十六、近江大津宮の滅亡と“壬申(じんしん)の乱(らん)“
近江大津宮に遷都して天智天皇と大海人との関係が微妙(びみょう)にずれが生じ始めた。
「乙巳の変」より時代の変化の節々に、中大兄と大海人は一体になって政局を乗り越え、男子の継嗣に恵まれなかった。
天智天皇の次の皇位は大海人が継ぐ、それは暗黙の了解事項になっていた。
天智紀にも大海人を「大皇弟」と呼ばれている。また天武紀には天智天皇即位時には、大海人は東宮(皇太子の居所と同時に皇太子を指す)に立てられた。
その後の経緯についてはどの参考資料も同じことが記されている。
天智帝には後継の皇子には恵まれず、三人の皇子がいたがどの皇子も母方の身分も血筋も良くはなかったが、中でも伊賀の采女(うねめ)の宅子郎(やかこのいらつめ)女の母とする大友皇子は仁徳に優れ、評判も良く来朝した唐使劉徳高が「この皇子、風(ふう)骨(こつ)(風格(ふうかく)と容貌(ようぼう))世間の人に似ず、実に国の分に非ず」と称賛した。
手元において大友皇子にますます寵愛をされていく中、思ってはならないことが思うのが人情、大友皇子に皇位を継がせたい。そんな欲望が老いて体力、気力の衰えた天智帝によぎった。
669年に苦肉を共にし、補佐をしてきた、側近中の重臣鎌足の病が重くなり、天智自ら足を運び見舞いに行った。更に容態が重くなると大海皇子を派遣し、最高位の大織冠と大臣の位を授けた。更に「藤原」と言う姓を与えた。鎌足はその翌日に亡くなった。
天智十年(669年)には太政大臣を新設して大友皇子をその任に就かせた。同時に左右大臣、御史大夫を任命し、大友皇子を首班とする政権を樹立をした。
大海人皇子はその時点では太子の地位に留まっていたが、微妙な立場に立たされ、大海人皇子の立場が無くなってきた。やがて天智帝の容体が悪くなるにつれ、大海人皇子を蘇我安藤麻呂に呼びに行かせた。
この時使者となった蘇我安藤麻呂は「心してお答えください」と大海人皇子に進言をした位だから、中大兄が今まで皇位継承者を何人罠にはめて粛清したかを熟知しての進言であった。
大海人皇子はその一部始終を目の当たりにしていて、熟慮して天智帝に会った。
大海人皇子が天智帝の枕もとに行くと「後事は全てお前に任せたい」と切り出し大海人の心を探った。
大海人皇子は答えて「私は病を抱えた身です、とても天下を執れることはできません」とそつなく答え、皇位は倭姫さまに譲られて、そのもとに大友皇子に立太子にされて、政務を譲られるがよいともいます、自分は出家して陛下のために仏道に励みます」答えて、出家に許しをもらった大海人皇子はすぐさま、吉野に発った。
人々はその有様を見て「虎に翼を付け野に放つようなもの」と称したと言う。
十二月三日、天智帝は四十六歳の生涯を閉じた。
翌五月に吉野に戻った大海人皇子は舎人が近江方の不穏な動きを伝えてきた。その者が美濃に使いに行った所、朝廷は天智天皇の山陵を造営の為と言って美濃・尾張の人夫を徴用させ、武器を持たせていた。
これは吉野を攻撃するに違いがないと言うのである。近江から飛鳥への要所、要所に斥候(せっこう)を置き、途中の宇治川では守橋を置き、吉野に行く荷物のじゃまだだてをして通さないと言う連絡を受けた。
吉野方しては武器も持たず、座して撃たれるより、決起をすることを思い立った大海人皇子は、三人の美濃出身者の美濃(みの)国(こく)宰(さい)を動かして兵士を徴発し、その兵力を美濃と近江の国境の不破道の側に閉鎖する様に命じた。
この作戦はその後の作戦に優位に動いた。二日後には大海人は大胆な行動に出て、近江朝廷が倭京に留守居司に駅鈴を借りようとして失敗をする。
