歴史の足跡

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歴史は語る⑭白村江の戦い

2014-09-07 06:33:54 | 例会・催事のお知らせ

十四、白(はく)村江(そんこう)の戦い

斉明帝の政策は国内の征服に、海外にまで展開し、皇(こう)極(ぎょく)天皇時代の高句(こうく)麗(り)攻略失敗にし、一方新羅は百済攻略の手詰まりに唐の連携を深めて、接近策を取って唐の年号を使用し、唐の着服をして筑紫に来航すると、倭国の心証を悪くし、新羅を討つべし、強硬論まで飛び出した。
こう言った倭国を取り巻く外交は「遠交近攻(えんこうきんこう)」状態であった。唐は高麗と敵対し、攻め倦んでいた。新羅は百済を攻め倭国に救援を求めて来て、倭国は新羅とは険悪な状態で唐服を着て筑紫に来て発覚したわけである。
近い国と戦い、その向こうの国と親交を結ぶ、敵の敵は味方なのだ。こう言った状態は今日の国際情勢に似ていることは、時代が変わっても国交は利害関係で絵に書いたような融和関係が生まれにくいのである。
新羅は唐の高宗(こうそう)に救援を求め、水陸10万の兵を持って百済に進撃を開始した。斉明四年(660年)百済はついに消滅した直後に倭国に使者を送り多数の君臣が捕えられ捕虜になり、残された重臣等は必死に抵抗を続けていた。倭国に援軍を求めて百済の復興をしょうとしていた。
倭国は直ちに援軍の派遣を承諾した。無謀な承諾であった。新羅ならいざ知らず、唐国まで敵に回す国力はない。この時斉明は六十歳になっていた。
斉明天皇は筑紫に拠点を置くことを決意、自ら難波に向かって武器を整えた。翌年老女帝は、正月に中大兄皇太子、大海人皇子と妃の大田皇女・鸕(うの)野(の)皇女の姉妹らを伴って難波を出発した
瀬戸内海を一路西に向かった。途中大伯海(岡山県東の海)まで来た時位に、大田皇女が出産をした、名前を大伯皇女と名付けられ、妻子同伴の従軍は、伊予国の熱田津(にきたづ愛媛県松山市)に寄港に石湯(道後温泉)に行宮(仮宮)出産直後の大田皇女を考えても当然の話、しばらく滞在旅の疲れを温泉の湯で癒したのか、筑紫の博多に三月二十五日に到着をした。
約四カ月の長旅は老女帝の斉明天皇には疲労が目に浮かぶようだ。奥まった朝倉の地に朝倉橘広庭宮が完成したが、不吉なことが連続して起った。宮殿が倒壊し、身の回りの者が病気にかかり死ぬ者が多く出て、神社の木を切った祟りとか疑心(ぎしん)暗鬼(あんき)に陥った。
七月にはとうとう斉明天皇は客死、崩御をした。まるで強権神功皇后の新羅征伐に酷似(こくじ)した、女帝斉明の新羅征伐の姿が彷彿とさせる。
斉明天皇が崩御したからと言って百済救援を中止をするわけにはゆかない。倭国の威信に関わる事で、士気を失わせれば、勝てる戦いも敗戦に繋がりかねない。
また斉明帝の老いの一徹が廻りの者にその決意を新たにさせた。
斉明帝の崩御後は、中大兄皇太子は素服(麻製の喪服)のまま称制を行なった。中大兄は直ちに朝倉宮から「水表の軍政」の儀式を行った。
中大兄は女帝の遺志を継いで、安曇比邏夫連(あずみひらふむらじ)・阿倍引田比邏夫臣ら五名を前、後の将軍に任命を志五千の兵を百済に護送させた。
中大兄は百済の援軍の用意を進めて陣頭指揮を執って実行し、十月には、亡き斉明女帝の遺骸を運ぶために海路大和に向かった。翌月飛鳥川の河原で殯を行なわれた。翌年には糸・布・縄など軍需物資を百済復興軍に送った。
一方翌年三月に新たに前・中・後の将軍任命し軍勢を編成し二万七千人の兵力で新羅を討つために増援軍を派遣をした。
しかしこの頃には百済では二人の倭将の豊璋(ほうしょう)と福信が意見の違いで対立し、豊璋が福信を殺してしまった。この分裂を見て唐・新羅軍は一気にたたいてしまおうと水陸から周留城に攻撃をかけた。そして唐の水軍が白江と白村江に陣取っていた。
蘆原君(静岡清水市の国造)に率いる倭の水軍が遭遇した。蘆原君の部隊は周留城が包囲されたので急遽その支援に向かった。この日は倭軍は唐軍の水軍に挑んだが、その堅い守りを破ることが出来ず、退却を余儀なくされた。
翌日再び戦火を交えるが、唐軍の統制の執れた軍船の挟み撃ちにあい、倭軍は大混乱に陥り大敗をした。多くの倭兵は白江に飛び込んで溺死をした。
この時の記述として『旧唐書』「倭の舟四百艘は炎を上げ、火炎は天まで立ち上り、海水まで赤く染まった」と書かれている。
★鬼室(きしつ)福(ふく)信(しん)*(?~663)再興の英雄。百済第30代の武王の甥、660年、百済滅後、遺民と共に百済再興に兵をあげたが民は佐平福信と尊んだ。百済軍は優勢であったが、日本の救援を求め、父、義慈王により人質に送られていた。余豊璋王子を百済王に迎えることを申し出た。
日本は豊璋と援軍とともに送った。ところが豊璋は形だけの王の地位に耐えられず、福信を殺した。新羅は百済に攻め込んだ。唐軍は白村江で日本軍を破り王城は落ちた。福信の死後3カ月後のことだった。

※倭軍はこのような大敗をしたかは、唐軍の百戦錬磨の水軍と陸軍も要因があるが、倭軍は遠く海路を経て兵も静岡など遠方の兵を徴兵し、対馬海峡を渡り疲弊し切っていたのではないだろうか。
それに百済の仲間割れに、倭軍の二派に別れての援軍、地理不案内に敵の作戦の術中に嵌ってしまった感じである。
それに大国唐国の国力の差は歴然としていた。倭国は百済支援の前には阿倍比羅夫の北方遠征に蝦夷から北海道まで勢力を伸ばして実績を上げて、唐に派遣をして、その倭国の属国支配を誇示してきたばかり、百済の勢力下に新羅と凌ぎを削り、唐国と交戦はその時の国際状況が図り切れない部分もある。
それにしても島国の倭軍は小国でありながら、高句麗・新羅・百済の三つ巴に巻き込まれた観があった。斉明帝の百済援軍は朝貢などの親交があっての大義名分が無理承知の援軍ではなかったろうか。





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