歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

新府城~武田勝頼・未完の城

2023-07-13 16:53:51 | 山梨県
大河ドラマ「どうする家康」第26回「ぶらり富士遊覧」で
武田勝頼が討ち死にし、甲斐・武田家は滅亡した。

今回の勝頼役・眞栄田郷敦さんの熱演に、
すっかり引込まれ、長年の憾みも氷塊w

御館の乱のとき、勝頼は上杉景虎さまを見捨てたよね!)
 
いずれにせよ、今に伝わる勝頼の天目山での最期は、
あまりに気の毒すぎる。




本日は勝頼ゆかりの城、新府城の登城記。

新府城は、勝頼が最晩年(37才)に築いたものの、
ほとんど過ごすことのできなかった城。
平山優先生の『徳川家康と武田勝頼』にも、触れられている。

そして、新府城は、冒頭画像の通り、「武田勝頼築城未完の城」だ。

ちょうど、「英雄達の選択」(BSプレミアム)
「武田勝頼・山城をめぐる最期の決断」の録画も観たので
登城の記憶も蘇った。

ということで、以前は、まとめられなかった、
旅の印象と共に、新府城あれこれの備忘録をまとめたい。




武田勝頼は、天正9(1581)年、甲斐本国の防衛強化のため、
領国の中心に当たる、韮崎に新府城築城を始める。


ところが、これも武田家・滅亡の一因になったという。
武田家の重臣であり、実は勝頼と従兄にあたる穴山梅雪も
そう考えた記録があるとのこと。

勝頼が、この城の普請のため、領国に動員をかけ、
今まで免除していた在村被官層にまで、課税したことが
大きな反感を買ったとためだ。


実際、勝頼が甲府・躑躅ヶ崎の武田氏館から
新府城へ移転したにもかかわらず、家臣はついてこなかった。

武田一門も、譜代家臣も甲府に残ったままで、
新府城下に屋敷を構えたのは、勝頼の側近ばかり。
先の穴山梅雪ですら、妻子を甲府に残したままだった。

平山先生は「こうした事実は、築城と本拠移転をめぐる、
勝頼と一族、譜代の対立、反感を物語る」と推測されている。

この対立が、武田家の分裂につながり、
いよいよ織田・徳川連合軍が甲斐に侵攻してくると、
武田家を、ちりぢりにしてしまった・・・



新府城は、とっても、良いお城だったのになぁ~~
いくら素晴らしい城だって、国を滅ぼしてしまっては
どうにもならない・・・
それはわかっているけれどね・・・

「英雄達の選択」でも、城郭研究家の千田嘉弘先生が
「当時の築城技術の粋を集めた、武田の城」と絶賛されていた。



さて、わたしが2021年夏に登城し、印象的だったのは、
なんといっても、「出構(でがまえ)」。

「英雄達の選択」では、長篠合戦で、鉄炮の脅威を見せつけられ、
鉄炮を想定しての造り、と紹介されていた。

確かに他では、見たことがない独自の造り。
縄張りを見れば目を引くし、近くを通れば、必ず気づく、
ちょっと不思議な形状だ。



それから、武田と言えば、馬出。(↓)
画像ではわからないけれどw、この奥にきちんと設えている。



そして、なんと言っても広い!
「英雄達の選択」では東京ドーム5.5個分と言っていたが・・・

それだけの広さがあると、守るための人員も必要になってしまう。
そのことがマイナスに響いたのだろうか、
新府城は、最後の決戦の城に、選ばれていない。
勝頼と共に、武田家の重臣が集まり、
まさに新府城で開かれた、最後の軍議でのことだ。

「英雄達の選択」のテーマでもあった、
「新府、岩櫃、岩殿、どの城で決戦をするか?」が論じられ、
嫡男・信勝が推すも、新府城は選ばれなかった。

最先端の技術を誇った城とはいえ、
未完の城なのだから、この選択もやむなしだろう。

結局、3月3日早朝、勝頼は、築城途中の新府城に火を放ち、
自らの手で、この城を始末する。
その胸中、いかばかりだったか・・・




勝頼は、東へと向かう。

だが、岩殿城主・小山田信茂に裏切られ、家臣は次々に去って行く。

最後まで勝頼に従ったのは家臣40人、侍女ら50人あまりだった。
ついには、天目山で、織田方の滝川一益勢と最後の戦いを行い、
継室・北条夫人(北条氏康の娘)と嫡男・信勝らと共に、滅亡した。
討ち死にとも、自刃ともいわれるが、享年37。
3月11日のことだった。


令和の御代、
今も、新府城跡に、地元の人が勝頼を供養する
勝頼神社が建立されている。
哀しくも、安堵された。

「英雄達の選択」でも触れられたが、
現代の山梨で、今も「武田ブランド」は生きているという。
500年の時を経ても。



さて、滅亡した武田氏の家臣は、後に、徳川家康によって登用される。

「どうする家康」でも、もうすぐ石川数正が出奔、
羽柴秀吉に帰属してしまうからだ。
(あの松重豊さんがですよ!)

徳川家では、数正から軍事機密が漏れることを怖れ、
軍制や戦法の刷新をはかることが必要となる。
そのため、武田遺臣に信玄・勝頼の軍事文書の提出を求めたという。

これにより、
「徳川軍が質量共に増強されたことは間違いない」そうだ。

家康の後も、徳川御三家、譜代大名の元で、
武田家の遺臣は多数召し抱えられ
また、その技術力も、徳川家に大いに貢献。
江戸幕府に対する影響力が強かったと、平山先生は指摘する。


徳川家が長らえたのは、武田の遺臣ばかりでなく
わたしの敬愛する小田原・北条家など、
敗れた家々の家臣を登用し、そのシステムの良いところを
取り入れている。それが功を奏したのだろう。

初代、家康さんがエラいんだろうなぁ・・・

信長、秀吉は、戦をした相手の家臣を
根こそぎ処分したそうだから・・・
あの2人なら、いつ寝首をかかれるか不安でならないからだろうな。

家康の豪胆さというか、懐の広さというか、
とにかくその姿勢のおかげで、江戸幕府は誕生し
260年もの泰平の歴史が刻まれた。


今日の「読売新聞」の文化欄で、
中世から、江戸時代までを「なかったことにしちゃったのが明治維新」
という指摘を読んだ。なるほど、そうかもね。

そう指摘したのが近代史研究者の辻田真佐憲氏。
『「戦前」の正体』(講談社現代新書)についてに
書かれた一節とのこと。

・・・と、話が飛んでしまったところで、
新府城・登城他あれこれはこれにて終了。

************************

おつきあいいただき、どうもありがとうございます。

現地の解説版と、以下の図書を参考に記事をまとめましたが、
歴史には素人のこと、勘違いや間違いは、お許し下さいませ。

📖参考
平山優『徳川家康と武田勝頼』幻冬舎新書


この記事についてブログを書く
« 高天神城~大河と講演会と | トップ | 宝台院へ~お愛の方に憧れて »
最新の画像もっと見る

山梨県」カテゴリの最新記事