駅鈴の奪取は失敗は直ぐに近江方に通報される。当時は大海人の家族がまだ近江に半ば人質のような状態で有ったので、大海人は妃の鸕野皇女と王子の草壁(くさかべ)・忍壁(おしかべ)・舎人二十人余りを引き連れて吉野を発って美濃を目指した。当時は高市皇子・大津皇子が近江宮にいたので密使を送り脱出を指示し、一行は菟田を経て伊賀の隠(なばり)に入り、途中で日が暮れたので道脇の家の垣根を壊して日の灯りにして進み続けた。
その時は無防備でもし追手の、近江の兵に見つかれば致命的な状態だった。途中で従者に出会い徒歩から馬に乗り換えて、途中にまた美濃王や漁師に出会い伊賀評の官人ら数百人が大海人に帰順し隊が整い,行軍をし続けた。
夜通しで行軍し積殖(つむえ)(三重県伊賀)辺りで近江から脱出した高市皇子・大津皇子らに合流することが出来、さらに進んで伊勢の鈴鹿に着き、力強い味方の守、宰、介を得た。
ここで五百の兵で近江に通じる道を封鎖させ、三重の評家(こおりけ)に婦女子を家一軒をもやし休息し、その後迹太川畔に着き、伊勢神宮を遥拝した。三重の朝明けに来た時に評三千人を率いて不破の道を封鎖した。その内、東海道・東山道方面に使者を送り更なる動員の要請をした。
尾張からも二万の兵の動員を受けた。一方近江方は動揺が広まり直ぐに騎兵隊を派遣して大海人を討つべし、進言が有ったが大友皇子はこれを退け、みすみすのうちに機会を逃してしまった。
後手、後手に回った大友皇子は、東国・大和・吉備・筑紫へ使者を送り派遣の要請を送った。
東国への使者は不破道で吉野方に捕まって一人だけが逃げられた状態、反対の大海人皇子は日々帰順する兵の数が増え、近江方の徴兵に成功したのは河内地方だけになった。
何より近江人皇子の力良い味方は高市皇子であった。先頭に立って兵を率いて進めて行った。河内で蜂起した近江方は吉野方に変じ、合わせ数万の兵が大津宮を目指した。
一方近江方の防衛戦線も数万の兵で迎え撃ち、瀬田川を挟んで最後の決戦となった。やがて近江方の総崩れが生じ、大友皇子、左右大臣らがばらばらに逃走した。逃げる宛のない大友皇子は、大津の長等で自決をした。
★大友皇子(648~672)伊賀宅子郎女。天智朝の最有力の皇子、天智十年(671)我が国初の太上大臣に任じられ、天智天皇の後近江朝廷の中心になった。
壬申の乱では叔父大海人皇子に敗れ、大津は山前の長(なが)等山(らやま)で自害をした。妃に天武天皇の皇女十市皇女がいる。
◆評家*七世紀の地方行政組織。評(ひょう)とも言う。大宝元年(701)から群制に変わる。
評家は地域の官人の長。
※大津宮で大友皇子が即位をしたかしなかったについて、紆余曲折があって江戸時代から徳川光圀『大日本史』は即位していたが『日本書紀』は大友皇子を倒して即位した天武天皇の正統性を強調するために即位しなかったと記されている。
明治天皇は弘文天皇の贈り名を持って歴代天皇に数えられている。
この壬申の乱の筋書きの編纂(へんさん)は天武系の人々が携わった以上、天武系の利する展開となっていることは間違いが無く、吉野から近江への行軍の様子が事細やかに書かれていることを見ても明白である。
あくまでも天武天皇の方から見た壬申の乱の記述であることに注意を払わなければならない。それを差し引いても、近江方の緩慢な対応が吉野方に有利に動いたことは間違いがない。
何よりこの物語は天武天皇の正統性を強調するもので、近江方の対応のまずさと、重臣の支持もない事の例を出してみても理解が出来る。
何より老練な大海人の判断と経験がものを言い、日頃の豪族、氏族らと馴染みが、軍勢に加わった評、宰(役人)の多さが要因になった。
近江方の失敗の要因は若さゆえの経験不足、人臣の把握に欠け、文人であっても武人でなかった弱さであった。
