十七、天武帝の天皇像
天武天皇(大海人皇子)は兄天智天皇(中大兄皇子)と共に乙巳の変より一心同体、兄、弟は結束して難局を乗り越えて、飛鳥時代の一大功労者である。
六七二年(天武元年)九月十二日、壬申の乱に勝利した大海人皇子は。飛鳥古都に凱旋をした。岡本宮の横に宮室を建て、大海人皇子は此処に即位をする。
武力による王権の奪還の成功はわが国始めてである。「壬申の乱」の後に論功行賞が行われ、乱後の皇族の団結と秩序を回復するために「吉野の会盟」が吉野宮行幸の際行なわれた。
この吉野の会盟こそ天武系の争いを絶つための天武の固い思いがあった。
天皇は皇后及び草壁(くさかべ)皇子(みこ)・大津(おおつ)皇子(おうじ)・高市(たかいち)皇子(みこ)・河嶋(かわしま)皇子(みこ)・忍壁(おしかべ)皇子(みこ)・芝基(しき)皇子(みこ)を召して「自分はお前たちと共に朝廷を盟約し、千年の後まで継承の争いの無いように図りたい」と問われ、それに答えて「我ら兄弟(きょうだい)長幼(ちょうよう)合わせ十余人は同母であろうとなかろうと天皇の言葉に従って争い事は致すまい」と誓われたと言う。
蘇我氏の台頭で仏教の導入で進められた反面、王権を危うくする蘇我氏を「乙巳の変」で王権の確立に、今度は王権内の粛清後、日本は半島や唐との関係を半島三国と倭国,唐国の派遣を巡る戦いの中でも、大化の改新を進めて来て、新しい国家体制を築こうとし、また唐に見習い都作りにも本格的王都を造りに取り組み始めた途端に、孝徳から斉明に重祚された。
「行きつ戻りつ」の倭国の変化であった。この波瀾の政変と外交を目の当たりに見ていた天武帝は冷静沈着に国家形成に律令体制への指針を示した。
まず国体と成す律令国家への施策として、諸国に配置していた官人の起用を畿内出身者の創出など、官人制など機内重視、その後冠位などと八姓の姓はそれまであった、
臣・連・君・直・造・史から整理し真人・朝臣・宿祢・忌寸・導師・臣・連に改めたことなど律令国家への施策である。この律令は天皇の権力の地位を高め、中央集権政治を確実化され、それを明確にした点にある。更に飛鳥浄御原令施行までかかったとされる。
天武天皇のもう一つの側面は、敬虔な仏教信望者であった。川原寺の一切経の写経であり、大官大寺、飛鳥寺は共に官寺として栄え、この仏教への理解がその後の平城京の聖武天皇に受け継がれていく。
天武朝のもう一つの貨幣作りで無文銀銭と富本銭で流通したかは疑問である、祭事や儀式に使われたのではと思われるが、銅銭の鋳造技術が有って、また近年鋳造跡が発見された。
天武九年(680)皇后の鸕野賛良皇女が病気の祈願をして薬師寺を建立した。その後、天武は飛鳥浄御原宮で五十六歳で死去した。二日後に、殯宮(もがりみや)が執り行われた。
※飛鳥浄御原令は天皇は律令を制定して方式を改めるように詔を出した。唐の律令を基に作られたと思われる。
律令と言っても今日のような義務と権利でなく、罰則と命令で構成されているが、法として造られた意味は大きい。
天武天皇の功績は国家形成作りで、律令国家の求めるものは、豪族蘇我氏の台頭で王権が脅かされる事態の経緯を一部始終目の当たりにした天武帝の経験に寄るかも知れない。
天武天皇(大海人皇子)は兄天智天皇(中大兄皇子)と共に乙巳の変より一心同体、兄、弟は結束して難局を乗り越えて、飛鳥時代の一大功労者である。
六七二年(天武元年)九月十二日、壬申の乱に勝利した大海人皇子は。飛鳥古都に凱旋をした。岡本宮の横に宮室を建て、大海人皇子は此処に即位をする。
武力による王権の奪還の成功はわが国始めてである。「壬申の乱」の後に論功行賞が行われ、乱後の皇族の団結と秩序を回復するために「吉野の会盟」が吉野宮行幸の際行なわれた。
この吉野の会盟こそ天武系の争いを絶つための天武の固い思いがあった。
天皇は皇后及び草壁(くさかべ)皇子(みこ)・大津(おおつ)皇子(おうじ)・高市(たかいち)皇子(みこ)・河嶋(かわしま)皇子(みこ)・忍壁(おしかべ)皇子(みこ)・芝基(しき)皇子(みこ)を召して「自分はお前たちと共に朝廷を盟約し、千年の後まで継承の争いの無いように図りたい」と問われ、それに答えて「我ら兄弟(きょうだい)長幼(ちょうよう)合わせ十余人は同母であろうとなかろうと天皇の言葉に従って争い事は致すまい」と誓われたと言う。
蘇我氏の台頭で仏教の導入で進められた反面、王権を危うくする蘇我氏を「乙巳の変」で王権の確立に、今度は王権内の粛清後、日本は半島や唐との関係を半島三国と倭国,唐国の派遣を巡る戦いの中でも、大化の改新を進めて来て、新しい国家体制を築こうとし、また唐に見習い都作りにも本格的王都を造りに取り組み始めた途端に、孝徳から斉明に重祚された。
「行きつ戻りつ」の倭国の変化であった。この波瀾の政変と外交を目の当たりに見ていた天武帝は冷静沈着に国家形成に律令体制への指針を示した。
まず国体と成す律令国家への施策として、諸国に配置していた官人の起用を畿内出身者の創出など、官人制など機内重視、その後冠位などと八姓の姓はそれまであった、
臣・連・君・直・造・史から整理し真人・朝臣・宿祢・忌寸・導師・臣・連に改めたことなど律令国家への施策である。この律令は天皇の権力の地位を高め、中央集権政治を確実化され、それを明確にした点にある。更に飛鳥浄御原令施行までかかったとされる。
天武天皇のもう一つの側面は、敬虔な仏教信望者であった。川原寺の一切経の写経であり、大官大寺、飛鳥寺は共に官寺として栄え、この仏教への理解がその後の平城京の聖武天皇に受け継がれていく。
天武朝のもう一つの貨幣作りで無文銀銭と富本銭で流通したかは疑問である、祭事や儀式に使われたのではと思われるが、銅銭の鋳造技術が有って、また近年鋳造跡が発見された。
天武九年(680)皇后の鸕野賛良皇女が病気の祈願をして薬師寺を建立した。その後、天武は飛鳥浄御原宮で五十六歳で死去した。二日後に、殯宮(もがりみや)が執り行われた。
※飛鳥浄御原令は天皇は律令を制定して方式を改めるように詔を出した。唐の律令を基に作られたと思われる。
律令と言っても今日のような義務と権利でなく、罰則と命令で構成されているが、法として造られた意味は大きい。
天武天皇の功績は国家形成作りで、律令国家の求めるものは、豪族蘇我氏の台頭で王権が脅かされる事態の経緯を一部始終目の当たりにした天武帝の経験に寄るかも知れない。
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