、すぐに思い出したのは、ひと昔前に見たヴィデオだった。 次に書くのはこのヴィデオの要約である。

何年も前にインディアンの若者は成人に達する準備のために
一人で家族から離れ、成人に達するための準備をしに行ったものだ。
そのような若者の一人は、断食し、その三日目に
決断して美しい谷へと歩いていった。
彼は断食し、3日目に山に対して自分自身を試すことに決めた。

山を登り、その頂に着いた時、そこからはまるで永遠が見えるようで、彼の心は喜びに満ちた。

すると彼は足元近くで何かが動いたのを聞いた。
見下ろすと、ヘビがすぐそこに見えた。

ヘビはここでは寒すぎて自分は凍りつき、食べ物もなくて飢えているから、もうすぐ死んでしまう、
どうか自分をあなたの衣の中へ入れて、下の谷へ連れていってはくれまいか、と言った。

え、まさか、そんなことはできない、

私はお前の種類を知っているかもしれない、私がお前を拾い上げれば、お前は私を噛み、私は死んでしまう。

(へびは言った)私はあなたを別の方法で扱いますよ、
あなたが私を温めて谷へお連れしてくださったら、
あなたは特別なんです、私はあなたを傷つけませんよ。

若者はしばらく立っていたが、これは
非常に説得力のある、美しい柄のあるヘビだった。

ついに若者はそのヘビを拾い上げ、衣の中へ押し込んだ
そしてそれを谷に運んだ。

そこで彼はそれを草の上にそっと置いた

突然ヘビがとぐろを巻き、ガラガラと音を立て、若者の足を噛んだ。

お前は約束したじゃないか!と若者は叫んだ。

ヘビは言った:叫ぶがよい、あなたは私を拾い上げた時、私が何であったかを知っていた。
私は拾い上げたら、噛むようにしつらえられているのだから
離れていても、私が噛まないように、ガラガラと尻尾で音をたてて常に警告を出すのだ。

離れていても常に警告はなされている。
危険が近いと。

あなたがする決心は神があなたの代わりにできない。まさに行動せんとしたり、決心せんとしているときに、自分は(他と)違うから、一度くらい痛い目に合わなかったのだから、正しくはない行いをしても平気であるとは思わないようにしなければならない。
それが正しくはないと知っているのを忘れてはならない。