近江大津宮に遷都して天智天皇と大海人との関係が微妙(びみょう)にずれが生じ始めた。
「乙巳の変」より時代の変化の節々に、中大兄と大海人は一体になって政局を乗り越え、男子の継嗣に恵まれなかった。
天智天皇の次の皇位は大海人が継ぐ、それは暗黙の了解事項になっていた。
天智紀にも大海人を「大皇弟」と呼ばれている。また天武紀には天智天皇即位時には、大海人は東宮(皇太子の居所と同時に皇太子を指す)に立てられた。
その後の経緯についてはどの参考資料も同じことが記されている。
天智帝には後継の皇子には恵まれず、三人の皇子がいたがどの皇子も母方の身分も血筋も良くはなかったが、中でも伊賀の采女(うねめ)の宅子郎(やかこのいらつめ)女の母とする大友皇子は仁徳に優れ、評判も良く来朝した唐使劉徳高が「この皇子、風(ふう)骨(こつ)(風格(ふうかく)と容貌(ようぼう))世間の人に似ず、実に国の分に非ず」と称賛した。
手元において大友皇子にますます寵愛をされていく中、思ってはならないことが思うのが人情、大友皇子に皇位を継がせたい。そんな欲望が老いて体力、気力の衰えた天智帝によぎった。
669年に苦肉を共にし、補佐をしてきた、側近中の重臣鎌足の病が重くなり、天智自ら足を運び見舞いに行った。更に容態が重くなると大海皇子を派遣し、最高位の大織冠と大臣の位を授けた。更に「藤原」と言う姓を与えた。鎌足はその翌日に亡くなった。
天智十年(669年)には太政大臣を新設して大友皇子をその任に就かせた。同時に左右大臣、御史大夫を任命し、大友皇子を首班とする政権を樹立をした。
大海人皇子はその時点では太子の地位に留まっていたが、微妙な立場に立たされ、大海人皇子の立場が無くなってきた。やがて天智帝の容体が悪くなるにつれ、大海人皇子を蘇我安藤麻呂に呼びに行かせた。
この時使者となった蘇我安藤麻呂は「心してお答えください」と大海人皇子に進言をした位だから、中大兄が今まで皇位継承者を何人罠にはめて粛清したかを熟知しての進言であった。
大海人皇子はその一部始終を目の当たりにしていて、熟慮して天智帝に会った。
大海人皇子が天智帝の枕もとに行くと「後事は全てお前に任せたい」と切り出し大海人の心を探った。
大海人皇子は答えて「私は病を抱えた身です、とても天下を執れることはできません」とそつなく答え、皇位は倭姫さまに譲られて、そのもとに大友皇子に立太子にされて、政務を譲られるがよいともいます、自分は出家して陛下のために仏道に励みます」答えて、出家に許しをもらった大海人皇子はすぐさま、吉野に発った。
人々はその有様を見て「虎に翼を付け野に放つようなもの」と称したと言う。
十二月三日、天智帝は四十六歳の生涯を閉じた。
翌五月に吉野に戻った大海人皇子は舎人が近江方の不穏な動きを伝えてきた。その者が美濃に使いに行った所、朝廷は天智天皇の山陵を造営の為と言って美濃・尾張の人夫を徴用させ、武器を持たせていた。
これは吉野を攻撃するに違いがないと言うのである。近江から飛鳥への要所、要所に斥候(せっこう)を置き、途中の宇治川では守橋を置き、吉野に行く荷物のじゃまだだてをして通さないと言う連絡を受けた。
吉野方しては武器も持たず、座して撃たれるより、決起をすることを思い立った大海人皇子は、三人の美濃出身者の美濃(みの)国(こく)宰(さい)を動かして兵士を徴発し、その兵力を美濃と近江の国境の不破道の側に閉鎖する様に命じた。
この作戦はその後の作戦に優位に動いた。二日後には大海人は大胆な行動に出て、近江朝廷が倭京に留守居司に駅鈴を借りようとして失敗をする。
