歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

元寇、海は語る~長崎県・鷹島

2023-05-22 06:12:37 | 長崎県
長崎県松浦市、鷹島・・・

水中遺跡「鷹島神崎遺跡」には
元寇「弘安の役」の際、台風で沈没した
4400隻に及んだ船の大半が今も海中に眠っている。

松浦市立埋蔵文化財センターガイダンス施設では
スタッフさんから展示を見ながら、
ご説明をしていただいた。

ほ~、「そうだったのか」の連続で、
ますます「歴・旅」のテンションがアップ!

そんなあれこれに、どうぞ、おつきあいを。



そもそも、元軍の目的は何だったの?
・・・そんなことも、発掘品から推測できる。

手がかりの一つは中国のレンガ「塼(せん)↑。
これが大量にみつかっている。
戦いに関係なく、レンガなんて増えれば増えるほど重くなるのに。
それだけでなく農耕機具も発掘された。


・・・つまり、元軍は、塼で家を建て、
田畑を作り移住をするつもりではなかったのか?
元軍は南宋や高麗出身者ら、農耕民族も含んでいるのだから
ありえる!

しかも、当時、日本の人口は約600万人、そのうち博多には1万人。
一方の元軍は14万人!
数の上からいえば、圧倒されている。

もし、あのとき、鷹島を台風が襲わなかったら?
今の日本、少なくとも九州の玄界灘から有明海への一帯は
今の形では存在していなかったかも知れない。




あの日、鷹島の海をびっしり埋めたという、
4400隻の元軍の船。

今、大小多くの船が海中に沈んでいるのだが、
その大きさを実感させるのが碇。
(鷹島では木偏の文字を使うことも)

鷹島で発見された、最大の碇は、
長さ2.74m(欠けていなければ推定7.3m)、
重さは碇石を含めて1t近くあったとされるそう。

ちなみに碇は、この画像(↓)の船の模型のように端っこ(船首)に、
ぶら下がっている。



・・・ここからも、どれだけ船が大きかったかと知れるというもの。
この碇を使った船なら、40mほどの大きさだったと推測されている。

この大きな船を中心として、中小の船がまとまった船団が
現われたのだから、当時の恐怖はいかばかりだったか・・・
(令和の今も、そんなことがあったら恐ろしすぎる)



恐怖と言えば、
鎌倉武士が驚かされたのが「てつはう」。↑
教科書に載っていた元寇でおなじみ、「蒙古襲来絵詞」にも
描かれている炸裂弾だ。

丸く焼き固めた土の中に、火薬だけでなく、陶器や鉄の破片が
仕込まれており、殺傷能力が高い。
これも、鷹島の海で沈んだ船の中から大量に発見されている。
本来は爆発すると粉々になるのだが、
沈んでしまったのだから未使用。
おかげで、今、目にすることができた。



鷹島周辺の海では、漁師さんが、昔から、元寇の遺物を見つけ、
代々、家宝として大事に伝えてきたという。
埋蔵文化財センター開設にあたり、住民に呼びかけたところ、
多くの品が寄せられたそうだ。



その中で、「すわ、国宝か!」と色めき立ち、
即、鑑定に出されたという品が、こちら。↑

「管軍総把印」(カングンソウハイン)。

1974(昭和49)年、神崎海岸で発見された青銅の印鑑だ。
これも、弘安の役で沈んだ船のものとされている。

印面には、当時、モンゴルで使われていた「パスパ文字」で
「管軍総把印」と彫られている。

バスパ文字とは、モンゴルで100年ほど使われた文字だが、
使われていたのは、ちょうど元寇の頃・・・

何より、印面に「至元十四年九月造」の文字が確認される。
至元14年は元のフビライ治世下1277年、
弘安の役(1281)のちょうど4年前のこと・・・

彫られている「総把」とは、元軍の将校の中堅クラスのこと。



以上のことから、
おそらく、この地位にあった軍人が、弘安の役(1281)に
持ち込んで、船と共に沈んだのだろうと言われる。

いずれは、福岡県、志賀島で見つかった金印並になるかも?と
今は町の金庫に大切に保管されている由。

ちなみに、現在は県指定の有形文化財となっている。
また、↑センターは、この印鑑の形を模して設計されたそうだ。



鷹島には、元寇の史跡や伝承の他に、
名残と言えるような地名がいくつも残っている。

時間に余裕があれば、丁寧に訪ねたいところだが・・・
時折、強くたたきつける雨のせいもあり、先を急ぐことにした。

その前に、もうひとつだけ、寄り道。
ガイダンス施設から車で10分ほどいくと、市杵島神社がある。↑
その手前に小さなお堂が建てられ、仏像が祀られている。




「鷹島の銅造如来座像」だ。

江戸時代の終わり、漁師さんの夢で見つかったと言われている。

夢の中で、近くの海岸が、魚の群れで海の色が変わっていた。
翌朝、その場所で網を引いたところ、この仏像がかかった・・・と。

高麗時代の作品ながら、中国の影響が強いそうだ。

元軍が、船に安置し礼拝をしていたのだが、
台風によって、船と共に海に沈んだものだ、と
言い伝えられている。



畳敷きの小さなお堂は、きれいに掃き清められ、
きちんと管理が行き届いていた。

かつて、元軍により、悲惨な目にあわされた住民。
その子孫の皆さんが、元軍の仏様を手厚く祀られている。

800年以上の時を経て、今、静かにおわす仏様・・・
そっと向き合いながら、手を合わせた。

平和な日本、世界であってほしい。

**********************

おつきあいいただき、どうもありがとうございます。

聞き書きのメモや、以下のパンフレットを参考にまとめましたが、
素人のことゆえ、間違いや勘違いもあるかと存じます。
どうぞ、お許し下さいませ。

参考:
●長崎県松浦市教育委員会「松浦市の文化財~歴史ガイドブック」
●「meets! まつら MSTSURA  vol.18」
●松浦市観光物産協会「蒙古襲来 元寇と鷹島 元寇マップ」


コメント (3)    この記事についてブログを書く
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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (fuhchan2399)
2023-06-15 06:47:53
鷹島のこと初めて知りました。その近くの唐津城まで行ったのですが。せん(かわら)ですが江戸城の仲の門したに敷いてあります。
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Unknown (fuhchan2399)
2023-06-15 06:48:58
平戸城でした。
返信する
fuhchan2399さま (ぴあ野)
2023-06-15 15:34:40
ご丁寧なコメントをどうもありがとうございます。
せんの情報もどうもありがとうございました。

鷹島を知ったのは、長崎県松浦市の梶谷城趾を
訪ねて、知りました。
そのあと、平戸へ向かっています。
距離は近いのに、海をぐるりとまわらねばいけないので、
あきらめました。
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