駅鈴の奪取は失敗は直ぐに近江方に通報される。当時は大海人の家族がまだ近江に半ば人質のような状態で有ったので、大海人は妃の鸕野皇女と王子の草壁(くさかべ)・忍壁(おしかべ)・舎人二十人余りを引き連れて吉野を発って美濃を目指した。当時は高市皇子・大津皇子が近江宮にいたので密使を送り脱出を指示し、一行は菟田を経て伊賀の隠(なばり)に入り、途中で日が暮れたので道脇の家の垣根を壊して日の灯りにして進み続けた。
その時は無防備でもし追手の、近江の兵に見つかれば致命的な状態だった。途中で従者に出会い徒歩から馬に乗り換えて、途中にまた美濃王や漁師に出会い伊賀評の官人ら数百人が大海人に帰順し隊が整い,行軍をし続けた。
夜通しで行軍し積殖(つむえ)(三重県伊賀)辺りで近江から脱出した高市皇子・大津皇子らに合流することが出来、さらに進んで伊勢の鈴鹿に着き、力強い味方の守、宰、介を得た。
ここで五百の兵で近江に通じる道を封鎖させ、三重の評家(こおりけ)に婦女子を家一軒をもやし休息し、その後迹太川畔に着き、伊勢神宮を遥拝した。三重の朝明けに来た時に評三千人を率いて不破の道を封鎖した。その内、東海道・東山道方面に使者を送り更なる動員の要請をした。
尾張からも二万の兵の動員を受けた。一方近江方は動揺が広まり直ぐに騎兵隊を派遣して大海人を討つべし、進言が有ったが大友皇子はこれを退け、みすみすのうちに機会を逃してしまった。
後手、後手に回った大友皇子は、東国・大和・吉備・筑紫へ使者を送り派遣の要請を送った。
東国への使者は不破道で吉野方に捕まって一人だけが逃げられた状態、反対の大海人皇子は日々帰順する兵の数が増え、近江方の徴兵に成功したのは河内地方だけになった。
何より近江人皇子の力良い味方は高市皇子であった。先頭に立って兵を率いて進めて行った。河内で蜂起した近江方は吉野方に変じ、合わせ数万の兵が大津宮を目指した。
一方近江方の防衛戦線も数万の兵で迎え撃ち、瀬田川を挟んで最後の決戦となった。やがて近江方の総崩れが生じ、大友皇子、左右大臣らがばらばらに逃走した。逃げる宛のない大友皇子は、大津の長等で自決をした。
★大友皇子(648~672)伊賀宅子郎女。天智朝の最有力の皇子、天智十年(671)我が国初の太上大臣に任じられ、天智天皇の後近江朝廷の中心になった。
壬申の乱では叔父大海人皇子に敗れ、大津は山前の長(なが)等山(らやま)で自害をした。妃に天武天皇の皇女十市皇女がいる。
◆評家*七世紀の地方行政組織。評(ひょう)とも言う。大宝元年(701)から群制に変わる。
評家は地域の官人の長。
※大津宮で大友皇子が即位をしたかしなかったについて、紆余曲折があって江戸時代から徳川光圀『大日本史』は即位していたが『日本書紀』は大友皇子を倒して即位した天武天皇の正統性を強調するために即位しなかったと記されている。
明治天皇は弘文天皇の贈り名を持って歴代天皇に数えられている。
この壬申の乱の筋書きの編纂(へんさん)は天武系の人々が携わった以上、天武系の利する展開となっていることは間違いが無く、吉野から近江への行軍の様子が事細やかに書かれていることを見ても明白である。
あくまでも天武天皇の方から見た壬申の乱の記述であることに注意を払わなければならない。それを差し引いても、近江方の緩慢な対応が吉野方に有利に動いたことは間違いがない。
何よりこの物語は天武天皇の正統性を強調するもので、近江方の対応のまずさと、重臣の支持もない事の例を出してみても理解が出来る。
何より老練な大海人の判断と経験がものを言い、日頃の豪族、氏族らと馴染みが、軍勢に加わった評、宰(役人)の多さが要因になった。
近江方の失敗の要因は若さゆえの経験不足、人臣の把握に欠け、文人であっても武人でなかった弱さであった。
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